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『倭人伝を徹底して読む』(ミネルヴァ書房
2010年12月刊行 古代史コレクション6

第八章 剣・矛・戈

古田武彦

一 『三国志』に現われた剣・矛・戈

 剣・矛・戈

 『三国志』の中で、剣とか矛・戈というものが、どういうふうにして出てくるかということを調べてみました。
  (1) 公(曹操)・・・・剣履けんり上殿せしむ。  (魏志)
 「剣履」は熟語で、普通天子の宮殿に上るときは、もしものことをおもんばかって剣を外し、丸腰になって昇殿しなければならなかったのですが、剣を帯びたまま昇殿することを許された者もいました。そうしたことを意味する言葉で、それはつまり信用できる人物であると、オフィシャルに認めたものだけに許されることであったわけです。そして曹操が、それを許され、宮殿に上っても、いつも剣を着けていたというのです。この故事からも、一般に上級の人物、将軍は、平常、武器として剣を身に着けていたことが知られます。

  (2) 更に匈奴の南単于、呼廚泉に魏の璽綬じじゅを授け、青蓋車・乗輿・宝・玉[王夬]を賜う。  (黄初元年、魏志二、文帝紀)
 ここでは匈奴の南単于が夷蛮の王として「宝剣」をもらっています。

  (3) 癸巳、仮大将軍司馬景王に黄鉞まさかりを仮し、・・・・履上殿せしむ。  (正元元年、魏志四、高貴郷公)
 ここでは黄色の鉞まさかりをもらい、「剣履上殿」を許されています。
 以上は帝紀に出てくる例です。次に列伝です。

  (4) [王贊](公孫[王贊])乃ち自らを持し、両頭、刃を施し、馳せ出でて胡を刺し、殺傷すること、数十人。  (魏志八、公孫[王贊]伝)
     [王贊]は、JIS第3水準ユニコード749C
 ここでは公孫[王贊]がみずから矛を持って戦っている姿が書かれています。剣も持っていたでしょうが、実戦においては柄のついた矛の方が[王贊]に合っていたのかもしれません。中国では矛よりも戟(げき)の方がむしろ一般的で、公孫[王贊]が倭国と同じ「矛」を使っていたということは注目されます。矛は、遼東半島から朝鮮半島、日本列島にかけて分布しており、中国大陸ではむしろ戟の方が多い。倭国は、漢代には漢の臣下である公孫氏の、そのまた臣下になっていましたから、[王贊]が矛を持って戦っているということは、筑紫一帯に矛がよく出てくることと無関係ではないのかもしれません。

  (5) (明帝の時)四年、洛陽に朝し、大司馬に遷り、履上殿、入朝不趨を賜う。  (魏志九、曹真伝)
  (6) (斉王の時)履上殿・入朝不趨・贊拝不名を賜う。  (魏志九、曹爽伝)
  (7) [王炎](崔[王炎]さいえん)対こたえて曰く「今天下分崩し、九州幅裂し、二袁(えん 袁氏)の兄弟、親ら干戈を尋ぬ。・・・・」と。  (魏志十二、崔[王夬]伝)
  (8) 干戈未だ敢*まず。  (魏志十三、王粛伝)
     [王炎]は、JIS第3水準ユニコード7430
     敢*は、攵の代わりに戈。JIS第3水準ユニコード6222     

 干戈(かんか)を熟語のようにして使っています。
  (9) 昔鯨布、南面の尊を棄て、に仗りて漢に帰す。  (魏志十四、劉放伝)

 剣が取り上げられています。
  (10)太祖、陳を陥おとすことを募る。韋(典韋)先ず占め、応募者数十人を将ひきい、皆重衣両鎧し、楯を棄て、但長矛・撩戟を持す。  (魏志十八、典韋伝)
 ここでは柄が長い矛と、いどみかかる戟が出てきます。撩鉤(りょうこう)というのは、柄の先に鉤を付した、古の戦具ですから、その類の戟でしょう。ともあれ、矛と戟を持って戦った。
  (11)韋(典韋)、好んで大双戟と長刀等とを持す。軍中、之が為に語りて曰く「帳下の壮士、典君有り。一双戟、八十斤を提す」と。  (魏志十八、典韋伝)
 「大双戟と長刀等を持する」。倭人伝に「五尺刀」が詔中に出てきますが、通例は片刃のものを刀、両刃のものを剣と呼んでいます。
  (12)(太祖)「汝なんじ(任城威王彰)、読書を念い、聖道を慕うことをせずして汗馬に乗り、撃剣するを好む。此れ一夫の用、何ぞ貴ぶに足らんや」と。(魏志十九、任城威王彰)
 ここで面白いのは曹操が「お前は読書をしたり、聖道を慕ったりせず、乗馬や撃剣ばかりを好む」と叱っています。太祖の子どもも「撃」を好んでいたことがわかります。

  (13)干戈まざるは、辺将の憂いなり。  (魏志十九、陳思王植伝)
 次は、鳥丸・鮮卑・東夷伝です。
  (14)(東沃沮)を持して歩戦す。  (魏志東沃沮伝)
 倭国のみならず、朝鮮半島の東沃沮もまた「矛」を持って戦っていたことが書かれています。

  (15)(倭)・楯・木弓を用う。・・・・常に人有り、兵を持して守衛す。  (魏志倭人伝)
 矛・楯・木弓を持って宮殿の周辺を守っていたということで、矛が出ています。

 

