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「壹」から始める古田史学Ⅲ
古代日本では「二倍年暦」が用いられていた
古田史学の会事務局長 正木 裕
1、古代人は「長生き」だった?
二〇一四年の日本の平均寿命は、男性が八〇・五歳、女性が八六・八三歳と、明治時代の四〇歳代に比べ倍近くに伸びました。これは今日の医学の発展、医療制度・施設の整備に負うものでしょう。
それでは、江戸時代以前は何歳まで生きたのでしょうか。明治以前の天皇の寿命を見ると、百一代称光(一四二八年崩御)から江戸末期の百二十一代光明(一八六七年崩御)まで二十一代の平均が五十一歳です。
同じ二十一代の平均を、記録の信憑性の高い『続日本紀』に記す最初の天皇四十二代「文武」(七〇三年崩御)から六十二代村上(九六七年崩御)までとると、やはり五十一歳で、その間の最高齢は陽成天皇の八十二歳、七十歳以上は三人しかいません。従って、天皇の平均寿命は概ね五十歳前後でずっと変わっていないことになります。
ところが、遥か古代の天皇の寿命は初代「神武(一三七歳」から二十一代「雄略(一二四歳)」までの平均が九十六歳(*『古事記』)と古代の天皇は「倍も長生き」し、最高齢は崇神の百六十八歳で、百歳台が九人もいるなど到底ありえない寿命となっています。これは『日本書紀』でもあまり変わりません。
2、『魏志倭人伝』と一致する『記・紀』の天皇の寿命
通常は「『古事記』や『日本書紀』(以下『記・紀』)のこうした寿命の記事は信用できない」と顧みられていません。ところが、三世紀の『魏志倭人伝』にはこれを「裏付ける」記事があるのです。
◆『魏志倭人伝』(倭人)の寿考(ながいき)、或は百年、或は八、九十年。
これによると倭人は長生きで、寿命は平均で百歳か八十〜九十歳となり、『記・紀』に記す「古代の天皇の寿命」と一致するのです。
では「『魏志倭人伝』も同様に信用できない」と言えるのでしょうか。
3、一年を二年と勘定する「二倍年暦」
古田武彦氏は「『魏志倭人伝』を信じる」という立場から、この問題に取り組み、『三国志』中に見える三百三十二名を全て調べ、死亡年齢が書かれている九十名の平均が五十二・五歳で、わずかな特例を除くと四十歳台になると割り出しました。これは「倭人伝」に記す倭人の寿命の約半分です。
次に、古田氏は裴松之による『魏志倭人伝』の注釈に注目しました。裴松之は、中国人の寿命と比較した倭人の寿命の長さを不思議に思ったのか、その理由・解釈として『魏略』を次のように引用しています。
◆『魏略』(倭人)の俗、正歳四節を知らず、但々春耕秋収を計りて年紀となす。(『魏略』は三世紀の魚豢の著)
「正歳」は正しい暦法、「四節」はこれに基づく春夏秋冬で、倭人はこれを知らず、単に春に耕し秋に収穫することを「年紀・年の区切り」、即ち一年としているというものです。春耕から秋収までは約六カ月間ですから、こうした数え方をすれば「一年(十二カ月間)に二歳年をとる」ことになり、倭人の寿命の「百歳か八十〜九十歳」は、実際は「半分」で、古田氏が調べた『三国志』に登場する人物の寿命と一致します。また、先述の神武から雄略までの平均九十六歳も、二で割ると四十八歳となり『三国志』と一致するのです。
つまり、『倭人伝』で倭人の寿命は長いとされ、『記・紀』で古代の天皇が長寿だと書かれているのは、倭人がこの「年紀」を採用していたからで、実際は中国人と変わらなかったのです。
こうした研究を踏まえ、古田氏は、「古代には一年を二年と勘定する“暦法(年の数え方)”が存在し、これにより“一年に二才”歳をとり、寿命が“二倍”に見えたのだ」とし、これを、『二倍年暦』と命名しました。
4、『記・紀』での継体天皇の年齢が『二倍年暦』を証明する
実は、その「具体的な証拠」が『古事記』『書紀』にあったのです。
『古事記』では五世紀末頃の雄略は一二四歳で『二倍年暦』と考えられますが、
六世紀初頭の継体の寿命は四十三歳となっています。これに対し、『書紀』では八十二歳で、しかも『書紀』では継体の崩御年について「或本では三年遅い」とありますから、まさに「二倍」の開きとなるのです。(八十二+三=八十五。これを二で割ると四十二、五)
こうした二倍、四十数年もの差は通常は考えづらく、継体について『古事記』は「一倍年暦」による表示に変わり、『書紀』は依然「二倍年暦」で書かれていると考えるのが合理的な解釈となるのです。
このように我が国では『二倍年暦』が六世紀初頭まで用いられており、『記・紀』と『魏志倭人伝』の「長寿記事」は決して“でたらめ”ではなかったのです。
5、「二倍年暦」の由来は稲作か
それではこうした古代日本における『二倍年暦』の由来は何なのでしょうか。
日本では春秋の彼岸、盆と正月のように年二回行われる行事が多く見られ、犯した罪や穢れを祓う「大祓」の神事も六月と十二月の晦日の二回行われます。そうした神事で「御年・年」とは「穀物」、具体的には多くの祝詞に記されるように「稲」のことであり、「御年神」は稲の神を意味します。
◆(例)『延喜式祝詞』「祈年祭」御年の皇神等の前に曰さく、皇神らに依りて奉る奧津御年は、 手肱に水沫畫き埀り、向股に泥畫き寄せて、取作らむ奧津御年を八束穂の茂し穂に(略)
私見ですが、春耕〜秋収までの稲の神=年神がいる期間を「一年」、秋収〜春耕までの年神がいない期間を次の「一年」と数えたとすれば、「春耕秋収を計りて年紀となす」との意味が明らかになります。そして、十月には収穫を終えて年神が出雲の「大年神」のもとに帰られ「神のいない月・神無月」となり、逆に出雲は年神が集まる「神在月」となったのではないでしょうか。
6、九州年号の成立と共に『二倍年暦』が終わる
『古事記』の天皇年齢記述は継体が最後ですが、『日本書紀』での寿命は安閑天皇七十歳、宣化天皇七十三歳とあります。両者共在位は短く(二年と四年)継体とそう変わらない時期に崩御しており、年齢も大差ありませんから、これも『二倍年暦』の可能性が高いでしょう。
そして『日本書紀』での推古天皇の治世(即位後)は三十六年と『古事記』の治世三十五年とほぼ一致します。『古事記』は既に「一倍年暦」になっていますから、『日本書紀』の寿命七十五歳も「一倍年暦」と考えられます。
このように六世紀初め頃に『二倍年暦』が終わると考えられますが、実はその時期に九州年号「継体(五一七)、あるいは善記(五二二)」が始まっているのです。年号は中国や朝鮮半島では既に定められ、十二か月を一年とする正しい暦法(正歳四節)によるものですから、「年号制定以降」に生まれた天皇の年齢が「一倍年暦」となるのは当然といえましょう。『二倍年暦』には、まだ面白いことがありますが、またの機会として、次回はその九州年号を取り上げます。
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