『邪馬一国への道標』(目次) へ

まえがき 序章 邪馬一国研究に憑かれて

第一章 縄文の謎(なぞ)の扉を開く
一 縄文人が周王朝に貢献した ーー『論衡ろんこう』をめぐって

三 孔子は倭人を知っていたーー『『論語』』『漢書』をめぐって(下にあります)


 『邪馬一国への道標』(角川文庫)

第一章 縄文の謎(なぞ)の扉を開く

古田武彦

 二 殷の箕子は倭人を知っていたーー『史記』『漢書』をめぐって

タイム・マシーンを遡る

 はじめにあげた『論衡』の第二の史料(巻一九、恢国かいこく篇)には、倭人貢献の年時が明記されています。「成王の時・・・倭人暢(ちょう)を貢す」。「暢」は「鬯ちよう」と同じ、例の神酒だ、というのですが、そのときは「成王の時」だというのです。年表(東方年表)で調べてみて“肝をつぶし”ました。周の第二代の天子で、「紀元前一一一五 ーー 一〇七九年」とあります。日本では、縄文中期の終、縄文晩期のはじめ頃に当ります。
 “まさか、こんな時期に!”“ここまでは、とても”と。これが、わたしの正直な気持でした。少なくとも、五十一年の終りまでは。わたしがさらに未知の世界へと、その扉(とびら)を開く新しい鍵を見出したのは、『漢書』地理志の一節からでした。
 ここは、例の「楽浪海中に倭人有り・・・」の一句がある所です。しかし、これは末尾の一句です。“その前から文脈全体の中で、この一句を見直してみなければ”。わたしがこう考えたのは、先ほどの「『論衡』経験」からも、当然だったこと、それは、お分りいただけるでしょう。そこは次のようにあります。
「(A) 玄菟(げんと)楽浪。武帝の時、置く。皆朝鮮・穢*貉(わいかく)・句麗(くり)の蛮夷。(B) 殷(いん)の道衰え、箕子去りて朝鮮に之(ゆ)く。其(そ)の民に教うるに礼義を以(もっ)てし、田蚕織作(でんさんしょくさく)せしむ。楽浪の朝鮮の民、犯禁八条。・・・今犯禁に於(おい)てシン*多(しんた)、六十余条に至る。」

シン*多(しんた)のシン*は、ウ冠の代わりに穴。下に浸の別字。[穴/浸]。ユニコード5DB6
穢* (わい) は、三水編に歳。穢の別字。第4水準ユニコード6FCA

 これが前半。楽浪郡の歴史的由来をのべているわけです。ここで中心人物は「箕子」です。彼が中国からこの地に行き、現地の朝鮮の民を教化した、というのです。この箕子は『史記』(殷本紀いんほんぎ、宋微子世家そうびしせいか)に登場する有名な人物です。それによると、殷末、殷王朝の親戚(しんせき)として宰相であったが、天子紂王(ちゅうおう)は暴虐をきわめ、箕子のいさめを聞かなかった。箕子の心友・比干(ひかん)がこれをいさめたところ、紂王はこれを殺し、「聖人の心肝(しんかん)を観よう」と称して解剖された。ついに其子は絶望し、いつわって“発狂”し、奴隷(どれい)に身をやつした。その時、みずから悲しんで琴の歌を作った、と。これを箕子操といって世に伝えています。

  嗟嗟ああ、紂ちゅう無道を為し、比干を殺す。
  嗟嗟ああ、重ねて復また嗟。独り奈河いかんせん。
  身に漆しつして[厂/萬]らいと為り、被髪ひはつもつて洋狂よきょうせん。
  今、宗廟そうびょうを奈何いかんせん。天なる乎かな、天なる哉かな。石を負いて自ら河に投ぜんと欲ほつす。
  嗟、復嗟。社稷しゃしょくを奈何せん。
          (箕子、箕子操)

[厂/萬]*らい)は、厂編に萬。JIS第3水準ユニコード 53B2

 このあと、周の武王による「革命」がおき、殷は滅ぼされました。そして武王は、箕子を朝鮮に封じたが「臣」とはしなかった、と『史記』(宋微子世家そうびしせいか)に書かれています。殷の名家でもあり、民衆に人望の高かった箕子に対して礼をつくしたわけでしょう。
 しかし、その後、箕子はみずから「革命」後の周の天子に「朝」した、と言います。例の「天子への直接拝謁はいえつ」です。その、都(鎬京こうけい 長安付近)へ向う途次、「故(もと)の殷墟いんきょ」を過ぎたところ、かつて繁栄していた殷の宮室は毀壊(きかい)し、ただ禾黍(かしょ いねやきび)が生いしげっていた、といいます。そのときの箕子の心境を司馬遷は次のように描写しています。
「箕子之(これ)を傷(いた)み、哭(こく)せんと欲すれば則(すなわ)ち不可。泣かんと欲すれば、為(しわ)ざ其れ、婦人に近し。乃(すなわ)ち麦秋(ばくしゅう)の詩を作り、以て之を歌詠す」。
 そしてその詩の一節が載せられています。