 中心は筑紫

 さて、こんなものはわかりきったことで、大したことではないという人もあるかもしれませんが、考えてみるとこれも大事なことです。『三国志』によると、中国本土内部において剣・矛・戈といったものが使われていることが確認されますが、しかし実は、中国本土におけるこれらの出土分布図がないのです。中国の博物館へ行けばその実物は見られますが、分布図はつくられていない。したがって『三国志』という同時代史料によって考えると、三世紀の中国では剣や矛・戈が使われており、しかも中国本土のみならず、遼東半島の公孫[王贊]も矛を愛用していた。のみならず、東沃沮も矛を愛用している。そして倭国も矛を非常に大事にしていて、宮殿を守衛するのに一番目立つのは矛であった。夷蛮伝に書かれるということは、それが目立っていたからで、剣が出てこないから、戈が出てこないから、といって、それがなかったわけではありません。倭国の国産の矛が大量に使われている状況があったから書かれていると、見るべきでしょう。
 そうした前提で、日本列島のこれら武器の出土状況を見てみると、細形銅剣の分布図は図6の通りで、東限は淡路島、中心は完全に筑紫になっています。これは要するに漢代から三世紀に至る中国の剣文明が、日本列島に及んでいることを示すものです。したがって、その分布から中国の天子の臣下として親魏倭王と呼ばれた卑弥呼の存在は、筑紫であることがはっきりします。非常に簡単に倭人伝の倭国の位置が出てくるわけです。
  この細形銅剣は、大体貴族や豪族が持つもので、先ほどの「剣履上殿」の例にあるように、剣は天子の信任を得た者にだけ許されるものでした。といって矛や戈についても、程度の差こそあれ、これと矛盾するものでなかった。図7はそうした「青銅器分布図」です。
 これも北九州が中心で、東限は淡路島、瀬戸内、隠岐と広く分布しています。そしてその鋳型の九九パーセントまでが糸島、博多湾岸に集中している。とするとこれは、三世紀の魏志・公孫[王贊]伝に出てくる矛が、日本列島の場合、どこで作られたかを知る、貴重な資料でもあるわけです。
 このように、剣・矛・戈という『三国志』の魏志のしめす文明は、日本列島に確かに伝播していました。そしてその伝播の中心は、剣についても、矛・戈についても筑紫であった。それはまた倭人伝の卑弥呼の倭国が筑紫である、という証明でもあるのです。

図6 細型銅剣の分布図

図7 青銅器分布 『倭人伝を徹底して読む』 古田武彦

 

 天子を守る矛

 では、同じく『三国志』の剣・矛・戈を、今度は蜀志で見てみましょう。
  (16)先主(劉備)、曹公(曹操)の卒にわかに至るを聞き、妻子を棄てて走り、飛(張飛)をして二十騎を将ひきいて後を拒ばしむ。飛、水に拠り、橋を断ち、目を瞋いからしてを横たえて曰く、「身は是れ張益徳(張飛の字)なり。来りて共に死を決す可し」と。敵、皆敢えて近づくる者無し。故に遂に免るを得。  (蜀志六)

 これは、三国時代の初期に劉備が曹操と戦って敗れ、妻子を捨てて逃げた。そのとき彼の右腕の張飛が目をいからし、矛を横たえ、橋のところに突っ立ち、「死にたい奴はこい、俺が相手になる」といって、主人の劉備を逃がしたという有名なシーンです。ここでもやはり矛を持って防いでいます。蜀の中心人物であった劉備を矛によって守った。先ほど公孫[王贊]が矛を非常に愛好したといいましたが、もちろん矛は公孫[王贊]専売ではなく、中国本土にその源があり、ここでは「先主」(後に天子)を守る武器として登場しています。
 ということを考えると、弥生時代の日本列島における矛も“中国の天子を守る矛”と性格を同じくしていると規定するのが正しい。基本的にそのようにいえるのではないか。単に「倭国の権力者の矛」という意味だけに問題を限定するのは、東アジアの大勢から孤立させることになる。倭王は、中国(魏)の天子の臣下の「親魏倭王」であり、その「親魏倭王」の国に矛が大量に生産されているということは、基本的にはそういう性格で理解しなければいけないのではないか。そういうテーマを暗示しているように思います。
 次に参考として、蜀志六の注釈の「山陽公載記」というのを挙げておきました。山陽公とは、後漢の最後の天子が魏に禅譲して呼ばれた名です。これは、その載記で、『三国志』以上に同時代史の性格が強く、貴重なものですが、この部分だけが裴松之注に引用されて残っています。
  羽(関羽)・飛(張飛)、並びに杖刀して立直す。超(馬超)坐席を顧みるも、羽・飛を見ず。其の直なるを見るや、乃すなわち大いに驚き、遂に一も、復た備(劉備)の字を呼ばず。  (蜀書、第六、馬超伝)

 劉備は字(あざな)を玄徳といい、窮地に陥っていた馬超を助けて迎え入れ大事にしていた。ところが馬超は昔から劉備と親しい間柄であるのをいいことにして、劉備を呼ぶのに「玄徳、おい玄徳」といった調子で字で呼ぶ。すると劉備の右腕と左腕の関羽と張飛は心穏やかでない。わしの主人を何と心得る。かくまわれているくせにとんでもない奴だ、とムッとしている。するとそこへ馬超が入ってきた。劉備は坐っているが、関羽と張飛は坐らないでじっと刀を杖のようにして立っている。その雰囲気に押されて、「玄徳、玄徳」と言わなくなった、という非常に面白いシーンです。そこに杖刀(じょうとう)という言葉が出てきます。これは、埼玉県稲荷いなり山鉄剣のワカタケル大王と読んだ金文字の中に「杖刀人」という言葉が出ていると見なして、これを“天皇家の門番だ”という解釈を井上光貞氏ら多数の人が行っていました。わたしはそれに反論して、「杖刀」というのは、門番がすべき態度ではなく、将軍がする姿勢の表現だ、ということを論じたのですが、まだこれに対する反論はどなたからも聞いていません。

