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よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞 角川選書

第四章 幻の筑紫舞 3

古田武彦

 “肥後で演ぜられてきたから、「肥後の翁」が舞い手の中心とされた”このような発想に対し、あるいはこれを“安直”として、疑う人もあるかもしれぬ。しかしながら民間的伝承や古典的劇作の作法において、これはいわば“常套(じょうとう)的な手法”といっていいのである。
 その端的な例を、わたしは田島八幡の社中による「筑紫舞」(前出、横浜の熊野神社で初見)の中において、見ることができた。「天孫降臨」を語る、その舞台の中に、“見馴(みな)れぬ”人物が登場する。「中富なかとみ親王」がこれである。

    「猿」
 中富親王、細姫命(うずめのみこと)を呼ぶ。「細姫命よ、お在(あ)しまする」
 細姫命「中富親王の御声として、細姫命やあれ応(おお)せ候は、抑(そも)何の御為(おんため)にて候」
 中富親王「これ迄招じ申す事、別の仔細(しさい)に非ず。ぜんくけいさつ(「前駆・警察」か ーー古田)の神、御幸(みゆき)の先を払う処(ところ)、こゝに一つの神あって、問えども答えず、追えども退ぞかず、口赤く瞳(ひとみ)の光は、明鏡の如くと申すなり。細姫命ならでは、事問うものにあらず。早々(はやはや)出向(いでむか)って、事のしようぞく(「消息」か ーー古田)御覧あれかしあれかし」
 細姫命「さあらば、其の神、学び申さん」
 このように“おなじみ”の「うずめの命」や「猿(猿田彦命さるたひこのみこと)」の神名の間に、突如この人物が“介入”してきて、重要な(「うずめ」に命を下す)役割を演じているのである。しかも神楽の進行の中において、この「中富親王」なる人物が何者か、一切“説明”はない。例の「筑紫舞覚書」という、いわば神楽の“台本集”の中においても、一切の“説明抜き”で登場している。
 そこで、神楽の中休みのとき、裏の演じ手(社中)の長老の方(長永太さん)におたずねしたところ、「神主の祖先じゃということですわ」との返事であった。のちに船越国雄さんにおたずねしたところ、「天孫降臨の侍従官」とのことであった。
 ではなぜ、そのような“目立つ”役柄に、“神主の祖先”に当る人物が登場するのか。その答えは、わたしには、実は容易であるように思われる。
 なぜなら、“この田島八幡社中伝持の「筑紫舞」は、実は中富親王系の中枢者たちによって、中富親王の勢力下の人々を前にして演ぜられてきた、という歴史的経緯の反映である”。そのように見なして先ず大きな狂いはない、わたしにはそのように思われるからである。
 当初、これを“演ずる”人々にとっては当然、「中富親王」とは、自明の登場人物であった。そしてそれを“見る”側の多くの人々にとってもまた。
 わたしがこの神楽に遭うた当日、横浜の熊野神社の境内を埋めていた、弁当や酒や菓子持参で楽しみにきている熊野神社の氏子の家族の人々の多くは、もはや「中富親王」なる存在が何者かを知らないであろう。
 けれども当初は、そうではなかった。“演ずる”人たちは、中富親王という、あまりにも“知れわたった”著名の人物を“解説なし”で演ずることに何の不思議も覚えなかったであろうし、また“見る”群衆も、自分たちにとって崇敬すべき、その人があの「天孫降臨」の場において、枢要な役割を演じていることに深い満足感を覚えつつ、これを“鑑賞”したことと思われる。ズバリ、遠慮なくいわせてもらえば、この筑紫舞という神楽の場は、同時に“中富親王の偉大さ”の、一年一度のPRの場であり、ひいてはその系列を引く自分たち集団の“身元のたしかさ”を大衆的な規模において確認する場だったのである。

     ※
 この中富親王について、同行の百嶋由一郎さんは、“「中臣なかとみ神道」の関係ではないか。”と示唆された。それも有力な一仮説と思われる。

中富姓分布(福岡県)
福岡市     八六
筑後市     四一
北九州市    一九
久留米市    一一
粕屋郡     一〇
宗像市      九
田川郡      七
大牟田市     七