  麦秀て漸漸ぜんぜんたり。
  禾黍油油ゆうゆうたり。
  彼の狡僮こうどうよ。我と好よしみせざりき

 この「狡僮」というのは、“小利口な男”といった意味。亡(ほろ)び去った紂王のことです。殷の民は、この歌を聞いて皆涙(なみだ)を流した、といいます。ところで、このとき、周の天子は誰だったでしょう。つづいて『史記』には次のように書かれています。
 「武王崩じ、成王少なり。周公旦、代りて当国に行政す」

 つまり、箕子が拝謁した周の天子は「成王」だったのです。
 ここで注意してほしいのは、箕子が長途都にのぼり、周の天子に拝謁した目的です。その一は当然「革命」後の「周」の天子を正統の天子と認め、これに自らすすんで服属することをしめすものだったでしょう。そして同時に第二は、「封国ほうこく」たる朝鮮の地において、周辺の夷蛮(いばん)たる東夷の民に、中国の天子を尊(たっと)むべき「大義」をしめして教化した、その“成功”を報ずる。それが目的であったでしょう。武王が箕子を東方の辺境たる朝鮮の地、いわば東夷の領域の真っ直中(ただなか)に「封」じたのは、それ(東夷の鎮撫)を託したものですから、これは当然です。
 ところで、箕子が封ぜられた、朝鮮の地は、故(もと)の「蓋(がい)国」です。ピョンヤン(平壌)は、もと「箕城」と言われていました。箕子のいた地を意味する言葉です(前言往行録、清白監司)。とすると、箕子にとって“周辺の夷蛮”とは。その第一に当るのは、蓋国の南に接していた、倭人(わじん)の地に他(ほか)なりません。すなわちここではじめて倭人は、箕子を仲介として中国の天子と“接触した”わけす。
 では、倭人が箕子を仲介として中国の天子に服属する、とすれば、その証拠(あかし)は? それは、ほかでもない「貢献物」です。その倭人と東夷の諸民族の貢献物が箕子によって周の都へとどけられたはずです。成王のもとに。ここでわたしたちは、あの『論衡』が記録した天子の名に再びめぐりあったのです。「成王の時、・・・倭人、暢(ちょう)を貢す」とあった、あの周第二代の天子に。


架空と実在

 殷(いん)王朝と箕子(きし)の実在性の問題について、ここでふれさせていただきましょう。
 日本の東洋史学界で、明治、大正の間に近代史学の立場から新しい「常識」を形造(かたちづく)っていたのは、「夏、殷王朝架空説」でした。邪馬一国論争史の中で、明治の「邪馬台国九州説」で有名な白烏庫吉(しらとりくらきち)氏がこの新学説の有名な講述者でした。
 つまり、『史記』『漢書』に書かれた聖天子堯(ぎょう)(しゅん)(う)や夏王朝、殷王朝の記述は、架空だ。『史記』の夏本紀(かほんぎ)や殷本紀(いんほんぎ)は、史実ではなく、一片の作り話を記したものにすぎない。司馬遷や班固は東洋では大史家の名のみ高くても、要は近代史学を知らざる者、史実と神話、伝承の峻別(しゅんべつ)をなしえぬ者にすぎぬ。これが白烏史学の立場だったのです。津田史学の創始者として敗戦後の「定説」を形造った、あの津田左右吉(つだそうきち)氏は、当時、白鳥氏のこの講述に接して新鮮な感動をうけたと言います。氏の後年の「記、紀神話造作説」すなわち「神話架空説」の壮大な体系は、この白烏学説から受けた、若き日の感銘という、芥子粒(けしつぶ)が大きく育った大樹、と言えないこともありません。『神代史の新しい研究』(大正二年)、『古事記及び日本書紀の新研究』(大正八年)、『神代史の研究』(大正十二年)、『文学に現はれたる、我が国民思想の研究』(大正五年以降)といった、津田氏の、日本古代史研究史上、著名な作品群が、いずれも大正年間(一九一〇年代〜二〇年代)に出現していること、この事実には深い意味が蔵(かく)されています。すなわち、「殷墟発掘以前」の学だ、という一点です。
 もちろん、昭和に入って敗戦に至るまでも、氏の研究活動は続けられ、戦後も一九六一年の死に至るまで、氏の研究と思索は、休止することがなかったでしょう。ことに敗戦前の思想弾圧と氏の闘いについては、わたしたちのよく知るところです。その意義は、今後とも光輝(こうき)を増しこそすれ、減ずることはない。わたしにはそう思われます。
 けれども、そのことは、次の事実と矛盾するものではありません。“氏の主要な仕事は、「殷墟の発掘」以前にほぼ成立している。そしてこの大発掘は、あの白鳥史学の方法上の根本を「犯し」つづけていた”。この一点です。そしてその白烏史学の方法は、ほかでもない、津田史学の生育にとって、その“誕生の秘密”となった芥子粒であったのです。


