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お断り:当会ホームページに掲載されている合田洋一氏の論説に対する史料批判は、これらの本で確認してください。
合田洋一
あとがきは、下にあります。
《目次》
i 緒 言 古田武彦
003 序
009 1 通説と異説
013 2 六国史の「渡嶋」と「粛慎」史料
022 3 エミシとエゾ
032 4 渡嶋がなぜ北海道ではないのか
(1) 六国史の「蝦夷」には「エゾ」の読みはない
(2) 六国史の記事はアイヌ社会から読み解けるか
(3) 大いなる不思議「貢馬千疋」
039 休題 -- 閑話
040 5 北海道が島であるとの認識はあったか
(1) 大陸に連なる
(2) 島の初見
045 6 渡嶋の語源
048 7 渡嶋東北説について
(1) 東北地方総称説
(2) その他の東北説
059 1 地獄と天国の地「恐山・仏ヶ浦」
068 2 「津軽」と「宇曽利・糠部」の対立の構図
070 3 南部馬と「大筏伝承」
078 4 つぼの石碑いしぶみ「日本中央」
084 1 「渡」地名の検索
099 2 「渡」地名の検証
105 3 チボケ渡・ヌカリ渡
(1) チボケ渡
(2) ヌカリ渡
110 4 「ハタ」訓地名
113 5 気になる地名
115 6 「渡」地名が九州に多いのはなぜか
118 7 宇曽利・糠部地方は「渡文明」の地
122 1 「後方羊蹄」
125 2 「有間浜」
128 3 「弊賂弁嶋」
134 4 「大河」
付記 -- 『東日流外三郡誌』について
144 1 誤認の粛慎
148 2 阿倍比羅夫の粛慎征伐の真実
-- 『日本書紀』の「粛慎国」とは北海道である
157 むすび
165 序 地名には動かしがたい真実がある
166 1 「下・上」順記載の地名考察
173 2 中国・九州地方の「上・下」順記載の地名考察
179 3 近畿以東の「上・下」順記載の地名考察
193 4 「上・下」「前・後」の国名
199 付記 -- 新しい「前後」の国名
200 5 国名ではないが「前・後」の付いた地名
202 6 「上・下」「前・後」地名が語ること
207 序 蝦夷地の特殊性に着目
211 1 道南十二の館とコシャマインの乱
216 2 「蝦夷管領」安東氏と蝦夷地
219 3 蝦夷地における下克上「島盗り物語」
221 4 「上之国」の地名命名時期とその由来
223 付記 -- 『東日流外三郡誌』と蝦夷地
第 I 部「渡嶋と粛愼」『なかった真実の歴史学』第二号〜五号(ミネルヴァ書房、2006年5月〜2009年7月)に掲載の「渡嶋と粛愼渡嶋は北海道ではない」。
第II部第一章「『倭名類聚抄』にみる「上下」「前後」」『古田史学論集 第九集 古代に真実を求めて』(明石書店、2006年)。
第II部第二章「北涯の地の「上下」」『古田史学論集第 十集 古代に真実を求めて』(明石書店、2007年)。
補章「「江差追分」モンコル源流説の一考察」書き下ろし。
シリーズ<古代史の探究>10
地名が解き明かす古代日本
-- 錯覚された北海道・東北
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2012年10月20日 初版第1刷発行
著 者 合 田 洋 一
発行者 杉 田 敬 三
印刷社 江 戸 宏 介
発行所 株式会社 ミネルヴァ書房
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© 合田洋一, 2012 共同印刷工業・共同製本
ISBN978-4-623-05683-0
Printed in Japan
待望の一書である。
青年時代以来、著者の合田氏が一貫して注目し、諸説を調査し、独自の創見を求めつづけた、その白眉ともいうべきもの、その結晶が本書である。この壮挙の成立を喜びたい。