 ただ「杖刀」の言葉は、『三国志』では、裴松之注の中の、ここ一カ所だけです。

 

 矛は戦闘用具

 呉志における剣・矛・戈の例です。
  (17)而しかして干戈未だ敢*まず、民に飢寒有り。  (呉志十三)

 これは常套文句で、魏志にも出ています。
  (18)昔武王、殷を伐ち、殷の民、を倒さかしまにす。  (呉志十七)
 これはまたあとで問題にします。

 (19)(20)時に天に寒雪あり、魏の諸将会飲す。賛(留賛)等の兵少く、而しかも解きて鎧甲を置き、矛戟を持たず、但ただ兜務*(とうぼう かぶと)・刀楯、[イ果]身縁遏(らしんえんあつ すててやめる)し、大いに之を笑い、厳兵に即かず。  (呉志十九)
 これは、魏の諸将が留賛のところへ行ってみたが、留賛はこちらの味方をするといっていながら全く何もやっていない。鎧甲を解いているし、矛戟も持っていない。ただ裸に兜(かぶと)のようなものをかぶり、刀や楯を横に置いているだけだ。まじめに仁義を守ろうとしていない、という個所です。そこにまじめに戦う兵器として、矛・戟が出ています。これは注目したい。
     敢*は、攵の代わりに戈。JIS第3水準ユニコード6222
     務*は、力の代わりに金。近似表示 JIS第3水準ユニコード936A
     [イ果]は、JIS第3水準ユニコード502E

  (21)恪(かく 諸葛恪)、躊躇ちゅうちょして還り、剣履上殿し、亮(孫亮)に謝し、坐す。  (呉志十九)

 「剣履上殿」は、魏志にも何回も出でおり、剣を着けたまま御殿に上がるということです。このようにナンバーワンクラスの信任の厚い者だけが剣を帯びているというのは、蜀においても同じだったようです。
  (22)恪、驚きて起き、を抜くこと未だ得ず。而して峻(孫峻)の交下す。  (呉志十九)

 これは前の(21)で出てきた諸葛恪が抜き打ちに遭って殺される場面です。中大兄皇子のクーデターのように、いきなり孫峻に斬りかかり、彼は殺されてしまう。そのときに孫峻は刀で斬りおろした。普通片刃のものを刀といい、両刃のものを剣といいますが、それも本当に中国で現実に守られていたかどうかは検討を要するとして、一応剣と刀と両方出てきます。その剣の方を諸葛恪は抜くことができないうちに斬られてしまった。するとこれも諸葛恪というナンバーワンクラスの蜀の武将が、ふだん剣を帯びていたことをしめしています。刀で斬ったというのですから、パッと抜き打ちに斬りつけるには刀の方が便利だったのかもしれません。そして剣と刀は別だからちがう字を使ったと見るのが筋で、日本では剣と刀とは必ずしも区別されていない。稲荷山の場合も、実物は両刃剣だけれども、文章には刀と書いてある。中国では剣と刀とは別の解釈だから別の表現、別の字が使われていると、見るのが筋だろうと思われます。さて、最後に、
  (23)[糸林](孫[糸林])、薄才を以て大任を授けられ、陛下を輔導する能わず。頃月以来、造立する所多く、劉承に親近し、美色を悦び、吏民の婦女を発し、其の好き者を料はかり、宮内に留む。兵の子弟、十八已下三千余人を取り、之を苑中に習わしむること、連日続夜。大・小呼嗟(こさ なげき声をあげる)し、蔵中の矛戟五千余枚を敗壊せしめ、以て戯具と為す。  (呉志十九)
     [糸林]は、JIS第4水準ユニコード7D9D
 これは上表文の一節で、孫[糸林]はけしからん、ということを呉の天子孫権に訴えているところです。要するに、孫[糸林]は大任を授けられながら、全く陛下を助けることをいたしておりません。国内の美女を宮中に留めて自分のほしいままに使っている。また兵の子弟で十八歳以下の者三千余人を集めて舞いや踊りを習わせ、そうしたことで毎日遊びほうけている。このため大人も子どもも不満をもらしている。矛戟もおもちゃ道具にしか使っていない。これではわが国は危ないと言っています。ここでも五千余枚の矛戟で、やはり矛が主たる武器と考えられていることがわかります。倭人伝だけの話ではなく、中国の魏でも呉でも、矛が主たる戦闘用具と考えられていたのが三世紀であったのです。
 日本の考古学では矛に「祭器」という評価を与え、武器とは関係ない、と説明する人もいますが、純粋な祭器であれば、別に矛の格好でなくてもいいわけです。実験考古学で、同じ材質のもので突いたり、なぐったり、たたいてみたりしてどれくらい打撃力があるのか試してみたら、面白いと思うのですが、ともあれ三世紀の大陸では、矛が主たる戦闘用具と考えられていたことは疑いなく、その一端として倭人伝の矛も見るべきでしょう。

 そう考えてゆくと、魏の使者が倭国にやってきて、その目で見た矛は「主たる戦闘用具」と映ったはずです。それがもし倭国で祭器などに使われていたとすれば、そのことをちょっと書くはずですし、それが書かれていないということは、魏の使者には「戦闘用具」に映ったと考えるのが筋です。こうした問題が、各個に見ていくうちにわかったのですが、のみならずわたしに、もう一つ大きなテーマを与えてくれました。それが、先ほどの(18)「昔武王、殷を伐ち、殷の民、戈を倒さかしまにす」という記事です。

 

