2006年 2月 8日

古田史学会報

72号

「天香山」から
 銅が採れるか
 冨川ケイ子

和田家文書による
『天皇記』『国記』
及び日本の古代史考察2
 藤本光幸

「ダ・ヴィンチ・コード」
  を読んで
 木村賢司

4連載小説『 彩神』
第十一話 杉神 5
 深津栄美

5私考・彦島物語II
國譲り(前編)
 西井健一郎

隅田八幡伝来
「人物画像鏡銘文」に就いて
 飯田満麿

7洛外洛中日記
石走る淡海
佐賀県の「中央」碑
 古賀達也

年頭のご挨拶
 事務局便り


古田史学会報一覧

ホームページに戻る

古層の神名 古賀達也(会報71号)

 


『新・古代学の扉』「古賀事務局長の洛中洛外日記」より転載

(いわ)走る淡海

京都市 古賀達也

第五二話 2005/12/10
石走る淡海

 『万葉集』などの歌枕には意味不明のものが少なくありませだいん。「石走る淡海」もその一つです。淡海などの歌枕とされる「いわはしる」と言われても、琵琶湖を岩が走るのを見たことも聞いたこともありません。ところが、最近ちょっと面白いアイデアがひらめきましたので、ご披露したいと思います。
 淡海は本来は琵琶湖ではないという問題については、既にこのコーナーでも紹介しましたが(第十七話)、現在の所、熊本県の球磨川河口とする西村・水野説が有力です。この説に従えば、もう一つ注目すべきことがあります。それは球磨川河口の北部に位置する宇土半島から阿蘇ピンク石が産出するという事実です。このことも、以前に触れたことがありますね(第二五話)。本年この阿蘇ピンク石の巨岩を復原された古代船で近畿まで運ぶプロジェクトがありましたが、これこそ「淡海」を「石走る」にピッタリではないでしょうか。
 古代において、遠く近畿まで阿蘇ピンク石を船で運ぶ姿を見た歌人達が「石走る淡海」と詠んだ、そのように思うのです。それは、勇壮かつかなり異様な印象深い光景に違いありません。もしかすると柿本人麿も、球磨川河口の海を阿蘇ピンク石を積んだ船が滑るように走る情景を見たのかも知れません(『万葉集』二九番歌に「石走る淡海」が見える)。
 いかがでしょうか、このアイデア。かなりいけそうな気がするのですか。もし当たっていれば、「石走る」という枕詞も九州産ということになり、最初に九州王朝下で作歌されたことになります。

 

第五六話 2006/01/09
石走る淡海・補考

 『万葉集』に見える枕詞「石走る」について、第五二話で仮説を発表しました。それは、熊本県球磨川河口の「淡海」を舞台に、宇土半島産の阿蘇ピンク石を船で海上輸送した風景を「石走る淡海」と表現したことに始まるのではないか、というものでした。この仮説発表以来、賛否両論が寄せられましたので、一部をご紹介したいと思います。
 まずは武雄市の古川清久さん(本会会員)からで、基本的に賛成された上で、阿蘇ピンク石が産出する馬門地区は宇土半島の北側にあり、球磨川河口とは反対側であることが問題点とご指摘いただきました。さすがは現地に詳しい古川さん。なるほどと思いました。私の仮説の弱点を見事に指摘していただき、感謝申し上げます。今後の検討課題にしたいと思います。
 次は大和田さんという方からのご意見。三二三〇番歌の「石走る甘南備山」等に着目され、「石走る」とは石垣や列石の表現ではないかとされ、「石走る甘南備山」とは神籠石を意味するとされました。確かに雷山神籠石や高良山神籠石など山の急斜面に延々と並ぶ列石を、「岩走る」と表現してもおかしくありません。他方、「石走る淡海」についは、「淡海」を博多湾岸付近の海とされ、倭国の玄関口を護る石垣があったのではないかと推測されています。これも、なかなか面白い説だと思いました。
 こうした指摘や別の違った仮説の提起は、学問にとって大切なことで、有り難く受け止めたいと思います。わたしも更にじっくりと考えたいと思います。歴史の真実は逃げたり無くなったりしませんから、時間をかけて検討します。また、進展があれば御報告させていただきます。

