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古田武彦
一
「頌徳(しょうとく)碑」という言葉があります。ある人が亡くなられたとき、故人の徳をたたえるための文章を石碑に刻んだものです。当然ながら、当人の「すばらしさ」を賛美する文章です。その「非」をあげつらうものではありません。
古来、東洋の(あるいは西洋も)美風とされているものでしょうけれど、わたしは好きになれません。もちろん、帝王のために建てられた碑文ならば、さもあらばあれ、生前率直な立論や鋭利な文章にたずさわった方の場合、かえって“失礼”な感じさえします。当の故人も、これをよしとはされないのではないでしょうか。
けれども、松本さん亡きあと、数多く出た作家、編集者、学者など関係者の文面を見ると、やはり「帝王なみの頌徳文」の類が多いように思われます。残念です。
わたしの敬慕する松本さんのために、「非・頌徳」の一文を、最後にここにしたためさせていただきます。御容赦下さい。
二
松本さんの晩年の古代史論議には「?」と思うものが少なくありません。率直に言えば、「堕落している」と言っても、決して言いすぎではないのです。なぜか。
たとえば、毎日新聞創刊一一〇年記念に行われた「古代史の旅」(一九八二年二月一六日、東京イイノホール)において、御自分の「倭人伝、七・五・三説」に対して、次のように「自画自賛」しておられます。
「(日数論に続き)それから戸数はどうか。『倭人伝」には対馬・壱岐、それから末盧、伊都国、奴国、不弥国、こういうものを含めまして全部で三万戸になる。それから投馬国のほうは五万戸になっております。邪馬台国は首都ですから七万戸になっております。(中略)私がそう言ったからではございませんが、もう里数や日数で邪馬台国の所在を捜索するのはナンセンスであるということに学者も気づいたのでしょう、現在は里数、日数を手がかりに邪馬台国の所在地を探る学説は声を低めております。ほとんどないと言ってもいいじゃないでしょうか。」(上、『サンデー毎日」、82・4・11、五二頁上段)
わたしはこれを読んで、驚きました。否、むしろ“あきれ”たのです。昭和四十六年(一九七一)に出した、わたしの第一作『「邪馬台国」はなかった』において、松本さんたちの立論を「虚無説の空虚」として、第三章に詳論しました。
(1) 「彼等が三を基礎として、五、七と云ふ奇数を以てする推算法を採り、五万、七万と云ふ数字を作りだすことは、奇数を特に好む支那人としては極めてあり得べき事情でなければならない」(白鳥庫吉「卑弥呼問題の解決」(下)『オリエンタリカ』2、昭和二十四年)
(2) 「白鳥庫吉の考えた戸数の三、五、七の配置は、私には卓見だと思われる・・・」「以上のように解釈してみると「『魏志』倭人伝」の里数、日数はまことにナンセンスなものである」(松本清張『古代史疑』中の「魏志の中の五行説」)
(3) 「第一段は文献批判をすればいろいろ材料はあるが、簡単に言えば、帯方郡から狗邪韓国(くやかんこく)までが七千余里と書いてある。そこから対馬、壱岐を経て末盧(まつろ)国まで五百里です。つまり、七・五・三です。この数は実数とは思えない。その次に邪馬台国七万戸と書いてある。投馬(とうま)国五万戸、その他を合わせると三万戸。戸数も七・五・三です。簡単に言えば、五行思想の産物であって実数ではない」(上田正昭『毎日新聞』 ーー神話と現代8、一九七〇年六月)
わたしはこの三者の立論を検するため、三国志全体の「数値」の全調査を行ないました。