箕子朝鮮の真実

 昭和初年(一九二〇年代末)にはじまった殷墟(いんきょ)の発掘は、この地に巨大な古代王朝の中枢地があったことを疑うべくもなく証明しました。のみならず、それ以前から次々と世に現われはじめていた甲骨文字の研究も進展するにつれ、これが殷文明の中で使用されていた文字であることが立証されたのです。十九世紀末(清の光緒こうちょ二十五年、一八九九)、土地の人々がたまたま発見した亀甲(きっこう)獣骨に端を発して、その後、陸続(りくぞく)と発見相次ぎ、ついに学界を震撼(しんかん)させるにいたったいきさつは、世界の古代文明発見の中でも、もっともスリリングなエピソードです(羅振玉『殷墟・書契しょけい・考釈こうしゃく』等)。しかもそれによって『史記』の殷本紀の記述が単なる後代の作り話ではなかったことが明らかになってきました。
 夏(か)の桀王(けつおう)を討伐して天子の位についたという始祖の湯(とう)王から二十八代の紂王まで、『史記』・『漢書』の記載がほぼ正確だったことが裏づけされたのです。若干のくいちがいも、『史記』・『漢書』の“純粋なまちがい”なのか、それとも記述姿勢の相違にもとづく「異伝」の類(たぐい)なのか、にわかには断定しにくい所でしょう。その上、箕子(きし)の名まで出てきて、この人物の実在性も証明されたのです。以上は、すでに明白な事実です。戦後、新中国の中で組織的におしすすめられている発掘作業は、この殷墟の規模の大きさ、出土遺構・遺物のなまなましさで、わたしたちを驚倒させつづけていることは、昨今の新聞紙上でご承知のとおりです。
 それだけでなく、最近では殷時代以前の時期の出土物まで、次々と認識されはじめ、はじめにものべたように、pre-Anyan(先殷期)の出土物の存在することが、世界の学界からも注目されはじめているのです。“夏王朝の実在”も、徐々に研究史上の検証日程にのぼりつつある、とさえ言えましょう。 このような現況ですから、さすがに今や「殷王朝架空説」を唱える人はいなくなりました。そして「箕子」その人についてもまた。
 ところが、わたしにとって不思議に思えるのですが、今なお、「箕子朝鮮架空説」が日本の学界などの中で、既定事実のように前提されていることです。さすがに「殷王朝架空説」は影をひそめたようですし、「箕子そのものの架空説」も、かつてのようには既定事実化されてはいないようです。にもかかわらず、“「箕子朝鮮」は架空だ”。そう主張するのです。
 しかし、これはおかしい、と思います。なぜなら、箕子は周の武王によって朝鮮に封ぜられ、のち、周の天子に拝謁にむかう途次、「故(もと)の殷墟を過ぎた」と書いてある、その「殷墟」がありありと出土してきたのです。つまり、『史記』・『漢書』の記事が一片の虚構ではなかった。そのことが考古学上の出土物と大遺構によって証明されたのです。ということは、これらの史書の、少なくとも殷時代部分の記述が正確だったこと、つまり史料的信憑(しんぴょう)性が保証されたのです。
 しかも、紂王をさかのぼる二十八代の各王名まで、その多くは正確だったのです。それなのに殷の一番末期の箕子の事跡、いや厳密には、周王朝の第一〜二代の天子の時期の記載である。“箕子が朝鮮に封ぜられた”という記事を否定する。それはよっぽどの反証がない限り、できぬ相談です。だのに、そのような厳格な反証の努力もなく、易易(いい)として「箕子朝鮮架空説」が前提とされるとしたら、それは“すでに研究史から去った殷王朝架空説”の亡霊が今なお残存して日本の古代史学界をさまようている。 ーーわたしのような一素人(しろうと)探究者の目には、そう見えるのがどうしようもないのです。
 この問題、なお論ずべきさまざまの興味深い側面をもつものですが、今はやめましょう。要は、史料批判上、「箕子朝鮮」を、かつての啓蒙(けいもう)史観のように安易に疑うことはできなくなっている。そのことだけ、今は確認すればいいのです。

 

孔子の証言

 さて、文献上の問題にたちもどりましょう。先にあげた『漢書』地理志の燕(えん)地の記事( (A)、(B) )のつづき(後半)は次のようです。
 (C) 「貴む可(べ)き哉(かな)仁賢(じんけん)の化(か)や。然して東夷の天性柔順、三方の外に異(ことな)る」
 (D)「 故(ゆえ)に孔子、道の行はれざるを悼(いた)み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲(ほつ)す。以(ゆえ)有る也夫(か)
 (E) 「楽浪海中、倭人有り。分れて百余国を為(な)す。歳時を以(もつ)て来り献見すと云う」

 (C)で言う「仁賢の化」が“箕子の教化”を指していることは当然です。問題は(D)です。これは『論語』中の有名な一節をうけています。
  「道行われずば、桴(いかだ)に乗じて海に浮ばん。我に従う者は、其(そ)れ由(ゆう)か」
          (公治長こうやちょう、第五)