 二 戈の時代

 戈を倒にす

 武王が殷の紂王に対し反乱の軍を起こしたが、当然抗戦すべき殷の民衆は紂王の暴政を憎み武王に期待していたため、武王の軍が進撃してくると戈を逆さまにして迎えた。つまり「戈を倒さかしまにす」というのは、平和の意志表示、つまり戦いません、抵抗しませんという意志表示です。これは、いかに周の武王の革命が殷の民衆に歓迎されたかをしめすもので、周側の自己宣伝めいてはいますが、昔こういうふうにいわれたという故事としてのべられています。
 そこでわたしが疑問を持ったのは、先ほど言ったように三世紀という時代の主たる戦闘武器は矛でした。それがここでは戈になっている。これは一体どうしてだろうかということです。そこで考えたのは、「昔武王」とあるのは、殷の終わりか周の初め頃ですから、これは『尚書』(『書経』)を見なければいけない。ところが実は『尚書』の中で武器が出てくるのは、わずか一カ所だけだったのです。もちろん「斬る」の表現はほかでも出てくるし、「斬る」という動詞があるからには矛や剣などで斬ったのでしょうが、それが具体的な武器名となると『尚書』の中ではわずか一カ所しかない。
  罔于我師前徒倒戈。  (『尚書』武成第五、周書)
   (わが師に敵するあるなし、前徒戈をさかしまにす。)

 つまり、われわれは革命軍を起こしたけれども、そのとき敵(殷側)はわれわれに敵対しようとしなかった。みな戈をさかしまにしてわれわれに恭順の意を表したと。これも自己宣伝かもしれませんが、こういう表現をしています。これを呉志が受け継いでいるわけです。『三国志』を見る場合、『尚書』をバックにして見なければいけないという方法論がここでも立証されたわけです。しかし、この場合注目すべきは呉志の場合でも、その根拠になった『尚書』の場合でも、矛ではなく戈であることです。するとこれは、殷末の代表的な武器は戈ではなかったかという問題をふくんでいます。戈というのは、柄の長い鎌の親玉のようなもので、振り回して人を殺傷します。つまり鎌を長柄にすることで農具が武器になったと考えられ、それを殷の武人が持っていたのではないかと思われます。これは殷が農耕社会としての濃い性格を持っていたせいなのか、あるいはこれも想像ですが、馬の足を払うのに便利なもので、騎馬民族に備えての武器であったのかもしれません。ともかく戈が殷末周初では代表的な武器であったのではないかと考えられます。これは果たして故意か偶然か必然かという問題があるのですが、出てくるのは『尚書』一カ所だけですから、これをもとに論断することは危ない。そこで次には『詩経』『礼記』『易経』といったものの矛や戈・剣の問題を取り上げてみたいと思います。

 

 剣履上殿

 『礼記』の例を続けてみます。
  (1) 貳車諸侯七乗上大夫五乗下大夫三乗。  (『礼記』少儀第十七)

 この中で「諸侯は七乗、上大夫は五乗、下大夫は三乗」と、お付きの車の数を『礼記』で規定してあります。そして次に、
  (2) 観君子之衣服服乗馬弗費。  (同右)
   (君子の衣服を観るに、剣を服し、馬に乗り、賈せず。)
  (3) 剣則啓[木賣]蓋襲之加夫橈与焉・・・・・・・・  (同右)
     [木賣]は、JIS第4水準ユニコード6ADD
   (剣は則ち[木賣]蓋を啓きて之を襲い、夫橈と剣とを加う。・・・・刀は刃を卻しりぞけ、・・・・)
  (4) 凡有刺者以授人則辟刃。  (同右)
   (凡そ刃を刺する者有らば、以て入に授れば、則ち刃を辟く。)
  (5) 乗兵車出先刃入後刃。  (同右)
   (兵車に乗るに、出づるは刃を先にし、入るは刃を後にす。)

 (2)の君子とは、徳の高い人という意味ではなく、その前の(1)に出てくる諸侯であるとか上大夫、下大夫、そういうものを指しているのではないかと思われます。その場合に「服剣」、つまり剣を身に着けているという言葉が出てくる。さらに(3)でも剣という言葉が二つほど出てきていますし、また刀とか刃も出てきている。だから諸侯とか大夫が身に着けるものは剣であって、矛や戈ではない。
 このことは、非常に重大な問題を暗示しています。というのは、すでに『三国志』で「剣履上殿」という言葉が出てきました。諸侯が天子の宮殿に上がるときには、普通下足番のような剣を預かる人がおり、「お腰のものを預かります」といって身につけていた剣を取り上げる。だから宮殿に昇るときは丸腰で入っていったはずです。恐らく覆物も履き替えさせられたのでしょうが、曹操は「剣履上殿」を許された。剣を帯びたまま、履物を履いたままで宮殿に上がっていった。つまり天子と同じ待遇です。ということで、天子の下の諸侯は、剣を身に着けていたと考えていいのではないかということをのべました。それが『礼記』の文章によっても確かめられたのです。つまり諸侯大夫というものは剣を着けている。そうした周代の剣の用い方にもとづいて、『三国志』の「剣履上殿」の記事も成立したということです。

 

 戈から矛への変化

 それに対して戈というのは、軍隊が持っていた武器で、諸侯が宮殿へ上がるの戈を預けて丸腰になって入るという話はない。戈は、諸侯が身に着けているにものではなかったのです。軍勢の、少なくともリーダーである少隊長か部隊長あたりが持っていたらしい。それが三世紀の段階になると、矛の方が地歩を占めるようになっていったと考えられます。
 恐らくこの変化は、いわゆる軍隊の隊形、戦闘方式の変化を背景にしているのではないかと思われます。戈は、柄の長い鎌のようなもので、振り回すことによって敵を攻撃する武器です。それが、集団になると味方まで殺傷する危険があった。ところが矛は槍のようなもので、いくら密集していても使える。むしろ密集すればするほど効果が出る。豊臣秀吉が、密集隊形で長い槍を並べて突き進んだという話があるように、矛の場合は密集隊形でも困らない。密集すればするほど値打ちが出てくる。しかし戈の場合はあまり密集すれば使いにくい。その辺にわたしは、戈から矛に変化していった理由があるのではないかと思います。