(以下略)

昭和五七年二〜三月〈電話帳による、堀内昭彦氏調査〉

 ところが、親友の、筑紫野市在住の堀内昭彦君から「博多の電話番号帳には、中富姓がかなり多いよ」と示唆され、わたしは後日、彼に依頼して、その写しを送ってもらった。それによって作製した分布図を上にかかげる。
 この中富姓と中富親王との関連の有無、それは今後の興深き課題であろう。

     ※
 けれどもこのような姿は、別段、博多で今日行われている、この「筑紫舞」だけの話ではない。わたしたち一般の日本人には、一見“正統的”であり、まことに“身元正しく”かつ“由緒深く”見える、あの『古事記』『日本書紀』の神話の中にも、同じような“自己集団のPR ”いわば一種の“身びいきの手法”が、歴々と姿を現わしているのむ見るのである。たとえば、

「爾(ここ)に天照大御神、高木神の命以(も)ちて、太子正勝吾勝勝(まさかつ あ かつかち)速日天忍穂耳命(はやひあまのおしほみみのみこと)に詔(の)りて『今、葦原中国を平げ訖(お)えぬと白(もう)せり。故に、言依(ことよ)さし賜ひし随(まま)に、降り坐(ま)して知らせ。』と」(『古事記』天孫誕生)

というように、「高木神たかきのかみ」という神が、主神たる天照大神と相並んで登場する。つまりいわば彼女と同格であり、「天孫降臨」の邇邇芸(ににぎの)命は、彼女の息子(天忍穗耳命)と彼の娘(万幡豊秋津師比売命よろずはたとよあきつひめのみこと)との間にもうけられた子、という形になっていながら、この高木神自身に関する説話は、一切姿を現わさない。たとえば天照大神が須佐之男命(すさのおのみこと)や月読(つくよみの)命と共に、海辺で誕生する経緯は、詳しく記・紀神話中にのべられているのに、その天照大神と“同格”のはずの高木神については、一切その出生地も、出生の仕方も、分らない(高木神と高御産巣日神 たかみむすびのかみ との異同については、別に論ずる)。天照大神の場合の天の岩屋のような、“高木神にまつわる独自の説話”もない。従ってその意味では、一種“性格不明の神”のていを呈しているのである。はしばしの神々とは異なり、枢要の位置を占める神であるだけに、この現象は不思議である。
 また近畿天皇家内で、のちのち(六〜八世紀)この神が特に重要視してまつられている、という形跡もないから、「記・紀神話は、六〜八世紀の、近畿天皇家内の史官の造作」という、津田史学(ひいては、戦後の「定説」派史学)の命題からも、理解不可能である。このようによく見つめれば見つめるほど、この「高木神」問題は不可解の様相を呈しているのである。

 けれども今、右の「中富親王の論理」をもって解するとき、事態はきわめて明快である。

 第一に、この神話(記・紀神話)が形成された場は、高木神を枢要な信仰対象としている領域においてであった。

 第二に、この神話を“語る”側の人(権力者側の語り手)にとっても、また“聞く”側の民衆(被統治者側)にとっても、「高木神」の名は、あまりにも著名であり、その神の出生・由来・神格等の“解説”は、全く不必要であった。

 第三に、そして彼らは、自分たちにとって枢要な神である「高木神」が、あの「天孫誕生や降臨」の場で、主要な役柄をもっていることに対して深い満足を覚えた。それはまた“高木神を崇敬する集団の身元のたしかさと尊厳さ”をPRすべき絶好の題材であった。

 以上のような理解が必然にえられるであろう。
 では、「高木神」が崇敬されている領域とは、どこか。それは、先の柿原古墳の神社が高木神社であったことからも知られるように、筑紫一円、ことに筑後川流域がその中枢をなしていたのである(安本美典氏もかつて、朝倉を中心とする筑紫にこの神社の分布を説かれた)。

