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よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞 角川選書

第四章 幻の筑紫舞 2

古田武彦

   ※
 このような経験ののち、わたしは筑前の現地における、文字通りの「筑紫舞」に出会う喜びをえた。
 昨年(昭和五十六年)四月中旬、博多での講演のあと、熊本の菊池(きくち)氏の系流たることを誇りとされる菊池兵吾さんと“九州の神社なら、何でも”といわれる百嶋由一郎さんに導かれて、博多から糸島の神社を廻ったときである。こちらにはまた、舞の絵馬が多かった。壱岐神社(姪の浜めいのはま)や細石(さざれいし)神社(糸島)や高祖(たかす)神社(糸島)など、いずれもかつて何回か足を運んで、いわば“なじみ”深い神社である。これらの神社の拝殿には、いずれも絵馬がかけられてあり、その中にはきまったように舞の絵馬があった。筑紫における、神前の舞の伝統がしのばれるものであった。中でも細石神社、これは例の三雲遺跡、井原遺跡を裏手にした、注目すべきいわれある神社、原田大六さんの『実在した神話』(学生社)にも登場する。
 ここにも「翁の舞」の絵馬があった。一人の翁が舞うている。足は、ルソソ足のように、一種屈曲した、あの足癖をしめしているかのようである。光寿斉さん伝来の「翁の舞」と同じかどうかは分らぬものの、“ここにもまた、「翁の舞」あり”の感をいだかせられた。
 最大の衝撃は、すでに博多から糸島に入る、その入口で出会っていた。今宿に近いところ、小高い山地の上から神楽のような太鼓の音が聞えてきた。運転する百嶋さんに車を止めていただいて、登ってみた。熊野(くまの)神社、よくある名前である。一人の老人がいて、「今日(四月十二日)はお祭の日で、午后から神楽がある」といわれる。「どんな神楽ですか」というと、「世話役の人が下の公民館にいるから、そこで聞いて下さい」とのこと、降りてみると、横浜公民館とあり、中に世話役の人人が忙しくしておられた。神楽のことをお聞きすると、「これです」と出された、何枚かの綴(と)じ合わされたコピー。その表紙には、何と「筑紫舞覚書」と、黒々と表題が書かれているではないか。一瞬、息を飲んだ。
 「カメラに撮らせていただけますか」。わたしの血相は変っていただろう。前々から西日本新聞社の学芸部の方に何回も何回も念押しして、「いや、今、こちらには『筑紫舞』などというものは伝わっていません。それを名乗っているものは、戦後新しい流派を立てた人のものだけです。戦前からのものは全くありません」と、くどいほど念押し返されていたところだったのであるから。
 しかも、この神社でも、その神楽をやるのは、六十年ぶりくらいだというのである。先ほど山頂で会った老人が“説明に窮(きゅう)された”のも、無理はなかった。その千載一遇のチャンスに、わたしはめぐりあったのである。偶然の神に感謝をささげないわけにはいかなかった。
