阿胡根の浦 水野孝夫 (会報76号)
万葉集二十二歌 水野孝夫 (会報78号)万葉集二十二歌
奈良市 水野孝夫
ひょんなことから、万葉集の歌番号二二というのに、関心をもった。
題詞:十市皇女参赴於伊勢神宮時見波多横山巌吹欠*刀自作歌
原文:河上乃 湯津盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女煮手
訓読:川の上のゆつ岩群に草生さず常にもがもな常処女にて
読み:かはのへの、ゆついはむらに、くさむさず、つねにもがもな、とこをとめにて
左注:吹欠*刀自未詳也 但紀曰 天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥十市皇女阿閇皇女参赴於伊勢神宮
※「欠*」、代りに以下は「黄」とする。
欠*は、草冠に欠。JIS第3水準ユニコード82A1
この歌への疑問。
A,「いつまでも永遠の処女で」と歌われている。歌った人は「刀自」という称号をもつのだから、年配の、皇女に関して責任のある地位の女性だろう。母親代りの立場だろうか。その女性が、世話をしている姫(皇女)に対して、「永遠の処女で居て欲しい」はおかしい。「よい人と結婚して、子供に恵まれて、その子を抱かせて欲しい」と歌うはずである。
B、草の生えない巌と処女にはどんな関係があるのか。女性の秘所に毛が生えていないのではないか。つまり、皇女はまだ幼いのではないか。
通説を見よう。
釈文一(岩波書店・新日本古典文学大系本):
「川のほとりの神々しい岩の群に草が生えず清らかなように、何時までも変わることなくあって頂きたいものです、永遠の若い乙女のままで。」
釈文二(小学館・新編日本古典文学全集本):
「川べりの 巖々に 草が生えないで若々しいように いつまでも変わらずに私もありたい 永遠の乙女で」
旧い解釈は、だいたい釈文一のようなものだった。それが吹黄刀自が皇女になり代って皇女の気持を代弁したものととりたい、というように変化している。次の伊藤博氏(万葉学の第一人者とされた)の影響か。
(引用始)伊藤博『萬葉集釈注 一』
川中の神聖な岩々に草も生えないように、いつも不変であることができたらなあ。そうしたら常処女でいられように。
この『常にもがもな常処女にて』の願望の主は、作者と歌詞とを結びつければ吹黄刀自ということになる。だが、上に、『十市皇女、伊勢神宮に参赴ます時に』とことさらことわっているのを思えば、これは、十市皇女(時に二十八歳程度)その人になりかわっての願いであったと見るべきであろう。左注(天武紀)によれば、一行の中には阿閉皇女(のちの元明天皇)もいたという。二人の皇女がおれば、少なからぬ女性が従っていたことであろう。広くいえば、刀自を含めた旅ゆく一行の心境を代弁したということになろう。が、一行の支柱は十市皇女であったと見られ、直接には十市皇女の立場でうたったと考えるべきであろう。左注にいうように、十市皇女たちが伊勢神宮に参ったのは天武四年(六七五)二月であった。二月といえば、同じ天武天皇の皇女大伯が伊勢の斎宮になってから五か月足らずである。壬申の乱の勝利の神託を下した伊勢神宮へのより鄭重な神祭りかたがた、大伯皇女(十五歳)の話し相手に、天武天皇は二人の皇女を、追い継いで伊勢に送ったのであろう。壬申の乱の敵将大友皇子の妻であった十市皇女の、天武皇女としての再生をはかる気持も、また、持統との一粒種草壁皇子(十四歳)の妃にと思う阿閉皇女の格付けを図る気持も、天武天皇にはあったのかもしれない。一行は生気をたたえて伊勢の神宮(かむみや)に参り着かねばならぬのであった。一首はそういう背景に立っての、すがすがしい呪歌(じゅか)であった。・・・・波多の横山のある伊勢の一志から神宮は近い。それから数日を経ずして、三人の皇女の斎宮での親しい会話があったことであろう。その内容は知る由もない。しかし、『常処女にて』の支柱であった十市皇女が、この三年後に急死することは、神に仕える身でありながら、彼女自身も、また、ほかの誰もが予知せぬことであった。
(引用終)
先学たちは、題詞と左注と『日本書紀』を無条件に信用し、「毛が生えてない」などはあからさまに云えない。しかし、わたしの疑問Aのように、「永遠の処女」を「刀自」の願いとするとおかしいから、姫自身の乙女チックな「処女願望」ととりたい、説が生まれたのではないか。
しかし、古田武彦氏により、歌本文は作者のもの、左注や題詞は後人のもので、歌本文と矛盾すれば捨てる、という方法論が確立されている。これに従ってみよう。
この歌は、吹黄刀自の作という題詞、この人物は伝記不明という左注があるが、万葉集に歌三首、01/0022,04/0490,04/0491があり、ほかに作者不明の歌10/1931もそうらしい。実在の人物であろう。