著者は北海道の江差に生れた。そして生涯の拠点を愛媛県の松山に定め、瀬戸内海の一端から日本列島の全体をうかがう視点に立脚した。それは、屈強の「研究の磁場」であった。なぜなら、この狭い列島は、東西南北、大陸や太洋の各領域から“集つどいきたり”流入した人々の「合流の場」となっていたからである。その痕跡は「地名」である。各時代、各地域の人々は、それぞれの言語をもち、各自の「地名」を用いて生活していた。
その「地名」こそ、歴史の証人である。その証言を、一つひとつ緻密に取り上げ、著者は長年にわたり、執拗に追跡した。その成果が本書である。
二
著者の手法の出発点は、従来説の確認である。特定の研究書はもとより、「蝦夷」などにふれた概説書の記載をも丹念に取り上げ、その立説の根拠、その視点に対する「再認識」につとめている。これは、やがて展開すべき自家の立論が“独りよがり”に陥らぬための、周到な用意であろう。
けれども、この当然の「用意」を欠く研究書や概説書の少なくないこと、著者の引用と紹介によって、改めて驚かされる。
たとえば「蝦夷」という二文字は、“はるかなるえびす”の意であるから、その視野の原点には、有名な「東夷」という概念の存在すること、当然である。
その「東夷」とは、三世紀の三国志に「東夷伝序文」(実は、三国志全体の序文。古田「俾弥呼」日本評伝選、参照)があるように、中国側を原点とする概念である。
では、その「東夷」とは日本列島中のいずこを指す言葉か。「蝦夷」を論ずるには、不可欠の道筋だ。しかし、その道筋の“ありよう”の探究を「回避」したまま、従来の各研究者の「蝦夷」論は行われてきたのだ。信じられぬ「杜撰ずさんさ」だといったら、はたして言いすぎだろうか。
このような、従来説の「不安定さ」が、今回の著書の、冷静な紹介によって、逆に浮かびあがっているのに驚嘆せざるをえない。
著者が、わたし(古田)の「邪馬壹国」説や「九州王朝」説に対して強い関心をもたれたこと、決して偶然ではなかったのである。
三
肝心の、著者の「方法」を見よう。
六国史の「渡島」という二文字に対し、この一語を、日本列島内の某地点(例えば北海道の一角)に漫然と“当てる”前に、まず「渡り」という日本語の用いられた地名を一つひとつ拾い上げ、その「意義」を求める。さらにこの日本語の用いられた地点の分布図を作る。それが著者の探究にとっての「基礎作業」なのである。研究者として、当然の作業だ。
だが、従来の「研究書」や「概説書」においては、このような「基礎作業」なしに“早くも”その著者の「結論」(例えば「北海道の一角」を指す、といった見解)が述べられていたことに、驚かざるをえない。
その作業を着々と、著者は実行したのである。その成果が本書には豊富にもりこまれている。壮観である。
四
著者の探究の独自性は、本書第II部の「「上下」「前後」の地名考 -- 地名にみる多元的古代の証明」にも、よく表現されている。
日本列島の地名にこのような「上・下」「前・後」といった表記が存在することは、周知の事実ではあるけれど、その表記こそ、その地名の成立時点の「歴史認識」のありかたを示している。それは当然の道理だ。
だが、日本列島各地の地名の中の「上・下」や「前・後」は、すべて「同一中心」を原点としたものではない。では、それぞれの地名成立時における「中心」はどこか。
このような、平易、かつ当然の「疑問」に対し、従来の研究者は十分に、あるいは“手厚く”答えることがなかった。
著者は、敢然と、この疑問に対して挑戦したのである。これも、壮挙という他はない。
五
九州には壱岐の島がある。対馬と並んで、対馬海流上の島々の一つだ。その島に訪れた人は気づくであろう。「上る」「下る」といった言葉が、日常的に用いられている。対馬海流の方向、西から東へ、それが「下る」であり、東から西へ、が「上る」だ。海流の「向き」がこの地理的動詞を決定しているのである。
この点、古事記にも、同じ用法がある。上巻の大国主神の節の「6、須勢理毘売の嫉妬」の段に、