 正午頃からはじまって三〜四時間つづいた神楽を見終って、わたしは興奮し、そして堪能(たんのう)した。「神供じんぐう」「高所こうしよ」「天神てんじん」「大幣おおぶさ」「御笹みざさ」「久米の舞」「両刀りようとう」「磐戸いわと」「同上」「猿舞」「猿」「同上」「問答もんどう」というような演目で演じられる数々の神楽には、たしかに“筑紫くぐつの舞”と共通する、幾多の要素が流れていた。
 たとえば、楽器も、光寿斉さんからお聞きした「洞窟の舞」と大同小異の観だったが、それよりも“楽人の数が減ったな”と思うと、舞い手の数がふえている。舞い手がへると、楽人がふえる。この相関関係の流動は、光寿斉さんからお聞きした通りだった。“「筑紫くぐつの舞」は、天の岩屋の前での天のうずめの命たちの舞に淵源(えんげん)する”というのが、菊邑検校が若き光寿斉さんに与えた“自己解説”だったが、ここでも重要な演目に「磐戸」の段があった。その中に登場する天のうずめの命の仕草は、舞い手は皆男たちのはずなのに、何か色っぽく、いわばエロチシズムの系列の芸能だった。これも、あの「洞窟の舞(十三人立)」における「乙おと」の仕草と共通する、芸の伝統に属するのではないだろうか。
 反面、ちがいもある。あの宮廷舞楽めいた「翁の舞」が演目になかったことはもとより、演目の一つ一っが“里神楽”風であって、しばしば幽遠の趣さえ秘める“筑紫くぐつの舞”とは異質の芸を感じさせた。
 また“天孫降臨”を語る演目「猿舞」「猿」の中に、一見明白に「近世」風の“仕立て”ながら、その中に、実は「記・紀以前」とも見なすべき原要素をふくんでいたことについては、後述する。
 またここでは舞楽面が使われている。しかし“筑紫くぐつの舞”では、面を使わない。芸事の好きだった、光寿斉さんのお父さん(山本十三氏)が、「『翁の舞』の面を作りましょう。一〜二か月もあったら、出来ますよ」としきりにすすめられたのに対し、菊邑検校は首を横に振り、「いりません。わたしどもの舞では、子細あって、面は使わないこととなっています」といって、承知しなかった、という。
 このように共通な点と、異質な点があり、共に名乗る筑紫舞、わたしはこれに対し、「同根異系」という判断をえたのであった。そのような“異系”ながら、もとは疑うべくもなく“同根”の筑紫舞を現地に見出したこと、それは、いい知れぬ、わたしのひそかな喜びであった。
 さらにわたしを喜ばせたもの、それはそのあと現われた。その神楽の演じ手たちは、その熊野神社の人たちではなかった。福岡市内の(その熊野神社も、今は行政上、福岡市内に入っているけれど)田島八幡の社中の方々だった。
 “念のため”と思って、夕刻そこを訪れると、控室で質素な酒盛りが行われていた。今日、熊野神社でお見かけした舞い手、楽人の方々である。もちろん、演ずる最中は、お顔は面に隠れていたけれど、休憩中に裏のテントの楽屋にお訪ねして、お疲れのところをいろいろと質問を浴びせていたから、もう“顔なじみ”だった。
 快く皆さんはわたしを迎えて下さり、さらに質問に答えて下さった。人間の中の、もっともよき性たる質朴さを失わぬ方々だった。
 皆さんのお名前を書いていただいた。