 

 矛盾と干戈

 ところで「矛盾むじゅん」という言葉があります。現在では哲学用語にまでなっていますが、これはもともと周代の末期、戦国時代の逸話で、『荘子』にもとづくものです。街頭で楚(そ)の商人が、矛と盾を売っていた。「この盾はいかなる武器も突き通すことができぬ、さあ買いなさい、買いなさい」と。また同時に「この矛はいかなる堅い盾も突き通す、絶対大丈夫、まちがいなし」と呼ばわった。すると傍らの人が、「ならばあなたの矛であなたの盾を突いたらどうなる」と尋ねたところ、ぐっと絶句して答えることができなかった、という話です。この話から、矛が新兵器として新たに登場しはじめ、その新兵器の矛を売ると同時に、その矛から守る盾をも工夫したというイメージを受けます。ところが考えてみると「干戈かんか」と「矛盾」は、ともに「タテ」と「ホコ」で、攻撃用武器と防御用武器を意味しています。ですから意味だけからすれば「矛干」でもいいはずですが、「干」ではなく「盾」を使っている。それはどうしてだろうか。干の場合、打撃を受け止めてかわすのが大事なわけです。ところが相手が矛になってくると、矛というのはボクシングのストレートのように打撃力が強いので、なぐられても壊れない強度が問題になってくる。同じ防御用タテでもタテがちがうわけです(もちろん、形態のちがいもありましょう)。そのために「干」ではなく、「矛」には「盾」という字が使われたのではないかと、わたしは想像しています。
 また矛と戈とは、根本的に武器のつくりがちがう可能性があります。簡単にいうと、矛というのは槍みたいなもので、金属の中に柄をつける穴が開いています。これは、技術的には中子(なかご)を使って作りますから、戈とは製法がちがう可能性があるのです。これもまた矛盾と干戈のちがいとも関係するかもしれません。要するに矛は、われわれが考えるほど単純な、誰でもが考えて誰でもが作れるものではないということです。周の後半の戦国期に、新しく、矛が人々の目を奪って登場しはじめた状況を物語る説話であるかもしれないわけですし、同時に戦法の変化を反映している可能性をもふくんでます。

 

 三 出雲からの出土物

 三五八本の銅剣

 さて、これまで日本列島の弥生時代の考古学的な出土物については次のように考えてきました。
 博多湾岸を中心に、福岡県と佐賀県の接点に当たる東背振あたりをふくめた地帯から、ほぼ一〇〇パーセント、矛の鋳型が出ている。それに対して戈の方は、東は北九州市、西は佐賀県と両翼に広がった形で多数の鋳型が出土している。
 こうした出土状況から、矛が主で戈が従属的であると。ところが実はそうではないのです。先ほどの分析からすると、戈の方がより古く、殷末周初の代表的な武器であり、矛の方は周末から漢・魏にかけての新しい兵器であることがはっきりしてきました。
 そして問題は、その隣りです。そこに中細・中広剣と呼ばれる領域があります。瀬戸内海部分をふくめて、北は出雲から南は高知県、東は淡路島から西は九州の領域にかけておむすび型の形で存在しているものです。それに対して岡山・兵庫・香川・愛媛県といったところでは平剣です。ところが、出雲の荒神谷遺跡から三五八本もの銅剣が出てきました。三五八本というのはものすごい数です。現在出土しているのは、実際存在したものの五分の一から十分の一と考えられていますから、逆にいえば現在一本出てくれば五本、一〇本出てくれば五〇本や一〇〇本あるということになります。これは森浩一氏も同意見で、現在出ているものだけで判断してはいけない、本当は目にふれるものの五倍も十倍もが存在していると考えていいと言っておられます。
 すると三五八本というのはその五倍で、一七九〇本、六倍三五八〇本になります。では、この出雲の地域だけで一体何百人、何千人の人が剣を持っていたのか。今までこれを不思議と思わなかったのも、不思議ですが、『三国志』では剣を持てるのは諸侯だけで、その常識からすれば当時の日本にそんなに諸侯がいたとは考えられない。東アジアの世界でもそうした例はないし、また三世紀の軍隊の主要武器は矛であり、殷末周初ごろはむしろ戈の方が武器の代表として扱われていた。剣が大量に登場する戦闘場面などは考えられないのです。

 

 出雲の時代の一断片

 わたしの論理を改めて説明しますと、戦後は津田史学にもとづいて『記』『紀』の神話は、五世紀以前の天皇家の史実とは関係ない、と考えてきました。わたしは、昭和三十年代の終わりから四十年代のはじめに古代史の世界に入ったのですが、三十年前後の文化財保護法以来すでに考古学的な出土物がかなり知られ、その分布の統計も作られてきていて、それを見ても先にのべたように筑紫中心に矛と戈の鋳型が集中しており、そのときはわたしも矛が主で戈が従と見ていました。ところが『記』『紀』の「国生み神話」でも矛が主で戈が従、しかも舞台は筑紫ときている。これは、偶然とは考えられないし、いわんや六世紀前半の史官が、二十世紀の文化財保護法以後の出土分布表を想定して、それに合うような話を作ったとはとうてい考えられない。ということは、「国生み神話」は筑紫の弥生権力のPRのために、作られたということになります。
 さらにいえば、『記』『紀』神話のキーポイントに「国ゆずり神話」があります。簡単にいえば、出雲中心の時代から筑紫中心の時代に移ったことを語る神話です。これも、もちろん筑紫側の権力者が語ったものでしょうが、国ゆずりを大国主命が承諾したので権力の中心は出雲から筑紫に移った。「以後はわれわれを出雲の家来だと思ったら承知しませんよ」という、PRの神話であると、理解していいと思います。
 これはいうならば、筑紫中心の前に出雲中心の時代があったことを意味します。戦後の学者は、出雲には大した出土物がないからという理由で、出雲神話を無視してきました。ところが最近、四隅突出型という出雲を中心に分布する古墳や、三五八本もの銅剣が出土してきているのを見ると、まさに“巨大なる断片”であるといわざるをえません。単に出土物だけを見るだけでなく、それを作らせた権力者の宮殿もあっただろうし、それを作った人々の住居もあったでしょう。それだけの人間の住居となれば、かなりの集落になるはずです。そこには当然さまざまな問題が派生して出てきます。これはそうしたものの巨大なる一断片に過ぎないということです。