「出雲より倭国に上り坐さむとして」(岩波、日本古典文学大系、一〇三ぺージ)
とある。「倭国」は「チクシのくに」であり、ここでは大国主神は「出雲から胸形の沖津宮へ行き、多紀理毘売命に会う、という一段だから、この「上る」は、先の壱岐島の場合と同じく、対馬海流の「向き」をもとにした「上る」の用法である。
したがってこの「倭国」は「チクシのくに」であり、あの後漢の光武帝の金印(いわゆる「志賀島出土」とされたもの)の文字「委(=倭)」が「ヤマト」ではなく、「チクシ」を指すのと同様だ。本来の用法である。
本居宣長は『古事記伝』において「倭国」を「ヤマトのくに」と“訓み”、「後世、天皇が大和におられるようになったから。」と解説した。「出雲から大和へ」では、道筋が複雑で、こんな「短い句」で“説明”などできるはずがない。
しかし宣長は、天井裏の書斎にこもって思案しつづけた、偉大な先人だ。彼を責めるのは、酷に過ぎよう。問題は、明治以降の研究者や学者達だ。「天皇家中心の一元史観」という“政治のわく”の中にとじこもって、普遍的な立場からの学問的再検証を怠ってきたのである。
著者は、第一歩の原点にもどり、「失われていた地名研究」への道を切り開こうとしている。真に壮挙である。
六
明治維新以降の「天皇家中心学派」は、教科書や研究書を“占領”しただけではない。当然ながら、新聞やテレビや各種メディアも、これに追随してきた。
例えば、あの有名な「名文句」の「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」は、初唐、七世紀前半成立の隋書にだけ出ている。古事記や日本書紀にはない。
ない、だけではない。右の「名文句」の発言者は多利思北孤(タリシホコ)という男性だ。「難弥(キミ)」という妻をもつ。
一方、同時代の近畿(大和)の君主は、女性の推古天皇である。
だが、この「男性」と「女性」を「同一人」として、無理矢理“結びつけ”てきた。明治以降の教科書や学界の「すべて」の“権威者”たちの“仕わざ”だ。
だから、新聞やテレビや各種メディアそろって、この「奇想天外」の虚像を際限なく、くりかえしている。それが現代である。
本書の末尾に付せられた「ひとつの意見書」は、平成二四年二月一日、NHK放送センターの担当者に向けられた、「裂帛の名文」といえよう。
後代の人々が「あの時代(昭和・平成)の人々は、なぜこれほどの背理の“報道”に対して、黙って耐えていたのか。」と本質的な疑問を投げかけるとき、この二十一世紀初頭にも、「人問」はいた。気骨をもつ、頭脳は存在した。その一事を証明する一文となっている。
NHKや他のメディアの人々が「再び」無視せぬことを祈りたい。
本書によって、現代の日本列島は稀有の財産をえたこと、まちがいない。著者の壮挙に、無限の拍手を送りたい。
二〇一二年八月六日
私は今年で七十一歳になった。還暦を迎えてから歴史研究に没頭するようになったその想いをここで吐露することをお許しいただきたい。
はじめに、私が小学校に入る前から歴史に触れるようになったことをお話ししたいと思う。
そのきっかけを思い起こすと、それは厳格で怖い存在であった祖父・喜三郎の影響によるのではなかったか、と。夕食が終わると、囲炉裏(いろり)の横に正座させられ、着物姿で居住まいを正し、横座に座った祖父から、自伝や我が家の歴史を教わるのである。それもキセルできざみ煙草をふかしながら始まった。私が少しでも膝を崩すと、そのキセルが膝に飛んでくるのである。そのせいか、いやが上にも歴史に興味を持つようになった。我が家の土蔵にあった祖父や父の歴史の教科書を引っ張り出して読んだ記憶がある。そして、祖父が著した「家系と自伝」や先祖代々伝わる「過去帳」などから系図作成の真似事を始めたのが、小学校六年の時であった。