長永太 船越国雄 柴田久米好 松井勇夫 西島玄洋 有久直和 西島博明 上野正之 馬場広成 横尾敬治 長孚(まこと)

 そして「詳しいことは、船越さんにお聞き下さい。書いたものもありますから」といって、電話で連絡をとって下さった。そこで遠からぬ、そのお邸にうかがうと、快く迎えて下さった。土地の旧家である。当主、船越国雄さんと相対した。百嶋さんは車中で待っておられ、わたしと菊池さんと二人だった。そこで語られたくさぐさ、いかにこの筑紫舞を明治以来、大事に代々守り育ててきたか、それが物腰にも、口振りにも沁(し)みていた。そしてその応接の間のなげしには、明治十九年(一八八六)に書かれた“筑紫舞の由来”が表装して掲げられていたのである。それは次のようだった。

祖先船越備後守橘政重明応文亀之比(ころ)也其嫡子長重当郷之政所職にて庄司也政重当社 八幡宮当村落合より奉勧請て則当社氏神 八幡宮也御社修造之事于今代々司しなり明応元年より明治十九年迚*三百九十三年相成代々御宮請持候然ルニ当社氏神昔時由緒有之事不詳候得万年願と志て年々旧六月朔日大神楽奉納仕来ニ而旧藩黒田公御在世之時迄村方諸上納米之内ニ而神楽料米五俵宛掛り神官渡方相成神楽舞方丸*(執)行有之右舞方之儀神官之職務候処[二字抹消]年之比旧神官一統(カ)(カ)相成以後士族江神官職務被仰付侯付神楽舞方致候人無之候付何率御神楽奉捧度願望ニ而平尾村一本木神官[雨/鶴]田春望(雲カ)より神楽伝授いたし候付大神楽奉納之儀存立柴田三七諸芸功者之人付舞方太鞁船越作平笛船越義雄教導いたし居候処追々数十人相加り丸*行いたし候付舞候方諸度相調候而者遠方村々候御神楽奉納之儀頼来条罷越何義相励舞方以外須(いたす)事にて稠敷称美いたし猶又光雲神社御神楽奉納いたし候処右御社請持祠官沢辺利彦祠掌森方両作同石松新六郎会計長岡利予叟(?) 会計掛り河村次兵衛右之面々より湯塩式舞方丸*行出来可致哉と尋相成候付湯塩式伝授致居不申候間教導出来可致者中教院申合遂穿鑿当御社呼出各伝授為致可申旨談相成居候処旧神官左之面々呼出相成候 向間 嘉麻郡頴田村(?) 有光晴雄穂波郡椿村秀村永信同郡潤野村青柳貞延右三人呼出相成居候趣ニ而申合早々出方いたし候様申来候条申合早速罷出お御社内一周間湯塩式其外ニも伝授いたし其上一周間滞留中諸雑費賄等迚*教導方三人同様御社請持より心配ニ而御蔭以毎事伝授いたし誠以難有次第候且又光雲神社毎年三月八月両度之御神楽一度湯塩式奉捧事ニ候左候得ハ御社掛りより此御神楽舞方之儀筑紫舞相唱可然趣申談有之候間以後筑紫舞相唱候事
 但社組之面々左之通候間爰(ここ)ニ相記置候事
社長
  船越武四郎  柴田三七  船越作平
  船越義雄   金替源太郎 西嶋七作
  田丸甚平   西嶋幾次郎 西嶋幸吉
  上野磯熊   宮田 承  船越龍助
  志賀徳次郎  横田市郎  大賀与四郎
  金替七次郎  大穂益司  柴田武三郎

右前記之通祖先より代々御宮請持付御神楽奉捧度累年之願望候処社組相立社長候被相立且光雲神社請持之面々よりも殊之外配慮有之居候付先々承知罷在度候条爰相記置候もの奈利
                   船越武四郎政重
           明治十九年八月
                    井上又七敬書
                    〈脇田修さんの解読による〉

田島八幡の筑紫舞由来の文書

迚*は、中の代わりに占。JIS第4水準ユニコード8FE0
丸*は、手編に丸。執の別字。ユニコード6267
[雨/鶴]田春雲氏の[雨/鶴]は、雨の下に鶴。第 3水準ユニコード974F
候(青字)は、(候)字です。

 その要点は次のようだ。
 “明治以前には、筑紫の各神社の神官が神楽を行ってきた。ところが、明治の一新によって神社の制度が変り、それができぬようになった。そこでその神楽の断絶を恐れ、田島八幡の社中の老が寄り集まり、平尾村の一本木の神官である[雨/鶴]田春雲(望か)のところへ参って、その神楽舞の伝授をうけ、爾後、これを「筑紫舞」として伝えることとした。その社長は船越武四郎、社中は柴田三七以下十七名”と(これを「湯塩式」と呼ぶ)。
 明治十九年の年時つきの文書であるから、この時点における来歴が明らかであり、貴重である。
 ここで一つの問題は、「筑紫舞」という名称である。「御社掛りより此御神楽舞の儀は、筑紫舞と相唱(あいとな)ふ、然(さ)る可き趣、申し談ずること之有り候間、以後筑紫舞と相唱へ候事」という表現からは、

“この時以来「筑紫舞」という名を言いはじめた”という意味にも、一見とれる。しかしそれは「御社掛り」の指示によるものであり、彼等(田島八幡社中)の“創唱”ではない。そして何よりもこれは“筑紫の神社の神官たちが行ってきた神楽舞”というのであるから、その実体がまさに「筑紫舞」と呼ぶにふさわしいこと、この一事に誰しも異論はないであろう。
 一方、“筑紫くぐつの舞”は、菊邑検校によって「筑紫舞」もしくは「筑紫振(ぶ)り」(この表現を検校は好んで用いたという。光寿斉さんによる。ただ「筑紫振り」の方は他の流派の舞を「筑紫舞」独自のリズムで演ずる場合にも、用いうる)として伝えられている。名称からも、否、それ以上にその実体からしても、両老が異系ながら同根に属すること、それをわたしは認めざるをえなかったのである。