題詞は疑うべきところはない。左注もそれ自身は疑うべきところはない。つまり「吹黄刀自は不詳」「紀に十市皇女と阿閉皇女が伊勢へ参赴の記事があること」これは事実。しかし左注記事の年次にこの歌が作られたと断定されているわけではないし、『日本書紀』の記事が史実として信頼できるか否かは別問題。左注は注釈者の推定であって、その記事のときの歌とは限らないことに注意したい。
ところで、「永遠の処女」が求められるケースがただひとつ考えられる。それは、皇女が伊勢神宮に神の妻(斎王)として行くときである。また皇女という身分の女性が伊勢神宮へ行くのは「斎王」としてが最も普通のケースでもある。書紀などの文献に記載はないが、この歌によれば十市皇女はごく若いときに一旦は斎王となったのである。その後に大友皇子妃となり、葛野王を産む。これも書紀にはなくて、『懐風藻』の記事である。秘所に毛がないなら、十歳以下だろう。また伊勢神宮へ着いてしまえば、刀自は姫と別れるのかも知れない。それならば別れを惜しむ名歌になる。
「波多の横山」の候補地は、本居宣長の『菅笠日記』中のもの(鈴鹿峠付近とする)ほか、十五箇所もあるという。三重県、奈良県に比定が多い。
わたしは、吹黄刀自の「吹黄」も地名ではないかと考えた。姓だとしても地名起源の姓が多いから。「吹黄」部分の読みは岩波『日本書紀』注釈では、「ふふきの」と読まれている。しかし関連しそうな地名は青森県「吹雪野」しかない。「ふき」か「ふきの」ではないかと考えた(「ふきの」と読んだ万葉集本もある)。
国土地理院・数値地図で現代地名を検索すると、「吹野、波多、横山」が重なるのは「熊本県」のみである。
わたしはすでに「倭姫時代には伊勢神宮は熊本県八代市付近にあった」説(1)(2)を発表している。その連続として、この歌は、熊本県での歌で、この歌の時期にも伊勢神宮は、八代市あたりにあったのだ、と考えたい。
湯津磐村は、「神聖な磐群」とされてきた。この用語は『古事記』及び祝詞の中に現われる。
祝詞・延喜式・祈年祭には「湯都磐村」
『古事記』と、祝詞・伊勢大神宮・六月月次祭〔十二月は此に准へ〕には、「湯津磐村」。
『古事記』では「カグツチ」神産みのところにこの言葉がある。『日本書紀』では、ここが「五百箇磐石」になっている。この「五百箇磐石」は、イザナギ・イザナミ神が火の神カグツチを産んだとき、母神イザナミが焼死、イザナギ神が怒ってカグツチを切り裂き、流れた血が「五百箇磐石」になったという。カグツチ神のご神体は別府・鶴見岳そのものである(3)(4)。この神話は古代カグツチ火山の大爆発を表しているのであろう。
すると、湯の津(港)=別府湾で、湯津磐村は鶴見岳の東北に広がる岩石地帯で川上にあたる場所、すなわち耶馬溪あたりを指す可能性がある。波多という地名は宇土半島突端の宇城市三角町にある。波多という地名が三重県にあるとしても、この歌にちなんで、後から作られたものかも知れないが、熊本県では、この歌にちなんだ地名は考えられない。横山という小地名は三角町付近では未発見であり、「横たわる山」という普通名詞に考えておく。すると「三角の瀬戸」有明海と八代海を結ぶ海峡を、扼するように横たわる中神島が候補となる。全島が見事な岩山である。
いまのところ、この歌の解釈は次のようになる。
題詞:十市皇女が(斎王として)、都(太宰府?)から(八代あたりにあった)伊勢神宮へ行かれる(船)旅で、宇土半島先端の波多の三角の瀬戸に横たわる中神島の巌を見て、熊本県・吹野出身の(ふきの)刀自が作った歌。
歌本文:神代から有名
な、大分県・山国川の川上にある(湯の港・別府湾の)耶馬溪の磐群に草が生えていないように、まだワレメに毛が生えてない清らかなお姫様、神に仕える永遠の処女・斎王としての勤めを立派に果してくださいませ。
書紀では十市皇女は「赤穂」に葬られた。わたしはこれは霊樹「アコウ」の生える場所だと考える。候補はまず九州西部の海岸であろう。
奈良市の新薬師寺に近いところに十市皇女を祭る神社がある。お参りして、上の読解を奉納して、真実解明を祈願しよう。
注
(1)水野、阿漕的仮説ーーさまよえる倭姫、会報六九号
(2)水野、同上、『古代に真実を求めて』第九集
(3)水野、別府・鶴見岳を天ノ香具山とする文献、会報六二号
(4)水野、鶴見岳は天ノ香具山(続)、会報六三号
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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