そして「七・五・三」特出の事実のないことを証明したのです。さらに三国志中、「数の思想」の特記された諸例を検討したところ、ここでも「七・五・三」偏重の事実はなかったのです。また魏の明帝の師表となった高堂隆は、数を以て文辞を成すを好んだ学者でしたが、ここでも「七・五・三」偏重の事実はありませんでした。
なお、上田氏のように、「足し算」で「三」の数を導くような“やり方”が可能なら、当然「引き算」も可能となり、そのような“造出された数”を「資料」のように使用するのでは、適正さを欠く、と論じたのです。その方法なら、あらゆる数値を「算出」しうるからです。
松本さんは、このような、わたしの批判を一切かえりみず、右のような「揚言」を行われたのです。上田氏からも、もちろん一切、反論はありません。それは上田氏の問題です。決して松本さんが「(反対の)学説は声を低めております。ほとんどない」などと、言うべき筋ではない。真に「ない」のは、上田氏や松本さん側からの「反論」の方なのです。
三
なさけないことに、松本さんの没後一年の記念出版(一九九三年十一月刊)の『清張、古代遊記「吉野ヶ里と邪馬台国」』(日本放送出版協会刊)でも、全く同じ「認識」と「主張」がくりかえされています。
「不弥(ふみ)国以遠の水行・陸行の日数もそれぞれ合計すると『三』の数になることは、まえにたびたびみた。
したがって、わたしは、郡より女王国の『方二千余里」は『漢書』の『西域伝』の里数から、『倭人伝』の里数、日数は『漢書』の五服の記事から、陳寿がでっちあげた虚妄の数字だと考える。
このようなウソの距離数にふりまわされて、ああでもない、こうでもないと邪馬台国の所在をさぐるのは、まったく無意味で、むだな努力といわねばならない。」(一一〇〜一一一頁)
松本説の当否を実証的に検証するために、わたしは三国志全巻の数値をすべて拾い上げ、統計しました。それは「むだな努力」だから、相手にせず、反論もせず。「反論はなかった」ことにした。そんな仕業が「大家」の名によって許される。本当にそう、お考えなのでしょうか。 ーー考えられません。
四
この本は「頌徳文」をのせておられる佐原真さんや門脇禎二さん、そして水谷慶一さん、いずれも故人の「徳」をたたえるだけで、右のような欠落、道義的ともいうべき、深い欠落には一切言及しておられません。あるいは、この方々はわたしの『「邪馬台国」はなかった』の存在を“知られ”なかったか。あるいは、知っていても、「古田のは無視してもいいことになっています。」といった「学界のルール」に従うよう、松本さんにすすめられたのか、わたしには不明です。
それにしても、出版社(日本放送出版協会)の方々も、わたしの本の存在を一切御存知なかったのか。それも信じられません。東京にいた時、新宿や町田にあった、同協会のシリーズの講師だったのですから。
要は、「みんな、知っている」けれど、「大家」となった松本さんの御機嫌を損じないよう、貴方の無責任な「放言」に聞き入っていた。そういう構図です。
もう一回、申します。松本さんが「己が信念」として、「七・五・三説」を堅持し通されること、それは御自由です、勝手です。しかし、当の松本説批判のため、多大の汗をかいて、その実証的帰結を静かにしめした批判、それを、みんなが「なかった」こととする。それはあまりにも“マンガチック”な光景に、わたしには見えるのですが、ちがいましょうか。
前々回に書いた、K社の上司の苦心、松本さんへの説の批判を是非とも「取り消させ」ようとした、何とも奇妙な、あの記憶が、改めて一種のリアルな色彩でよみがえってきます。
かつて松本さんへの「頌徳文」の中で、関係者が昭和史発掘のさい、貴方の採られた、執拗な資料収集の熱意のすさまじさが“賛ぜ”られていましたが、少なくとも晩年の古代史探究では、全くそうではなかったようです。学界や出版界の人々にも、誰一人「貴方は裸ですよ」と告げてくれる人はいなかったのですね。やはり「大家の不幸」としか言いようがありません。
