弥生渡来人説と中国史料
八王子市 草野善彦
問題意識
一九八四年に出された古田武彦氏の『古代は輝いていた・1』(朝日新聞社)で指摘された、水田稲作開始の時期が北九州(福岡・板付)で紀元前約一千年前という研究が、国立歴史民俗資料館の昨年五月一九日発表によっても確証されたことは周知のことである。これによって通説の「弥生論」が根底から崩壊したに止まらず、通説側が水田稲作紀元前一千年論の衝撃への、各種の予防策をとることが一二分に考えられるが、にもかかわらず巨大な衝撃が貫通することを最終的には防げないと思われる。
さてここでは「弥生渡来人論」を、水田稲作紀元前約一千年論で考えてみたい。年代は従来はいうまでもなく破産した「土器編年」にたって論じられた。人類学者と考古学者の間での弥生「渡来人」をめぐっての論争もまた同様である。日本人類学は大量渡来説にかたむき、考古学は一回の渡来者少数説である。いずれも弥生人は渡来人と九州縄文人の混血である、という。さらにこの「混血弥生人」は、遠賀川式土器を携えてたちまちにして近畿大和にも稲作を展開し、大和朝廷成立の土台を形成したという。
しかし、この議論も北九州の水田稲作が紀元前約一千年という認識にたてば、根本から見直しがせまられると考える。
その一つは北九州に水田稲作が紀元前約一千年ごろ定着したということは、近畿大和地方での水田稲作開始と五〜六百年以上の差をつくりだす可能性が考えられる。中村純高知大学名誉教授は14C測定で、板付の水田稲作の古いものを約三千四百年前とされ、東海地方での水田稲作の最初を約二千三百年前とされている(『縄文文化と日本人』、一七五頁、佐々木高明氏著、講談社学術文庫、二〇〇一年)。その間約一千年である。これはまさに国家発展論における従来からの通説の近畿大和論の再検討の必要をうみだそう。二つはすでに古田武彦氏が提唱されている古代中国史料の「倭人」記載を重視すれば、埴原和郎氏の大量渡来説はもちろん、考古学者がいう少数渡来人説でさえもが根本的な再検討を求められよう。今日の通説的縄文・弥生学が、もっぱら頭蓋骨等や遺伝子ならびに考古学的遺跡主義にたち、通説日本古代史学が自分たちに都合の悪い古代中国史料を全く無視するという悪弊と似た傾向、紀元前約一千年時代の古代中国史料の「倭人」記載を眼中におかない結果、「倭人」と北九州を中心にした縄文人・弥生人の関連という、「渡来人」問題を検討するうえでの基本的前提となる問題が、視野からすっぽりと抜け落ちると思われる。
中国史料の紀元前約一千年時代の「倭人」
科学は客観的事実・資料にたつということは、いささかも文献史料排除の理由とはなり得ないであろう。文献史料こそは歴史学の最も強力な資料であろう。ヨーロッパや中国史ではすくなくともそのように扱われているように見える。
この点ですでに稲作が紀元前約一千年に逆上るという事実を、古田武彦氏は高知大学名誉教授の中村純氏等の福岡・板付「縄文水田」の化石稲花粉の放射性炭素14C測定値を踏まえ、さらに倭人の中国交流がこの時期と概ね重なるという点をも、『漢書』地理志の「倭人・・・百余国」が孔子の倭人論への批判的検討である、という事実を王充の『論衡』とも関連させて明らかにされ、くわえて『礼記』『尚書』をも上げられてその点を重ねて指摘された(『古代は輝いていた・1』、朝日新聞社、一九八四年)。
また稲作の北九州への伝播にあたり、『漢書』の「殷の道衰え、箕子、去りて朝鮮に之く。其の民に教うるに、礼儀、田蚕・織作を以てす。」を上げられて、殷末の朝鮮への稲作渡来を指摘(前掲書、二三頁)もされている。時あたかも紀元前約一千年である。井上光貞氏も朝鮮のことという限定的認識ならが、「朝鮮半島の文明の曙は、楽浪郡設置より前、北方にできた箕子朝鮮、衛氏朝鮮など、中国人移住者のつくった植民地国家とその支配から開けてきた。」