 なお田島八幡の筑紫舞について、次の点、付記したい。
 一、毎年七月の最初の日曜日(前後に移動することあり)、田島八幡で行われる。
 一、田島八幡で行われるのみでなく、他の神社(たとえば熊野神社のように)に呼ばれて演ずることがある。
 一、高祖神社(糸島郡)の神楽や朝倉内の神社で行われた神楽なども、田島八幡の神楽と大変よく似かよっているようである(船越国雄氏等の証言による)。

   ※
 “筑紫くくつの舞” ーーわたしはその身元に一段と迫りうる史料に到達した。
 熊本市内に住む平野雅曠さんのもとを訪れたのは、昭和五十六年の夏前のことであった。平野さんはかつてわたしのもとにお便りを寄せられ、わたしが『失われた九州王朝』で論じた「九州年号」問題について、貴重な反応をしめして下さった方だった。江戸時代には、現在の「邪馬台国」問題のように論争の的となった「年号」問題、ここには日本の古代史の根幹をゆるがす震源地があった。わたしが提起した「九州年号実在」の論証、それが成立したとすれば、九州王朝の実在は確証される。逆にその論証が虚妄であれば、わたしの九州王朝論にはにわかに重要な不信任状がつきつけられることになろう。 ーーしかし誰一人、古代史学の学者たちは賛否の声を出さず、もっばら「黙殺」につとめてきた。
 その中で在野の平野さんは、『肥後国誌』の中で、各神社等の創建などの縁起をのべるさいに、くりかえし、この九州年号が用いられている事実に着目され、わたしに知らせて下さったのだった(のち、みずから季刊「邪馬台国」四に「九州年号について」の論文を寄稿)。
 その平野さんにお会いすると共に、当の『肥後国誌』自体を拝見したい。それがわたしの願いとするところだった。今は引退後の悠悠自適の生活の中にある平野さんは、快くわたしの願いを承諾して下さった。そして言われた。「ですが、わたしの挙げた、あの例以外には、九州年号の例は、もうないと思いますよ」と。
 もちろん、そうであろう。しかし、わたしには二つの目的があった。一つは、当の、九州年号に依拠した文章だけでなく、全体の史料性格を知りたいこと。もう一つは“もしや、筑紫舞に関連した記事はないか”という一点にあったのである。
 御厚意に甘えて、強引にも、部厚い、何冊もの重い本、念願の『肥後国誌』をお借りして帰った。そして一枚一枚めくるうち、そこに次の記事を見出したのである。

〈菊池郡、中通郷、北宮村〉
北宮大明神
 祭。北宮村ハ十一月廿一日、隈府(わいふ)町ハ九月九日。社人、緒方和泉・石川石見。
社記云、後円融帝永和四年八月、菊池家十六代肥後守武政、阿蘇北ノ宮ヲ勧請ス。古ハ寄附ノ社領・神宝等有シモ、薩州勢乱入ノ時、悉ク奪却ス。征西将軍御寄進錦ノ旗ハ此時紛失シ、軍配・団扇ノミ残レリ。形チ小ニシテ質素ノ古物也。当社ハ北宮村・隈府町等ノ氏神ニテ当郡鎮護ノ神ト云。菊池家全盛ノ比(コロ)ハ、九月九日祭礼ニ、社ヨリ西ニ方(あた)ッテ山ヲ飭(かざ)リ、神輿(しんよ)御幸アリテ、翁ヲ渡シ能式ヲ勤ム。即チ此能ヲ山ノ能ト云リ。其旧跡今ニ北宮村下ニ能場(のうば)ト云所アリ。菊池家断絶ノ後、能式モ絶タリ。伝来ノ翁ノ面二ッアリ、春日作ト云伝フ。又痩男(やせおとこ)ノ面アリ、カワズト名(なづ)ク作者不知、一説ニ、ヒビノ作ト云。
  翁面、天正六年薩州へ奪レシヲ、同七年ニ取返セシ □(こと)アリ。事長ケレハ、附録ニ出ス、可考合。
  ○翕巷(きゅうこう)云、本書ニハ此項末ニ附録ヲ掲載ス、可併見。
 (中略)
(補)陣迹誌(じんせきし)曰、北宮大明神社ハ北宮村ニアリ。阿蘇北宮ヲ勧請アリ。菊池家全盛ノ時分ハ祭礼モ賑々敷(にぎにぎしく)、行幸場ニ出座アリテ能ナト見物アリ。