ところで、“道産子どさんこ”である私は、高校生のころ北海道の郷土史に興味を持つようになった。そして、明治大學では我が国の中世史を専攻したのであるが、その間北海道の歴史を勉強して、卒業論文『蝦夷地に於ける戦国時代』を書いた。その第一章が「渡島わたりしま と 粛慎考みしはせこう」として、今回上梓本の一番のテーマである、“北海道の夜明け”と位置づけられていた「渡嶋」について書いたのである。
「渡嶋は北海道ではない。宇曽利(うそり 下北半島)・糠部ぬかのぶ地方である。」と。
しかし、今に思えばまだまだ解らないことが一杯あった。それでも、いつかはこれを世に出したいという想いだけをずっと持ち続けていたのである。それに至るも、私もご多分にもれず、当時は団塊の世代のサラリーマンであったので、仕事は多忙を極め、研究を進展させることなどは想いもよらなかったことにもよる。
ところが、還暦を迎える前年の十月に、歴史好きの母方の叔父・小倉晴夫氏から一冊の本をいただいた。それは『「邪馬台国」はなかった』、“言わずと知れた”古田武彦先生の名著である。これを見て、びっくり仰天、“目から鱗が落ちた”のである。そして、私の心奥に潜んでいた歴史への想いを、激しく呼び起こしてくれたのである。それ以来、大げさなようであるが、自営業の仕事もそっちのけ、古田先生の著作を貪り読んだあげく、歯車が狂ったように古代史研究に傾斜していった。先生に巡り会って、私の人生もすっかり変わってしまったのである。それも“たった一冊の本”からであった。
そして、「多元史観」「九州王朝論」をなにがしか理解した時、また『東日流外三郡誌つがるそとさんぐんし』に巡り会ったことから、かつての「渡嶋」研究で曖昧模糊として解らなかったことなどが眼前に明確に現れてきたのである。ただし、本筋は全く変わらなかった。
その後、光栄にも古田先生直接編集の『なかった -- 真実の歴史学』(ミネルウァ書房、2006年5月〜2009年7月)の第二号〜五号までに「渡嶋と粛愼 -- 渡嶋は北海道ではない」として連載させていただいた。それを今回ミネルヴァ書房様のご厚意により、これを一括して収録し、他の拙論を含めて『地名が解き明かす古代日本』として、非才を顧みず上梓できることになったこと、望外の慶びである。永年の想いを諸兄のご高覧に供し、ご批判を賜りたい。
私にとって、本書は四冊目の著作です(古い順から『国生み神話の伊予之二名洲考いよのふたなのくにこう』・『聖徳太子の虚像 -- 道後来湯説の真実』『新説伊予の古代』)。今までの三冊は松山市に住むようになってのち、愛媛の郷土史に対して問題意識を持ったことから書き著したものでした。
一方、今回の著作は、巻頭でも述べましたように、第I部の「渡嶋と粛愼」は、学生の頃からの夢が実現したものであり、私の人生にとって集大成の論稿です。それも自らの足で各地を踏破して論証を積み上げたものだけに、感慨もひとしおです。
第II部第一章の「『倭名類聚抄』にみる『上・下』『前・後』」は、日本全国が対象であるので、残念ながら全ての地を実地検証したわけではなく、各地の地誌や辞典などから考察した机上論です。ですが、『倭名類聚抄』の記載の仕方に“ハテナ”と思って考察した結果、それがまさしく「多元史観」に合致して、「地名にみる多元的古代の証明」になったこと、これも嬉しい限りでした。
第二章の「北涯の地の『上・下』」と、補章「『江差追分』モンゴル源流説の一考察」は、私の生まれ育った故郷の歴史を対象としたものであるということにおいて、これも感慨深いものです。
本当に人生は解らないもので、巻頭で述べました一冊の本(『「邪馬台国」はなかった』)を手にしたことにより、このような次第になったこと、何という縁でしょうか。私にとっての最高の巡り合わせに感謝する次第です。
2012年8月7日
合田洋一
『葬られた驚愕の古代史 -- 越智国に“九州王朝の首都”紫宸殿ありや』へ
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