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古田武彦
再びわたしは衝撃をうけた。最初(一九七六年)は一月の中句、藪田氏の訃報(ふほう)を新聞に見たときである。その直前、氏からお便りをいただいていた。新年を賀するお言葉と共に、「幾度もおたずね下され恐縮千万です」とあり、病中ゆえ失礼した旨が氏の自筆で書かれていた。その矢先だったのである。
第二は「歴史と人物」三月号に「邪馬台国新義」と題する氏の遺稿を見たとき。告別式で氏の温顔を写真に拝しつつ、“もしや遺稿でも残されてあれば。いや、それは無いものねだりだろう”そのように思って、無念をつくづくかみしめていたからである。
今、思わざりし再反論をえた喜びの中に、氏の霊前にこの一篇を捧(ささ)げたいと思う。
まず、氏の論点に従って考えよう。
氏は第一論文において、わたしの邪馬壹国説に対し、上の語をもって揶揄(やゆ)せられた。けれども、思うにこれは、次のような版本状況に対して、はじめて適切な評語であろう。“『三国志』の全版本、すべて「邪馬臺国」と版刻せられている。ただ唯一の例外として「邪馬壹国」がある”と。
しかし、事実は全くこれに反している。『三国志』の全版本すべて例外なく「邪馬壹国」だ(ただし「邪馬一国」も数例ある)。これに対し、「邪馬臺国」は一例もないのである。だから、邪馬臺国説こそ三世紀の『三国志』に関する限り、「天下の無証」だ。わたしはこのように応じたのである。
これに対し、氏は今回次のように言われた。“いずれにしても南宋以前の『魏志』証本に「邪馬壹国」を検証されなければ、やはり、「天下の孤証」たらざるを得ない”
この一文がすべてだ。だが、これだけでは、わたしの指摘した事実に対する反証とは到底なりえないようである。その上、右の行文には新たな、事実の誤認がふくまれている。なぜなら、わたしの第一論文(「九州王朝の史料批判」本書二二一〜二五三ぺージ)でしめしたように、乾隆年間の清朝勅撰武英殿本の校記によると、各種の北宋本が対校本として用いられている。ところが「邪馬臺国」という校異は一切表われていない。また現代の台湾側刊行の『三国志補注』には「宛平三校北宋本」等の各種北宋(依拠)本が対校されているが、これにも「邪馬臺国」という校異はいっさいない。また現在わたしたちの目にしうるものとして、束京の静嘉堂文庫に明景(=影)北宋本を所蔵する。これも「邪馬一国」だ。無論これは、北宋本そのものでなく、北宋本に依拠して明代に影刻した版本だ。ちょうど、現在わたしたちの使用している二十四史百衲本所収の紹煕(しょうき)本が南宋本そのものでなく、張元済による影刻本(一九二八)であるのと似ている。これは、いわば「張元済景、南宋本」というわけだ。
ところで明代の版刻のさい、「邪馬臺国」とあった原本(北宋本)に対し、版刻者がこれをあやまりとし、「邪馬一国」と“改刻”したのがこの静嘉堂文庫本だろうか。それはありえない。なぜなら、明代の学者に“「邪馬臺国」はあやまり”などという学説の存在した形跡は皆無だからである。だから、やはり版刻原本(北宋本)の表記を踏襲した、と考えるほかない。
この点、現二十四史百衲本所収の「張元済影南宋本」に「邪馬壹国」とあるのが、張元済による「改定」でないのと、同様だ(この点は、張元済景刻の原本たる、日本の宮内庁書陵部所蔵の紹煕本によって確認できる)。
それゆえ、氏の提言に反し、「南宋以前の『魏志』証本」たる北宋本に邪馬壹国(もしくは邪馬一国)とあったことは、十分に「検証」できるのである。この事実を、まず氏の霊前に報告しよう。
ここに注目すべき一点がある。「邪馬臺国」の表記は、五世紀の『後漢書』(南宋本)に表われ、以後、『隋書』『北史』『太平御覧』『翰苑』等の唐宋代史書がこれをうけついだ。つまり宋代は「邪馬臺国」という後代名称(五世紀以降)の“花ざかり”だったのだ。ところが、その同時代(宋代)成立の『三国志』版本では「邪馬壹(一)国」の表記が確固として厳守されつづけていたのである。
