八幡について
池田市 山内玲子
八幡とは何であろう。古代より信仰されている神といわれている。ハチマンなのか、ヤハタなのか。
源頼義によって、男山石清水より鎌倉へ勧請されたのは、前九年の役(一〇五一〜六二)の時、武運長久を祈る為であった。その男山石清水へ、宇佐より勧請されたのは、八五八年清和天皇の代である。
「大安寺の僧行教、宇佐に参詣の時、神霊のお告げにより勧請。正八道を示して権迹を垂る。皆苦の衆生を解脱することを得たり。
八幡=八方に八色の幡を立てる。密教の習慣で、西方の阿弥陀の三昧耶行仏、菩薩の徳を示現するもの。
根本=八正の播を立てゝ、八方の衆生を済度するという根本の誓い。
八正道=仏典にいう、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精神・正定・正恵」『神皇正統記』北畠親房著。松村武夫訳。
以後、王域鎮護の神として尊ばれた。ハチマンとは八流の幡である。八幡と称せられたのはこの時からと思われる。その幡は密教の伝来して来た後、起こった信仰対象なのか。その前より存在した宇佐八幡とは何か。
宇佐八幡の祭神は『延喜式』によれば、中央、比売神。左側、八幡大菩薩。右側、神功皇后。三座という。菩薩号は、この社に早くから僧徒が関係したからつけられたものであるが、『続日本紀』天平勝宝元年の宣命には、広幡(ひろはた)の八幡(やはた)の大神と呼ばれて、未だ菩薩号はない。社伝によれば、黄金をもってその御神体としたという。
『扶桑略記』『八幡宇佐託宣集』『宇佐八幡宮縁起』などの諸書によれば、欽明三二年に八幡神が菱潟の池の辺に鍛冶翁(かじのおきな)として初めて現れたという。大神比義(おおみわひぎ)という人物がこれを奉祀し、五穀を断ち、三年の祈念後、示現を乞うと、神は三才の小児の姿と現じ、託宣した。それによると、最初辛国(からくに)の城に八流の幡とともに、天降り「日本の神となって衆生を済度しようとねがい、神と現れたのであり、われは日本の広幡八幡麿である」といったとある。
この神は鍛冶神としての機能を持っていたらしく、鍛冶翁に現じたこともその一例であるが、ことに「奈良の大仏が鋳造された時、宇佐から大神(おおみわ)朝臣杜女(もりめ)が上京して『八幡神が天神地祇を従えて、銅の湯を水とし、わが身を草木土に交えて大仏鋳造を授けよう』との託宣をした」(『巫女考』柳田国男)
応神天皇を本地垂迹(ほんちすいじゃく)して八幡大菩薩と尊号したのは聖武天皇で、杜女の託宣を喜び、謹んで、参議石川年足を奉迎使として、宇佐に差遣し、御霊代(みたましろ)を守護して都へ上らせた。東大寺境内の手向山八幡がこれである。後に杜女に利用されて道鏡事件を引き起こした。
宇佐の神は、初めは比売神がこの地の土豪宇佐氏の氏神として発足したと思われる。
田川郡香春(かわら)神社の本宮は、北の三ノ岳の東麓にある旧採銅所村の古宮八幡宮である。ここには豊比祥(ひめ)命が祭られ、『三代実録』には祭神は辛国息長(からくにおきなが)比祥神と記されている。
「神名の辛国は韓国であるとともに、香春社の祠官赤染氏は新羅系渡来人であるから、香春神社は彼ら渡来人の氏神であったに相違ない。また採銅所村というのは、名の通り銅の産地で、そこにある清祠殿では、古来宇佐八幡に納める神鏡を鋳造していた。だから、あるいは八幡神の本処はこの香春だったのかも知れない。宇佐の祠官の一人である辛島氏「勝(すぐり)」姓も渡来人で、新羅系と推測され、古く豊前の屯倉(みやけ)の民秦部(はたべ)を率いて大和の秦氏と結んでいた。八幡神は、新羅の神ではなかったかとも考えられているのである」(『八幡信仰の研究』中野幡能。『古代九州の新羅王国』泊勝美)
『続日本紀』天平九年(七三二)四月条に「伊勢の神宮・大神の杜・筑紫の住吉・八幡二社及び香椎宮に遣使し、奉幣して、もって新羅の無礼の状を告ぐ」とあるのが初見であるが、以後、官社として急速に名を著す。
「ちなみに『式内社』で菩薩号をもつ神社は、宇佐のほか、常陸の大洗磯前(おおあらいいそざき)薬師菩薩社・酒列(さかつら)磯前薬師菩薩社・筑前の八幡大菩薩箱崎宮、だけである」(岡田米夫)
