鶴峯戊申不信論の検討 -- 『臼杵小鑑』を捜す旅 冨川ケイ子(会報68号)
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「天香山」から銅が採れるか
相模原市 冨川ケイ子
一
「天香山」から銅が採れるであろうか。
そんな話は聞いたことがない。有用な鉱物が採掘できる山はあられなくも削り取られる。人間の営為の結果は日本列島の各地に見ることができる。もし銅が採れるなら、大和三山の一つ、天の香具山といえども、こんもりと緑をかぶったおだやかな山容を今日に伝えることはなかったであろう。このあたりを散策して古代史のロマンにひたることができるのは、さほどの経済的な価値がこの山に見いだされなかったおかげである(注1)。
ではなぜ「天香山」の銅が問題になるのであろうか。ことの起こりは、『先代旧事本紀』巻二「神祇本紀」中に「採二天香山之銅一使レ図・二造日像之鏡一」という文を見つけたことである。また、『古語拾遺』にも「取二天香山銅一以鋳中日像之鏡一」の文がある。類似の文は『古事記』『日本書紀』にも見られる。これらは、「天石屋戸」(注2)に隠れた「天照大神」を呼び戻す工夫を「八百万神」がいろいろこらす記事の中にある。「天石屋戸」伝承は、日本列島で金属器生産が本格的に始まったことを伝える最初の記事であるらしい。
関連史料を次に掲げる。(参照の利便のため、適宜アルファベットを振る。また、一部の和訓の注を略す。)
『古事記』・・・・・
「A天安河之河上之天堅石を取り、天金山之鉄を取り而、鍛人(かぬち)天津麻羅を求メ而、伊斯許理度売命に科せて、鏡作ら令メ・・・・・
B天ノ香山之五百津真賢木矣、根許士[人小*1]許士而、上枝於、八尺之勾[王總*2]之五百津之御須麻流之玉を取り著ケ、中枝於、八尺鏡を取り著ケ、下枝於、白丹寸手・青丹寸手を取り垂で而・・・・・」(注3)
『日本書紀』第七段本文・・・・・
「C天香山の五百箇の真坂木を掘じて、上枝には八坂瓊の五百箇の御統を懸け、中枝には八咫鏡(一に云はく、真経津鏡といふ。)を懸け、下枝には青和を懸幣、白和幣を懸でて・・・・・」(注4)
第七段・一書第一・・・・・
「D故、即ち石凝姥を以て冶工(たくみ)として、天香山の金を採りて日矛を作らしむ。
E又真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽鞴(あまのはぶき)に作る。此を用て造り奉る神は、是即ち紀伊国に所坐す日前神なり」
第七段・一書第二・・・・・
「F鏡作の遠祖天糖戸者(あまのあらとのかみ)をして鏡を造らしむ・・・・・
G是の時に、鏡を以て其の石窟に入れしかば、戸に触れて小瑕つけり。其の瑕、今に猶存(うせず)。此即ち伊勢に崇秘(いつきまつ)る大神なり」
第七段・一書第三・・・・・
「H是に、天児屋命、天香山の真坂木を掘(ねこじに)して、上枝には鏡作の遠祖天抜戸(あまのぬかと)が児石凝戸辺が作れる八咫鏡を懸け、中枝には、玉作の遠祖伊奘諾尊の児天明玉が作れる八坂瓊の曲玉を懸け、下枝には、粟国の忌部の遠祖天日鷲が作れる木綿を懸でて・・・・・」
『先代旧事本紀』・・・・・
「I復鏡作祖石凝姥命為二冶工一。則採二天湍河之川上天堅石一。復全・二剥真名鹿皮一。以作二天之羽[革各*3]一矣。
J復採二天金山之銅一。令レ鋳・二造日矛一。此鏡少不レ合。則紀伊国所レ坐日前神是也。
K復使二鏡作祖天糖戸神一。即石凝姥命之子也。採二天香山之銅一使レ図・二造日像之鏡一。其状美麗矣。而触二窟戸一有二小瑕一。其瑕於レ今猶存。即是伊勢崇秘・大神。所謂八咫鏡。亦名真経津鏡是也。・・・・・
L復令下二彦狭知神一為・二作盾上者。(並金時。)・・・・・