この対照的な事実。そのしめす意味は何だろう。それは次の二点だ。その一、『三国志』原版本は「邪馬壹国」であり、その原本事実は尊重せられつづけた。その二、ただ後代(五世紀以降)には「邪馬臺だい国」と呼ばれたので、“通史的叙述”では、もっぱらこの後代名称に依存することとなった(たとえば「日本の神武天皇」「中国の孔子」のように)。このような見地に立ってのみ、右の対照的な二つの史料事実を過不足なく説明することができるのである。この一点を霊前に告げると共に、世の論者の深い認識を求めたい。
「版本の原形」という、学問上の真偽が多数決的決定の対象でない点、幸いに氏にも異論がない。ただ先記のように、『三国志』に関する限り、全版本一致で「壹(一)」だ。およそ“多数対少数”の類の問題ではないのである。
わたしは前章の論文でのべた。“春秋左氏伝などに賤官の義の「臺」があっても、現に魏晋朝の朝廷内で天子自身(上かみ御一人)を指して「臺」と指称している(高堂隆撰『魏臺雑訪議』)のに、わざわざこの至高貴字『臺』を選び出して夷蛮固有名詞の「ト」の類の表記に、魏晋朝の史官が使用する、そんなことは決してありえない”と。
しかるに氏はこれに対して直接の反証をなしえられず、「いかに謂(い)われても『臺』には卑人の義もある。・・・それが絶対的でないことを論じたまでである」と言われたにとどまった。「臺」に賤官の義のあることは、すでにわたしが第二書(『失われた九州王朝』六〇ぺージ)にしめしたところだ。だから問題のキイ・ポイントは、あくまで「魏晋朝史官の、至高貴字不選択の道理」だ。これに正面から反証しえぬまま、「絶対的でないことを論じたまで」と言われるのでは、遺憾ながら学問的な反論を実質的に放棄されたもの、と言わざるをえないのではあるまいか。
わたしは第二書において、『隋書』においては「イ妥*国伝」であって「倭国伝」ではないことを指摘した。「倭国」の方は、帝紀に二回出現するだけなのである。
これに対し、氏は両字は筆法の相異にすぎず、混用字形として慣用されたもの、と称されたのである。そしてその混用例として、
(1)「糸委*」と「綏」(『干禄字書』)
(2)「才委*」と「才妥*」、「糸委*」と「綏」(『五経文字』)
(3)「才委*」と「才妥*」(『大宋重修広韻』)
才妥*は、手(ユニコード624C)編に妥。JIS第4水準ユニコード633C
才委*は、手(ユニコード624C)編に委。JIS第3水準ユニコード637C
糸委*は、糸編の委。JIS第3水準ユニコード7DCC
をあげられた。この(1)は氏のミスであり、その史料事実はなかった。この点、わたしは右字書の各種版本を渉猟したがついに発見しえず、これを不可解として直接氏の宅へ訪れてお聞きしようとしたのであるが、氏は入院中(面会謝絶)のため、これを果たせず、このことが先の氏のお便りの文言となったのである。この点は、幸いにも氏自身、そのミスたることを承認されるところとなった。
さてわたしは、“「委と妥」は混用字形”という氏のアイデアを『隋書』という史料事実において、実際に検証した。その結果、氏のアイデアが全く史料事実に反していたことが証明されたのである。わたしは前回、その検証結果を具体的、統計的にしめした。そこには右の混用事実は全く存在しなかった。たとえば「委」一三〇個、「妥」五六個、いずれも明白に峻別(しゅんべつ)して使用されていたのである。
このような実証的結果に対して、氏はやはり正面から反論されず、ただ“「倭」と「イ妥*」は明らかに混用されたと見る”(傍点古田、インターネット上は赤色表示)とくりかえされただけだ。そしてその「証拠」としては、次のようだ。このようなあやまちを“私も時々これをやる”と。
ここにしめされた論法は特徴的だ。“私はこう見る”“私の経験では・・・”と。これはいわば“前実証的手法”だ。“自己のいだいたアイデア”が恣意でないかどうか、その客観的な検証こそ学問の生命である。 ーーわたしの目には、そのように見えている。しかるに、実証的な検証結果を“意に介さぬ”風で、“私はこう見る”と氏が言われるとき、失礼ながらそれはすでに学問的論争のらち外に出られたものと、わたしの目に映ずるのをどうしようもなかったのである。
氏は一九六二年のみずからの論文(「和泉黄金塚出土魏景初三年銘鏡考」「日本上古史研究」第六十一号)をあげ、次のようにのべられた。
「古田氏の九州王朝論に似たところがあり、発表の先後問題が起こるといけないから、ここに一言ことわっておく」。何かわたしの説が氏の説の模倣であるかにも見える筆致だ。奇怪に思いつつ、右の論文を検してみると、その関係要旨は次のようだ。
