2004年4月1日

古田史学会報

61号

1、九州王朝の近江遷都
 古賀達也

2、唐古・鍵遺跡
 第九三次調査
 伊藤義彰

3、日露の人間交流
と学問研究の方法
 松本郁子

4、弥生渡来人説
と中国史料
草野善彦

5、ミケランジェロ作
バチカン・ピエタ像の謎
木村賢司

6、創立十周年
記念講演会次第済み
事務局便り

 

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唐古・鍵遺跡 第九三次調査

生駒市 伊藤義彰

 今回の調査で大型建物跡が見つかり、その柱穴からケヤキの柱根が多数出土したことは、テレビ、新聞などで報道されましたからご存知の方も多いと思います。その報道を見て、二つの気がかりな点がありました。
 一つは、この大型建物の建造時期です。もう一つは、中国・朝鮮系、及び九州系の出土遺物の有無です。
 この二点を確かめるべく、去る十月十九日に行われた現地説明会に行きました。

大型建物の建造時期

 二一五〇年前の弥生中期中葉
 現地説明会資料にも、マスメディアの報道と同じく「大型建物は、柱穴から出土した土器から、弥生中期中葉(約二一五〇年前)に建てられたと考えられる」とあり、そのように説明もしていました。
 「二一五〇年前=紀元前一五〇年=紀元前二世紀中ごろ」が弥生中期中葉にな
っているのです。紀元前二世紀中ごろは、土器編年の時代区分によれば「弥生前期後半の中ごろ」のはずだと理解していましたから、どういうことか、と気がかりになったわけです。
 現地説明では「最近の理化学的方法による年代測定で“弥生時代の始まりの時期”は揺れ動いているので、この大型建物の建造時期も“二一五〇年前”から動く可能性がある」とも話していました。説明会に行って、ますます分からなくなってしまいました。


唐古・鍵遺跡の過去の調査

 そこで「過去の調査による時代区分や年代がどうなっているか」を確かめることにより、この気がかりを解く糸口が見つかるのではないかと考え、記憶をたどってみました。

調査年次 遺跡・遺物=時代区分:年代
(1).一九九一年(第四七次)、V字形環濠=前期:約二二〇〇年前
(2).一九九二年(第四七次)、楼閣の線刻画が描かれた土器片=中期:一世紀前半
(3).一九九三年(第五三次)、弥生時代で三番目めに大きい翡翠の勾玉=中期:一世紀後半
(4).一九九七年(第六五次)、青銅器生産用鋳型の外枠片多数=後期:約二〇〇〇年前
(5).一九九八年(第六六次)、銅鐸など青銅器の炉跡遺構=中期後半:紀元前一世紀
(6).一九九八年(第六九次)、区画溝跡=中期後半:約二〇〇〇年前
(7).一九九九年(第七四次)、大型建物跡と一部柱根=中期初め:紀元前三世紀末?紀元前二世紀初め
(8).二〇〇一年(第八〇次)、褐鉄鉱容器(鳴石)と翡翠の勾玉=後期:約二〇〇〇年前
(9).二〇〇三年(第九三次)、大型建物跡と柱根多数=中期中葉:約二一五〇年前
(以上、『朝日新聞』記事及び、『唐古・鍵遺跡発見一〇〇年:田原本町教委』より抜粋)

 (3).(第五三次)以前と、(4).(第六五次)以後とで、同じ時代区分の年代に大きな違いが現れています。例えば、(2).(第四七次)では中期が一世紀とされているのに、(4).(第六五次)以後では紀元前一世紀以前とされています。(4).以後では、二〇〇〇年前が後期、もしくは中期後半とされているのに、(3).(第五三次)では一世紀後半が中期とされています。唐古池畔に建つ、土器の線刻画から復元された楼閣の説明板には、弥生時代中期(紀元一世紀)と書かれていますが、(4).以後の年代観からすれば紀元前一世紀に直さなければなりません。
 (3).以前は従来の年代観に基づいて、そして、(4).以後は別の年代観に基づいていることが分かります。