M復令下二天目一箇神一為・中造雑刀斧及鉄鐸上者。(謂佐那岐。)・・・・・
N復令下二山雷者掘二天香山之五百箇真賢木一。左祢居自乃祢古自。上枝懸二八咫鏡一。亦名真経津鏡一。中枝懸二八坂瓊之五百箇御統之玉一。下枝懸二青和幣白和幣一。」(注5)
『古語拾遺』・・・・・
O令下レ石凝姥神(天糖戸命之子鏡作遠祖也)取二天香山銅一以鋳中日像之鏡一・・・・・
P令下レ手置帆負彦狭知二神・・・・・兼作中御笠及矛盾上
Q令下レ天目一箇神作雑刀斧及鉄鐸(古語佐那伎)・・・・・
R掘二天香山之五百箇真賢木一(古語佐禰居自能禰居自)而上枝懸レ玉中枝懸レ鏡下枝懸二青和幣白和幣一・・・・・」(注6)
二
表1 金属製品の製造
出典 | 採石場所 | 採石物 | 製造者 | 製造物 | |||
(1) | 古事記 | A | 天金山 | 鉄 |
天津麻羅 伊斯許理度売命 |
鏡 | |
(2) | 日本書紀 | 本文 | |||||
(3) | 一第一 | D | 天香山 | 金 | 石凝姥 | 日矛 | |
(4) | E | 真名鹿の皮 | 天羽輔 | ||||
(5) | 一第二 | F | 鏡作の遠祖天糖戸者 | 鏡 | |||
(6) | 第三 | H | 鏡作の遺祖 天抜戸の児石凝戸辺 |
八咫鏡 | |||
(7) | 先代旧事本紀 | I | 天淵河之川上 | 天堅石 真名鹿皮 |
鏡作祖石凝姥命 | 天之羽[革各] | |
(8) | J | 天金山 | 銅 | 日矛(鏡) | |||
(9) | K | 天香山 | 銅 | 鏡作祖天糖戸神。 即石凝姥命之子 |
日像之饒 (八咫鏡、真経津鏡) |
||
(10) | L | 彦狭知神 | 盾 | ||||
(11) | M | 天目一箇神 | 雑刀斧及鉄鐸 (佐那岐) |
||||
(12) | 古語拾遺 | O | 天香山 | 銅 | 石凝姥神 (天糖戸命之子鏡作遠祖) |
日像之鏡 | |
(13) | P | 手置帆負彦狭知二神 | 御笠及矛后 | ||||
(14) | Q | 天目一箇神 | 雑刀斧及鋏鐸 (古語佐那伎) |
右の史料を「採石場所」「採石物」「製造者」「製造物」の四項目に注目して整理し、十四件のレコードを得た(表1)。このうちすべての項目が埋まったのは五件である。
(2)の『紀』本文の行は、いずれの項目もデータがない。(8)は製造者のデータを欠き、(4)は採石場所と製造者を欠く。六件( (5),(6),(10),(11),(13),(14) )は採石場所、採石物を欠く。
表の製造物には金属製品以外のものが混ざっている。(3)「天羽鞴」は冶金で風を吹きおこすのに使うふいごのことであるという(注7)。(7)「天之羽[革各]」も、素材が「天堅石」「真名鹿皮」であることから、金属製品ではなさそうである。諸橋轍次『大漢和辞典』(注8)によると、「[革各]」は「なまがはのひも」のことであるという。(10)「盾」は、細注の「並金時」(校異もある)が、金属製であることを意味するのかどうか判然としない。(13)では「御笠及矛盾」となっている。
(1),(3),(6),(7),(9),(12)に現れる「石凝姥」((6)では「石凝戸辺」)は、名前からすると女神であろう。さらに言えば、石を加工する女神の名前であろうと思われる。その人物が「鏡作祖」((6),(7),(9)とされる点を見ると、もともとは石をみがいて鏡に作っていたのではなかろうか。金属より以前の神が金属時代にも同じ役割を担った可能性があろう。「天糖戸」も「鏡作祖」とされている。 (1)の「天津麻羅」、(11),(14)の「天目一箇神」はいずれも鉄と関わりがありそうである。
三