(1) 耶馬台国は九州にあり、ヤマトと称した。
(2) 近畿天皇家の始祖は応神天皇であり、騎馬民族が侵入して設立したものである(この点、江上波夫説を継承)。
(3) ただし、右の騎馬民族は九州上陸でなく、日本海沿岸地方(多分、越前の敦賀)上陸である(天日槍に注目する)。
(4) 応神こそ倭王讃である(前田直典説による)。
(5) 近畿の応神(讃)は九州の邪馬台国を滅ぼし、その名(倭 ーー ヤマト)を伝襲して、その後継王朝であるかによそおった。
(6) 「讃の計画は図に中(あた)った」中国側は彼の言い分を信じて倭の五王に次々と授号するに至った(『宋書』倭国伝)。
(7) やがて推古天皇朝に至って、「日出づる処の天子・・・」の対等の国書を隋帝におくった(『隋書』倭国伝)。
以上であるから、これがなぜ、わたしの九州王朝論の先蹤(せんしょう)となるのか、わたしには不明である。わたしの場合、“前二世紀から七世紀末に至るまで、中国を中心とする東アジア世界において日本列島代表の王者と目されたのは、一貫して九州(筑紫を中心とする)の王朝であった”とする。これを九州王朝と名づけたのである。これに反し、氏の場合、倭の五王も『隋書』の多利思比(「北」の改定)孤も、共に近畿天皇家を指すものと見なされる。これでなぜ、わたしの説の先蹤なのであろうか。“邪馬台国を九州とし、倭の五王以降を近畿とする”九州論者の場合、近畿天皇家が邪馬台国を滅ぼし、その国号(倭)を襲うた、とするのは、明治以来、しばしば説かれた所(たとえば白鳥庫吉「卑弥呼問題の解決」昭和二十四年)であって、必ずしも氏の独創ではない。何故、氏が「先後問題云々」をもって、その最後の論稿の末尾を結ばれたのか、今はただ虚空に向ってこれを空しく問うのみである。
以上のべたように、氏の反論はその実質に乏しく、率直に言ってわたしにとっては、一種物淋しき感を拭(ぬぐ)いえなかったのである。けれども、死の床に近かりし氏のことを思えば、それもまた、万止(や)むをえぬ事態だったのであろうか。これに対し、望外の収穫となったもの、それは氏の邪馬台国観の全体像がいわばスケッチのようにその輪郭をしめされたことである。
氏は「軍事力も経済力も持たぬ宗教王国」としての邪馬台国を思い描かれた。そして「邪馬台国には一定の国土がなく、諸国に宿借りをして、一定の期に移動していたのではなかろうか」と言われる。そのようないわば“一所不住”の宗教王国に対して、魏主は“「邪馬台国」なる国名を作った”とし、それは“魏主のロマンであった”とまで。“想像”されている。何か、魏の天子は当世風の小説家並みに仕立てられた趣であるが、わたしは今、このような氏のデッサンに接しつつ、とりわけ深い興味をおぼえざるをえなかったのである。わたしが興味を覚えたのは、次の点だ。氏の旧論文(先記)では、左のように明記されていた。
「倭国は後漢以来中国に朝貢し、魏に至って耶馬臺の卑弥呼女王が魏主より親魏倭王に除せられた。倭国はシナ朝廷から承認を受けた国家となっていたのである」
つまり、ここでは邪馬台国は、決して“一所不住”の「宗教王国」などではない。レッキたる主権国家の態だ。それがなぜ、今や「邪馬台国には一定の国土がなく、諸国に宿借りをして、・・・」などという、“奇想天外”なデッサンで描かれることとなったのだろうか。
わたしには、この変容には深い意味がある、と思われる。なぜなら、考古学的遺物の出土状況が「邪馬台=ヤマト(山門等)=中心の都邑とゆう地」説を全く支持しないからである。
たとえば、二・三(前半)世紀の出土物とされる(中)広矛・(中)広戈を例にとろう。それは明白に博多湾岸が中心だ。筑後山門などではない(古田「邪馬台国論争は終った」『邪馬壹国の論理』所収、参照)。
次に「銅鏡百枚」について。これを三角縁神獣鏡とすれば、当然近畿説とならざるをえぬ(ただしこの鏡は弥生遺跡もから全く出土しないため、近畿論者は不可避的に「全面伝世論」という、「時を飛び越える」手法に奔(はし)らざるをえなかった)。
これに対し、九州説の場合、「漢鏡」をそれとして比定する以外に道はない。とすると、全一六八面中、第一位は福岡県(一四九面)であり、第二位の佐賀県(一一面)を大きくひきはなしている。その福岡県の中では、筑前中域(博多湾岸と糸島郡。一二九面)は、筑後(四面)を大差をもってひきはなしている(筑前東域は一六面)。