 

 八千戈の神と八千矛の神

 さて、ここで一つの問題が出てきました。というのは、『古事記」に大国主命のことを「八千矛やちほこの神」、『日本書紀』の巻第一に「八千戈やちかの神」と出てきますし、また『出雲風土記』では大神(おおかみ)、大穴持命(おほなもちのみこと)といっているのは大国主を指す人物であるという説話になっていて、いずれを見ても大国主は矛ないし戈の神であるという伝承になっていることです。これを津田史学のように、勝手に天皇家の史官がでっち上げたものだ、と思っていれば全く意識せずにすむのですが、先ほどのように考えてくると、『記』『紀』神話はデタラメではない、全くのリアルでないにしても歴史の大筋、根本的な姿をリアルに表現しているということになり、無視するわけにはいかなくなります。
 そこで、わたしは今後まだまだ出てくるのではないかと考え、大国主の原産地である石見国大国村(いま仁摩町字大国)に行ってみました。そこには、八千矛山というのがあって、大国主神社が祭ってあります。そのすぐ後が石見銀山です。まさに戈がたくさん出てきそうです。実際出雲から矛や剣が多数出土しています。ところが『記』『紀』『出雲風土記』のどこにも「八千剣」神とは書かれていない。実際に大量の矛と剣が出ているにもかかわらず、剣は全部伝承からカットされ、矛だけが書かれているのです。これは一体どういうことでしょうか。
 そこで思い浮かんだのは、今度出てきたのは果たして剣なのか、「矛」ではないだろうかということです。これはまさに先ほどの中国文献からきた方向性と一致します。つまり矛や戈ならいいけれども、軒並み剣だけ持っているような状況というのはおかしい、ということです。
 事実、一般に銅剣といわれているものでもこれに木の柄をつけて使っていたと思われますが、二〇〜三〇センチの短い柄をつければ剣、長柄をつければ矛になると想像されるのです。

 

 剣は便宜上の用語

 そして、それに対する一つの解答を得たのが高橋建自氏の「日本青銅文化の起源」という論文でした。高橋氏は、東京国立博物館におられた方で、明治から大正にかけての考古学研究、特に武器の研究で有名な人です。

まず筑紫鉾から述べよう。これはその名の示すごとく九州北部地方から多く発見されるので、筑紫鉾という名で呼ばれたもので、昔は型式の如何にかかわらず、すべて鉾と見倣された。けれども今日われわれは研究上の便利からこれらを二大別し、本の方が袋になって柄を挿込むに適した型式を鉾といい、同じ本の方が普通の刀剣のように茎(なかご)になって、前者と反対にその茎が柄の方へ挿込まれるようにできているのを剣ということにしている。

 わたしは、これを見て「ああっ」と思いました。つまり「研究上の便利から・・・・ということにしている」と。剣や矛は、本来柄の部分があるから識別できるのであって、金属部分だけ見て判断するのはおかしい。高橋氏は、これを研究の便宜上から分類して呼ぶことにした、といっています。いってみればこれは「仮説としての名称」に過ぎないわけです。少なくとも高橋氏に関しては。
 そして、その仮説をつくるさいに金属部と木質部との「接着の方法」で分類した。“もとの方が袋になっていて、柄を挿し込むのに適した型式を矛といい、同じくもとの方が普通の刀剣のように茎(なかご 中子)になっていて、茎が柄の方へ挿し込まれるようにできているのを剣ということにする。一応便宜上こう呼んでいるが、しかし、これ以上の自信は私にはありませんよ”といっているわけです。
 ところがよく考えてみると、普通剣とか矛を見る場合「接着の方法」では判断しない。矛や剣や戈は、金属だけでつける名称ではないのです。「金属部プラス木質部」の総合名称が「剣」であり、「矛」であり、「戈」であるわけです。これは高橋氏も知っているが、とりあえず、昔何と呼んだかわからないから、一応こういう呼び名を便宜上しておきましょう、ということで名付けた。それが、その後この「便宜上」が忘れ去られ、文字通りの「剣」として文章に書かれるようになってくる。「仮説、剣」とは書かれていない。われわれもそれを疑わず「剣」と思い込んで見てきた。しかし、研究史をふりかえれば、明らかに「仮説としての分類」であったことは疑いない。分類上の便宜用語がいつの間にかひとり歩きし、「実体化」されてしまったのです。

 