 孔子にとって「道」の根本は“周の天子への忠節”だ、と考えられていました。そのような「道」を各国の諸侯に説いたのですが、表面はともかく、本心からそれを守ろうとする者がない。そのような状況にいささか“愛想”をつかしたころ、弟子の子路(しろ ゆう)にふともらした言葉なのでしょう。“もし、いよいよ「道」がこの中国では行われたい。こういう見極めがついたら、もういっそのこと、「桴」に乗って海上に浮かび、海の彼方にいる、という、東夷の人々の中に入って「道」を説こう。そのとき、わたしに従って来てくれる者は、まあ由(ゆう)よ、お前くらいかな”なかば冗談口の中に、ややデスペレート(絶望的)になりかけた、自分の心情を吐露したものでしょう。もっとも、このあと、喜ぶ子路に対して、
 「由や、勇を好むこと、我に過ぐ。材を取る所無けん」

 と「落ち」をつけています。“由よ、お前は「勇を好む」ことでは、わたし以上だ。だが肝心の「桴」を作る材木を調達する才覚は、無さそうだな”と、せっかく喜んだ子路をガッカリさせるなど、なかなか“人の悪い”所を見せています。
 この一節に対して「大きないかだを『筏ばつ』と言うのに対して、小さないかだを『桴ふ』と言う。その小さい『桴』で東海を渡ってゆけると考えるなど、孔子の航海知識はあやしいもの」と批評した学者がありますが、これはちょっと、どうかと思います。なぜたら、ここで孔子は別に航海への出発予定を“真面目に”論議しているのではありません。あくまで己が心情を訴る、軽い冗談口、なのですから。
 しかも“弟子大勢を引きつれて大挙渡航しよう”というのでなく、孔子と子路の“二人づれ”というのですから、大げさな「筏」より、ささやかな「桴」の方が、はるかに一幅の詩的描写として、“ふさわしい”のではないでしょうか。
 さて、このささやかな詩的、個人的独白を引用することによって、班固は何を言おうとしているのでしょうか。 ーーこれが問題の核心です。

班固の真意

 『漢書』地理志には序文があります。ここに班固がこの一篇を書いた趣旨が明確にしるされています。その末尾は次のように結ばれています。
「先王の迹(あと)既に遠く、地名又数(しばしば)改易(かいえき)す。是(これ)を以て旧聞を采獲(さいかく)し、詩、書を考迹(こうせき)し、山川(さんせん)を推表(すいひょう)し、以て禹貢(うこう)、周官、春秋を綴(つら)ね、下(しも)は戦国、秦(しん)、漢に及ぶ」

 この趣旨は次のようです。「先王(堯ぎょう、舜しゅん、禹以下の天子たち)の時代はもう遠くなり、地名も、現代(班固の頃。後漢はじめ)にいたるまでに、何回も何回も変ってきている。そこでそれぞれの現地で昔から言われている地名の変遷を調べ、『詩経』、『書経しょきょう』の中の地名を考え、現実の山川の名と照合し、『書経』の禹貢篇(夏書の篇名。中国最古の地理書)や周官篇(周書の篇名。周代の官制等の書)、さらに孔子の作った歴史書である『春秋』を連続させて参照し、後代は、周末の戦国期や秦、漢といった現代の地名にまで及ぶこととした」と。
 つまり、一言で言えば“地名の変遷史”です。決して“現代(班固のころ)の地名をのべる”とか、“漢代の地名をのべる”などと言っているのではないのです。この点、『漢書地理志という言葉に幻惑されてはなりません。そしてその方法としては、「現代地名」「現地の伝承」「『書経』などの古記録」をあわせ照合した、と言っているのです。民俗学、地理学、歴史学の諸手法の常道です。その中に、孔子の『春秋』があげられていますが、事実、地理志の中には「孔子曰(いわ)く」という形での引用が九回行われています(秦の京師一、秦地二、燕えん地一、斉地三、呉地二)。

 ここで注目すべきことは、孔子の言葉の引用と言っても、もちろん「儒教の教義」を説くことが目的ではありません。周代中葉以前の地理的証人としてです。孔子が周代、春秋末の実在人物であることは、自明です。ですから彼の発言には、“その時代以前から、その時代に至る”地理的認識が当然反映しています。その証拠資料として、班固はこれを“使って”いるのです。たとえば、
「孔子曰く、『(せい)、一変して(ろ)に至り、一変して道(みち)に至らん』」
          (漢書地理志魯地)

 とあります。これは“隣国の大国「斉国」も、その行き方を「一変」すれば、この魯の国のようになりましょう。そしてこの魯国の行き方も、もう一つ、「一夜」すれば、「道」にかなう国になるのだがね”。こういった意味です。孔子の現実の諸国家への評価、そして理想国家観、さらにそのための大いたる変化としての「一変」観をのべた発言です。けれども、今は次の資料として用いられています。第一に「斉」「魯」という隣接国名の資料。第二に班固はのべています。“周興(おこ)ってより、周公の子の伯禽(はくきん)がこの魯の国の曲阜(きょくふ)に卦ぜられて魯侯(ろこう)となった。それで「周公」を「主」とするようになった。以来、この魯の地の民は「聖人の教化」を伝えてきている”と。この継承関係をバックにしてこの孔子の発言だというわけです。いわば風俗資料です。このようた地理的関係と歴史的変遷が、この孔子の発言の背景にはあるのだ。 ーー班固はこのようにのべているのです。

