ミネルヴァ日本評伝選 『俾弥呼ひみか』(目次と関連書籍) へ
古田武彦
一
すぐれた一篇をえた。清水淹氏の「短里」問題に関する論文である(『なかった』本号掲載)。隋書、新・旧唐書などの東夷伝中の「全里程記事」を計算し、そのほとんどが「長里」ではなく、「短里」で書かれていることを実証された。
(1) すべての里数値を計算する。
(2) 「短里」(七八m)「長里」(四三五〜五六〇m)(角川漢和中辞典により、五六〇mを採用)
の両者による計算のすべてを表示されたのである。その結果、瞠目すべき成果をえられた。
(1)三国志のみならず、後漢書や隋書、旧唐書、新唐書まで、東夷伝のほとんどは、「長里」ではなく、「短里」で書かれている。
(2)新・旧唐書の日本伝に「妄夸方数千里」という評語があり、中国(唐)側は「長里の目」をもっていて、倭国・日本側の「短里表記」(「方数千里」)を理解した。ために。実際の「三十六倍」もの“巨大面積”をもつ、と日本側が“主張”した。そのように「誤解」したもの、と見なされるのである。
右の評語は著名であり、各日本史家がこぞって引用するところだ。だが、右のような見地(三十六倍もの「誤解」)が背景にあった、とは考えられていなかったのである。
(3)清水氏は、日本書紀についても、そこに出現する里程記事が、二例ともすべて「短里」であることに、注意された。
二
清水氏の、もう一つの功績、それは旧唐書の東夷伝等に出現する「京師」の概念が、「京都」という概念(洛陽や長安)とは異なり、「中華領域(中国全体)」を示す言葉であることを「発見」された点だ。そう考えなければ、「計算結果」が理解できない、と主張されている。
これは、達見だ。たしかに、旧唐書の西域伝では、
「焉耆国は京師の西、四千三百里に在り。」
というように、「京師」という表記がここでも「里程表示」の原点に使われている。しかし、その反面、吐蕃伝(上)では、
「吐蕃は長安の西、八千里に在り。本もと、漢の西羌*の地なり。」
というように、ここでは「京師」ではなく、「長安」という地名が「里程表記」の原点に使用されている。明らかに、「京師」と「長安」とは、別概念なのである。
羌*は、羌の下に厶。JIS第3水準ユニコード7F97
三
諸橋の大漢和辞典では、この「京師けいし」に対して
「天子の都。京は大、師は衆。大衆の居る所。京都。京輦。京華。」
と記している。通例の観念だ。
京師とは何ぞや。天子之居、必ず衆の大なるを以て之を言う。(公羊、桓、九)
といった例があげられている。
しかし、その反面、先述のように旧唐書ではこの「京師」と「長安」を区別して、使用している。とすれば、今回、清水氏が(計算の結果)到達されたように、東夷伝の「京師」が、「長安」や「洛陽」という「一点」を指すのではなく、唐の直接支配する“中心領域”全体を以て「夷蛮の地帯」の“拡がり”という「外周部」と区別して「京師」と呼んでいる。その可能性がある。いわゆる「中華の地」の意義である。
四
もちろん、これは研究の「出発点」だ。「帰着点」ではない。たとえば、旧唐書中の「すべての京師の用例」を抜き出して検証する。その上、「すべての里程記事」を取り出して検査する。そういった、極めて単純な、しかしかなりの「時間」を要する作業が、わたしたちを待っているのである。
けれども、科学とは、学問とは、そういうものなのではあるまいか。あのキュリー夫人が彪大な鉱石の中から営々と「ラジウム」の微量の存在を求めて彼女の朝夕を注ぎ尽くしたように。恩師であり、夫となったピエールの協力のもとで。近代文明は、彼女たちの、魂をこめた“作業”の上に成り立っている。
五
若干の注記を行ないたい。
(1) 旧唐書の倭国伝の冒頭に
「倭国は、古いにしえの倭奴国なり。京師を去る、一万四千里。」
この「一万四千里」が、例の三国志の魏志倭人伝の「郡より女王国に至る、万二千余里。」と“酷似”した数値である点に、清水氏は注目された。当然だ。