 剣は矛であり戈である

 ところが、これらは武器でなく祭器であるとする説が、この分類をささえる言葉になっていました。しかし祭器か武器かということは実はナンセンスなことです。よく銅鐸に関してあれは祭器か楽器かという論争がありましたが、純音楽を楽しむ道具などという概念が成立するのは、近代のことで、ヨーロッパの例を見てもわかるように、古代は神々を賛える宗教的楽器であって、純粋に音楽だけ楽しむことはなかったのではないかと思います。宗教的楽器として成立し発展したのが本質で、これは西洋でも東洋でも変わりはない。こういうことから考えると、銅鐸が楽器か祭器かと討論すること自体がナンセンスで、ともかく銅鐸が楽器の形式をとった祭器であることは誰が考えても異論のないところなわけです。これと同じように、剣(矛)が武器か祭器かと二者択一の問いを突きつけるのはやはりナンセンスで、剣であれば腰につけるか振り回すかといったことで、お祭りの儀式が行われたにちがいありません。ただ置いたままで何もしないという祭器はない。当然誰かが持ってそれにふさわしい扱い方をすることによってお祭りを盛りあげたはずです。それを言葉の処理だけで安易に剣の解釈がなされていたとすれば、観念の遊戯としかわたしには言いようがありません。
 要するに高橋氏の分類は私案にすぎなかった。もっと学問的な分類をすべきであったと思います。わたしの分類は、たとえば出雲の裴川町神庭から出たものに関して、まずA型I式、戈と呼ばれているものをA型II式、そして柄を突っ込むものをB型と付けてみました。こうすれば全く誰からも非難される恐れはない。この方がより学問的だと思われます。これをさも剣である、矛である、戈であるというふうにいってきたこと自体、わたしは非常に大きな学問上のあやまちを犯してきたのではないかと思います。
 先に剣が矛にもなりうるといいましたが、場合によっては柄の付け方によって戈にもなりうるかもしれません。つまり中国地方から瀬戸内海、四国にまたがっての地帯は、矛ないし戈の地帯である。その様式は、筑紫中心のものとはちがい、そしてまた筑紫よりもより古い形式である可能性がある。いいかえれば中細、中広剣あるいは平形剣といっているものは、実は矛や戈であったのではないか。接着方法において筑紫中心型とちがっていただけなのではなかろうかということです。もちろん筑紫の方でも中細剣の鋳型が出てきていますから、そうした接着方法がなかったわけではないでしょう。しかし鋳型で見られるように、代表的な筑紫中心のものと、中国地方中心のものとは、接着方法がちがっていた。こういうようにわたしは考えるにいたったわけです。
 こう考えてくると、中国の文献から見た東アジアの武器に関する常識と矛盾しなくなります。また『記』『紀』『風土記』の大国主は矛ないし戈の神であるという伝承とも矛盾しない。しかも剣と呼んできたのは、「仮説としての便宜上の名前」に過ぎなかったが、後々の考古学者はそれを「絶対化」し、「実体」のように思い込んでいたのではないか、ということです。

 

 実在の名称と学問上の名称

 こうした問題は、実はわたしにとってはじめてではありません。『古代は輝いていた』I でも同じような例を扱っています。考古学者が「甕かめ棺」と呼んできたものがあります。甕(かめというのは、日常の食物や飲み水を入れるものですが、それと似たものに甕(みか)というのがあります。これは、“神様に捧げるお酒や水を入れる神聖な容器”でした。ところが、古代には権力者や高い階級の人を甕棺に入れて葬る風習があり、そのさい、日常生活の容器である甕(かめ)に入れたか、神聖な神に捧げる「みか」に入れたかという謎が出てきました。どちらかといえば、やはり神に捧げる容器の方に入れたと考える方がわたしは自然だと思うのですが、考古学者は、実際の使い方や名前は問題にせず、専ら形態から見て「甕棺」と名付けてしまった。「かめ」と「みか」は、若干形態はちがうにしても、基本的には共通していますから、そうしたことから甕棺だと即物的に名を付けたわけです。
 しかし、即物的に形態から呼んだにしても、「仮に呼んだ名前」に過ぎないという自覚が大事で、「歴史上の呼び名は別個ですよ」「考古学者の任務の外ですよ」と考古学者は繰り返し言うべきですし、また一般の人々もそう思って考古学者の講演を聞き本を読むべきです。そういう分類上の「仮説、名称」という概念を忘れて、「実体」であると錯覚していたところに問題があるわけです。「ヒミコ」でなくて「ヒミカ」である、「太陽のミカ」である、という問題にわたしがいきついたのは、こういう「名称批判」がバックになっています。
 また埼玉県の稲荷山鉄剣は、普通鉄剣と呼ばれ、そういう名前の本も出ていますが、しかし、銘文の中には「刀」と書いてあります(両刃の方が剣、片刃の方が刀と普通認識されている)。そして実際稲荷山古墳から四、五本の鉄刀が出てきている。ところが問題は、鉄剣だけでなく、有名な七支刀も剣であるということです。両側に三つずつついている飾りは、あくまで飾りであり、真ん中部分は剣であって刀ではない。したがってこれも七支剣と呼ばれてしかるべきですが、文献の中には七支刀と出ている。
 ということを考えてみれば、これが剣で、これが刀だと呼ぶのは、われわれがこれまで教わってきた便宜上の分類名称であって、歴史的に実用された名称ではないということです。とすると、“稲荷山の両刃の利器”を刀と、六世紀の関東の人たちは実際に呼んでいた。決してまちがえて剣を刀と呼んだのではない。その証拠に七支刀は、それを作った百済でも刀と呼んでいるのです。そしてこの刀は百済から九州王朝へ贈られてきました。四世紀の百済(朝鮮半島)と六世紀の日本列島の関東とが共通して刀と呼んでいるところからみると、四世紀から六世紀にかけて歴史的に実在した名称であったと考えるのが、筋です。
 われわれが知っている名前はあくまで「学問上、仮に呼ばれた名前」であって、それを今まで意識せずにきた。教える方もそう思い込んで教えてきた。わたしはこれまでこのことを、もしかしたら・・・・と、断崖に臨むような感じで言ってきたのですが、今ははっきりと今度出てきたものは「矛」ないし「戈」であるというふうに考えています。そして出雲での出土物も大国主の国ゆずり神話に関連するものではなかったか、という問題に進んで入ってゆきたいと思います。