紀元前五二年

 唐古・鍵遺跡の調査主宰機関である田原本町文化財保存課では、「土器形式は、あくまで相対的な(新旧の)判断の基準であって、実年代を判断する基準にはならない」と話していました。今回発見された大型建物柱穴から出土した土器片は「前期の形式ではなく、中期中葉の形式」に間違いないそうです。
 では、約二一五〇年前という年代は、どうやって推定されたのか。「土器形式は実年代を判断する基準にはならない」としながら、出土した中期中葉の土器片の形式で、どうして約二一五〇年前という実年代が導き出されたのか。
 その鍵は、池上・曽根遺跡(大阪府)出土の巨大建物柱根にありました。一九九六年に発見された巨大建物柱根は、奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センター(当時)の年輪年代法による測定で、紀元前五二年に伐採された、という結果が出ました。土器形式による土器編年では「弥生中期後半の中ごろ=一世紀の中ごろ」と判断されていましたから、考古学界の受けた衝撃は計り知れないほど大きなものでした。その後の詳細な調査で転用材の可能性もきわめて少ないことが分かり、巨大建物は紀元前五二年に近い年に建てれたと判断されたのです。その結果、後期の始まりと中期の終わりが、約一〇〇年遡ってしまったことは周知のとおりです。
 今回、唐古・鍵遺跡の大型建物柱穴から出土した土器片の形式は、中期中葉のものとされています。つまり、池上・曽根遺跡巨大建物柱穴出土の土器片よりも約一〇〇年古い形式のものとされ、紀元前五二年に一〇〇年をプラスして「約二一五〇年前=紀元前二世紀中ごろに建てられたものと考えられる」結果が導き出されたわけです。すなわち、中期中葉が紀元前二世紀中ごろまで遡ったのです。
 以上のことから、唐古・鍵遺跡においては、次の3点が明らかとなってきました。
(1).従来の土器編年は、年代を判断する基準としての機能を失いつつある。
(2).時代区分の判断基準は、あくまで従来の土器編年に拠っている。
(3).「紀元前五二年」を起点とした新たな土器編年が考えられている。
 土器形式に基づく土器編年が、実年代判断の基準としての機能を失いつつあるとは言え、時代とその区分の判断は、あくまで土器編年に基づいていますから、「紀元前四〇〇~同三〇〇年を遡る弥生時代の始まりは簡単に受け容れられない」と考えている専門家も多く、理化学的方法による年代測定結果が受け容れられる日は、まだまだ遠い先のようです。
 しかし、土器形式に基づく土器編年によって、時代や時代区分を考えるというのも実におかしな話です。弥生時代という名前は、東京の弥生町(通称:向ヶ丘)で発見された新形式の土器に出土地の町名をつけて、「その土器と同じ形式の土器が使用されている時代」という意味でつけられたのですから、弥生土器を全く使用していない、縄文系の突帯文土器様式の時代に、「弥生早期」などという時代区分名をつけるのも実におかしな話です。もはや、土器形式による時代区分も成り立たなくなっているのではないでしょうか。


中国・朝鮮系、九州系遺物

中国・朝鮮系遺物

 田原本町文化財保存課では、唐古・鍵遺跡を含め奈良盆地の弥生遺跡からは「北部九州のように実年代を推定できる中国製の銅鏡などが出土しないので、土器による相対的な時代区分しかわからない」と話していました。奇しくも、この話の中に、弥生時代における奈良盆地と北部九州の違いが鮮明に語られています。「北部九州には中国・朝鮮半島との交流を示す遺物が出土するが、奈良盆地からは出ない」と。唐古池畔に、中国との交流を示す象徴として、土器片の線刻画を復元した「楼閣」が聳えているにもかかわらず、です。この土器片の線刻画だけで、奈良盆地と中国・朝鮮との間に交流が盛んに行われていた、とはとても考えられません。交流を示す他の遺物が出土しないからです。もちろん、今回の発掘調査でも、それらしき遺物は出土していません。少なくとも、唐古・鍵遺跡の環濠集落が継続していた弥生前期~同後期の間、此処を中心として中国・朝鮮と盛んに交流が行われていた可能性はきわめて低い、と言わざるを得ません。
 唐古・鍵遺跡から南東四~五㎞の所に、弥生時代の終わりから古墳時代初めにかけての纏向遺跡があります。「邪馬台国ヤマト説」が卑弥呼の墓に当てている箸墓古墳のあるところです。まだ全域の五%ほどしか発掘調査されていませんから結論的なことは言えませんが、ここからの中国・朝鮮との交流を示す遺物は、現段階では三韓系瓦質土器(一部楽浪系を含む)の破片が十数点見つかっているだけで、卑弥呼と魏の交流を示す出土物など一切ありません。この十数点の土器片を以て、此処に日本列島を代表して中国と交流した倭女王卑弥呼の都があったなどと言えるでしょうか。
 御所市の名柄遺跡(中期~後期)から朝鮮半島との交流を示す遺物が出土しています。朝鮮系の多紐細文鏡(一面)です。朝鮮半島で作られた銅鏡で、裏面に二~三の鈕がつき、細い線状の模様が無数に刻まれた鏡です。出土した十面のうち六面は北部九州(佐賀県三、福岡県三)に集中(弥生中期前半の遺跡)し、他は山口県一、奈良県一、大阪府一、長野県一です。この分布を見ても、奈良盆地に朝鮮半島との交流の中心があったなどと、とても言えないでしょう。
 奈良盆地に、日本列島を代表して中国・朝鮮半島と交流した倭国の都があったならば、北部九州全体で出土した中国・朝鮮系の遺物を上まわる遺物が奈良盆地から出土して当たり前でしょう。北部九州の一遺跡の出土遺物にも遠く及ばない奈良盆地に、中国・朝鮮との交流の中心があったとは、とても考えられません。