(井上光貞氏著、『日本の歴史』、一九一頁、中公文庫、一九八八年、二四版)という。
問題は渡来人云々の前に、紀元前約一千年に古代中国人が「倭人」という、明確な「民族概念」を確立しているという記録の事実をどうみるか、である。列挙すれば右の通りである。『論衡』(成立、一世紀)では、「周の時、天下太平、・・・倭人鬯草を貢す。」とあり、『尚書』(成立、紀元前十一世紀)では「倭人」に関して「海隅、日を出す。率俾せざるは罔し」とあるといわれ、さらにこの「海隅、日を出す」にかかわって、『尚書』の冒頭に、「島夷皮服 海曲、之を島という。島に居るの夷。(正義)島は是れ、海中の山」とあると古田氏は指摘されている(前掲書、二八頁)。
「夷」にかかわる「海中の島」が、「倭人、倭国」の地を意味することは、「倭人は帯方の東南大海中にあり、山島に依りて国邑をなす」(魏志・倭人伝)、「倭国は高驪の東南大海の中にあり」(宋書、倭国伝)、「イ妥*国は百済・新羅の東南にあり、水陸三千里、大海の中において、山島に依っている。」(隋書、イ妥*国伝)に照らして間違いないというべきであろう。朝鮮半島等を「海中の島」とは云えないであろう。
イ妥(たい)国のイ妥(たい)*は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO
しかも、『尚書』とほぼ同時期とされる『礼記』では、「東方、夷という。被髪文身、火食せざる者有り。」とあるといわれる(前掲書、二九頁)。これは「東方」の人間を「夷」とよぶ。その「夷」のなかには、顔と身体には「文身」つまり入れ墨をほどこし、魚を生で食べる習慣をもつものがいるという意味であろう。この「・・文身、火食せざる者」が、明らかに「倭人」の特徴を指すものであることは、「男子は大小となく皆黥面文身す。・・中略・・皆自ら大夫と称す。夏后小康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身し、以て蛟竜の害を避く。今倭の水人、好んで沈没して漁蛤を捕え、文身しまた以て大魚・水禽を厭う。」(魏志・倭人伝)を上げれば十分であろう。
以上の示すところ「島夷」=倭人は、紀元前約一千年以来、他の「夷」等とは目立って異なる、「黥面文身」という倭人共通の習性をそなえた人間集団と認識されてるのである。しかも、この倭人の風習は、一方では「夏」時代の会稽付近の海人等と共通であると強調され、他方では『後漢書』倭伝に秦の徐福伝説をあげ、「夷洲」「檀*洲」に徐福一行が永住したと書いている。わが国にもこの徐福伝説はある。問題は『後漢書』に、その徐福の後裔とおぼしき「人民、時に会稽に至りて市す。会稽の東治の県人、海に入りて行き風に遭いて流移し、檀*洲に至る者あり。所在絶遠にして往来すべからず。」とある点である。
この「檀*洲」は通説では所在不明とされているが、問題は、この「檀*洲」から「人民」が会稽に通商にたまに訪れるという点、ならびに会稽付近から海にでて暴風にあえば流れ着くという記述が示すものである。現在でも東シナ海で遭難すれば五島列島や九州に漂着できよう。こうして倭人が朝鮮半島の人間とは違って海人的風俗を特徴とし、中国人が「絶遠にして往来すべからず」という遠距離を航海できる能力があるという点も、注目すべきではないかと考えるものである。これらの「倭人」と北九州を中心とする縄文人、この関連を無視しては弥生人、さらには北九州での水田稲作展開問題を論じてみも、正し解決は不可能であろう。
檀*洲の檀*は、木編の代わりに三水編に亶。JIS第3水準、ユニコード6FB6