表1の(1),(2),(8),(9),(12)が示すように、採石場所には「天金山」と「天香山」の二説があり、採石物には鉄、金、銅の三説がある。出典別に見るならば、採石場所について、『記』は「天金山」説であり、『紀一』『拾遺』は「天香山」説、『本紀』は両論併記である。採石物については、『記』は鉄、『紀一』は金、『本紀』『拾遺』は銅と分かれる。
まず「天香山」を見よう。
(3)『紀一』Dは、重要なことを語っていると思う。「天香山」から採れるという「金」は、鉄であるか、銅であるか、はっきりしないが、しかしそれが何であれ、そこから鉱石が採れ、金属製品を作ることができることを明言している。古い日本語が金属を一般に「かね」と呼んで材質を区別しなかったとすれば、「金」というあいまいな表記は『紀』だけのせいではない。
それが銅であることを告げるのは、(9)『本紀』Kと(12)『拾遺』Oである。このことは、『本紀』『拾遺』の知見が『紀』より新しいことを意味しない。『紀』が編纂された頃には「金」の材質までははっきりわかっていなかったが、『本紀』『拾遺』が書かれる頃には知識が進み、それが銅であったことが判明したので明記した ・・・ そうではない。金や銅は大和の香具山から出ないことを熟知している八世紀以後の日本人ならば、「天香山」から金や銅が採れる、などと常識はずれのことを意図的に記述したり、無意識に間違えて筆写したりするわけがない。原資料にそう書いてあったのでない限り、誰がわざわざ銅という特定の金属名を書き残そうか。
「天香山」から銅が採れた。この事実をまず認めなければならない。
次に「天金山」を考えたい。「天金山」から(8)『本紀』 Jは銅を採ったと記し、(1)『記』は鉄を採ったと記す。この「天金山」くらい注目されない山はない。
岩波『記』で「天金山之鉄」の頭注を見ると、「紀一書第一は『以二石凝姥一為二冶工一、採二天香山之金一、以作二日矛一』」(注9)とある。
一方、岩波『紀』では一書第一の「天香山」の頭注に、「この所、記には『天の金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎて』とある。」と述べている(注10)。
つまり岩波『記』は『紀』を見よといい、岩波『紀』は『記』を見よという。参照せよと記す以外、説明は何もない。互いに無言で相手を指さし、責任を押しつけ合っているように見える。大和の香具山に地下資源がないからである。注釈者らは、「天香山之金」は「天金山之鉄」の間違いであると言い切るかわりに、黙って指さし合うことで、読者が勝手につまづくのを待っている。
「天金山」はどんな山かといえば、「天香山」が天下に著名であるのと引き比べ、無名そのものである。それでいて「天香山」の身代わりに使われるくらい、限りなく「天香山」と等しい山である。そこからは銅または鉄が採れる。
製造される金属製品を見よう。
まず「日矛」である。(3)『紀一』Dでは、「天香山」の「金」から作り、(7)『本紀』Jでは、「天金山」の「銅」から作る。両者は内容的に近い点がある。前者に続く記事Eは「・・・・・天羽鞴(あまのはぶき)に作る。此を用て造り奉る神は、是即ち紀伊国に所坐す日前神なり」とあるが、後者にもI「天羽[革各]」とJ「則紀伊国所坐日前神是也」がある。ただし、後者では「日矛」は鏡と混同されている。ここでは、鏡がすなわち「日前神」である。異なる点もあるが、『本紀』IJは一体となって『紀一』DEに対応するように見える。このことからも、(3)『紀一』Dの「金」とは「銅」のことであったと考えられる。
次に鏡である。(9)『本紀』Kと(12)『拾遺』Hでは、銅から「日像之鏡」を作る。Kの後に二つの記事が続く。