高木神社〈福岡県。福岡県神社誌による〉

〈朝倉郡〉(大字)(字)
高木村   黒川 宮園
高木村   佐田 元村
把木町   白木 宮ノ前
松末村   赤谷 前田
宝珠山村 宝珠山 大行司
小石原村 小石原 東宮山
小石原村  鼓   東

〈田川郡〉
津野村  正護山
津野村  津野  宮床
彦山村  落合  宝流

〈筑紫郡〉
御笠村  天山  山畑  
御笠村  大石 上ノ屋敷
〈嘉穂郡〉
宮野村  桑野  普門司
宮野村  桑野  神有

〈京都郡〉
伊良原村 上伊良原  向田
伊良原村 下伊良原 荒良鬼山

 すなわち、この種の神話がこの「高木神の勢力分布領域」において語られ、増幅されていたことをしめしているのである。

     ※
 このように検してくれば、今問題の“筑紫くぐつの翁の舞”における「肥後の翁」の中枢的役割についても、別段不思議とすべきものではないことが知られよう。
 本来、記・紀神話の全体すら、“天照大神を始祖とする”と称する、後来の近畿天皇家の“自己PR文書”と見なすこと、それは決して奇矯の見地ではなく、むしろ神話理解の本筋なのである。
 いいかえれば、記・紀神話は、日本列島内の幾多の始祖神話、幾多の国生み神話、幾多の神々の体系の神話群の中の、その一つであり、それらの中の“天照大神を始祖とする”と称した一派たる、近畿天皇家系の神話群たるにすぎぬ。このような客観的、かつ巨視的な視野こそ、天皇家一元主義に非ず、多元主義的な客観的神話理解への道を開く、根本不可欠の基石である。わたしはそのように考える。
 いいかえれば、記・紀神話が、一見日本の代表の神話であるかの観をもち、“日本最古の古典”のていを呈しているのは、とりもなおさず、八世紀から二十世紀にわたる長大な時問の流れの中で、天皇家が権威と勢威をふるいつづけてきた、その歴史的経緯の反映、その“権勢史の証言”に他ならないのであった。
 このように考えきたるとき、“筑紫くぐつの翁の舞”における「肥後の翁、中心主義」は、同様に決して一朝一夕の産物ではないことが知られよう。長大な期間にわたる、肥後における演じ手と、同じく肥後における観衆との間における、育成の年月の歴史を背景としなければ、到底理解しうるものではない。
 それは“肥後人の身びいきの所業”などとして軽視せらるべきものでは、決してない。それどころか、近畿天皇家によって「独占」されてきた権力中枢、すなわち近畿なる「都」に関する伝承と教養とは、全く異なった権力の系流、すなわち別種の「都」に関する伝承を、今に至るまではるけくも伝えきたっていたものなのであった。
 最後に論をすすめるべきは、核心をなす次の一点である。
 そのように長期にわたって“肥後の内部”において育成されてきており、その性格が深く刻印された、この“筑紫くぐつの舞”が、なぜ「肥後舞」とか「肥後振り」とかいわれずに、筑紫舞と呼ばれ、「筑紫振り」として伝えられてきたか、という問いだ。
 それは他でもない、“「肥後」の他に「都」があり、それは筑紫にある。”この動かし能(あた)わぬ、根本の認識であった。それこそわたしが最初、光寿斉さんから筑紫舞の中枢をなす「翁の舞」の諸国の翁の配置を聞いたとき、深く直観させられたところだったのである。