どうも近来の日本の知識人は文化はすべからく外国から一方的に、島国ニッポンにもたらされるという文明開化の余韻が強いのか、江上波夫氏の「騎馬民族説」等や、最近では埴原和郎氏の「北方系モンゴロイド・大量渡来説」が、賑々しく取り沙汰されている。この大量渡来説では「渡来人」は先住縄文人と併存・混血したとされ、それを二重構造と称している。しかし、縄文学でそもそも先住の北九州の縄文人が、人口的に極めて希薄な存在(縄文中期、五千三百人。全国二十六万二千五百人。『縄文文化と日本人』、一二九頁)とされてきた点をみれば、大量渡来説は事実上、北九州縄文人・征服・吸収・消滅説となるのではないかと思う。これをつうじて北九州の水田稲作が成立し、これが大和朝廷をつくったといことになる。つまり弥生版「大陸民族渡来説」であろう。
こうした発想は日本人、とりわけ日本文化の本質を考えるうえではなはだ軽視しがたい主張と考える。「日本人」を遺伝子段階で考察すれば、現在にいたるまで大陸からさまざまな要因によって少なからぬ人口移動がみられ、したがってDNA・遺伝子では水田稲作確立時の北九州縄文人と隔たりがあっても全く不思議はない。しかし文化はDNAとおなじではない場合がある。
そして民族としてみれば、文化こそが民族の個性・基本を決定する主導的要因である。たしかに考古学者は埴原氏等の「大量渡来説」を、「弥生期」の稲作に関わる考古学的出土品の、主な特徴が縄文的であるという事実と著しく矛盾すると指摘している。しかし、考古学もまた少なからず渡来説に影響されているのも、述べたとおりである。
問題は水田稲作は渡来人による渡来文化なのか、北九州縄文人による主体的な受容なのか、である。同時に、これは北九州縄文人の存在様式が本当に解明されているのか、という問題とも連動するものとおもわれる。これまでの縄文学では、「照葉樹林文化論」等「縄文農業」の探求に力点がおかれるが、縄文人と海洋とのかかわりの方面は影がうすいのではないかと思うのである。
縄文人はもともと南方系古モンゴロイド(原モンゴロイド)といわれる。しかしこれは縄文人が、現在の東南アジア系ということを意味しないとされる。南方系古モンゴロイドの日本列島への展開は、完新世の海進以前に中国南部、ベトナム、台湾、日本列島に展開した古モンゴロイドが、海進によってそれぞれ固有の発展を遂げたものという(片山一道氏著、『海のモンゴロイド』、一九頁、吉川弘文館、二〇〇二年)。氏はさらに「そもそも台湾、華南の沿岸部、さらにフィリッピンなど東シナ海の海域世界には、今から二〇〇〇年ぐらい前までは日本列島の縄文人と多くの共通項をもつグループが広く分布していた可能性が無視できない」(一九頁)と云われてもいる。これらの人々の最大の特徴に「海民性」を上げられている。
古代倭人等の航海術やその船の実態は不明ではあるが、福井県大石村出土の銅鐸の、乗組員全員が櫂でいっせいに漕ぐ船の絵をあげて、「北九州の倭人たちも・・・中略・・・玄海の荒波をのり切り、壱岐、対馬を中継点として、南朝鮮と交渉をもったのだろう。」(井上光貞氏、前掲書、一九二頁)という指摘もある。竜船風の絵が福井県出土の銅鐸に描かれているのは意味深長である。なぜなら筑紫と結ぶ日本海である。しかも、船は古代ギリシャのそれと若干は似ているともいえよう。
もちろん縄文人が南方系古モンゴロイドであるということは、東北方面を中心に縄文時代に沿海州・シベリヤ方面からの人口移動があったということをいささかも否定するものではないであろう。いぜれにせよ、今日の日本人類学がいう渡来説や、まして大量渡来説は、古代中国史料が指摘する「島夷」ならびに「倭人」の姿を説明できない。また日本人類学的渡来説には同意しないらしい考古学からの、水田稲作の朝鮮からの伝播説もまた、渡来説の影を引きずっているといえる。その意味ではやはり古代中国史料の記載とは一致しない。