五
松本さんは今回の本で書いておられます。
「こういうことを考えると、最古の刊本(紹興版)に『邪馬台国』とあるからといって、『邪馬台国』は誤りで、『邪馬壱』がぜったいに正しいという古田武彦氏の主張には、やはり無理があると思う。」(五〇頁)
この短い一文にも、幾多の「?」があります。
第一、わたしがいかにも「紹興版」を最古の刊本と“妄信”しているような書き方ですが、『「邪馬台国」はなかった』で慎重に、長大な文章を用いて力説したところ、それは、
(1) 形式上は、「紹興本」が最古の宋版。
(2) 実質上は、日本の皇室書陵部所蔵の「紹煕本」が最古の宋版である。十二世紀末の南宋紹煕年間(一一九〇〜九四)だ。これに対し、紹興本は南宋の紹興年間(一一三二〜六二)の刊行であるけれども、紹煕本の方は、北宋の成平六年の牒をもっているから、北宋本の「復刻本」であり、実質的には、紹興本よりも古い。これがわたしの史料批判上の帰結です。その「牒」の本文も、「海彼の国名」(「対海国と一大国」)に写真版で掲載しています。要は、
(1) 「邪馬壹国」は、紹煕本(北宋本、復刻)と紹興本(南宋本)に共通。
(2) 「対海国」(紹煕本)と「対馬国」(紹興本)とが重要な相違点です(この点、松本さんの強調される「一大国」「一大率」問題にも、関連をもつ)。
以上は、わたしの力説したところです。松本さんのような「古田は『紹興本』妄信説」といった書き振りは、「?」です。わたし自身の立場ではありません。
松本さんは、この本で、
「たいへん、おこがましい言いかたで恐縮だが、本書執筆にかぎって、わたしじしん、小説書きであることを抹殺したい。ひとつには、あいつのいうことにはフィクションという便利な逃げ道があるから、という学界方面から予想される『批評』(かつてはあった声である)を返上したいし、かつ自説に責任をもちたいからである。」(三四頁)
と言われるのですから、古田説の依拠刊本に対する不正確な“書き方”は不適切と思います。
六
松本さんは「捨てた」はずの、“小説家”的な「書き換え」を、わたしに対して行なっておられます。
「『邪馬臺国』は誤りで、『邪馬壹』がぜったいに正しいという古田武彦氏の主張」
の一文です。
まず、一つ。わたしは「『邪馬臺国』は誤り」とは言っていません。逆に、
(A) 後漢書では「邪馬臺国」が正しい。
(B) 三国志では「邪馬壹国」が正しい(紹煕本、紹興本とも)。
そういう立場です。だから、朝日新聞社側が提案した、この書名に対して「邪馬台国」と、「 」を付けることを頑強に主張して、通されたのです。
この「主張」は重要でした。なぜなら、後日、
(α) 三国志では「女王国の都するところ。戸七万。」の「都域全体の名として「邪馬壹国」と表記。
(β) 一五〇年後に成立した後漢書では、(右の三国志の記述を前提として)「大倭王の居するところ」を「邪馬臺国」と記したのです。
つまり、右の(A)に当る表記はこれだったのです。
このように明白な「文脈」を忘れ、「単語」だけ取り出して“すげ変え人形”の首のように“取り変え”ようとした。これが従来説と、それに同調した松本さんの立場だったのです。
七
「不可解な感じ」を与えられたのは、右の文中の「ぜったいに正しい」の一句です。もちろん、これは、“誉め言葉”ではありません。
「『卑弥呼」はふつうにはヒミコと呼んでいるが、ぜったいにそうだとはかぎらない。」(一二九頁)
のように、相手の主張を否定するための、一種の「小説家的表現法」ですね。
わたしの場合は、次のようです。