行幸場ト云ハ、北宮ノ未申(ひつじさる)ノ川上道ノ北ニ二反余ノ屋敷アリ。今ニ名ヲ桟敷場ト云。神輿行幸アリテ能興行アリ。因(より)テ行幸能場臣□(とも)云。菊池氏ノ桟敷掛リシ所也。村々ニヲ、セテ柴山ヲ出(いだ)サス。古記ニ、河原村ヨリ柴山三ツ奉ル、トアリ。此柴山ト云フハ屋台ナリ。屋台ニ種々ノ飾物ヲ作リ奉納セシ也。故ニ能ヲ山ノ能ト云。又深川村ノ田ノ中ニ少シ堆(うずたか)キ所アリ、神輿ヲ休メ奉ル仮殿ノ跡也。今ニ其所ヲミコシヤスメト云。又北宮村ノ西深川村ノ界ニ通リタル道、今モ地方ノ下ケ名(みよう)ヲ上市場・下市場ト云フ、神輿通リタル道ニテ市立タル所ナリ。

薩軍乱妨奪却、社殿焼失。古記・社記等什物等、紛冗。唯懐良親王奉納ノ軍配・団扇ト楼門ノミ残レリ。
  勧請以来ノ古物、今矢(いまや)大神ノ在(いま)ス門也。
神躰(しんたい)此門ニ在スコト年久シ、明暦二年再建。
 (中略)
本書附録曰、北宮大明神ノ翁面ハ、天正六年四月十八日龍造寺隆信舎弟政家ニ軍兵二千相添へ隈府城ニ押寄セ、赤星道半ヲ攻陥シ、隈部(くまべ)親永ニ城ヲ渡シテ帰陣ス。道半無念ニ思ヒ、島津ヲ憑(たの)ミ隈部ヲ討ント謀リ、翌天正七年三月廿一日薩州ヨリ人数ヲ差越ス。 (中略) 此時、隈府ノ翁ノ面ヲ薩兵ニ奪ハル。菊池家ヨリ伝来スル当社ノ霊宝ヲ他国ニ奪ハレ、本意ナク思ヒ、取返シテ再ヒ隈府ノ霊宝ト為(せ)ントテ、其時ノ能太夫藤吉雅楽(ふじよしががく)ト云者ヲ薩摩ニ遣ハシ、彼ノ面ノ行衛ヲ尋ルニ、雅楽彼地ニ留ルコト二年ニシテ彼翁面ハ薩州ヨリ当国八代(やつしろ)ニ渡セシ由ヲ聴テ、隈府ニ帰リ座中ニ談シ、白銀ヲ以テ八代ヨリ買返シ、再ヒ隈府ノ霊宝トナレリ。然ル処ニ雅楽孫、外記(げき 後改、甚左衛門)ノ代ニ至リ、寛文三年六月隈府座中ト翁面ヲ争ヒ、公事(くじ)ニ及フ。其子細ハ、外記カ祖父雅楽カ面ナル故、其譲リヲ受シト云。座中ハ、菊池殿ヨリ座中へ下賜シト云テ、理非不分明ナル故、佐藤京岩・加藤宗慶ト云モノ曖(あい)ニテ白銀二百目ヲ外記ニ遣ハシ、和平トナル。此白銀ハ、宗(そうカ)善右衛門重次ト云者出シタリト云。亦当社モ右薩州勢乱入ノ時、回禄(かいろく)ニ罹(かか)リ、楼門ノミ残リシヲ神殿ニ用フ。天正六年ヨリ明暦二年迄七十九年ヲ経ヘ、神殿・拝殿・末社迄、宗重次建立之。今ノ楼門ハ菊池武政ノ建立ト云伝へ、右神殿ニ用タルト云ハ此楼門也。(『肥後国誌』巻之六。読点・振仮名は古田)

