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古田武彦
一
待望の大著が出現した。
西谷正『魏志倭人伝の考古学』(学生社、二〇〇九年四月)、全三四九頁。
「1帯方郡、2韓の国々 ーー魏志韓伝の世界、3狗邪韓国、4対馬国、5一支国、6末盧国、7伊都国・斯馬国、8奴国、9不弥国、10投馬国、11邪馬台国「九州」説、12邪馬台国・狗奴国 ーー近畿説」
これが全構成である。
二
著者は一九三八年、大阪府高槻の生まれ。京都大学を出て、現在九州大学名誉教授。九州歴史資料館館長と伊都国歴史博物館名誉館長を兼任する。文字通り、九州の考古学界の重鎮だ。韓国の考古学界とも、交流が深い。
はじめは、氏の論文類の集成かと思ったけれど、そうではなかった。名誉館長を務める福岡県前原市の伊都国歴史博物館において、二〇〇七年度に行なった、名誉館長講座の記録である。
そのため、「論文」のような、立ち入った考察には至っていないものの、反面、自家の考古学の立場、その全貌が分りやすく詳細に説かれている。貴重だ。
三
氏は「邪馬台国、近畿説」論者として著名である。先輩(九州大学の先代教授)の岡崎敬氏の衣鉢を受け継ぎ、一貫してこられた。今は、全九州の考古学界の上に、いわば、“君臨”しておられる。もちろん、御本人は「とんでもない」と否定されるであろうけれど、在野の一研究者のわたしなどから見れば、そうだ。九州各地の教育委員会の学芸員の方々などに接するたびに、それをいつも痛感させられるのである。
四
当然、本書でも、氏の立場は「近畿説」だ。高校生時代から京大大学院時代にも、直接学んだ小林行雄氏の、有名な「同范鏡論」を自分は支持する、と明言している。
京都府南部の椿井(つばい)大塚山古墳出土の三二枚以上の三角縁神獣鏡を“もと”とし、これらの鏡が全国の地方豪族に下賜された、という理論だ。
そして「女王卑弥呼が都したと魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の都は、大和盆地東南部の三輪山のふもとの纏向遺跡が有力候補として浮かび上がってくる」(一六一頁)と結論づけている。
五
本書中、興味深いのは、「11邪馬台国『九州説』」の中の「論証」だ。
まず、氏は「九州各地に邪馬台国の候補地があります」とした上で、「その中の代表的なものは次の四つです」と言い、
(1) 筑後・山門郡説
(2) 筑後・甘木、朝倉説
(3) 筑後・久留米、八女説
(4) 肥前・吉野ヶ里説
(三〇八頁)
をあげ、その「四説」を逐次吟味してゆかれる。もちろん、各地とも、永年の氏御自身また氏の教え子たちの発掘や報告書にもとづくものだから、遺漏はない。
その上で、次のような「断定」を下された。
「私は『山門郡の考古学』という論文の中で、この地域に国があったことは認めようという立場を表明しています。しかし、だからといってここが邪馬台国ということにはならないと、結論でまとめています。これまで見てきたように、邪馬台国九州説にとって有力候補地が四か所ほどあって、その例を、特に山門郡について少し詳しく見てきました。結局のところ、九州各地に国々が生まれつつあったこと、また奴国が九州最大であるとは認めるとしても、それら以上の大国である邪馬台国そのものは見つけ出せない、ということになります。」(三三五頁)
すなわち、私の学説の中枢をなす「邪馬壹国、糸島・博多湾岸説」は、一切「文面」にさえ載せず、この中枢軸を「伊都国」や「早良国(「奴国」に統合、とされる)」や「奴国」とされた。本居宣長以来の「那の津=奴国」説の“継承”であろう。
その「奴国」は、三国志の魏志倭人伝では、「戸、二万」の第三位の国だ。第二位の「投馬国」(戸、五万)より下位(人口)だ。まして、「戸、七万」とされる「女王国」(邪馬壹国、氏の言われる「邪馬台国」)より、はるかに下位(人口)の国である。