 

 九州系の遺物

 中国・朝鮮半島との交流中心地が奈良盆地にあり、倭国王(成立期のヤマト政権)が都を置いていたならば、北部九州(或いは一部)はその支配下にあったと見なければなりません。北部九州を支配下に置かずして中国・朝鮮半島と交流するのは不可能でしょう。そこには重要な中継基地が設けられ、奈良盆地との間で密接な関係が維持されたはずです。その関係を示す遺物が奈良盆地にはきわめて少ないのです。
 纏向遺跡からは、関東系・東海系・山陽系・山陰系・北陸系など各地で作られた土器が多数出土しています。纏向遺跡の説明書にも、他の一般的な集落と異なる点の一つとして「他地域からの搬入土器の比率が全体の一五%前後を占め、かつその範囲が九州から関東に至る広範囲な地域からであること」を挙げています。
 去る十一月二十三日に桜井市立埋蔵文化センターへ「纏向遺跡展」を見に行きました。ところが九州系の遺物は、土器の欠片一つすら展示されていないのです。橿原考古学博物館にも「纏向遺跡のコーナー」にたった一点の土器片しか展示されていませんでしたから期待はしていませんでしたが、それにしても、と不審でなりません。
 後日電話で訊いてみると「橿原考古学博物館に展示されている土器片は、纏向遺跡と同じ時代の大分県あたりで出土する土器とよく似ており、大分県の関係者にも確認済みなので九州出土の土器として展示されている。北部九州から搬入されたと思われる土器片は他にも数片あって、過去の報告書にも記載されているが、倉庫の奥深くに収容されていて取り出すことができず、今回は展示できなかった」とのことでした。しかし「北部九州製の土器はきわめて少なく、他の地域製の出土土器の一%にも満たないし、数点の土器片以外に北部九州系の出土遺物は全くない」のが現状だそうです。本来なら土器片も、他地域製以上の割合で出土するのが当然かと思われます。
 唐古・鍵遺跡からも各地域で作られた土器が出土していますが、纏向遺跡に比べるとその比率はかなり低いそうです。ましてや北部九州との関係を示す出土遺物はきわめて貧弱です。強いて挙げるならば、巴形銅器の小さな鋳型片一つと、細形銅矛の小さな欠片一つぐらいしかありません。これでは奈良盆地と北部九州の緊密な関係を、推測することすら憚られます(見分けるためには高度の専門的素養が必要)。
 以上のように、奈良盆地と北部九州との緊密な関係を示す遺物はきわめて貧弱で、現段階において、北部九州(或いは一部)が、奈良盆地勢力(成立期のヤマト政権)の支配を受けていたり、同盟関係にあったとはとても考えられないのです。

[参考資料・文献]
*唐古・鍵遺跡 第九三次調査現地説明会資料(田原本町教育委員会)2003,10,19
*唐古・鍵遺跡発見一〇〇年(田原本町教育委員会)2001,4,21
*たわらもと二〇〇三『発掘速報展』(田原本教育委員会)平成一五年九月二〇日
*纏向へ行こう!─初期ヤマト政権発祥の地をあるく─(桜井市立埋蔵文化財センター)
*埋蔵文化財ニュース九九『年輪年代法の最新ニュース』奈文研埋蔵文化財センター
*大阪府立弥生文化博物館図録『発掘倭人伝 海の王都』『弥生創世記』『渡来人登場』
*朝日新聞関連記事


 これは会報の公開です。

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