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向日市 西村秀己
今年に入って、古田史学の会関西例会では「キリスト教」がおおはやりである。古田武彦氏のナグ・ハマディ文書の研究に始まり、古賀達也氏、木村賢司氏と続いている。これらに刺激され、筆者もかねてから喉に刺さっている小骨を取り除くべく、約三十年振りに聖書に挑戦した。以下、ご報告する。
筆者の小骨とは「マリアが多過ぎる」という疑問であった。聖書の四福音書には様々な女性が登場するが、イエスの関係者(世話をした、処刑をみていた或いは埋葬に立ち会った等)は次の九名である。
イエスの母マリア
マグダラのマリア
ヤコブとヨセフ(小ヤコブとヨセ)の母 マリア
ベタニア(マルタの妹)のマリア
クロパの妻マリア
サロメ
スサンナ
ヨハナ
マルタ
これ以外には、
ヘロディア(フィリポの妻)
エリサベト(ヨハネの母)
アンナ(ファヌエルの娘、女預言者)
以上の三名である。これらを概観して判ることは、「イエスの関係者だけにマリアが九分の五存在する」だ。尚、クロパの妻マリアをヤコブとヨセフの母マリアと同一視する説もあるようだが、それにしても八分の四すなわち半数が「マリア」となる。「マリアが多過ぎる」という筆者の疑問は不当だろうか。これに対しキリスト教系の学校に通っている筆者の知人である女子大生は「マリアは『花子』のようにどこにでもある名前だから」と抗弁した。また、木村賢司氏からお借りした『ローマ 世界の都市の物語』(弓削達著 文春文庫)には、
次に名指されているマリアは、ユダヤ人名である。(中略)マリアという女性名が「花子」ほどありふれた名前なので、
とある。驚くべきは、前述の女子大生と弓削氏がまったく同じ表現を使っていることだ。勿論、当該女子大生は『ローマ』は読んでいない。つまり、こうでも言わなければ説明がつかないという事がキリスト教の指導者たちの潜在意識にはあるのかもしれない。
さて、では検証すべきは次の二点である。
(1).マリアがありふれた名前だからイエスの関係者の半数以上がマリアであっても不自然ではない。
(2).マリアはありふれた名前である。
まず、(1).を考えよう。仮にマリアがユダヤ人女性の十人に一人いるとしよう。(十人に一人もマリアがいれば姓のない時代に固有名詞として機能するのか、という疑いはおいて置く)任意に九名を選んでその中に五名のマリアが入る確率は、次の計算で判明する。(「古墳は小林」こと小林嘉朗氏のご協力を得た)
0.15×0.94×9!÷(4!×5!)
答えは約千二百十分の一である。これはサイコロを五回振って連続して同じ目を出す確率とほぼ同等であり、賭博場でこんなことを行えば確実に別室に強制的に案内される羽目になる。つまりは作為を疑われるに充分な確率であるということだ。従って、たとえマリアが十人に一人という恐ろしくありふれた名前であったとしても、自然に五人も集まる説明にはなり得ない。
次に、では本当にマリアはありふれた名前なのだろうか。(2).を検証してみよう。
まず、近世から現在までのユダヤ人やヨーロッパ人の名前を調査しても、これは意味がない。過去に「聖母マリア」という超有名人がいるからだ。とすれば、今の筆者にできることは一つしかない。旧約聖書の調査である。その結果を別表にしてある。カウントミスはご容赦戴きたいが、総数百二十六名登場する。この内ヘブライ語のマリアである「ミリアム」を探すと出エジプト記に現れる「アロンの姉」ただ一人なのである。マアカは四名、タマルは三名、二名の名前に至ってはアズバ・ミルカ等十二種もあるにもかかわらず、である。これでは「マリアは『花子』ほどありふれた」とは到底言えないのではあるまいか。(ちなみに、十人に一人いる筈の「マリア」が百二十六人中一人しか入らない確率は、四万千六百二十一分の一であり、サイコロでいうならば七回連続同じ目に近い確率である)そして、キリスト教に殆ど関心のない筆者ですら判ったことである。聖書に通暁したキリスト教やユダヤ教の聖職者たちや研究者たちはとっくにご存知なのではないだろうか。にもかかわらず、「マリアは『花子』ほどありふれた」という説明をしなければならない位、不自然な状況がここにあるのである。