さらに古代史上での日本とか朝鮮という概念も必ずしも明確にされていない。今日の日本とか朝鮮は資本主義を土台とした近代的な「国民・国家」を意味する。たしかに日本人ははるかな太古から、周囲を海によって大陸とへだてられ、ニッポンと命名された島国に生活してきた結果、大陸、とくにヨーロッパでの資本主義の確立が土台となった、近代国家や国民の成立の概念が必ずしも明瞭に意識されないという問題があるのかもしれない。しかし、いまから二千年〜三千年以上も前の時代の「倭人」に、今日的意味で朝鮮とか日本とかいう意識も意味もありえないことは自明のことである。古代人である倭人にとっては、そこが今日的国家領域のどこであろうと関心も関係もないことであって、この倭人が朝鮮半島の南部や西部に領域をもって展開していなかったと、はてした何を根拠にいえるのか、という問題があると私は考える。この倭人は紀元前十一世紀には、中国人が「所在絶縁にして往来すべからず」という海を越えて、「市」(交易)をする能力をもっているのである。
まして朝鮮半島に展開することは、十二分に可能であるばかりか、現に『三国志』・韓伝にはこの国が、「南、倭に接す」とある。これは韓国の南の海の向こうは倭国である、という意味でなく韓国の南側は倭国である、つまり国境が接しているという意味である。すなわち朝鮮半島南部の沿海部は倭地である、と云っているのである。これは「魏志」倭人伝でも同様で、「郡より倭に至るには」の中で、「韓国を歴るに乍南乍東し、その北岸、狗邪韓国に至る。七千余里」とある点に明らかである。ここの「その北岸」は、「倭の北岸」を指すのは論じるまでもないであろう。
しかもこの「倭地」は、五世紀に建造された「好太王碑」にも、「永楽九(三九九)年、『倭人、其の国境に満ち・・」と新羅王が、好太王に救援を依頼しているところにも明記されている。興味深いことは申叔舟著の『海東諸国紀』に今日の釜山は、「富山」(「東莱富山浦図」、田中健夫氏訳註、三九三頁、岩波書店、一九九一年)となっている。この字の変化には倭地から韓国領への推移が反映しているかもしれない。倭地時代から「フザン〜フサン」といわれた可能性があろう。「・・・釜山に近い金海貝塚に北九州のものとそっくりの甕棺があり、細形銅剣や碧玉製管玉を共通に出土している・・・」(井上光貞氏、前掲書、一九二頁)点にも、それは示されているといえよう。また「魏志」倭人伝は、対馬にかんして「良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す。」と記されている。壱岐についても基本的に同様である。この対馬等の倭人が卓越した航海者であったことは、後代ではあるが倭寇問題にかかわって、朝鮮史料が詳細に伝えている。
こう見てくると、水田稲作の朝鮮からの伝播を、渡来人に求めることは必ずしも正確な理解ではないという見地がでてこよう。現に北九州では同一遺跡での朝鮮的特色のある水田稲作等の道具と、縄文的様式の混在が指摘されているのは、倭人の往来でもそれは全く可能であることを物語っているのではあるまいか。もっとも倭人と一言でいっても地方差もあり、ましてや朝鮮半島に展開したものは朝鮮文化の影響をうけ、なかには混血したものもいよう。当然、倭人間でも交流したであろう。水田稲作もこうした倭人的交流を一つの柱に検討すべきではなかろうか。
いずれにせよ日本古代史ならびに縄文学が、ともに古代中国史料を無視する結果、紀元前約一千年ごろの倭人の解明やましてそれの展開など、ほとんど研究されていないというべきであろう。その意味では古田氏によって、基本的部分はすえられているにせよ、古田史学の見地からの縄文・弥生学の展開が、真の日本古代史解明のうえから切実に求められている、のではないだろうか。