そのため、この旧唐書倭国伝の「一万四千里」もまた、「短里」ではないか、と“筋の通った”考察を行なわれたのである。
そのため、各種の計算を行われたのであるが、この点、わたしの理解をしめそう。
(その一)ここの「京師」は“中華の地”であり、遼東半島の近辺までを指している(清水氏の到達点。わたし自身も、はじめはこれを「長安」か「洛陽」の意かと“疑って”いた。“あやまり”だ)。
(その二)この旧唐書では
(A)高句麗の南北二千里。
(「東西三千一百里、南北二千里」と記せられている。〈高句麗伝〉)
(B)百済国伝では、白村江の戦が叙述され、例の
「白江之口に於て、四戦皆捷かつ。」
の一句が記されている。
(C )そして新羅国伝では
「是れに自より、新羅漸ようやく高麗・百済之地を有す。」
とされている。すなわち
(イ) 「京師」(中華の地)は「遼東半島まで」である。
(ロ) 「新羅国」は
(A)旧、高句麗領域
と
(B )旧、百済領域をふくんでいる。
(ハ) 一方、三国志の魏志倭人伝の、例の「万二千余里」は“帯方郡から女王国まで”の総里程であるから、右の(B )の「百済領域」は(帯方郡として)含んでいるものの、それ以北の「楽浪郡領域」(のちの「高句麗」)はふくんでいない。それで、
(α)高句麗領域の「二千里」
(β)「帯方郡から女王国まで」の「一万二千里」
の双方が「合計」されて、今問題の、旧唐書倭国伝の「一万四千里」が成立したものと思われるのである。当然、清水氏も考えられたとおり(α)(β)共に「短里」なのである。
この点、清水氏も「多元」の「(古田著作)読書会」(昨年の秋から、連続しておられる)で、すでに「予想」された認識のようだ(清水氏による)。
以上、学界にも周知の、この「一万四千里」問題に対する、「一定の解明」がここにはじめて成立したのであった。
六
問題は、次の一点だ。
以上のテーマ、自明の「?」が、日本の歴史学界でも、中国の歴史学界でも、全く「解明した」あるいは「解明しようとした」形跡がないことである。 ーーなぜか。
その理由は、一つ。「短里」の概念がないからだ。六倍もの「長里」一点ばりでは、三国志も、後漢書も、隋書から後漢書・新唐書まで、いずれも「処理」できるはずはない。面積ともなれば、「三十六倍」もの巨大領域に“軒並み”化(ば)けてしまうからだ。そのため、「ノー・タッチ」の、“一手”しか、なかったのではあるまいか。
けれども、周知のように、わたしとわたしの研究を受け継ぐ「民間の研究者」の中では、「短里」問題は、あまりにも著名なテーマとなってきた。昭和四十六年(一九七一)出版の『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社刊)以来、角川文庫や朝日文庫をふくめ、幸いにも、数多くの読者を持ってきたからである。
にもかかわらず、日本の学界は全くこれに「風馬牛」をきめこんだ。一切、学問の対象、討議の対象として、各メディア主催の公的シンポジウムにおいても一切「論じ」られない。それを「公然たる遵守(じゅんしゅ)事項」としてきたからである。
一方、中国の学界もまた、同等だった。たとえば、三国志の注解本を、わたしは中国へ行くたびに求めた。買い“漁(あさ)った”時期もあるけれど、その東夷伝と倭人伝の項に、この「問題提起」を見たことがなかった。それは、中国の学界の「学的水準」の問題だ。
だが、日本の学界の場合、国公立大学や私立大学の研究者は、わたしの「短里」説が実在していることは、十二分に承知していながら、これを一切「学問討議」の対象から“カット”しつづけてきた。「学問の自由」とは、「自由に言わせたまま、相手にしない」と言う意味なのだろうか。それが本来の「自由」の意義として「西欧近代社会」の中で通用する、とでも思っているのだろうか。
「日本の学界に学問はなかった」。
後世の研究者から、このように批評されたとき、彼等はいかに答えるのであろうか。
ミネルヴァ日本評伝選 『俾弥呼ひみか』(目次と関連書籍) へ
ホームページ へ