 

  四 前期銅鐸の問題

 先祖を祭る前期銅鐸

 出雲の秋鹿(あいか)郡の神名火山(松江市の西北隅、鹿島町との境の朝日山)」に近い佐陀神社北側中腹の志谷奥から六本の中細剣が出土しました。この中細剣は、今回出てきた三五八本の中細剣と全く寸法やデザインが同じもので、しかも銅鐸とセットになっていました。するとこのいわゆる中細剣(八千矛、八千戈)は、前期銅鐸と共存するものではないか。八千矛や戈が大国主に関連するものならば、前期銅鐸もまた大国主に関連するものと考えていいのでなないか。まだ前期銅鐸の数が少ないので断言はできないけれども、今後の目のつけどころとして前期銅鐸が大国主と関連するということも考えられます。出土してきたものは、何の意味もなしに存在していたものでなく、必ず地上にあったときは何らかの存在を意味していました。ただそれとの関連をわれわれが思いつかずにいただけです。また先入観やあやまった方法論のために気づかずにきていただけです。わたしは、いずれそれらが一つ一つ解明されてくるであろうというをひそかに期待しています。
 この銅鐸の問題について、一つヒントになるものがありました。それは『礼記』の中に鐸という言葉が二つ出てくることです。
  升正柩諸侯執[糸孛]五百人四[糸孛]皆銜*枚司馬執左八人右八人匠人執羽葆御柩大夫之喪其升正柩也執引者三百人執者左右各四人御柩以茅。  (『礼記』雑記下)
   (正柩を升す。諸侯、[糸孛]を執る。五百人、四[糸孛]、皆枚ばいを銜*くむ。司馬、を執る。左、八人、右、八人。匠人、羽葆・御柩を執る。大夫の葬、其の正柩を升するや、執引する者、三百人。を執る者、左右各四人、御柩は茅を以てす。)
     銜*(ふ)くむは、銜の異体字。JIS第4水準ユニコード8858

 これは天子の葬式のときの、諸侯以下の礼式をいっているもので、「郷大夫比葬」と葬という字が出てきて、その下に「卒哭」と「哭く」という字が出ています。そして、そのときの儀式と思われる「司馬執鐸左八人右八人・・・・御柩大夫之喪・・・・執引者三百人執鐸者左右各四人」と書かれています。この場合、注釈などを合わせ読んでいくと、これは天子が自分の祖先を祭る儀式、または諸侯の儀式のように理解されています。つまり葬儀のときに鐸が使われた。もちろん銅鐸で、鉄鐸ではないでしょう。すると日本でも、前期銅鐸が葬式をふくむ先祖を祭る儀式の場で使われた可能性があります。鐸自身は中国から来たものであり、その用途も同じであったにちがいないでしょうから、中国と同じく権力者の葬儀や祖先を祭るときに銅鐸が使われたと考えるのが妥当な理解であろうと思われます。

 

 国ゆずりで消えた銅鐸

 ところで、銅鐸は前期・中期・後期と発展したと教えられてきましたが、実際その通りかもしれませんが、これは言葉だけの問題で、地域から見ると、出雲では前期銅鐸は出てくるが、中期・後期銅鐸は発展していない。出雲では断絶しているのです。ではなぜ、出雲では断絶したのか。これは中細剣についても同じで、平剣へと発展しているように見えても、出雲では断絶している。平剣になっていないのです。これらはともに当時神聖で貴重なものであったはずです。それが断絶しているというのは、生半可なことで断絶したとは思えない。大きな歴史の権力の変転が存在したから断絶したと考えざるをえない。それがつまり「国ゆずり」です。まだ前期銅鐸の数が少ないので断定はできませんが、今後そういうこと頭の一隅に置いて前期銅鐸の出土を見守っていきたいと思います。

 

 斧の似合う天子

同じく『礼記』の中に「昔者周公朝諸侯于明堂之位天子負斧依南郷而立」(明堂位、第十四)という文章があります。この「負斧」という言葉は、注釈によると斧そのものではなく、「斧依(ふい)」つまり“斧の模様 のついた屏風”を立て、それをバックにして天子は儀式をするという説明がしてあります(「負斧依」と読む。
 しかしわたしは、この注釈は、本来は必ずしも正確でないように思います。確かにそれをうかがわせるような実物が残っていて、そのような時代があったかもしれません。しかしそれは後世の話であって、この文章を読んでうしろの屏風に斧の模様が書いてある、とは必ずしも読めない。やはり天子が斧を負っている姿が、原形として想像される。後世には“天子が斧を背負う”とはひどい、うしろに「斧をえがいた屏風の絵」をおくことにしよう、となってきた。しかしそれは後世の祭り上げられた天子のイメージに合わせたからであって、いわゆる「天子」は最初から神聖なわけではなく、はじめは一つの「首長」に過ぎなかった。だから天子が斧を背負ってもいいし、それにはそれなりの意味があり、またそれにふさわしい原初の文明が背景にあったのではないかと思われます。これは周公の時の話です。“斧がよく似合う天子”が、周の第一代の祖先だったのです。
 注のように、“屏風に描かれたものだ”とまるまる説明してしまうと、文明の本来の真相は、蒸発してしまいます。『日本書紀』でも継体紀に「天皇親ら斧鉞を操りて」と、「天子の位の表現」に斧を使っています。これと一連のもので、“斧が似合った”という原初期の時代背景があったのではないかと思われます(要するに、第一、斧を負う建国者、第二、「斧の絵の屏風」を背負う継承者、という時代展開の存在したことを推定したいと思います)。


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