昭和二十六年版の岩波文庫では、本文の「邪馬壹国」に対して、その注に「邪馬臺の誤り」とありました。理由も書いてありませんから、これこそ「絶対に、邪馬臺」という立場です。わたしはこれに対して、「?」をもちました。それは、
「そんなに簡単に、原文を改造していいのか。」
という疑問でした。そこで三国志全体の「壹」と「臺」の点検をはじめたのです(はじめる前には、若干の“とりちがえ”はあるだろう、と考えていました)。その前(三十代)の親鸞研究でえた研究手法だったのです。
ところが、やってみて驚きました。「壹」と「臺」の、“書きちがえ”が見当たらなかったのです。
その段階ではまだわたしは「壹」が正しい、とは「信じ」られませんでした。けれども、この文字検索の中で、この「臺」の字が、三国志では(他の史書にあらず)「天子の居するところ」の意、つまり特殊貴字として用いられているのに、気付きました。
先述の高堂隆は魏の天子、明帝のことを「魏臺」と呼んでいます。その上、肝心の倭人伝でも、
「臺に詣る」
の一句を、「天子の宮殿」に至る、との意味で使用しています。そのような「魏時代の用語」の中で、史官である陳寿が「かりに『ヤマト」であっても、これを『至高の臺字』を用いて表記することは、絶対にありえない。」 ーーそう考えるに至ったのです。
右のような論証経過は、はじめの「邪馬壹国」(『史学雑誌』)以来、『「邪馬台国」はなかった』にも、くりかえし力説し、明記してきました。これに対し、右の松本さんのように、
「最古の版本にあったから、というだけで古田は盲信した」
などと、言い歪めることが許されるのでしょうか。小説家には、そんな「特権」があるのでしょうか。 ーーわたしは信じません。
八
さらに、右の松本さんの一文の文頭で、
「こういうことを考えると、」
と言っておられる件に、目を注がせていただきます。
ここは「II 邪馬台国」の中の「1 神仙的『倭人伝』」の中の、
「邪馬壹と邪馬臺」
という節です。わたしにとって“必見”の個所ですね。
ここで松本さんが縷々吟味を加えられたのは、(α)日本書紀神功紀引用の倭人伝と、いわゆる(β)「最古」の紹興版倭人伝との比較です。
ここには、ささやかな、しかし重要な差異があります。倭国の女王が難升米等を魏の都に遣わした年時です。
(α) 日本書紀 ーー景初三年
(β) 紹興版倭人伝 ーー景初二年
となっています。
これに対して松本さんは(α)が正しく、(β)がまちがっている、といち早く断定します。その理由は二つあげられています。
第一、「げんに岩波文庫版の『魏志倭人伝』には『景初二年』を明帝の年号。景初三年(二三九)の誤。『日本書紀』引用の『魏志』及び『梁書』は三年とする」と注記している。」(四九頁)とあります。
松本さんにとっては「岩波文庫が言っている。」のが、証拠になるのですか。それなら問題の「邪馬壹国」も、
「邪馬臺の誤り」(一九五一年十一月初刷)
を引き、「げんに、岩波文庫にこう書いてある。」と言えば、それで「証拠」になったのではありませんか。
わたしが岩波文庫改訂版(一九八五年)の、
「邪馬台」の誤とするのが定説だったが、ちかごろ邪馬壱(ヤマイ)説もでた。」(四二頁)
の被害をこうむった件、最近書きましたので御参照下さい。(わたしの第一書『「邪馬台国」はなかった』では、“「邪馬壹」はヤマイと訓むべきではない”旨、強調)。
ともあれ、松本さんともあろう方が、「岩波文庫を権威とする」姿勢に立っておられるとは。嘆息をつく他ありませんでした。
九
より、「決定的」だったのは、松本さんの次の一文です。
「『景初二年』が誤りであることは、この年に魏が遼東の公孫氏をほろぼして楽浪・帯方の二郡を接収したのであるから、その戦争のさなかに魏の郡(「都」か ーー古田)の洛陽に朝献させるはずはない。それは戦争がすんで見きわめた翌年でなければならない。これも『三年』が『二年」の誤りという証拠となる。」(五〇頁)