漢書地理志 序 先王之迹既遠  邪馬一国への道標 古田武彦


“二人ぼっち”の航海

 さて、このように地理志全体の史料性格を見つめてきますと、問題の燕(えん)地の、孔子の「桴いかだ論議」は、どのような地理的資料として“使われている”のでしょう。“桴に乗って海に浮かぶ。そして海の彼方に住む東夷の所へ行く”。こういう発想の背景をなす地理的認識は何でしょう。 ーーズバリ言って“その東夷は島に住んでいる”、“島の中に東夷の国がある”、こういう認識です。
 桴に乗って海上に出、潮と風に乗って彼方へ行ったが、“その先には何もなかった”、“ナイヤガラの大瀑布(ばくふ)のように海流は大落下していた”、“島々はあったが、誰一人、人問はいなかった”などというのでは、悲劇です。それどころか“おれとお前と二人ぼっち、桴に乗って”という詩的表出も、とんだ喜劇シーンになりかねますまい。
 “孔子がこのような発想をする、その地理的根拠が必ずあるはずだ” ーー班固はそう判断し、「以(ゆえ)有る也夫」(根拠があるだろうか)と、自ら問いかけているのです。その答えが、わたしたちに有名な(E)です。「確かに、地理的根拠があるのだ。なぜなら、楽浪海中の島の中に、倭人が住んでいる。百余国にも分れているかなりの「大国」だ。そして貢献のきまった年時に従って、わが中国(の出先の役所)にやって来て、貢献物を献上してきている、と言われているから」と。
 ここで重大なこと、それは右の傍点部は、“孔子以前の歴史事実”を指していることです。そうでなければ、“孔子の発言”の背景をなす根拠とは全然なりえません。ここに「・・・と云う」という言葉で結ばれていることも、それをしめしています。班固は現代(後漢)の事実をのべるのに、こんな言葉はつけていません。
 これを班固が“自分にとってあやふやた知識だ”。ということを告白しているのだ、ととった人もありますが、とんでもない勘ちがいです。そんな“あやふやな”ものでは、孔子の発言の裏づけになど、なりえません。“孔子のあやふやさ”を印象づける、だけとなりましょう。そうではなくて、「現代そのものの知識」ではなく、「旧聞を采獲(さいかく)し、『旧記』に照合してみた」結果、信用できると判断した結果、それをこの「・・・と云う」と形で表現したのです。 従ってこれを「前漢末、後漢初」という、班固時点の史実と判断してきた、日本の古代史学界は、とんでもない錯覚を犯していたこととなります。そしてそのような形で“青年たちに教えてきた”日本史の教科書もまたーー 。

 

「誤認」の回復

 もう、お分りでしょう。ここで班固が言っているのは、洛陽(らくよう)の「太学」における五つ年上の先輩、王充が『論衡ろんこう』で言っているのと同じ歴史認識なのです。
 そう、「周の成王のとき以来、倭人(わじん)は周王朝に貢献してきた」という、あの事実なのです。その上、この話には、もう一つ、興味深い“裏”があります。倭人が箕子(きし)を通じてはじめて周王朝に貢献したとき、そのときの天子、成王は幼少でした。父武王の突然の死をうけて、にわかに即位したものでしょう。そこでその後見役となったのが、有名な「周公」です。
 「武王崩じ、成王少なり。周公旦、代りて当国に行政す」
       (史記、宋微子世家)

 この周公に対する孔子の傾倒ぶりはよく知られています。
 「子曰く『甚(はなは)だしいかな、吾(われ)の衰えたるや。久しいかた、吾復(また)夢に周公を見ざること』と」

 夢の中で周公に会い、これに問い、その答えをえていた。そういったのが孔子の“精神生活の秘密”だったのです。これは、周公の遺風をうけた魯の国、曲阜(きょくふ)に育った、孔子の若き日の精神形成のあり方から、生れたものでしょう。言ってみれぼ、“狂熱的な周公ファン”だったのです。
 一方、“成王の時、はじめて貢献した倭人”とは、すなわち幼少の成王に代って政治をとっていた「周公に、はじめて貢献した」夷人(いじん)だったわけです。いいかえれば、天が周公の仁政に感じて「遠夷貢献」させたもの、それが倭人、ということになります。とすれば、孔子の脳裏のイメージには、「周公 ーー 倭人」という結びつきは、馥郁(ふくいく)たる香り高い印象で記憶されていたのではないでしょうか。それでこそ「中国に道が失われた」とき、老子のように“西方に去る”のではなく、東方の海上をはるかに想い描いたのも、うなずけます。あの理想の周公の世、「天子への忠節」という「道」を、もっとも素朴な形で表現した、という民のすむ島。それが倭人の地だったのですから。
 少なくとも、班固がそのように見なしてこの一段を書いていること、それをわたしは疑うことはできません。それを、後代の学者が「倭人記事」だけ、切り離し、時代性をも、勝手に“切り下げて”漢代の記事として“扱いなして”きただけなのです。