 数奇な推理小説の終りには、数奇なドンデン返しがある。それは人の知る通りだ。だが、わたし自身、小説ならぬ、現実の筑紫舞の探究の中で、このようなドンデン返しに遭おうとは。ついぞ予測しえなかったのである。
 筑紫舞に関して、なお念のため、確認すべき、幾つかの手つづきが残っていた。その一つは、例の「馬車鉄道」の件である。わたしには、未知・未見のものだったが、それは果してどのような形で福岡県に存在していたのか、裏をとってみなければならない、と思った。菊邑検校やケイさんに関する探索には時間とエネルギーを傾注していた間、このテーマが残っていたのだった。
 そこで博多の読者、永井彰子さんに調査をお願いした。永井さんは昨年(昭和五十六年)三〜四月の中国旅行で御一緒した方であるが、東北大学の卒業、わたしの“後輩”に当っておられた。「主婦業が大好き」と口癖のようにおっしゃる方だが、社会学科の出身であるだけに、こうした調査は“お手のもの”かもしれない。そこでお願いしてみた。そのお答えが来たのが、四月末。そこには次のような表が書かれていた。

県下で鉄道馬車が通っていたのは次の三か所。
(1) 北九州市 きたかた線
明治三十九年六月馬車鉄道として発足
大正九年電化
現在廃止

(2) 太宰府馬車鉄道
明治三十五年三月二十八日発足
明治四十年軌道化
大正二年一月SL化
昭和二年九月電化

(3) 津屋崎(つやざき)鉄道
明治四十一年四月津屋崎馬車鉄道として発足。福間・宮の前を通り、寺の横をすぎて津屋崎まで。
大正十三年合併。博多湾鉄道が買収。
昭和十四年廃止
      (西鉄電車局、山本さんによる)

 これを読んで、わたしの血は逆流した。青ざめていたにちがいない。これが事実なら、昭和十一年の秋という時点で、“生きて動いていた”のは、津屋崎鉄道だけだ。太宰府 ーー 朝倉間の馬車鉄道など、すでに姿を消して、年久しいのである。そしてこの記録は、西日本鉄道の当資料担当の方によるものだというから、当地の関係会社に残された公的な記録だ。先ずまちがいはありえない。事実だ。とすれば、問題の洞窟は「朝倉」ではありえないのである。
 わたし自身、この二年間、朝倉と思いつづけてきた。その地方を探索して歩いた。わたしだけではない。大阪の「古田武彦を囲む会」の丸山晋司さんなども、柿原古墳やその周辺を訪ねられていた。その立場で書いた草稿もすでにわたしの手元にある。だのに ーー。
 しかし、当然ながら、大切なのは、真実だけだ。他の一切はひっきょう顧慮に値しない。わたしはすぐ永井さんのお宅にお電話した。そして「津屋崎の馬車鉄道の写真は手に入りませんか」と、お願いした。「探してみますわ」。そう約束して下さった。
 一方、西山村さんのお宅にお電話し、ことの子細を告げた。いや、告げる前に、もう一度、当時の状況を精(くわ)しくお聞きした。そして確認しえたこと、それは、
第一、太宰府に一泊したこと。
第二、翌朝、のろい汽車に乗ったこと。
第三、馬の引っぱった車に乗ったこと。
第四、降りて歩いて洞窟の前に出たこと。
の四点だった。「朝倉云々」は、あの「西日本新聞」の学芸部の方の少年体験から“新たに提出された地名”だったのである。西山村さん自身に、「朝倉へ行った」という地名の記憶は存在していなかった。わたしは言った。「では、単なる、お百姓さんの馬車だったかもしれませんね」。「そうですね。そうとも考えられます。ですが、その馬のひいた車は、とても変っていました。屋根があって、窓が両側についていました。その両側の下のところで棚のようなものが内側についていて、そこに腰をかけました。片側に五〜六人坐れるくらいのものです。わたしは十四、五歳の少女でしたから、楽に坐れましたが、大人の人はお尻(しり)がはみ出しそうな感じでした。その車体の幅は、わたしが両手をひろげると、両側に着くほどの、狭いものでした。馭者(ぎょしゃ)は鞭(むち)をもっていました。
 動き出すと、うしろからかすりの着物を着た少年が二人、車にしがみついてきました。やがて車がはやくなると、年下の方の少年の手が離れて、下にころびました。年上の少年も手をはなして、助けおこし、二人で歩いてきました。わたしは窓から顔を出して、それを見ていましたので、馭者のおじさんに、『車をとめて。乗せてあげたら』と叫びました。でも、おじさんは、何か九州弁で『そんなの、ほっとけ』というような感じのことを言って、そのままスピードをあげてゆきました。わたしは『九州の人て、冷たいんやわあ』と思ったのをおぼえています」
 西山村さんの記憶力には、いつも驚かされていたけれど、これはまことに戦前の田舎の、一幅の叙景詩のようであった。
 けれども、わたしのその驚きは、やがて永井さんより送られてきた津屋崎馬車鉄道の写真を見たとき、さらに極まった。その写真とその解説の文は、まさに西山村さんの記憶通り、のものだったのである。