ここから、先述の「そうしてみると、・・・」へつづいているのです。これが第一の「岩波文庫、証拠論」へにつづく、第二の「証拠」、いわば、松本さん「独自の立論」の形なのです。
これを読んで、わたしは驚きました。否、「目をこすり直し」て、何回も読み直したのです。なぜなら、この文面の直後、わたし(古田)批判の核心に移ろうとするのに、何と、私の本(『「邪馬台国」はなかった』)を読まれた形跡が皆無だったからです。
わたしの本の第二章の「II 戦中の使者」は十五頁にわたってこの問題に論証を集中しています。この要点は、
(甲) 景初二年が「戦中遣使」に当るため、不穏当ではないかと、問題提起をしたのは、新井白石の『古史通惑問』である。
(乙) 松下見林が日本書紀によって「二」を「三」に直した(今回の松本テーゼと同じ)。
(丙) 内藤湖南の『卑弥呼考』も、これに同調(梁書を援用する点、先の岩波文庫本の「依拠」したのは、この「内藤論証」である)。
(丁) 白鳥庫吉を承けた橋本増吉も、この「内藤論証」に賛同した。
その結果、
「この『改定』は、邪馬台国研究史上の『常識』となってしまったのである。」(一二四〜五頁)
と、わたしは述べています。その上で、
「この『常識』に疑いをむけよう。」
と発議します。この立場からは解けない、五つの謎がある、と指摘したのです。
(一) 景初二年の項に「太守劉夏、吏を遣はし、将って送りて京都に詣らしむ」とあるのは、不思議。なぜなら、(周)漢以来、倭国側にとって「洛陽へ至る道筋は周知のところ。今さら「道案内」の必要はない。
(二) このときの卑弥呼の使は、難升米と都市牛利の二人。しかしその奉献物は、「男生口四人、女生口六人、斑布二匹二丈」です。「生口六人」は“捕虜”。つまり一行の「補佐の労役人」ですから、実質の「献上物」は、「二匹二丈」の斑布だけです。
第二回以降は、“彪大な奉献物”を送ります。これらの品々に対して、この「景初二年遣使」の奉献物の「貧弱さ」が異常です。
(三) これに対する魏側の“喜び方”も異常。莫大な下賜品です。この両者の“アンバランス”が「?」なのです。
(四) 卑弥呼第一回の奉献の年の十二月、魏の天子から卑弥呼に対する詔勅が出されています。しかし、その「実行」はされず、翌々年(正始元年)の項に書かれています。「?」です。
(五) しかも、その詔勅の支持するところでは、(P)当初の方針と(Q)実際の「実行」の“くいちがい”まで「明記」されています。これも「?」です。
ところが、「景初三年」の「戦後遣使」では解けない、この「五つの謎」が、「景初二年」の「戦中遣使」なら、見事に解ける。それを詳細に論じたのが、この一節なのです。
従来の「戦後遣使」説という、「いわゆる『共同改定』批判」の、重要な論証となっています(その詳細はすでにこの本の、多くの読者、周知のところですから、再録は遠慮します)。
ですから、松本さんが、従来の「戦後遣使」説の“復活”を意図されるなら、まさにわたしの歓迎するところです。そのさいは、
「古田が詳細に展開した、五つの論証はいずれも、まちがっている。これに反し、右の『?』は、いずれも従来の『戦後遣使』の立場で解明できる、古田より、一段と明晰に。」
という論旨が展開されてあれば、年来の松本ファンのわたしにとって「ヤンヤ」の喝采を心から送りたいところです。
しかし、それは皆無です。従来説の「貧弱な筋書き」だけを再録して、それを「岩波文庫の権威」に加える「傍証」と称しておられるのです。読み直していて、悲しくなりました。
