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特集2 倭人伝と九州王朝の未来

丸山雍成
『邪馬台国 ーー魏使が歩いた道』をめぐって

古田武彦

    一

 久しぶりに「邪馬台国」を題名に冠した本が店頭に出た。著者の丸山雍成(やすなり)氏は九州大学の名誉教授。昭和八年(一九三三)、熊本県に生まれたが、昭和三十二年(一九五七)に東北大学文学部国史学科卒業とのことだから、昭和二十三年、同大学日本思想史科卒業のわたしにとって、九年の後輩となろう(わたしの時は、法文学部)。
 後輩の「よしみ」ではないけれど、率直に、かつ簡潔に批評させていただこう(丸山雍成『邪馬台国 ーー魏使が歩いた道』吉川弘文館、二〇〇九年四月一日刊)。

    二

 まず、本書の功績は、筑後川流域や肥後にわたる、九州中央部の縄文・弥生遺跡や古墳などの分布状況の詳細な紹介である。九州北部に比べて、その報告や研究が、従来知られるところ少なかった。その点、本書は今後の研究者にとって貴重な参考書の位置を占めよう。もちろん、氏の専門は交通史であり、考古学などではないから、出土遺物に対する立ち入った分析はない。けれども、多くの一般の研究者にとって、“有難い”指標となりうることを信ずる。
 此の詳細な紹介の対象こそ、氏が「邪馬台国」の中心領域と見なすところだ。
 「結論的には、女王(邪馬台国)の領域に、肥後の中・北部〜筑後を包摂する一帯で、その女王卑弥呼の居所(首都)は、地理的にみて領域の中央部に近く、その第一候補が菊池川流域の鞠智城とうてな台地、第二候補は、女山ないし高良山付近の台地とみるべきで、年代の推移、それも戦乱や政治的変動などによって首都の移転がみられた可能性は当然、大というべきであろう」(二四六ページ)
 これが氏の結論である。

    三

 では、氏に問おう。第一、三国志の魏志倭人伝中の「物」の中心をなすのは、いわゆる「三種の神器」だ。「玉と剣と鏡」である。では、右の九州の中央部(肥後と筑後川流域近辺)の弥生遺跡から、右の出土物があったか。皆無である。周知のように、「吉武高木」「三雲」「井原」「須玖岡本」「平原」の五王墓だ。いずれも、「筑前中域」、福岡市と前原市、春日市に当る。日向(ひなた)の高祖(たかす)山連峰の周辺(東西)である。氏の望まれる「九州中央部」ではない。
 倭人伝では「白珠五千」「銅鏡百枚」「五尺刀二口」とあり、剣(石剣・銅鏃・鉄鏃)が当時の権力者必須の武器だったのに対して、さらに洗練された「五尺刀」(鉄製)があったのである。高祖山の西麓に出土している。明らかに倭人伝は「三種の神器」中枢の世界なのだ。だが、それらの出土領域の中心は、やはり「筑前中域」(糸島・博多湾岸)であって、氏の言われる「九州中央部」ではない。
 第二、絹の出土も、重要だ。中国にとって、「絹」はいわば「門外不出」の貴物であったこと、王昭君(後漢)の故事の物語るところである。
 にもかかわらず、「筑前中域」には、弥生の前期・中期・後期にわたって、絹が絶えず、出土し、分布している。吉野ヶ里からも出土したけれど、後述の「中国の錦」の出土(須玖岡本)から見ても、中心はやはり「筑前中域」であり、その南辺の「吉野ヶ里」ではない。
 まして氏の言われる「九州中部」には「絹の出土分布」がない。いわんや「中国の錦」も、ない。「出土遺物」という「物」の分布から見て、氏はなぜ「筑前中域」でなく、「九州中部」が女王国の中心と“言われる”のか。解しがたい。
 氏が九州説の中心のように“依拠”ないし“援用“される、安本美典氏の「朝倉、筑後川流域」中心説の場合も、別稿に詳しく批判させていただいたように、「近畿説、批判」のためにくりかえされた「出土遺物」の分布表も、「九州」として処理された、その実体は鉄鏃も、鉄製品も、銅鏡等も、そのほとんどすべてが「朝倉と筑後川流域」に非ず、「筑前中域」出土の資料である。
 そのようにして「出土物から見ても、圧倒的に、近畿より九州が優位」と力説した上で、いざ「九州のどこが中心か」というテーマになると、いきなり、いずれの出土遺物の「圧倒的中心」にも当っていない、自家推薦地「朝倉と筑後川流域」へと「論」を“変え”られる。「換骨奪胎」「表示と内容の“とり変え”」つまり「偽装表示」の典型である。
 敬すべき丸山氏もまた、安本説を挙掲しつつ、自家の「九州中央説」を主張されるとき、これと「同一の轍てつ」を踏んでおられるのではないか。敬すべき氏のために、憂慮せざるをえない。