「学校帰りの腕白小僧が走り寄って、車のうしろに吊らママ下って、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)をきめこむのを馭者が見つけて、鞭を振り上げ大きな声で『こらッ』と怒鳴ると、馬が驚いて、一きわ白い息を吐きながら走り出す」(上妻国雄氏『宗像風物詩』コロニー印刷、昭和五十年十一月刊、一六ぺージ)

 わたしは、若き西山村さんの乗ったものが、“お百姓さんの馬車”などではなく、この「馬車鉄道」そのものであることを確認せざるをえなかった。つまり、昭和十一年の秋、という時点、他の二つの馬車鉄道は、すでに消え去って年久しかった。他ならぬ、この津屋崎馬車鉄道、これが西山村さんの辿(たど)られた、真のコースだったのである。

馬車鉄道(福間〜宮司間。昭和12年川崎恒次郎氏撮影)

 では、その沿線の洞窟とはどこか。
 わたしは新しい謎(なぞ)の前に茫然(ぼうぜん)と立ちすくむ思いだった。だが、五月上旬末、博多・北九州市で講演のあったのを機に、全力で行動しつづけた。いや、わたしの力ではない。博多の読者の方々(橋田薫・西俣康・永井彰子・井手馬左也・池口節子氏等)、津屋崎町や宮司の土地の方々(上妻保・安部六郎・田中香苗・原田活男氏等)の献身的、また篤実の御協力によって、新たな扉は意外に早く開かれたのである。
 津屋崎馬車鉄道は、福間(ふくま 博多の箱崎の東)から宮地嶽(みやじだけ)を経て津屋崎まで。博多からその福間までは、まさに“のろい汽車”がついていて、その補完として周辺の村々(宗像むなかた郡 吉武よしたけ村・河東かとう村・東郷とうごう村、鞍手くらて郡西川にしかわ村・古月ふるつき村)が協力して設立したものだった。両市の講演会の聴衆で、年輩の方々の中には、さすがに「わたしもよく乗った」という経験者が少なくなかった。そして大切なこと、それは宮地嶽神社前に停留所があり、ここが主要な“降り口”となっていたことである。
 さて、洞窟。土地鑑のないわたしには、茫漠(ぼうばく)として見えていたが、宮地嶽神社の権禰宜(ごんのねぎ)の管田圭秀さんや土地(津屋崎町)の方々にお聞きすると、侯補地は二つしかなかった。一は、有名な宮地嶽古墳。深さが二二(あるいは二三メートル)もあり、現存の開口横穴石室中、最大を誇る。わたしも数年前、来たことがあった(そのときは自由に出入りでき、普段は子供の遊び場にも、という感じであったけれども、今回は入口に不動さんの拝殿のようなものが作られ、様相が一変していた)。
 二は、波切不動(なみきりふどう)。馬鉄下車地より約二キロ、やはり古墳の横穴石室だが、外観、大きさ、共にあの柿原古墳とよく似ていた手(てびか)古墳といい、深さ約一一メートル。高さ約一・五メートル、幅約一・三メートル、奥行約一一メートル。福間町に属する)。そばに手光川があり、もとは竹藪におおわれていた、とのことで、はじめわたしはこちらの方ではないか、と考えたのである。
 けれども、夜深く、宗像の宿(吉武旅館)でわたしは熟考した。“神戸あたりから「本場の舞を見せよう」といって目指してくるところ、そのようなところとしては、波切不動では「通常すぎる」のではないか。そして何よりの問題点は、広さ、だ。波切不動では、十三人も入ったら満員だ。宮地嶽はその点、十分な広さである。何しろ、「現存、日本最長」を誇っているのだから” ーーわたしの思惟はそのように進行した。判断はいつも、局所にとらわれて大局を見失ってはならなかった。
 けれども、これはわたしの“アイデア”だ。実証的には、馬鉄降り口(現、西鉄バス宮司停留所)から、この大・小二つの洞窟に至る地形が全くちがうこと、これが判別の鍵(キイ)だ。波切不動の方へは平地だけで行けるのに、岩屋不動(宮地嶽古墳)へは、灌木(かんぼく)のしげみの中の坂道を登らねばならぬ。今は宮地嶽神社の正面の鳥居の方から遠く迂回する道しかないが、当時(昭和十一年頃)は、裏側からストレートに登る道が山を越えていた。 ーーこれが権禰宜の管田圭秀さんと村の八十を越す長老(安部六郎さん)の一致した証言だった。
 同じ年の五月二十一日夜、わたしは新宿(しんじゅく)の宿舎のロビーで東京の「古田武彦と共に古代史を研究する会」の方々(高田かつ子・川元二郎・竹野恵三〈滝口茂子〉の諸氏)と共に、西山村さんと対談した。高田さんは近来、情熱を傾けて、若き日の菊邑検校を追跡しつづけて下さっている篤学の探究者だった。わたしは問うた。(このとき、春田孝正氏も列席。)

