「仲哀記」の謎 今井俊圀(会報130号)
神功の出自 今井俊圀(会報137号)考古学が畿内説を棄却する 服部静尚(会報134号)
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垂仁記の謎
千歳市 今井俊圀
『古事記』の垂仁天皇の条に、銅鐸王国の最後の王(古田武彦氏の分析)・沙本毘古王の妹である沙本毘賣と、「伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁)」との間の子、本牟智和気王の説話が出てきます。この説話に関しての私の分析を紹介します。
まず、本牟智和気王が、生まれつき口がきけなく、八握りまで伸びた髭(『日本書紀』神代紀の一書に「是の時に、素戔鳴尊、年已に長いたり。復八握鬚髯生ひたり。」の文があり、「握」は小指から人差し指までの幅で、8cm〜10cm。八握は64cm〜80cm)が胸に垂れるまでに成長してもまだ口がきけなく、ある日、空を飛ぶ鶴を見て言葉らしきものをつぶやいたので、垂仁が、配下の山邊の大鶮にその後を追わせると、鶴は木國(紀伊)、針間國(播磨)、稲羽國(因幡)、旦波國(丹波)、多遲麻國(但馬)、近つ淡海國(近江)、三野國(美濃)、尾張國(尾張)、科野國(信濃)、高志國(越)と飛んで、最後に山邊の大鶮が和那美の水門(不明)で鶴を捕まえて、都へ持ち帰り献上したとする説話があります。私はこれらの地域が、沙本毘古王が支配した銅鐸王国の領域を示していると考えています。もちろん、垂仁によって銅鐸王国の中枢部である大阪府茨木市一帯が攻撃を受け、最後の銅鐸王国王・沙本毘古王が殺された後、それらの地域は順次、垂仁の支配下に組み込まれていったのです。又、本牟智和気王が口がきけないとするのは、彼が垂仁の後継者としてふさわしくない人物である事を強調する目的で作られた説話と解せます。勿論、垂仁の跡を継いだ景行によって作られたのです。
次に、本牟智和気王が口がきけないのを心配した垂仁の夢枕に、ある神が現れ「私を祀っている神殿を、天皇の御殿のように立派に修理するならば、皇子は口がきけるようになるだろう」と告げた。そこで、太占で占うと、この祟りは出雲の大神によるものである事がわかり、大神の宮を拝ませる為に、本牟智和気王を出雲に差し向ける事にしたとする説話は、沙本城制圧後、旧銅鐸王国を統治する為には本牟智和気王が必要だったけれども、彼が成人する間に治安も安定したのでお役御免になり、簡単に殺す事も出来ないので、出雲の大神宮に病気平癒をさせるという名目で追放したという説話だと考えられます。
では何故出雲なのか?との問いに対する答えは、『出雲國風土記』仁多郡(島根県仁多町)の条に、
三澤の郷、郡家の西南のかた廾五里なり。大神大穴持命の御子、阿遲須枳高日子命、御須髪八握に生ふるまで、夜晝哭きまして、み辭通はざりき。その時、御祖の命、御子を船に乗せて、八十嶋を率て巡りてうらがし給へども、猶哭き止みまさざりき。大神、夢に願ぎ給ひしく、「御子の哭く由を告らせ」と夢に願ぎませば、その夜、御子み辭通ふと夢見ましき。則ち、寤めて問ひ給へば、その時「御澤」と申したまひき。その時「何處を然いふ」と問ひ給へば、侖て、御祖の前を立ち去り出でまして、石川を度り、坂の上に至り留まり、「是處ぞ」と申したまひき。その時、其の澤の水活れ出でて、御身沐浴みましき。故、國造、神吉事奏しに朝廷に参向かふ時、其の水活出でて、用ゐ初むるなり
とあり、大穴持命の子の阿遲須枳高日子命が、成人するまでの夜泣きが止まらなく口がきけなかったで、夢に願うと、その夜、御子の口がきけるようになった夢をみた。それで、目覚めて御子に声をかけると「三澤」と言った。「何処の事か」と問うと、御子は立ち上がり戸外に出て、川を渡り坂の上に立ち止まり「ここ」と言った。その沢の水で沐浴している内に、口がきけるようになったとする説話で、そこは、島根県仁田町の三沢町原田にある「三津田の泉」とされています。ほとんどこの本牟智和気の説話と同じであり、出雲の説話が近畿地方でも有名であり、それを垂仁が利用したのだと考えられます。
因みに、古田武彦氏は、『よみがえる卑弥呼』の中でこの説話を紹介し、「朝廷」とあるのは、一般的に言われている「大和の朝廷」ではなく、「出雲の朝廷」であるとされています。