訓読を正す

 ここで一歩退いて“足がため”をしておきましょう。まず訓読。わたしは地理志燕地で、孔子の発言の後、倭人記事の直前の一句について、「以有る也夫(か)」と疑問形に読みました。従来は、
 「以(ゆえ)有る也。夫(そ)れ、楽浪海中に倭人有り」

 と読んできました。この読みに従った講釈も、種々なされています。二十四史百衲(ひゃくのう)本の『漢書』でも、右のような区切りを採用し、「也」と「夫」の問に、顔師古(がんしこ)注がはさまれています。唐の顔師古の“区切り方”をあらわしているものと思われます。

 これに対し、香港中華書局の全十二冊、標点本では、「有以也夫!」となっています。これは、「以(ゆえ)有る也夫(かな)」と読んでいるものでしょう。わたしは、区切りとしてはこれがいいと思います。
 なぜなら、
 「猶(なお)、義のごとき也夫(か)
    〈疏〉「夫」は、是(これ)、疑怪の辞。(左氏、昭十六)

 「申子(しんし)、我に説きて戦はしむ。吾を相と為(な)す也夫(か)
    〈注〉「夫」は、不満の辞。(呂覧審応)

 という用例があります。従ってここも「也夫」を一まとめにして“疑問の辞”と見るべきだ、と思います。従ってこの問いに答えるべく、提示されているのが倭人記事、というわけです。



 三 孔子は倭人を知っていたーー『論語』『漢書』をめぐって

孔子と日本列島

 もう一つの問題点を“煮つめ”確認しておきましょう。『論語』の中のこの「桴」発言について、現代の日本の学者の多くは、“孔子が日本を目指したもの”とはうけとっていません。「山東半島付近から朝鮮半島あたりを目指したものだろう」というのが、大方の“解説”のようです。
 たとえば、貝塚茂樹(かいづかしげき)さんは、「孔子が桴(いかだ)に乗って海上に脱出しようとしたのは、どこをめざしたのであろうか。孔子のいる魯国の位置からすると、山東半此の海岸から、東にでて、遼東(りょうとう)半島から朝鮮半島にかけての対岸が、ぼんやりと意識されていたのであろう」(『論語』中公文庫本)と言っておられます。けれども、わたしのよう一介の探究者の目には、このような学者の解釈は、率直に言って理解できないのです。
 なぜなら、遼東半島や朝鮮半島は中国から地つづきです。周代にも、そのこと周知の地理的知識だったはずです。そこへ行こうというのに、「桴に乗って行こう」というのは、“海洋マニアでもない限り、いささか奇妙な発想、ではないでしょうか。ことに“陸地人間”である中国人が“陸で行ける”ところを、わざわざ“海を行く”というのは、わたしには解(げ)せません。先入観なしに素直に理解する限り、孔子が脳裏に描いているのは、“海でしか行けないところ” ーーつまり「島」に住む人々だ。わたしにはそう思われるのです。この点、かえって一部の江戸時代の儒学者たちの方が率直にこの文を解したようです。
 「故(ゆえ)に桴に乗りて海に浮び、東夷の民を化し、以(もつ)て礼義の俗を為さんと欲(ほつ)す」
     (伊藤仁斎『『論語』古義』巻之三)。
 「『子、九夷に居らんと欲す』九夷。未(いま)だ其(そ)の種を詳(つまびら)かにせず。徐・淮(わい)の二夷、経伝に見ゆ。我が日東の若(ごと)し」
     (同右、巻之五)。

 これに対して荻生徂徠(おぎゅうそらい)が『論語徴ちょう』で彼独自の理論たる「三代聖人之古道」論の立場から、果敢な反論を展開したことは有名ですが、仁斎の理解は、原文の文脈そのものに対しては、素直な理解と言えましょう。これに対して現代の学者の方が、かえって近代の啓蒙(けいもう)主義史学に由来する先入観に“災いされて”本来の文脈をいささか歪(ゆが)めて解するのを習わしとしてきたようです。


孤絶の世界

 わたしは、文献それ自身のしめす論理の糸をなどりながら、“とんでもない”新世界を見てしまったようです。
 『論衡』(ろんこう)のしめす史料、『漢書』の展開する史料系列、『論語』の語る地理像。それらは立体的な世界像を自然(ナチュラル)に形造っている。 ーーわたしの目にはそう見えています。
 それは従来の日本の古代史、東アジアの古代史の常識に反する地帯。いわば未踏の沙漠(さばく)をひとり歩いている自分に気づきました。まわりを見まわしてみても、ずんずん歩いてゆくうちに、多くの仲間から離れ、ふと気づくと、あまりにも遠くまで来てしまった。物音ひとつしない、孤絶の世界。そういった感じです。昨年の二月、家のそばの竹藪(たけやぶ)道を歩きながら、何か奇妙な“うすら寒さ”を感じたのを覚えています。