 「馬車鉄道から降りて洞窟までズーッと平地だったのですか。それとも山道でしたか」
 「山道です。木の根が横切って階段のようになっていて、気味が悪いようでした」と西山村さん。
 「あの柿原古墳までの方は、平地でしたが・・・・・」とわたし。
 「ええ、それがわたしには不満でしたから、それをしきりにいったんですよ。ところが、“そこで少年時代を過したから”といって、朝倉へ連れて行って下さった方が、『昔は山地だったのを、近年の開発で全部ならしたんですよ』とおっしゃったものですから」
 「その山地は竹藪だったのですか。灌木のしげみではなかったのですか」とわたし。
 「ええ、灌木のしげみですよ」と西山村さん。当り前のこと、といった風情だった。わたしは吃驚(びっくり)した。「竹藪」と聞いていたから、宮地嶽の裏山にかつて「竹藪」はなかったか、現地で聞きまわり、答えは「イエス」「ノー」半々、といったところだった。これがもう一つの難点だったのである。
 次の瞬間、わたしは了解した。京都の西の郊外、延々とつづく竹林に二方を囲まれた中で朝夕を暮すわたしは、「竹藪」というのを、文字通り「竹だけの藪」つまり“竹林めいた状況”として考えていたのだ。しかし西山村さんにとって、「竹藪」とは“灌木や笹の生いしげったところ”を指す用語だったのである。考えてみれば、わたしの少年時代(広島県の三次みよし盆地など)での用法は、それに近いものだったようである。“一面、竹林ばかりの藪”なんて、身のまわりにあまりお目にかかることはなかったのだから。
 「じゃあ、宮地嶽ですよ」 ーーわたしは叫んだ。最後のつかえがとれた。すべての状況の指さすところ、あの大洞窟、宮地嶽の深い横穴石室しかなかった。