この「鏡の事実」を見失わぬかぎり、筑後山門等をもって権力中心(都)とすることは、誰人にも不可能である。すなわち、帰結するところはただ一つ、 ーー「筑前中域こそ倭国の中心である」この命題である(「九州王朝の銅鏡批判」「別冊週刊読売」古代王朝の謎に挑む、一九七六年二月刊、『ここに古代王朝ありき ーー 邪馬一国の考古学』朝日新聞社刊、参照)。
これは決して主観的解釈などの問題ではない。何人にも回避しえぬ、客観的な出土事実なのである。
このような現実に対し、「博多湾岸=奴国」説という旧説を墨守(ぼくしゅ)しつつ、なお「九州説」を建てようとすればいったいどうなるであろうか。それは必然的に二分別される。その一は、「無邪気なる九州論者」、その二は「さまよえる九州論者」だ。
第一の論者は、筑後・宇佐・島原半島など、九州各地に“任意に”邪馬台国を「創建」する。〕それぞれの主観的な倭人伝読解を誇示しつつ。しかし、右の考古学的出土物状況がこれと決定的に矛眉する、という根本事実を一向に“意に介さない”のである(“自分の邪馬台国にも、矛や鏡が若干出る”というのでは無意味だ。都という以上、最多密集出土地でなければならぬ)。
第二の論者は、右を“意に介した”ため、結局いずこにも邪馬台国を“定めがたく”なった人人である。すでに松本清張氏がその一人であり、森浩一氏もこれに準じておられた(ただ、森氏は最近になってようやく、「博多湾岸=奴国」説は決定的ならず、とされるに至った〕。
このように分析してくると、一見“奇矯ききょう”に見える、藪田氏の邪馬台国“一所不住”説が、実はいわば深い論理性を帯びて“造出され”、必然的に“導かれ”たものであることが知られるのである。
近年、“邪馬台国の位置論は、結局決定しがたい”といった揚言を好む人々がある。これは藪田氏の立言と、実は似て非なる、皮相の説である。なぜなら、諸「邪馬台国」説の乱立する、表面の「現象」を外部から眺めているだけで、その実質を見極めず、一種“物知り顔の評言を放つ”人々だからである。
藪田 ーー 松本 ーー 森の三氏の場合は、これとは異なる。近畿説を非とし、九州説に立ちながら、考古学的出土遺物の事実に目をそむけることができないために、かの「無邪気なる九州論者」とはなりえなかった。そして真の解決の一歩手前で立ちどまってしまわれた人々だからである。
今回の遺稿を通視して、わたしにもっとも残念に思われたことがある。それは、わたしが前章の論文(「九州王朝の史料批判」)で氏に問いかけた、五か条の質問に対するお答えが全くなかったことである。ことにその中でも第一にあげた「魏晋(西晋)朝の短里」問題については、尺度問題の権威たる氏の御批判を是非ともうけたまわりたかったのである。しかも、これは一「里単位」の問題にとどまるものではない。史料としての倭人伝の記載が果たして厳格か放漫か、それを的確にテストすべき“絶好の基準尺”となるべき性格の問題だったのである。そしてこれは『三国志』全体の里数表記、さらに魏・西晋朝産出全文献の里数表記の客観的検出によって、方法上容易にその検証結果をうることができる。いわば“物理的に”解決可能なテーマだったのである。
従来の研究史上、「倭人伝内里単位誇張説」(白鳥庫吉氏等)、「東夷伝内(一部)里数値誇張説」(山尾幸久氏)、「三国志内全里単位誇張説」(藤沢偉作氏)が次々と生産されてきた。しかしそれらがひっきょう成立しがたいことを端的にしめす証拠が新たに見出された。それは『蜀志しょくし』諸葛亮(しょかつりょう 孔明)伝にしるされた冢と墳の区別だ。
「山に因りて墳を為し、冢は棺を容(い)るるに足る」
孔明の遺体は漢中の定軍山に葬られた。そのとき生前の遺言によって右のような質素な冢が“既存の山(定軍山)”を墳に見たて、その一角に築かれた、というのである。『三国志』では墳と冢の両概念は明晰(めいせき)に区別されている。「大君公侯墓」の場合は、通例「墳」であった(蜀志十四)。これに対し、「棺を容るるに足る」程度のものは、当然「冢」であって「墳」ではないのである。孔明は中国三分の非常時たるにかんがみ、多大の人力・経済力を消費する「墳」を、自分の遺骸(いがい)のために築かれることをいさぎよしとしなかったのであろ