第一に、「其状美麗矣。而触二窟戸一有二小瑕一。其瑕於レ今猶存。即是伊勢崇秘・大神。」は、『紀二』Gに、「是の時に、鏡を以て其の石窟に入れしかば、戸に触れて小瑕つけり。其の瑕、今に猶存(うせず)。此即ち伊勢に崇秘(いつきまつ)る大神なり」(注11)とあるのと対応するように見える。前段の「日矛」、この段の「鏡」の記事から、『紀』『本紀』には同系統の資料が先在したものと思われる。
表2 真賢木の描写
出典 | 上枝 | 中枝 | 下枝 | ||
(1) | 古事記 | B | 八尺ノ勾[王總]之 五百津之御須麻流之玉 |
八尺鏡 | 白丹寸手・青丹寸手 |
(2) | 日本書紀 本文 | C | 八坂瓊の五百箇の御統 | 八咫鏡 (一に真経津鏡) |
青和幣、白和幣 |
(3) | 同 一書第一 | ||||
(4) | 同 一書第二 | ||||
(5) | 同 一書第三 | H | 八咫鏡 | 八坂瓊の曲玉 | 木綿 |
(6) | 先代旧事本紀 | N | 八咫鏡(亦名真経津之鏡) | 八坂瓊之五百箇御統之玉 | 青和幣白和幣 |
(7) | 古語拾遺 | R | 玉 | 鏡 | 青和幣、白和幣 |
第二に、「所謂八咫鏡。亦名真経津鏡是也」がある。鏡は天香山から掘った真賢木(注12)に懸けられて祭祀の道具となる。ここで、真賢木の上枝・中枝・下枝の描写を表にしてみた(表2)(注13)。『紀一』『紀二』には記事がない。いわゆる三種の神器に「八坂瓊の勾玉」「八咫鏡」があるが、「天香山」から採れる鉱物からは剣が作られていないことに気がつく。
最後に鉄製品である。表1の(1)『記』では、「鉄」から「鏡」を作っている。古賀達也氏によれば、銅鏡はめずらしくないが、鉄製の鏡もあるという。森浩一氏は、数千面の銅鏡に対して鉄鏡は一パーセントにも満たないとしながら、「大分県日田市のダンワラ古墳では、龍文を金象嵌であらわし、玉をはめこんだ鉄鏡が出土している。岐阜県飛騨の国府町の名張一の宮古墳でも象嵌で怪鳥をあらわした鉄鏡が出土している。私自身、堺市の百舌鳥大塚山古墳で一面の鉄鏡を発掘したことがある」と紹介している(注14)。小林行雄氏は、正倉院の北倉と南倉に合わせて五五枚ある宝物鏡のうち一枚を鉄鏡としている(注15)。鉄の鏡は稀であるらしいことがわかる。このことから、後世の学者が自分たちの常識に合わせて文面を改変する場合、鉄→銅はあっても銅→鉄は考えにくい。『記』は貴重な記事を残してくれたようである。もう一つ、(11)『本紀』Mと(14)『拾遺』Qでは、「雑刀斧及鉄鐸」を作っている。細註は「鉄鐸」を「佐那岐(Qは伎)」と読む。ここでは採石物が鉄であることは明らかであるが、採石場所のデータがない。
全項目のデータがなかったり一部が欠けたりするのは偶然ではない。「天香山」から銅や鉄が採れては困るのである。『記』『紀』『本紀』『拾遺』を編述・筆写した代々の学者たちは、この文面にはたと当惑した。窮して「銅」を「金」に、「天香山」を「天金山」にと表現をあいまいにした。それでも気になる人はこの一節を削除したのであろう。現代の学者はさすがにそこまであからさまな編集はしないが、この問題に気がつかないふりをするか、神話の世界の話だからと棚上げにする。
四
では、「天香山」はどこにあるのであろうか。当然、「天あま」にある。伝承に登場する「天石屋戸」「天安河」「天児屋命」「天糖戸者」などの地名・人名がこぞって「天」を指さしている。「天香山」「天金山」もともに「天」を戴いており、同一の山ではなかったとしても、近隣にあったことになる(注16)。
ここで手がかりになるのは、古田武彦氏が提唱した「天国あまくに」領域という概念である(注17)。沖ノ島を中心とする対馬海峡の島々をさすが、九州北部沿岸にまで範囲を広げて、銅や鉄の採れる鉱山を探してみたいと思う(注18)。