 ※本会ホームページより転載。


『新・古代学の扉』「古賀事務局長の洛中洛外日記」より転載
第五七話 2006/01/15

佐賀県の「中央」碑

京都市 古賀達也

 「日本中央」碑という有名な石碑が青森県東北町にありますが、佐賀県にも「中央」碑があることを林俊彦さん(本会全国世話人、古田史学の会・東海の代表)より教えていただきました。この佐賀県の「中央」碑についてご紹介したいと思います。
 佐賀平野の地神信仰に「チュウオウサン」(中央神)があります。この中央神は古い家々の庭先の、多くはいぬい(乾・北西)やうしとら(艮・北東)のすみに祀られ、小さな石か石塔が立っています。文字を刻んだものは「中央」「中央尊」「中央社」とあるそうです。これが今回紹介する佐賀の「中央」碑です。これらは大地の神を祀ったもので、旧佐賀市内や神埼郡に多く分布しているそうです。
この中央神は肥前盲僧の持経「地神陀羅尼王子経」などに、荒神が中央を占めて四季の土用をつかさどると説くことに由来するとされていますが、もしかすると、この佐賀の「中央」碑は青森県の「日本中央」碑と同じ淵源を持つのではないでしょうか。それは次のような理由からです。
 青森の「日本中央」碑は「日の本将軍」とも自称していた安倍・安東と関係するものと思われますが、古代では蝦夷(えみし)国だった地域ですし、東北や関東に分布する荒覇吐(アラハバキ)信仰とも繋がりそうです。一方、佐賀(北部九州)には『日本書紀』神武紀に見える次の歌謡があり、蝦夷との関係が指摘されています(古田武彦『神武歌謡は生きかえった』新泉社、一九九二年)。
 「愛瀰詩を 一人 百な人 人は云えども 抵抗もせず」
 古田氏によれば、これは天孫降臨時の天国軍側の歌(祝戦勝歌)であったとされ、侵略された側の人々は「愛瀰詩」と呼ばれていたことがわかります(おそらく自称)。津軽の和田家文書によれば、この侵略された人々(安日彦・長髄彦)が津軽へ逃げ、アラハバキ族になったとされています。従って、神武歌謡の「愛瀰詩」と東北の蝦夷国とは深い関係を有していたこととなります。そして、その両地域に「中央」碑が現在も存続していることは偶然とは考えにくいのではないでしょうか。「中央」信仰が両者に続いていたと考えるべきではないでしょうか。
 先に紹介しましたように、佐賀の「中央」神が「荒神」とされていたり、庭先の北西や北東に祀られていることも、東北の蝦夷国や荒覇吐信仰との関係をうかがわせるに充分です。また、佐賀県三養基郡に江見という地名がありますが、これもエミシと関係がありそうな気がしています。
 佐賀の「中央」碑は「あまりそまつにしても、あまりていねいにお祭りしてもいけない」とされているそうで、侵略された側の神を祀る上での民衆の知恵を感じさせます。

    ※本会ホームページより転載。


古田史学会報73号 2006年 4月12日より転記

読者からの便り

佐賀の「中央」碑

さいたま市 西村俊一さん

 前略 毎度機関誌をご恵贈にあずかり誠にありがとうございます。
 さて、今回学兄が紹介されている佐賀県の「中央」碑の件ですが、私の実家(佐賀県藤津郡塩田町)の前の畑の角にも、幼少の頃からあり、馴染みのものです。現在も残っていますが、畑の石垣を積み替えたとき、畑の所有者の池田家が新しい碑に代えました。
 しかし、縦五〇センチメートル横二五センチメートルほどの小さい石碑で、東北町のそれの様に巨石ではありません。この地方は、大和朝廷成立後も島原・松浦と組んで壱岐・対馬を奪う反乱を企てたこともあるところで、鬼の面でも有名です。ご参考まで。草々


 これは会報の公開です。

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから

古田史学会報一覧

ホームページへ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"