□(こと)は、(こと)字です。
□(とも)は、(とも)字です。

 ここでいっている要点は、次の内容だ。個条書きしてみよう。
 (一)菊池郡の北宮で「山の能」と称する舞楽が行われており、その中心に「翁の舞楽(能)」があった。
 (二)隈府(現、菊池市)の隈部と薩摩の島津家と戦争したとき、島津の軍隊が攻め来たり、「翁の舞楽」に使う「翁面」を戦利品として持ち帰った。
 (三)戦争が終ったあと、隈府の能太夫の藤吉雅楽は、その「翁舞」の能面を返してもらうために島津家に行って懇請したところ、島津家では「もはや八代に返した」とのことであった。
 (四)能太夫の雅楽は、八代へおもむき、その能面を返してもらって帰ってきた。
 (五)ところがその後、隈府で「山の能」を伝承していた座中が、その「翁の舞楽」の能面は自分たちのものであると主張してゆずらなかった。
 (六)そこで能太夫の雅楽の孫の外記(後、甚左衛門と改む)のとき、宗善右衛門重次から出された白銀二百目の金子によって、隈府座中との間で、公事(訴訟)が解決した。
 (七)しかしその後、菊池家の滅亡と共に、この能式は後を絶った。今、北宮村下に能場(のうば)という字(あざ)地名が残っているが、それは当時の能舞台の痕跡である。
 以上のようだ。

 この各条を検討し、問題の“筑後のくぐつの舞”と対比してみると、見のがしえぬ関連があるようである。
 第一に、「山の能」の「翁面」が中心のテーマになっている点、この伝統的な舞の中枢を占めるものは、「翁の舞楽」であった。この点、“筑紫くぐつの舞”の場合と一致する、何よりの共通点である。
 第二に、その「翁の舞楽」は“能舞台で能太夫が演じた”とされている。この点も、わたしの見た、“筑紫くぐつの舞”における「翁の舞」が荘厳な奉納舞楽としての能的な形姿をもっている点と、様態がよく一致している。
 第三に、“筑紫くぐつの舞”の中枢たる「翁の舞」は、常に(三人立〈この点、後述 ーーあとがき〉、五人立、七人立とも)「肥後の翁」を中心として舞う形になっている。これは“古墳後期における、九州王朝の中枢が肥後にあった(装飾古墳の分布)”という命題との関係においても、興味深いが、やはり何よりもこの舞が「筑紫舞」とか「筑紫振り」の名にもかかわらず、“肥後を中心的な伝承地としていた歴史にかかわるもの”と見なすのが、この舞楽の伝承の基本条件として、もっとも自然であろう。
 その点、肥後の名門であった菊池家の系流において、伝承されていた「山の能」の中枢たる「翁の舞楽」の場合、まさにこの基本条件と相応している。
 第四に、興味深い問題は、寛文(かんぶん)三年(一六六三)六月に生じた、隈府座中と雅楽の孫、外記との間の“翁面争い”の公事である。
 その結果、“金(白銀二百目)は外記へ”“「翁面」は隈府座中へ”(あるいは、その逆か)と渡って結着したようであるけれども、その後「甚左衛門」と改名したあとの外記の側では、“能太夫家の伝統”としての舞楽は果して絶えたのか、という問題である。換言すれば、菊池家のお家芸として断絶したのは、“翁面を所有した”側だけではなかったのか、という問題である(関係年譜、参照)。

関 係 年 譜
〈南北朝〉永和 4(1378) 阿蘇北ノ宮勧請(菊池第十六代)
〈戦 国〉天正 6(1578) 龍造寺の隈府攻撃
     天正 7(1579) 島津の隈府攻撃。「翁面」を奪い去る
     天正15(1587) 豊臣秀吉の九州平定。菊池家滅亡。(佐々成政。→加藤清正と後を継ぐ。→細川忠利。)
〈江 戸〉明暦 2(1656) 北宮神社の拝殿再建。(願主、宗善右衛門重次)
     寛文 3(1663) 「翁面」の公事。