ちょうど手元に『青銅器の考古学』があった。この本は銅鉱山に注目した表を載せている(注19)。しかしこの表は三つの理由で使えなかった。第一に、銅鐸を中心としていて、矛や剣の分布は参考程度である。第二に、奈良県、島根県、福岡県といった重要な地方のデータが欠けている。第三に、鏡がない。
考古学の本ではないが、木下亀城(かめき)『原色鉱石図鑑』(注20)に載る「府県別鉱山一覧表」から、いくつかの鉱山を抜き出してみた(表3)(注21)。
表3「天国」領域の主な鉱山
所在 | 鉱山名 | 鉱物名 | |
(1) | 長崎県下県郡厳原町 | 対州 | 閃亜鉛鉱一方鉛鉱・硫砒鉄鉱・黄鉄鉱・黄銅鉱ほか |
(2) | 山口県美祢郡美東町 | 長登 | 黄銅鉱・斑銅鉱・四面銀鉱・硫砒鉄鉱ほか |
(3) | 福岡県北九州市門司区 | 門司 | 硫砒鉄鉱・黄銅鉱・黄鉄鉱・磁鉄鉱ほか |
(4) | 福岡県田川郡香春町 | 三ノ岳 | 黄銅鉱・灰重石ほか |
(5) | 福岡県北九州市小倉区呼野 | 吉原 | 黄鉄鉱・黄銅鉱・磁鉄鉱 |
(6) | 福岡県北九州市小倉区東谷 | 松井 | 黄銅鉱・磁硫鉄鉱・磁鉄鉱・黄鉄鉱ほか |
(7) | 福岡県北九州市小倉区東谷 | 宝台 | 黄鉄鉱・黄銅鉱・赤鉄鉱・輝水鉛鉱 |
(8) | 福岡県宗像郡宗像町 | 河東 | 自然金・黄鉄鉱・黄銅鉱ほか |
(9) | 大分県日田郡中津江村 | 鯛生 | 黄鉄鉱・輝銀鉱ほか |
(10) | 福岡県福岡市立花寺 |
多くの鉱山から銅と鉄がともに出ている。銅か鉄か、ではなく、銅も鉄も、だったようである。
(2) の長登(ながのぼり)は、「昭和六十三年三月、東大寺大仏殿西回廊西隣りの発掘調査によって、大仏創建時の青銅塊や木簡が大量に出土し、銅塊の化学分析から奈良の大仏の料銅は長登銅山産であることが立証された」(注22)とのことで、八世紀に経営されたことが明らかな銅山である。
(10)立花寺(りゅうげじ)は「府県別鉱山一覧表」にはなかったが、藍銅鉱のカラー写真が掲載されており、その説明文に「銅鉱床の酸化帯に孔雀石および褐鉄鉱に伴って出る」とある(注23)。立花寺は太宰府前を流れる御笠川の下流に位置する。倭国の首都圏に属したであろう。
さて、筆者には真の「天香山」を特定する能力がない。多くの鉱山を列挙したが、この中に正解が含まれているかどうかさえもさだかではない。拙稿はささやかな問題提起にとどまる。今後研究が深められていくように期待するばかりである。
『続日本紀』文武天皇の大宝元年三月条に、「甲午、対馬嶋、金を貢る。元を建てて大宝元年としたまふ」とある。対馬の産金はまもなく詐欺だったことが判明するが、大宝から平成に至る元号制度のスタートに、対馬の金という虚構が必要とされたあたりに、古代国家の誕生に際しての鉱山の役割が示唆されているように思われる。
五
大和の天香具山はどんな山であろうか。岩波『記』の「天ノ香山」の補注は言う。「高天原にあるという神話の中の地名。現実の大和盆地の香具山を投影した名であるが、地上の地名にも「天」をつけて呼ばれる(神武紀・万葉二など)のはこの山だけで、神聖視のほどが知られる。天石屋戸の前における神事はすべてこの山から採った材料で整えている(鏡の金、太占の鹿骨、榊)。地上の香山は天上の香山が落下したもので、その時二つに割れて一方は大和に落ち、片方は伊予に落ちたとも阿波に落ちたとも伝える(伊予風土記逸文)。地上の香具山が天皇の国見する山であり(万葉二)、この山の土によって祭祀の土器を作る(神武即位前紀)ような大和を代表する神聖な山であったことが、神話の中に投映されたものであろう。」(注24)