次に、「奈良山越えの道(奈良市から奈良山を越えて、木津川へ抜ける道)を行けば、跛や盲に会うだろう。二上山を越える大坂道(奈良県葛城市から大阪府羽曳野市に抜ける、竹内街道)を行っても跛や盲に会うだろう。ただ紀伊に出る真土山越えの道(真土山は和歌山県橋本市東部にある山で、待乳山とも呼ばれ、『万葉集』等にも登場する山。奈良県五條市上野町から和歌山県橋本市真土に至る待乳峠を越える道は、大和から紀伊に抜ける南海道で、現在は国道24号線となっています。待乳峠越えの道は難所と言われてきたそうです)は、脇の入り口で縁起の良い道だ」という占いが出たとする説話は、奈良山越えや大坂道は人通りも多く、出雲へ行くには遠回りになる真土山越えの道の方が、人通りも少なく人目につかないので、それを利用した事を示していると考えられます。
次に、本牟智和気王が出雲の肥長比賣と一夜を共にするが、彼女が蛇である事がわかり、船に乗って逃げ出す。しかし、彼女は海原を照らして船を追いかけてくるので、山の低く谷になっている所から船を引き上げて、逃げ帰った。そして、「大神を拝んだので、御子の口がきけるようになりました。それ故、都へ戻ってまいりました。」と奏上した。という説話は、まず、「肥長比賣」は、「肥の長比賣」で、出雲の肥の川(斐伊川)流域にいた、蛇神信仰、蛇、竜神、海蛇をトーテムとする海人族の長の娘と思われます。長(なが)はサンスクリット語の「ナーガ」で、インドの蛇神です。「記紀」神話に出てくる「須佐之男の大蛇退治」説話は、古くからその地に蛇神信仰を持った海人族がいた事を示しています
因みに、出雲大社には古くから伝えられている「龍蛇さま」を迎える神事があります。毎年、陰暦の十月十三日に行なわれます。神有月の十一日から七日間、出雲大社では神有祭が盛大に行われますが、その中の大切な行事として「龍蛇さま」の神事があります。陰暦十月といえば日本海は風がはげしく波も高い日が多い。この時に海蛇が波に乗って稲佐の浜におしよせてくる。その日、あらかじめ身を清めた神人が海辺に出かけ、泳いでくる海蛇「龍蛇さま」を玉藻の上に受ける。そして、大社の神殿に納めるという行事です。この海の彼方から神霊が龍や蛇の姿となって訪れるという信仰は、日本海沿岸や、韓国や新羅の東海沿岸にもあります。
又、「海原を光してくる」に関して、『古事記』大国主神の「少名毘古那神と国作り」にも、「この時に海を光して依り来る神ありき」とあり、古田武彦氏は『古代は輝いていた Ⅲ 法隆寺の中の九州王朝』の中で、この神とは大年神であり、福岡県鞍手郡小竹町の亀山神社に祀られている「大歳神」であるとしてされています。
そして、「都へ戻ってきた」と誰かが奏上しますが、おそらく御子と共に出雲に旅立った、曙立王と莬上王のどちらか、あるいは両人でしょう。
しかし、彼等は戻りましたが、本牟智和気王が都(大和)に戻った形跡がありません。その後、本牟智和気王の記述が途絶えるのです。彼が都に戻ったのなら、当然、垂仁の後を継いで天皇になるはずです。しかし、跡を継いだのは景行です。後継者が本牟智和氣王から景行に代わった経緯もなしに、本牟智和氣王が消息不明となり、景行が跡を継ぐのです。やはり、本牟智和氣王は「肥長比賣」から逃げた後、何処かに留め置かれたと考えるのが自然です。
私は、彼が山口県辺りにいたのではないかと考えています。と言うのは、「仲哀記」において、仲哀の死後、神功が御子を喪船に乗せて、「御子が既に崩じた」と風聞を撒いて都へと上ったとされています。私は、景行のあり得ない記述に満ちた系譜を調べ、景行・成務と仲哀には繋がりがなく、又、都が移動したとする説話もなしに、穴門の豊浦宮と筑紫の香椎宮に本拠を持ったとする『古事記』の記述から、仲哀は九州王朝の王族の一人であり、彼を暗殺した後、親百済政策の九州王朝内部に身の置き所を失った、新羅の王族の娘である神功が、品陀和気命を擁立し、近江へと攻め上ったと考えています。品陀和気命は、おそらく出雲から山口へと逃れた本牟智和気王の子孫であり、神功が彼を擁立し、銅鐸王国再興を旗印にして東侵したのだと考えています。山口県は、仲哀の拠点の一つなのです。おそらくそこで、本牟智和気王の子孫である品陀和気命を見出したのだと思われます。景行・成務と仲哀に関係性がない以上、神功には東侵の大義名分がないからです。
事がなった後応神たちが、景行の系譜に九州王朝の征服王であったヤマトタケルの系譜を利用して仲哀を結びつけたのです。景行・成務と仲哀が、共に近畿王権の王者である、万世一系の天皇であるとする為に。
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