 第五に、右の点に関連して注目すべきは、「翁面」の不使用問題である。先にのべたように、“筑紫くぐつの舞”では、面を使用しない。この一点において、田島八幡の「筑紫舞」などとは、全く様相を異にしている。そして菊邑検校は、「わたしどもは、子細あって、面を使わぬことになっています」とのべて、「面の不使用」を強調し、厳守していた、という。
 これは、右の「隈府座中と外記との『翁面』の公事」の結末と何らかの関係が存在しないか、という問題である(たとえば「翁面使用権限の独占」など)。この点に関しては、むろん、何らの断定はなしえないけれども、『肥後国誌』の伝える「翁面をめぐるトラブル」と「翁面不使用の翁舞」という、今日の“筑紫くぐつの舞”のしめす特異の姿、その両者の間には見のがしえぬ問題をふくんでいるように思われる。
 第六、右はもちろん“筑紫くぐつの舞”が“菊池家の「山の能」のの一異流である”と考えた場合の推定である。
 これに対し、もう一つの(あるいは、より自然な)可能性は、“山の能が菊池家の舞楽として流入する以前”において、すでに早くから存在していた源流の中に、この“筑紫くぐつの舞”を位置づけることである。なぜなら“肥後の翁を中心とする筑紫舞”という姿は、すなわちこの舞楽が何らかの段階で“筑紫〜肥後”の間の移転を生じたものであることをしめしている。そしてそのさい、「(A)肥後流入(あるいは原存在)」と「(B)菊池家流入」とが別個であるケースを考えると、この(A)以前にすでに別流(むしろ、本流としての(A) )の存在したケースも、当然考えうるからである。
 この場合、(菊池家)に“翁面使用の舞楽”、(在野)に“翁面不使用の舞楽”の二系流が肥後に存在し、菊池家の断絶と共に滅亡したのは、前者のみ、という帰結となるであろう。

 けれどもわたしたちは、この問題に関して、さらに慎重であるべきではないか、と思われる。なぜなら“菊池家伝来の「山の能」”そのものが現存せぬ以上、これと“筑紫くぐつの翁の舞”との異同は、(田島八幡の「筑紫舞」の場合と異なり)実証的に確認すべくもないからである。であるから、この「山の能」における「翁」が、いわゆる通例の能楽における「翁」、すなわち「翁」「三番叟さんばそう」「父尉ちちのじょう」「延命冠者えんめいかじゃ」「千歳せんざい」のごとき演目、また「白式尉はくしきじょう」を指す、といった、日本芸能史上の常識によって解すべし、とする立場も十分に顧慮すべきこと、いうまでもない。
 しかしながらこれら現今の“中央の能楽”は、その祖形と淵源を全国各在地の神楽・舞楽にもっていることもまた、同じく芸能史上、十分に承認された理解である。たとえば三信遠地方(愛知・長野・静岡県)の「田楽でんがくの翁」・御田(おんだ)祭(高知県室戸市)の「翁」、鴨川住吉(かもがわすみよし)神社の祭(兵庫県加東かとう郡)の「翁」・北設楽(しだら)郡各部落(愛知県)の「花祭の翁」等、幾多数えうる(『ジャポニカ』参照)。とすれば、中国の先進芸能・中央儀礼の影響を早く受けた九州において、日本列島内のいわゆる「中央の能楽」以前の、独自の「翁」の舞楽が存在していたとしても、思うに、それは何等他奇(不思議)のない事態なのではあるまいか。今後の芸能史研究において、わたしたちはながらく固定化されてきた“近畿(天皇家)中心主義芸能史観”から、豊かなる“多元主義芸能史観”へと、新たな史眼への転換を迫られているのではないかと思われる。
 少なくともわたしたちは、次の事実を確認しうるであろう。それは九州の肥後の地において、“神前における翁の舞の奉納”という儀礼が厳に存在した事実である。その一事は、この“肥後中心”の趣深い“筑紫くぐつの舞”が、かつてこの地の中に生い育ったこと、その宗教史及び芸能史上の精神的背景を、意味深く証言しているものではあるまいか(これとは別個のようであるが、菊池神社の奉納神事として、「御松囃子能おんまつばやしのう」〈熊本県指定文化財〉の存することは著名。これも当地の芸能伝統を証するものであろう)

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