宮地嶽古墳

 すでにわたしは九州で重要な証言をえていた。その一は、津屋崎馬車鉄道の馭者、高田弘さんである。七十二歳、まだお元気だった。昭和十一年当時は二十代半ばであったろう。
 「筑紫からは、再三、神楽を奉納しにきていました。ええ、あの宮地嶽の岩屋不動の洞窟ですよ。遠いときは宮崎からも来ていました」
 高田さんが「筑紫」といわれるのは、筑紫郡、つまり太宰府近辺だった。そこからこの洞窟へと馬車鉄道に乗ってやってきていた一団があった。彼等は神楽を奉納しにあの洞窟へとやってきていた、というのである。やっとここに当の痕跡があらわれたのだ。
 高田さんによると、津屋崎馬鉄の馭者は、はじめ十二人だったが、バスなどのせいで不振となり、四人に減員することとなり、籤(くじ)を引いて残った。その四人のうち、二人は亡くなられ、二人御健在。もう八十歳の石津徳実さんには、先にお会いしてきたが、もはや記憶は失っておられた。そして最後に、永井彰子さんと共におたずねした、この高田さんから、ついにこの証言をえたのである(今年〈昭和五十七年〉五月十日)。
 その二は、北九州市の小倉城(月見亭つきみてい)で、北九州古代史研究会(原田夢果史・増田連さん等)の講演(「筑紫舞と九州王朝」)を行ったさい、講演が終った直後、山口九州男さんという方がそばに来て、いわれた。
「わたしは宗像で育ちました。そして宗中(むなちゅう 旧制宗像中学)に入ったのが、今日の講演でお話に出た『昭和十一年』なのです。宮地嶽神社の前に母の実家がありました。よく、招かれたりして行っていましたが、そのさいはあの馬鉄に乗ってかよったのです。
 そして母の実家に行っていたとき、宮地嶽で舞を見た記憶があります。それは今の本殿の方ではなくて、裏の洞窟のところだったように思います」
 貴重な証言だった。翌日の馭者の高田さんの証言とピタリ一致し、筑紫(太宰府)から来た一行がこの洞窟で舞を奉納していた、その証跡が見出されたのであった(五月九日)。

 九州と東京での、このような探究の旅ののち、わたしは、新たに重大な局面に遭遇したのを知った。その導火線は、次の問いからだった。

 “筑紫くぐつたちがこの洞窟(宮地嶽古墳)をえらんだのは、(1).ここが無料の舞台として簡便だったからか。それとも、(2).ここをえらぶべき、何かのいわれがあったのか”と。

 これを決める決め手はない。だが、前者はあまりにも現代風の発想である。また“無料”だけがねらいなら、野外でテントを張っても、できるはずだ。やはり“彼らがここをえらぶには、えらぶべきいわれが、彼らにとってあった”。そう考える方がすじであろう。
 では、その“いわれ”とは何か。直接“くぐつ”たちに聞くほか、たよりはないけれど、今はこの宮地嶽古墳そのものの性格について考えてみよう。

 第一、先述来の通り、これは日本列島最大(現在開口のものの中で)の横穴式石室をもつ。ということは、当然ながら九州最大の規模となろう。

 第二、この古墳は六世紀末(森浩一氏)から七世紀末(小田富士雄氏)の間の成立と見られているようであるけれども、とすると、当然この時期における最大の規模ということになる。

 第三、この古墳の特異性は、石室の規模だけではない。昭和九年と二十六年の出土で有名となった“おびただしい黄金の財宝(国宝指定二十点近く)”を蔵していたことにある。その中には竜の模様をもった黄金の冠もあった。

 第四、この宮地嶽の対岸、それはあの、国宝となった財宝の数々を出した沖(おき)の島である(宗像大杜とこの宮地嶽とは、同じ宗像郡内に属し、指呼の間にある)。してみると、両者に共在する黄金製品、竜形の飾り(沖の島では、ペアの竜頭)は、共通のシンボル物のように思われる。

 第五、では、“七世紀末まで九州王朝は存続した”という、わたしの仮説に立つとき、次の問いが生れよう。
 “この宮地嶽古墳の主(被葬者)は、九州王朝の「主」か、それとも「配下の一人」か”と。とすると、右の第一〜四のしめすところ、答えは一つである。 ーー九州王朝の「主」の一人であった、と。