しかるに、その「第三位(人口)」の「奴国」にすら、これら四つの
「九州の『邪馬台国』候補地」
は及ばない。したがって、
「すべての『九州の「邪馬台国」候補地』は、考古学的に見て『邪馬台国」ではありえない。」
右が氏の辿り着かれた結論だ。否、小林先生や岡崎先生を“継承”して、最初からの出発点、辿りはじめる前からの「予定調和」ともいうべき「論証」だったのではあるまいか。
氏の立場から見れば、まことに“見事”だ。だが、これが本当に「考古学」そして「学問」の方法だろうか。不遜ながら、わたしには「?」である。
六
なぜなら、右の「論理」の上に立って、氏は次のように「論証」を求められるべきだ。
「自分が邪馬台国の中枢治と“予想”する、大和の纏向遺跡からは、この九州の『奴国」以上の出土物と、その分布が存在するか」
と。
(1) 「三種の神器」(弥生期)については、“吉武高木から須玖岡本、そして平原まで”の五王墓以上のものが出土しているか。
(2) 「倭国の絹」が、弥生前・中・後期にわたって、弥生期の大和に出土しているか。
(3) 「中国の錦」が出土しているか。
(4) 倭人伝中に、女王を守衛する、とされている「矛」が大量に集中して出土しているか。
(5) 鉄鏃や鉄器類の“最大の出土中心”が大和となっているか。
(6) ガラス製勾玉とされる「青大句珠」が大和から出土しているか。
(7) 魏の明帝が女王に与えたとされる「金八両」に当る出土物があるか(別述)。
(8) 志賀島出土とされた金印に匹敵すべき出土が大和にあったか。
いずれも、「否」だ。“ノウ”なのである。これらに対して、
「やがて出てくることを、わたしは期待する。」
というのでは、これこそ考古学上の「学問としての禁じ手」ではないか。もし、この「禁じ手」が氏に許されるなら、当然氏の言われる「九州の四つの候補地」の論者にも、同じく“許され”なければならない。
当然だ。
とすれば、やはり、折角の氏の「見事な論証」もまた、「成立不可能」の烙印を学問的に押されざるをえないのである。
なぜ、氏は率直に次のように言われないのであろうか。
「九州はもとより、全日本列島を見渡してみても、仔細に検証してみても、『邪馬台国』中枢の資格をもつところ、それは今まで『奴国』と考えられてきた領域以外にはないことが判明した。」
と。これこそ、実直な、氏のお人柄にふさわしい学問的「結論」のように、わたしには思われる。
七
わたしは提案する。
氏が名誉教授となっておられる、九州大学の考古学関係の一研究室、あるいは一会議室で、わたしとの「学問的討論」の数日(あるいは一週間)をもたれることを。
国立大学は、もとより国民の税金による。九州大学も、その一つだ。国民は「大学では、学問が行なわれている」、「学問には、学問の自由がある」、そう信じて毎年、毎月、真面目に税金を納めているのである。
「反対意見は“しめ出して”相手にしなくていい」
これを「学問の自由」とは呼ばない。西欧の学者に問うてみれば、「一笑に付される」であろう。当然、異なる立場、別の意見と正面から相対してこその「学問の自由」なのである。知れ切ったことだ。
昨年(二〇〇八年)、わたしが伊都国歴史資料館を偶然訪れたとき、入口の事務室の方から、わたし(古田)の名前を伝えられたのであろう、久しぶりにあの「原田大六氏ゆかりの超大型鏡、多くのいわゆる『漢式鏡』」などに見入っているわたしに「声」をかけてこられた。そして丁寧に現況の御説明をいただいたのである。
その上、かなりの時間、ひとりで「見つめ抜いていた」わたしが、やがて館を去ろうとすると、驚いたことに、館員の方々と共に、扉の外まで、わたしを見送り、丁重に別れの挨拶をして下さった。お人柄に恐縮した。
しかし、今回の本書には、わたしの名前も、わたしの学説も、一切“ふれられ”てさえいない。末尾の索引にも、「九州『邪馬台国」説」の一代表のように、安本美典氏が出現している。