小説家には、あるいは「大家」には、批判する、当の相手の主著さえ読まずに「やっつける」特権あり、とされるのでしょうか。わたしが知っていた時期の松本さんとは、まるで「人が変った」ようです。
前にも書いたように、松本さんが原稿を一枚書いたら、次の部屋で待っていた朝日新聞社の記者に渡す。記者はバイクで待っていた青年に渡す。青年は印刷所へ届ける。
わたしなどには「神業かみわざ」めいた作業の中では、
「古田批判の前に、古田の本を確認する」
という、自明のルールも破棄される。そのルール無視を、とりまきの学者も、出版関係者も、一切「御注意申し上げれない」。そういう悲惨な状況が目に浮かびます。
わたしが「松本さんの堕落」と書いたのは、そういう事実です。
十
次のテーマヘとまいります。
松本さんが“独自の自説”として強調されるのは、
「一大率、中国派遣官人」論です。
従来の、これを「卑弥呼側からの派遣官」とする説を否定し、中国(魏)からの派遣官と解されるのです。確かに、“独自”でした。
しかも、この自説に対する学界の反応を終生、気にしておられた様子が、この本の末尾の解説で門脇禎二さんによって証言されています。
「『一大率』は邪馬台国の官ではなく魏の置いた官だとみるところは、松本さんはかなり自信をもっておられたらしい。幾たびか、これについての意見をきかれたことがある。わたくしなどは賛成なのだが、それくらいではなお足らなかったらしい。亡くなられた年であったが年初のある雑誌での対談で、一大率の右の解釈も含めて『私の倭人伝の理解は専門外の者の意見だから、内容とかかわりなく学者が相手にしないんじゃないですか」ときわめて率直におっしゃるので、びっくりしたことがある。」(三一八頁)
しかしこれも、松本さん(及び門脇さんも)の「調査不足」です。
わたしはすでに、
「一大率の探究 ーー『宋書」をめくって」(『邪馬一国への道標』講談社、昭和五十三年刊、角川文庫、昭和五十七年刊)
において、この松本説批判を行なっています。
「ここでは事物の名は『率』です。ですから中国で言う、普通の『率』に比べて、ずっと大きな『率』 ーーこういった感じで使われているのです。少なくとも中国(西晋朝)の読者は、そううけとるはずです。この点から見て、最近時として説かれる“一大率は中国側の設置した官名”という説(松本清張さん、江上波夫さん)には、残念ながら全く成立の余地がないようです。なぜなら、中国側の軍団や官職なら、それを呼ぶ名前(固有名詞)がチャンとあるはずです。だったらズバリそれに従って呼ぶのが中国側の正史として当然です。それを“一つの大きな”などと、物珍しげな呼び方をするいわれなど、全くないからです。」(二五四頁)
「第三国の人間が倭地に来て、偶然中国側の軍団を見た、といった状況ならともかく、ここは中国の天子の命をうけた、帯方郡の太守の輩下たる郡使が見、中国の天子直属の史局の一員たる陳寿が書いているのですから、『それは何物か。正規の名前が分らない。』そんな馬鹿な話は考えてみても全くありえないのです。」(同右)
これ以降、わたしは「五率の道理」としての節を立て、中国における歴代の「率」(門衛を司る)の役目について詳述しました。その最後の結論として、
「女王の都の門衛たる、一つの大きな軍団」
というにある、と述べたのです。
残念ながら、晩年の“お忙しい”松本さんは、この批判を全く知られなかったようです。そして周辺にも、講談社と角川文庫で版を重ねた、この本の「松本批判」を“言上申し上げる”方もおられなかったように見えます。晩年の松本さんは、意外な「情報断絶」の孤島の中に、日夜寸刻の暇なき忙しさの中で生を終えられた。お気の毒です。
十一
このテーマはその後、わたしにとって全く“意想外”な進展を見せました。その要点をのべます。