継体天皇の代、震旦(しんたん)国、陳(ちん)大王の王女大比留(おおひるめ)女が七才で男子を出産した。王女は「朝日の光、胸にさすを見て懐妊した」と申し上げた。王は驚き、母子ともにうつぼ舟に乗せて海に流し、「流れ着いた地を所領せよ」と放ちやった。舟は大海に浮んで、日本の大隅の磯の岸に着いた。その王子の名を八幡と号し、この舟の着いた所を、八幡崎と名付けた。大比留女は筑前の国若椙山に飛び入って、のちの香椎聖母(しょうも)大明神と祭られ、王子は大隅の国に留まって、正八幡と祭られた。「正」をつけて宇佐とは別派の八幡とした。大隅八幡宮(鹿児島県姶良郡鹿児島神宮)、一一一三年・『惟覧比丘筆記・二二社註式』
全国の多数の八幡の本社は宇佐八幡であろうが、八幡宮又は八幡社と呼ばれても、必ずしも御神体は応神天皇とは限らない。正八幡大隅鹿児島神宮は一例である。他の神を御神体としている八幡もあると思う。
なぜ応神天皇が八幡神なのか。宇佐についていえば、天皇の生涯に宇佐は全く関係がない。それがどうして宇佐に応神天皇が祭られるようになったか、この疑問は早くから起こり、すでに江戸時代から研究が始まり、明治以後にも盛んに行われた。が、現在も不明である。
応神天皇は出自が色々と論じられている謎の天皇で、『古事記』にはツヌガのイササワケの神(気比の大神)と名を交換して、ホムタワケという名になった、と書かれている。
故にその前はイササワケと称していたことになる。「ホムタの発音は、奈良朝以前はハダと発音しているし、肌膚の語を当てている」(『古語拾遺』)
『日本書紀』には、応神天皇は生まれた時、腕の上に鞆のような形の肉が盛り上がっていた。鞆は弓を引く時左の腕につける革の具で、巴の形を描く。上古俗に鞆をホムタといった。それ故名をホムタワケと称した。と書かれている。「してみると『日本書紀』でいう鞆の意味ではなく、秦族を示唆するのであろうか」(『北陸古代王朝の謎』能坂利雄)
応神天皇は十二代景行天皇の直系の孫ホムタワカの三人の娘の入り婿になっている。ホムタワケの名はその為ではないだろうか。先の天皇の直系が絶えて他から入り婿するのは、天皇系図では応神以後、二三代顕宗(播磨の豪族)は二一代雄略の娘と、二六代継体(越前の豪族)は二四代仁賢の娘と。
応神は直前に崇神系(イリ王朝)。景行系(ワケ王朝)があり、ホムタワケはその系統につなげたと考えられる。
宇佐八幡は宇佐氏の氏神であった。宇佐氏は渡来氏族で、新羅系と推測され秦氏と結んでいた。それを習合した八幡は八流の幡のことで、仏教伝来後の密教の信仰対象である。
密教は空海(弘法大師)がもたらしたものということになっているが、斉明天皇の代に[示天]教(けんきょう 拝火教・ゾロアスター教)が入って来たといわれている。密教は[示天]教と仏教が習合した宗教である。空海がもたらした以前に八幡信仰があってもおかしくない。その上に応神天皇が八幡に習合された。宇佐氏の氏神と、密教の八流の幡の信仰と、応神天皇が習合して、八幡大菩薩になったのである
源頼義の嫡男義家が石清水八幡で元服し、八幡太郎と名乗った。その義家が武士の鑑と仰がれ、理想の人物とされた為、鎌倉武士はこの神を守護神とした。八幡が広く信仰されるようになったのは、武士の台頭以後のことである。
バハン船=一般には和冦や海賊の船が八幡大菩薩の旗をたてていたので、八幡船をバハン船といったと解釈されているが、確実な史料で見る限りでは倭寇の船団を直接バハン船と称した用例はない。八幡と書いてバハンとは読めない。バハンは日本の戦国時代以降使用された言葉で、日本側では「ばはん」「八幡船」と記するほか、「奪販・番船・破帆・破番*・波発・白波」などの文字が海賊・海寇の意味で使用されている。語源は外来語と考えられる。江戸中期以後は転じて密貿易を意味するものとなった。江戸中期につくられた『南海通記』には倭寇が八幡宮のノボリを立てていたので、八幡船と呼ばれたとの記事があり、この考えが明治に至るまでもちいられた。
[示天]は、示偏に天。JIS第三水準 ユニコード7946
番*は、番に右側邑(おおざと)編、JIS第三水準 ユニコード9131
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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