こうしてみると、卑弥呼の場合、「大いに冢を作る」とあり、それは「径百余歩」の規模だった、という。よく知られているように(藪田氏の名著『中国古尺集説』にも書かれている)「歩」は里」の下部単位であり、「一歩=三〇〇分の一里」である(後世は三六〇分の一里)。
従って「漢の長里=約四三五メートル」なら、百余歩(一三〇〜四〇歩)は、「一八〇〜二〇〇メートル」の巨大古墳となろう。ところが、「魏晋朝短里=約七五メートル」なら、「三〇〜三五メートル」となって、大き目の「冢」となる。この程度では到底「墳」とはいえないのである(森浩一氏も注意されたように、「墳」としては肝心の、「高さ」は書かれていない)。すなわち、陳寿がこの条に至って「径百余歩」と書いたとき、その脳裏に描かれた規模は決して二〇〇メートル近い大古墳ではなかった。それなら必ず「大いに墳を作る」と書いたはずであるから。逆に“三〇メートル前後のイメージ”だったから、これを、「大いに冢を作る」と表現したのである。
この検証によって、陳寿は決して誇大癖の放漫な筆を奔らしていたのでないこと、その目はきわめて真実(リアル)であったことがまさしく証明せられたのである。従って倭人伝におけ陳寿の数値記載が『三国志』の他の個所と同じく、「短里」に立っていたこともまた、今やこれを疑うことができない。従って、「誇張」として有名だった「郡より女王国に至る万二千余里」は、実は決して誇張などではなかったのである。
それゆえ、氏はみずから描かれた「邪馬台国」について、「その内容として語られるところのものはすこぶる曖昧(あいまい)で、ことごとくは事実として受けとりにくい」として、「里程」もその一つ、とされたが、それは以上の物理的検証の結果たる「冢の証言」と明白に矛盾していたのである。亡き氏に報告すべき論文の、一つの“きめ手”が死者を葬るべき「冢」の問題であったということ、これも、今は何たる奇縁であろうか。
わたしは、新緑の東山に向かった。二条近くの法華寺に眠る、藪田氏の墓所を訪れるためである。にわかにそそぎはじめた驟雨(しゅうう)の中で、百か日忌の卒塔婆の墨色の香も新しい「嘉藻院耀山日修居士」と書かれた文字を見つめつつ、わたしは氏に深い謝意を告げた。
思えば、邪馬一国論争にわたしが身を投じたのは、決して百花乱るる大家に伍して、空しき野花の妍(けん)を競おうとしたのではない。ただ従来の論争中にかえりみられなかった「邪馬台国」という根本の文字にささやかな疑義を投ぜんがためであった。そして各自、自家の識見を誇り合うに非ず、科学的に検証しうる端的な実証の道を求めようとしたのである。思うに、その方法は簡単である。“倭人伝の一字一句といえども、『三国志』の全用例に立って検証する”この一事に過ぎなかった。
その後も、各家の発表は相次いだ。けれども、表面の華やかさに相反し、学問としての「論争」はあまりにもとぼしかった。なぜなら、煮つめられた相手の論点に的確に反論する、そのような論文は、遺憾ながら多くを見なかったからである。
その中で、一九七四年八月、霹靂(へきれき)のように氏の論文(“「邪馬臺国」と「邪馬壹国」”「歴史と人物」九月号)が現われた。久しぶりにわたしの論点に対し、真っ向から批判の太刀を浴びせて下さったこの論文を見、ひそかに心躍るものを覚えたことを告白したい。わたしは直ちにこれに応じ、かねての課題であった『隋書』中の「委と妥」の全検証を行なった。そして予想以上に明瞭(めいりょう)かつ的確に両字の使用法が峻別(しゅんべつ)されているのを知ったのである。そしてはからずもその作業中、『隋書』経籍志の中に“「臺」は魏朝において天子自身を指す言葉であった”という、確固たる命題を立証する史料をえたのである(先記、高堂隆撰『魏臺雑訪議』)。
これらの発見は、いずれも氏のおかげである。そして氏は忽然(こつぜん)と幽冥(ゆうめい)へと去ってゆかれた。まさに渾身(こんしん)最後の力を、未熟なる後生のためにそそいで下さったのである。論証の当否は、後代の研究史の記録するところにまかせよう。今はただ、氏の懇篤なる御志に無限の謝意をいだき、この一文を静かに霊前に捧げたいと思う。
ーー 一瞬の前君ありき、
一瞬の後君あらず。 ーー(「弔吉国樟堂」晩翠詩抄)
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