    四

 しかしながら、わたしにとっては(そして学界全体にとっても)、本書の最大の功績は、古田自身の学説を何回も引用して下さったことである。
 (1) 「邪馬壹国」(『史学雑誌』七八 ーー 九、一九六九)(四九頁)
 (2) 『「邪馬台国」はなかった』(一九七一)(五〇頁)
 (3) 『「邪馬台国」徹底論争』(一九九二)(五七頁)
 (4) 一里〜約七〇メートル(短里)(一一二頁)
 (5) 南米アンデス文明圏(二四一頁)
と、各回にわたり、わたしの説にふれておられる。画期的だ。従来の「学界内の学者」に見られぬところ、特に近年出色の記述だ。深く感謝したい。

    五

 その感謝の大地に立ちつつ、今「二つの問題点」に、あえてふれさせていただきたい。
 その第一は、「多数決、評決法」だ。
 わたしの「邪馬壹国」説とその依拠原本たる「紹煕本」や「紹興本」すなわち「南宋本」がすべて「邪馬壹国」であり、いわゆる「邪馬臺国」は五世紀(後漢書)・七世紀(梁書・北史・太平御覧)といった、後代成立の史書にとどまる旨、紹介された上で、
「此の古田説に対しては賛否両論が出されて、問題関心の大きさを示したが、反対論としては、五世紀成立の裴松之注の原本そのものをみず、その現存刊本は十二世紀の紹興本・紹煕本で、その七〇〇余年間に「臺」が「壹」に誤写・誤刻された可能性もあるほか、これより『後漢書」のそれが古いことなどを理由に、近年しだいに考慮しない研究者がふえている。」(五〇頁)
として。反対論者(牧健二・大谷光男・坂元義種・大庭脩氏等)の名前をあげられた。
 けれども、これらの反対論者は、誰一人、わたしのあげた「肝心のポイント」に対応しようとしなかった。
 その点、逆に、民間の中の探究者が端的に、その急所を突かれた。山中理氏である。
「そして、とうとう臺ではありえないと、私(山中氏)には決定的と思える理由が見つかったのです。倭国の女王・卑弥呼が使者を送った相手、魏(220〜265年)の皇帝・明帝(在位227〜239年正月一日)に対して、日本で言えば、大久保彦左衛門以上の存在に当るご意見番・高堂隆が主人である明帝のことを呼ぶのに『魏臺』という言葉を使用していました。彦左衛門が徳川三代将軍家光のことを、たとえば『上様」と呼ぶようなものです。陳寿筆の『三国志』に直接そのことが載っているのではありませんが、『三国志」に厳格な注釈を施した裴松之(はいしょうし 372〜451年)が引用しているエピソードにそうあります。『隋書』「経籍志」に高堂隆撰『魏臺雑訪議』という書物の名が記載されていて、裴松之はこの書物から引用していたことが明らかとなったのです。その魏に朝貢して来た夷蛮国である女王卑弥呼の国の名前が『邪馬臺国』だと言われれば、『無礼千万』と思うのがとうぜんのことではないでしょうか。ですから、陳寿がわざわざこの文字を使用する必然性がないのです。私の述べております内容は『黒を白と言いくるめる』類の誰弁でしょうか。皆様はどのように思われます。」(『日の眼』里文出版、平成二十一年五月一日発行、八四頁)
 一人の素人(美術館の学芸課長)の平明な一文だが、わたしの論証の核心が述べられている。これに対し、プロの学者としての丸山氏の場合、同じく右の「裴松之注」にふれながら、右の肝心の論証は“カット”してふれておられない。なぜだろうか。右にあげた反対論者も、誰一人この一点に「反論」していないのである。
 その上で、丸山氏は「学者間の多数決」の論法で以て、“代替”しておられるようだ。かつてわたしが長野県の松本深志高校の教師だったとき、隣傍の高校の研究授業を拝観した。議長となった生徒が、(国語の授業で)一字一句の解釈をクラスの生徒たちに求め、何種類かの「解釈」の“正否”を、多数決の「決」で決めてゆき、わたしたちを“驚愕きょうがく”させた。昭和二十四年頃のことだった。そのときの「民主授業」を受けた生徒たちも、すでに七十代をむかえていることであろう。
 「学界の多数決」も、方法の「本質」において、これと同一なのではあるまいか。

    六

 最後の「メイン・テーマ」がある。例の「短里」問題だ。丸山氏は「魏・晋時代には一里=約四三五メートル」と断定し、わたしのような「短里説を避けて通るには」として、この里程数値問題に“深入り”せぬようにつとめておられる(一一一〜一一二頁)。
 しかし、先の清水論文がしめしたように、この「短里」問題は重要だ。その重要性を、一素人(三菱電機の技術者。定年退職)が見事に“正面から”対面し、重要な「突破口」として今回の研究となった。
 丸山氏は交通史のプロの専門家として、少なくとも本書のなかの一節をこれに当て、「短里の非」を綿密に論証されたならば、「結論の当否」は別として、研究史上の重要な一角を占むべき文献と成りえたのではあるまいか。重大な欠落として、惜しんであまりあるものがある。以上、失礼ながら老齢者の過辞をお許しいただければ、幸いである。


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