旧知の人

 そうしたある日ふと“旧知の人”が向うから手をさしのべているのを見たのです。 ーー陳寿(ちんじゅ)。そう、『三国志』の著者です。
「古(いにしえ)より以来、其(そ)の使中国に詣(まい)しるや、皆自ら大夫と称す。(魏志倭人伝ぎしわじんでん

 倭人伝にふれたことのある方なら、おたじみの文面です。しかし、この一文には重大な秘密の鍵(かぎ)が二つ隠されていました。
 その一つは「古より以来」。これは具体的には、いつのことでしょう。“漢代以来”くらいの意味で、従来は理解されていたようです。わたしもそうでした。何しろ、今までは、倭人に関する、信頼できる最古の記事は、例の『漢書』の「楽浪らくろう海中・・・」の記事だ。そしてそれは漢代(前漢末、後漢初)のことだ、と信ぜられていたのですから。ですが、問題は「古」という一語です。『三国志』で、「古」というとき、それはどの時点をさして用いられているのでしょうか。
 わたしは、何となく“「古=漢代」ではないのではないか”と漠然と感じていました。それは、あの「壹と臺」の検査や「里数記事」などの点検をする中で、「古」の用例はたくさん目にしていたからです。そこで今回意識して「古」を点検してみました。すると、すぐ分りました。やっぱり『三国志』の場合、「古」は原則として「周以前」つまり、ほぼ「堯ぎょう、舜しゅん、禹、夏、殷いん、周」のことです。たとえば、

 「秦は古法に違(たが)ひ、漢代之(これ)に因(よ)る。先王の令典に非(あらざ)るなり」(『魏志』五、黄初中、陳羣の上奏)

 ここでは、秦、漢は「古法」に違っている、と批判されています。ですから「古法」とは、当然「周以前」です(「先王」とは“堯、舜、禹の聖天子と、夏、殷、周の天子たち”です)。
 また、
 「大魏、命を受け、虞(ぐ)、夏を継蹤す。孝文、法を革(あらた)め、古道に合わず」
       (『魏志』十三、太和中、鐘鷂*、上疏)
鷂*は、鳥の代わりに系。JIS第3水準ユニコード37E47

 「虞夏」は舜と禹。前漢第四代の文帝(孝文)の改革は「古道」にあっていない、と批判されています。当然漢代は「古」ではない。やはり「周以前」です。そのほかにもいくつも例はありますが、考えてみればこれは当然のことです。なぜなら、たとえば昭和から見て明治や大正を「古いにしえ」とは言えません。徳川時代でも「古」とは呼びにくいでしょう。同じように、三国時代の人が直前の漢代を「古」とは呼べないのが当り前です。せめて「周代以前」でなくては。
 こう考えてみると、倭人伝の「古より以来」を「漢代以来」の意味と考える方がもともとおかしかったのです。当然、「周代以前から」ということです。それもギリギリの「周末から」では、語感として、どうもピッタリしません。「古=堯、舜、禹及び、夏、殷、周」ですから、その中で一番新しいのが周です。せめて、その「周代以来」くらいではなくては、この「古」という表現は、ピッタリしたいのです。ではなぜ、従来、これを漫然と「漢代以来」くらいに考えてきたのでしょう。その一因は倭人伝冒頭の文にあると思います。
 「漢の時朝見する者有り、今、使譯通ずる所三十国」

 ここでは確かに「今」と「漢の時」が対比されています。そこでこの「漢の時=古より以来」と混線して考えてきたのではないでしょうか。
 しかし、この二つは全くちがいます。なぜたら、「漢の時」の方は「朝見」です。洛陽(らくよう)なる天子のもとへ倭人の使が直接行っているのです。そう、あの志賀島(しかのしま)の金印、後漢の光武帝の時です。これに対し、本文の「古より以来」の方はちがいます。「中国に詣る」というのは、必ずしも「中国の都に詣る」の意ではありません。楽浪郡治(ピョンヤン付近)や帯方(たいほう)郡治(ソウル付近)に行けば、それで「中国に詣る」と言いうるのです。“ここを通じて中国の天子に貢献する”。それが中国対夷蛮(いばん)の関係の根本ルールたのですから。そして周代なら、あの「燕えん」や「箕子きし朝鮮」に行けば、「中国の天子に貢献」できたのです。倭人伝の、この「古より以来」は、それを指していたのです。
 そうです。『論衡』の「周の世、天下太平・・・・・・倭人、鬯草(ちょうそう)を貢す」の、あれです。また、『漢書』の「歳時(さいじ)を以(もつ)て来り献見すと云う」の、あの記事をうけていたのです。そのとき、陳寿は、当然それを「漢代」といった「近代」のことではなく、「古」すなわち、「周以前」のことと見なし、ズバリ「古より以来」と書いているのです。ここにも、「周代の倭人貢献」の“裏書き”をしていた、第三の証人が現われたのです。

 

周代からの伝承

 これには、さらにもう一つの“駄目押し”がつけ加わります。それは「古より以来・・・」に続く、
 「皆自ら大夫(たいふ)と称す」

 の一句です。
 この「大夫」とは、「卿けい、大夫たいふ、士」という、統治階級の三分法の一つであることは、よく知られています。「士」も「大夫」も、『論語』などに出てきて、わたしたちにはおなじみです。たとえば、
 「子曰(いわ)く『・・・・・・以て縢(とう)、薛(せつ)の大夫と為(な)すべからず』」
        (論語憲問篇)