“フンドシ、腰巻き”「黥面文身」文化 と倭人
なお倭人考察で「タダ物論」(渡来人遺骨、遺伝子や考古学的遺物のみ主義を指す)では問題にされていないが、「客観」とは人間の意識の外に実在する、ないしは歴史学では“した”物をも念頭におくとすれば「黥面文身」の他に、昭和一桁生まれ以前ならばだれでも知っている事
実、例えば“フンドシ、腰巻き”は、日本人男女の下着の風俗であるという事実がある。一体、朝鮮人や黄河流域の中国人の下着の風俗は、“フンドシ、腰巻き”である、という説を寡聞にして聞いたことがない。
日本人はその遺伝子が北方系であれ古代から昭和一桁までは、とりわけ地方や都会の下町では“フンドシ、腰巻き”をしていたのであって、この風習は“アヤトリ”という、今日では日本の子供(女の子)たちから忘れられた、しかし、普遍的な遊びの文化と一体のものではなかったのだろうか。これらはまさに「黥面文身」文化と一体のものではないだろうか。つまり片山氏が指摘される「南方系古モンゴロイド」に共通の文化ではなかろうか。
こうした「客観」が忘れられて、ヨーロッパ風の今日流にいえば「ハード」(人骨等と土器等の考古学的遺物)のみを、「事実」と考える「科学」は、いわば「アジアの科学」ではなく、あくまで欧米学の真似の内側のものではないだろうか。「倭人」はアジア人である。通説の諸権威でも「日本神話」の探求になれば、ポリネシヤ等の太平洋に展開した人々の神話と日本神話の近似性や共通性について、かなり情熱的に語っている方もいる。これについてはまた別の時に述べるがいずれにせよ、日本語・日本神話等が“フンドシ、腰巻き”「黥面文身」文化圏と近しい関係にあることは、縄文人が南方系古モンゴロイドであるという事実とともに、「倭人」・弥生人考察で欠かしてはならない要素と考えるものである。
こうした問題を視野におけば古代中国史料の記録こそが、「倭人」と弥生人・縄文人の関連の考察で土台に据えられるべきものというのが正当であろう。「日本語ウラルアルタイ説」とか「騎馬民族説」とか、文明開化以降の「欧米崇拝・アジア軽視」ならびに天皇制の美化・合理化の観念とも深く絡んで、やたらと「高度文化」のかたわらに「源日本人像」を近づけ、“フンドシ、腰巻き”文化を敬遠する態度は、やはり改めるべきだろう。
渡来人論について
水田稲作渡来人論は、渡来年代の正確な確定とそれと水田稲作の始源性との、否定しがたい関連の確証が必要であろう。渡来人骨では山口県の「土井ガ浜人骨」や、福岡市の「金隈遺跡人骨」等が有名であるが、考古学者の中には、日本人類学が強調する渡来人説につかわれた人骨にかんして、埴原氏の使用したものは新石器時代の人骨であるとか、松下孝信氏と韓康信氏の研究した資料は漢代を主体としたものとか、韓国の礼安里古墳群のものも渡来弥生人から数百年も経過したものという主張(佐原真氏編、『古代を考える・稲・金属・戦争』、五八頁、吉川弘文館、二〇〇二年)がある。
渡来人について考える上で、『隋書』イ妥*国伝の、「・・・また東して秦王国に至る。その人、華夏に同じ・・・」の一節は意味のあるものではないだろうか。「秦王の国」というのは、「徐福伝説」を彷彿とさせるともいえ、七世紀の時点でさえ、古代の伝説とされる秦王国の由来を、遙国人が外国人のことと認識している点は、「渡来人」を考えるうえでも重要ではないだろうか。つまり「渡来人」ははるかな太古から「外国人」と認識されていたのではなか、という考え方である。
これは会報の公開です。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。古田史学会報一覧へ
Created & Maintaince by" Yukio Yokota"