(その一) 「一大国」は、倭国側の表記である(倉田卓次氏のクレームによる)。
(その二) 倭国側が壱岐島をこの表記で呼んでいた(「天一柱」の表意的表記)。
(その三) 倭人伝で「一大率」と言っているのは、“一大国(壱岐)の軍団の統率者”の意である。
(その四) いわゆる「天孫降臨」の名で“美しく表現された「神話」”の実体は、壱岐・対馬を中心拠点とした海人(あま)族の軍団の女性首長が、稲作の(日本列島中)最盛地帯の唐津湾(菜畑遺跡)から糸島半島(曲田)、そして博多湾岸(板付)への征服軍を派遣した「侵略行動」だった。
(その五) 彼等の海上軍団は、壱岐から北部九州各地へ侵入し、右の各「縄文水田」群の「命脈」をおさえるべき山地に集結した。 ーーこれが福岡県の高祖山連峰である。
(その六) その侵略軍はやがて山の山麓、西側の「伊都国」に常駐した。これが「一大率」である。
(その七) 侵略軍の「被征服者」の国々は、彼等を「畏憚」した。
(その八) 右の実情を、陳寿は(現在 ーー 三世紀の倭国の軍団配置として)正確に記録している。
以上は、わたしが講演等でくりかえしのべたところ、また記録されたところでした。
十二
この問題はさらに、思いがけない進展を見せつつあります。
先にあげた、難升米の次使、都市牛利の「都市」が現存する、日本の姓の一つであることが判明しました。訓みは「といち」です。
博多や太宰府、筑紫野市などに居住されていますが、その「本家」は、長崎県の松浦郡の都市家の方々です。松浦水軍の中心地、黒津(くろづ)に墓地があり、江戸の終り頃までは、屋敷もあったようです。
問題を簡単に言えば、俾(倭人伝では「卑」)弥呼の倭使洛陽派遣の、真の実力者は、この松浦水軍のリーダーたる「都市」(姓に当る)たちにあったのではないか、ということです。
ここからはさらに「難升米」が「なしめ(名)」ではなく、「難(なん、姓)・升米(しめ、名)」という、姓名ではないかという問題が発生します。周礼によれば、「難氏」は、“うらないの名家”です。その一派(中国からの“渡来人”)ではないか、という問題に行き当っているのです。
それはさておき、今御報告したのは、「都市」の松浦水軍です。彼等は職業上、玄界灘の「海域地図と気象配置」などに詳しかったはずです。もちろん、玄界灘の海域は東シナ海の海流につながっています。彼等はこれらの海域航行のベテランです。
さらに(想像をめぐらせれば)、魏軍が遼東半島の公孫淵と戦ったとき、魏軍は海上を東行し、朝鮮半島側に到着し、西側(西の北京〈燕〉側から公孫淵を“挟み撃ち”にしたことが知られていますが、そのさい東シナ海の「海域・風土地図の航行法」を知っていたのは、もしかすれば、松浦水軍の方ではないか。
とすれば、わたしのあげた「倭国側の貧弱な奉献物」に対する、魏側の「莫大な下賜品」のコントラストの「?」も、全く今まで思いもせぬ世界から“解けて”くるのではないか。そういう問題意識です。ここから見えてくるのは、やはり「戦後遣使」ではなく、「戦中遣使」のもつ、リアリティかもしれません。
しかし、わたしは今の段階では「小説」の分野に足を踏み入れることを止めます。
そしてやがてあの世でお会いしたとき、わたしの実証的な到達地点を精しくお話申し上げることを楽しみといたします。
十三
最後のテーマに入らせていただきます。
松本さんはこの本の最末を「III 逃げ水 邪馬台国」としておられます。結局、邪馬台国の中心地は「不明」という結論です。
実は、この結論は「自明」です。この本の最初から“きまって”いた。いわば「約束事」なのです。
松本さんは「通説」に従い、博多湾岸を「奴国」、糸島郡(前原市)を「伊都国」に“当て”られました。