 第六、なお、注目すべき出土品に「三重の骨壷こつつぼ」がある。外側土器、中側銅器、内側瑠璃器の骨壷の中に、火葬された骨が入っていた、という。これについて“あとからの挿入”ではないか、との意見も出されたが、やはり本来のこの古墳の被葬者のものと見る方がすじのようである(小田富士雄「筑前・宮地嶽古墳の板ガラス」 ーー『鏡山猛先生古稀記念、古文化論攷』所収、参照)。
 数年前、わたしがここを訪れたのは、この点につき、現地の出土状況を“確認”するためであった。とすると、この宮地嶽古墳の主は、天子のシンボルたる竜形の、黄金の冠を頭上にいただくと共に、反面仏教に深く帰依していた人物となろう。なぜなら「三重の骨壷」とは、まぎれもない仏教者の方式だからである。
 このように考えてくると、あの『隋書』イ妥たい国伝における多利思北孤人物像が浮かび上ってくるであろう。彼は一方で「日出ずる処の天子」と称しながら、他方で「海東の菩薩天子」たることを自負しており、常時「跏趺(かふ 結跏趺坐けっかふざ」の姿で、坐していたという、篤信の仏教者であった。
 しかしながらわたしたちは、立ち入りすぎないようにしよう。もはやあまりにも遠くに来すぎてしまったように思われる。大きな道標はすでに立ち、息せき切ってとりいそぐ必要など、今や毛頭存在しないのであるから。
 ともあれ、この宮地嶽古墳という質量ともに抜群の古墳の前で、葬老たちはいかなる祭式をもって、これを祀っていたのであろうか。そこに献ぜられた神楽、もしくは舞はどのようなものであったか、それは“筑紫くくつの舞”とどのような関係があったのか、なかったのか。 ーーこれらは、今後の興味深い課題として残しておきたいと思う。

 なお、最後に注意すべきこと、それは次の二つだ。
 第一に、西山村さんが昭和十一年におとずれた洞窟が、この宮地嶽古墳であった、という同一性の論証は、はなはだ高い状況上の一致及び貴重な証言を見ているものの、いまだ十二分に“確認され尽くした”とはいえない。将来“当の「筑紫くぐつ」側の生存者、もしくは継承者の証言”に待ちたい。これほどの問題であるから、今後何回の“どんでん返し”があったにせよ、わたしは喜んでこれを待ちうけたい、と思う。
(後記 ーー昭和五十七年十月二十二日、西山村さん一行はわたしと共にこの古墳を訪れ、ここが昭和十一年、筑紫くぐつによる洞窟の舞の行われたところであったことを確認された。翌日、神社の神前でこの舞〈「五人立」〉を奉納。)

法隆寺と九州王朝 筑紫舞その後(『市民の古代』第5集)へ

 第二に、「筑紫くぐつの舞」は“この洞窟で行われただけ”とは、限らないようである。なぜなら、昭和十一年の秋のさい、「伝令」の方は、若き西山村さんに対し、「この前のときは、あの向うの山の奥で木組みをして行った。そのさい、あの人が怪我(けが)をされた」と語っていた、というのであるから。そこでは“もっこをかついで、その人をのせていった”ような口ぶりだった、という。
 あるいは英彦(ひこ)山や求菩提(くぼて)山(磐井の没したとされている候補地)あたりだったのかもしれぬ。というのは、この宮地嶽古墳が「岩屋不動」と呼ばれているように、不動信仰のもとにあり、明治以前には、修験道の山伏たちの勢力下にあったようであるからだ。明治以後、神仏分離と共に、平田神道(復古神道)系以外の神道(修験道など)に対して、明治政府の強い“弾圧”が下り、その後現在の宮地嶽神社などの隆盛期がやってきたようである(修験道問題は土地の長老や郷土史家の方たちの証言。)。
 菊邑検校が“昭和政府の大本教弾圧”に対して強い不信感、というよりむしろ「ことの真相は新聞発表とは別にあり」といった信念を、あの戦前において、堅持していたのは、あるいはこのような歴史的受難の経験と関係があったのかもしれぬ。
 ーーけれども、すべては杳(よう)として、まぼろしの霧の中につつまれている。そして未来の新たな探求者を待っているのである。

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