無邪気な見解である。ありふれた山が神話の中でだけ「神聖視」されるわけがない。
「天香山」はなぜ「神聖視」されたのであろうか。筆者の考えでは、日本(当時は倭国である)で最初に開発され、経営された鉱山だからである(注25)。それは経済的な富を生み出しただけではなかった。政治権力の源泉でもあった。人に銃口ならぬ鏡を向け、威嚇して従わせるところから、弥生的権力は始まったのであろう。「天香山」が「神聖視」されたのは、権力が必要とする物質的資源をふんだんに供給したからにほかならない。
二〇〇六.一.九
(注)
注1 地元の保存の努力を軽視するものではないが、文化的価値が経済的利益に負けて、遺跡が破壊される例は全国に数多い。
注2 『古事記』の表記による。以下『記』と呼ぶ。
注3 青木和夫他校注『古事記』日本思想大系1 岩波書店、一九八二年。以下「岩波『記』」と呼ぶ。
注4 坂本太郎他校注『日本書紀』上 岩波古典文学大系、岩波書店、一九六七年、新装版一九九三年。以下「岩波『紀』」と呼ぶ。『日本書紀』を『紀』、たとえば一書第一を『紀一』などとする。
注5 『先代旧事本紀』は『新訂増補国史大系』第七巻(黒板勝美編、吉川弘文館)による。一部に校異があるが、『大系』の文面に従う。撰録年代は、黒板氏によると、「平安朝時代前期」であろうという。以下『本紀』と呼ぶ。
注6 齋部広成撰『古語拾遺』大同二年(八〇七)。明治三年、柏悦堂刊のテキストによる。国立国会図書館蔵。近代デジタルライブラリーにおいてインターネット公開されている。以下『拾遺』と呼ぶ。
注7 岩波『紀』一一五ページ。
注8 諸橋轍次『大漢和辞典』大修館書店、昭和三四年、平成十一年修訂第二版第五刷。
注9 岩波『記』五一ページ。「」を『』とした。
注10 岩波『紀』一一四ページ。「」を『』とした。
注11 岩波『紀』一一六ページ
注12 『記』の表記による。
注13 賢木の枝の描写は景行紀・仲哀紀にもあるが、この表では略す。
注14 森浩一『日本神話の考古学』朝日文庫、朝日新聞社、一九九九年、七八ページ。
注15 小林行雄『古鏡』解説付新装版、二〇〇〇年、学生社、一二八ページ。
注16 ちなみに、「天石屋戸」伝承が最初に成文化されたのは「天」領域の外、おそらく筑紫のどこかにおいてであった、と考える。領域の内側にあれば、いちいち「天」を冠して強調する必要はないからである。
注17 古田武彦『盗まれた神話─記・紀の秘密─』一九七五年、朝日新聞社 第十三章「天照大神はどこにいたか」
注18 朝鮮半島南部にも可能性はあるが、筆者の能力を超えている。
注19 久野邦雄『青銅器の考古学』一九九九年、学生社。表は五〇〜五一ページ。
注20 木下亀城(かめき)『原色鉱石図鑑』一九五七年、保育社
注21 鉱物名ははじめの数個を示し、以下は省略している。
注22 池田善文「長登銅山跡について─東大寺大仏産銅遺跡─」『日本歴史』五二二号、一九九一年
注23 注20前掲書、一三ページ
注24 岩波『記』三三七ページ。
注25 むろん、出雲、吉備、上野など列島各地にそれぞれの「天香山」が存在したことであろう。ただ「神聖視」のほどが文献で確認できないだけである。日本列島でもっとも古い鉱山がどこかという問題は、全国の遺跡、遺物を通して科学的に解明されるべきである。
〔字体〕
*1 人の下に小。个からーをとり小。
*2 王偏に總(糸偏なし)
*3 革偏に各。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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