他は、よい。しかし、わたし自身に対する、あまりにも丁重なおもてなしぶりと、学問上の集大成ともいうべき、本書の示した姿、それこそ、この“見事”なまでの背反は、これをいかに解したらいいのであろうか。わたしには不明だ。
八
かつて原田大六さんは、わたしに提案された。
「にぎり飯と番茶をたっぷり用意して、幾日でも、徹底して議論したい。」
その相手は、松本清張氏とわたしとの三人だった。わたしは即座に快諾したけれど、不幸にして二人とも鬼籍に入られ、実現しなかった(本誌第五号「敵祭」第五回参照)。
そこで新たに提案する。
氏が名誉館長をつとめられる、この伊都国歴史資料館の一室で、この原田大六氏の故志を実現されんことを。たとえば、
(A)考古学編年をめぐる「見直し」は必要ないか。
(いわゆる「縄文水田」の時期につき、数百年さかのぼる学説〈千葉、国立歴史民俗博物館〉の出現した今、日本中の古代史関係者が「注視」しているテーマだ)
(B)三国志魏志倭人伝、また本誌収録の清水論文にも詳細に「数値化」された「短里」問題について。
氏の期待される「箸墓」のような「巨大古墳」が、はたして「径百余歩」と表現しうるか。中国では、「歩」は「里」の数学上の下部単位だ。「短里」は「短歩」を背景にした数値表現の単位なのである。これは「イデオロギー」などの問題ではない。一〇〇パーセント「学問上の基礎テーマ」だ。しかるに、今までの“数多くのシンポジウム”では、ことごとくこのテーマの「掘り下げ」を回避してきた。奇怪だ。
別に「にぎり飯と番茶」を「コンビニ弁当と緑茶」に変えてもらっても、原田さんは「クレーム」をつけないであろう。彼の立像が玄関前にそそり立つ、そして彼ゆかりの部屋を背面にもつ、そして何よりも、私より十二歳お若い、西谷さんが今も名誉館長をつとめておられる当館で、この「数日間にわたる、自由討論」が行なわれるならば、原田さんは莞爾として呵々大笑し、喜んで下さるのではあるまいか。わたしはそう信ずる。
九
重大な「蛇足」を付す。
わたしがかつて、太宰府近くの長沼賢海さんのお宅にうかがったとき、叱責された。
「なぜ、邪馬台国問題について、関係者が集まり、幾回でもかけて徹底して討論しないのか」
と。わたしは、『親鸞 ーー人と思想』(清水書院新書)において、明治の史学雑誌で八回にもわたる親鸞論を書かれた長沼氏を、「明治の大家」と信じ、すでに“今は亡き方”として追慕の一文を書いていた。田村圓澄さんのお知らせの葉書で知り、その日のその夜、汽車に乗って、京都から九州の長沼さんのお宅に「おわび」にかけつけたのだった。しかし、長沼さんはわたしの「おわび」には一顧だにもせず、先述の御叱責をいただいたのである。
不審に思いつつ、あとで考えてみると、そのときの半年前(昭和四四年九月、わたしは四十三歳)、史学雑誌に掲載された、わたしの論文「邪馬壹国」を読み、その「当人」と知っておられたためだった。そして
「志賀島の金印について“本物か、にせ物か”の意見があったので、学者や書家や印鑑の技術者まで来てもらって、皆で徹底的に討論した。」
と。だから
「なぜ、今の若い者(もん)の、君たちがそれをやらんか。」
との御叱責であった。それが九州大学の名誉ある伝統だ、とおっしゃるのである。
九州大学の名誉教授の西谷さんの、とられるべき道は他にない。わたしはそう思う。
ことに、岡崎敬さんの晩年、博多の喫茶店でお会いし、金印について、そして魏志倭人伝と「各地域別の実情」との関係について、縷々、長時間御説明いただいたのがなつかしい。本書を拝読する間、いつも、あのときの岡崎さんの声が、今も“ダブって”聞えてきて、とてもうれしかった。
西谷さんの御英断に期待する。
二〇〇九、五月一日、八十二歳記了
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