そして伊都国に璧が多く(三雲遺跡の出土は青柳種信の記録したものを入れて計六個か)、奴国は少ない(須玖遺跡の出土は一個)のは、奴国よりも伊都国に重点がおかれかつ長つづきしたことを思わせる。」(一五七頁)
「これから考えると、後漢のころに楽浪郡から金印をもらった奴国よりも当時すでに伊都国が奴国とよばれ、その勢力は東側の地域(「倭人伝」のいう奴国)まで包含していたことを推測させる。その大きな範囲の奴国が三世紀のころに西側に伊都国が成立し、東側に奴国の名前が残ったのではあるまいか。」(一五八頁)
要するに、倭人伝のしめすところでは、
女王国(邪馬壹国) ーー 戸七万
投馬国 ーー 戸五万
奴国戸 ーー 二万
です。この第三位の「奴国」を以て、全日本列島中、特別抜群の「三種の神器」や璧等の出土地である「糸島・博多湾岸一帯」に、先ず定(き)めてしまわれたのですから、それ以外の地で量的にも「三・五倍」、質的にはさらに抜群の中心領域を、「他」に求めようとしても、できるはずはないのです。「三種の神器」はもちろん、璧などが、九州各地はおろか、日本列島全体を見廻しても、この「糸島・博多湾岸」の数倍も出土する可能性など、どこにも見当たりません。
ですから、松本さんは「逃げ水」を追うようにして、この本を結ばなければならないわけです。「福岡県南部」かと、“目見当”を言っておられますが、考古学的出土物が、その“目見当”を埋める見込みは全くありません。そのため、この「逃げ水」といった「文学的表現」そして小説家的発想へと逃げこまれる他はなかったのです。
十四
この本の中で、松本さんの力をこめられたもう一つの対象、それは「吉野ヶ里」問題です。
この点に関しても、大きな「見のがし」が含まれているように思いますが、今は問題のポイントを率直に列記させていただきます。
第一、吉野ヶ里には、「三種の神器」は出ていない。「鏡」を欠いている。従って「倭国の中心」ではない。
第二、逆に「十字剣」や「銅器製造跡」(北端、弥生前期)がしめすように、「倭国以前」の中心拠点の性格をしめす。
第三、けれども、吉野ヶ里に数多く埋められた「甕棺みかかん」は、“倭国側の埋葬儀礼”にもとづいている(「首なし甕棺」も)。
第四、特に、中央甕棺から南側へ二列に並べられた「一キロ甕棺」が、その「向き」において四方、八方、バラバラであること、特徴的である。
第五、吉野ヶ里の中央部にある日吉神社こそ、この遺跡全体の「本来の中心」である。「倭国以前の、出雲系祭神、大山咋おおやまくい命」だ。
第六、右を要するに、本来は「倭国以前」の聖地であった、この地帯に対し、征服者側(倭国の中心。高祖山周辺の五個の「三種の神器」群)が「被征服者側の死者」に対する一大葬礼を行なった、その壮大な痕跡である。
第七、筑後国風土記における「甕依姫」の事蹟がこれに当る。 ーー 一言にして「敵を祭る」立場である。
第八、「四方八方」を向いた「一キロ甕棺」は、それぞれの(敵の)勇士を、各故郷へ“頭を向けて”祭ったもの。倭国側(征服者)からの「志」である。
第九、そのため、「倭国以前」の敵対者も、ようやくこれに“心服”した。
以上です。この「敵を祭る」精神こそ、俾弥呼の宗教の「精髄」です。有名な「大祓の祝詞」の立場の復活です。
同時に、後世、中世の楠正成や現代の乃木希典等にも、生き生きと伝えられた、日本の真の伝統です。
ですが、惜しむらくは、明治以後の「靖国神社」には、この真の伝統が中核において欠落しています(“補足”のみ)。
この点、昭和史に心血をそそがれた松本さんと、夜を徹してゆっくりと話し合いたい。その日を今か今かと待ち望んでいます。
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