 これは魯の孟公綽(もうこうしゃく)に対する孔子の人物評です。“彼は趙や魏の執事(老)ならいい。「縢」や「薛」といった小国をとりしきる大夫にはむかない”。こういった意味のようです。
 ところが、この「卿、大夫、士」という、夏(か)、殷(いん)、周に用いられたと言われる、この三分法は、周を以て断絶するのです。もちろん、秦(しん)、漢からあとも、官名の一部としては残存しています。たとえば「御史大夫」「光禄大夫」「大中大夫」のように。しかし、「周以前」のような三分法ではなかったのです。そして陳寿のいた西晋(せいしん)代になると、もはや県邑の長や土豪の俗称となっていました。
「県邑の長、宰(さい)と曰(い)ひ、尹(いん)と曰ひ、公と曰ひ、大夫(たいふ)と曰ふ。〔注〕晋之(これ)を大夫と謂(い)ひ、魯衛(ろえい)、之を宰と謂ひ、楚(そ)、之を公尹と謂ふ」
         (通典、職官典、県令)

 従って、倭国の使が名乗っていったのは、この俗化した三国時代の用法でなく、「夏、殷、周」の用法に従っているのです(『「邪馬台国」はなかった』第六章II参照)。
 なぜなら、倭王(わおう)は、卑弥呼の例に見るように、中国の天子から「親魏倭王」の称号をもらっています。つまり中国内部で言えば「卿」に当ります。その倭王のナンバー・ワンの重臣である難升米(なんしょうまい)らが倭国の使節として「大夫」を名乗っているのですから、これはまさに「卿 ーー 大夫」という中国の統治者階級三分法をまねて、その“正しい位づけ”に則して自称しているのです。いいかえれば、自称は、自称であっても、決して分不相応、越権の自称ではなく、いわば中国の天子を中心とする冊封(さくほう)体制(天子が冊(さく)をもって封爵(ほうしゃく)を授け、それぞれの位置づけを行う政治体制)の中に、正しく自己を位置づけた、そういう自称なのです。
 さて、その場合、模倣(もほう)の対象となる時期はいつでしょうか。三国はもとより、秦(しん)、漢ではありません。その時期には、すでに中国では、「卿、大夫、士」の区分法は“消え去っていた”のですから。当然、その未だ消えていなかった時代、つまり「周以前」のみが、倭人に影響を与えた時代です。とすると、ここにもまた、「中国 ーー 倭」間の交流は、「周以前」にさかのぼる、その明確な徴証が現れたのです。少たくとも、陳寿がそのように信じて叙述していること。わたしはそれを疑うことができません。

親魏倭王の印 宣和集古印史 邪馬一国への道標 古田武彦

 

はるかなり、大交流

 わたしは前に次のようなシーンをテレビで見たことがあります。南太平洋上の舟ですが、そこで行われている儀式でした。結婚式か何かでしたが、物々しくもきらびやかな服装の行列。アナウンサーの解説によると、ビクトリア王朝の服装だそうです。この島がかつてビクトリア女王の時代、「大英帝国」の植民地だった、その遺風が今に至るまで連綿とつづいてきた。もちろん、現代のロンドンヘ行っても、博物館以外、決してお目にかかれない、十八世紀の儀式の服装が、ここでは、今も“生きて”いる。そういうわけです。
 これは人類学風に言えば、一種の“ドーナツ化現象”です。一つの文明圏の中心部ではすでに失われた風習が、周縁部に遺存している、というわけです。たとえば「漢字」もそうでしょう。本場の中国以上に、日本ではいわゆる「旧漢字」がなお“生きて”日常生活に使われています。発音でもそうです。「漢音」「呉音」などという、中国の古い発音が、日本では一種の“なまり”を帯びながらも、とにかく現代まで伝えられ、実用に使われているのです。今、問題の「大夫たいふ」でも、そうです。中国では、三世紀の魏晋(ぎしん)の間に発生した、という、土豪の自称としての「大夫」。日本では、ずっと後代になって、そういう用いられ方がされてきます。 ーーあの、森鴎外で有名な「山椒大夫」などがそうです。
 というわけで、この三世紀倭国の使節が自称した「大夫」も“ドーナツ化現象”の一種と言っていい、と思います。すなわち「周代以前」に、中国文明とすでに接触していた、その証拠(あかし)、その明々白々たる遺産なのです。
 こうしてみると、今まで“夢まぼろしの映像”のように見えていた倭人の、「周代貢献」、それは、いかにしても、疑うべからざる歴史事実だったのです。
 わたしは、はじめはあたかも片々たる流言飛語のたぐいに見えていた「倭人貢献」の一句に導かれて時の流れを遡(さかのぼ)りはじめ、今ようやく、古代東アジアの、中国海をとりまく壮大な交流の跡かたを、目のあたりにすることとなったようです。


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