署名 | 名前 | 備考 |
---|---|---|
創世記 | エヴァ | 原義は「命」、アダムの妻 |
アダ | レメクの妻 | |
ツィラ | レメクの妻 | |
ナアマ | レメクの妻 | |
サライ | アブラム(アブラハム)の妻、改名後サラ | |
ミルカ | ナホルの妻 | |
ハガル | アブラハムの妾、イシュマエルの母 | |
レウマ | ナホルの妾 | |
リベカ | イサクの妻 | |
ケトラ | アブラハムの後妻 | |
ユディ | エサウの妻 | |
バセマト | エサウの妻 | |
マハラト | エサウの妻 | |
ラケル | ヤコブの妻 | |
レア | ヤコブの妻 | |
ジルパ | ヤコブの妾 | |
ビルハ | ヤコブの妾 | |
ディナヤ | コブとレアの娘 | |
デボラ | リベカの乳母、エサウの妻 | |
アダ | エサウの妻 | |
オホリバマ | エサウの妻 | |
ティムナ | エリファズの妾 | |
メヘタブルエ | ハダドの妻 | |
エルの妻 | ||
アセナト | エジプト人、ヨセフの妻 | |
セラ | ヤコブの孫 | |
出エジプト記 | シフラ | ヘブライ人の産婦 |
プア | ヘブライ人の産婦 | |
ツィポラ | モーセの妻 | |
ヨケベド | モーセの母 | |
エリシェバ | アロンの妻 | |
ミリアム | アロンの姉、女預言者 | |
レビ記 | シュロミト | ディブリの娘 |
民数記 | コズビ | ツルの娘 |
マフラ | ツェロフハドの娘 | |
ノア | ツェロフハドの娘 | |
ホグラ | ツェロフハドの娘 | |
ミル | ツェロフハドの娘 | |
ティルツア | ツェロフハドの娘 | |
申命記 | 無 | |
ヨシュア記 | ラハブ | エリコの遊女 |
アクサ | カレブの娘 | |
士師記 | デボラ | ラピドトの妻、女預言者、デボラは地名 |
ヤエル | ヘベルの妻 | |
デリラ | サムソンの愛人 | |
ルツ記 | ナオミ | エリメレクの妻、原義は「快い」 |
オルパ | ナオミの息子の妻 | |
ルツ | ナオミの息子の妻 | |
サムエル記上 | ハンナ | エルカナの妻、サムエルの母 |
ペニナ | エルカナの妻 | |
メラブ | サウルの娘 | |
ミカル | サウルの娘、ダビデの前妻 | |
アヒノアム | サウルの妻 | |
アビガイル | ナバルの妻、ダビデの後妻 | |
アヒノアム | ダビデの後妻 | |
サムエル記下 | マアカ | ダビデの妻、アブサロムの母ハギトダビデの妻 |
ハギト | ダビデの妻 | |
アビタル | ダビデの妻 | |
エグラ |
ダビデの妻 | |
リツパ | ダビデの妾 | |
ハト・シェバ | タビァの妻、ソロモンの母 | |
タマル | ダビデの娘、アブサロムの妹 | |
タマル | アブサロムの娘 | |
アビガル | イトラの妻 | |
ツェルヤ | アビガルの姉妹、ヨアブの母 | |
列王記上 | アビシャグ | ダビデの召使 |
タファト | ソロモンの娘 | |
バセマト | バセマトソロモンの娘 | |
タフペネス | ファラオの王妃 | |
ツェルヤ | ヤロブァムの母 | |
ナアマ | ソロモンの妻、レハブアムの母 | |
マアカ | レハブアムの妻、アビヤム・アサの母 | |
イゼベル | アハブの妻 | |
アズバ | ヨシャファトの母 | |
列王記上 | アタルヤ | アハズヤの母 |
ヨシェバ | アハズヤの姉妹 | |
ツィブヤ | ヨアシュの母 | |
ヨアダン | アマツヤの母 | |
エルシヤ | ヨタムの母 | |
アビ | ヒゼキヤの母 | |
ヘフツイ・バ | マナセの母 | |
メシェレメト | アモンの母 | |
エディダ | ヨシヤの母 | |
フルダ | シャルムの妻、女預言者 | |
ハムタル | ヨハハズの母 | |
ゼブダ | ヨヤキムの母 | |
ネフシュタ | ヨヤキンの母 | |
ハムタル | ゼデキヤの母 | |
歴代誌上 | バト・シュア | ユダの妻 |
アズバ | カレブの妻 | |
エフラ | カレブの妻 | |
シュロミト | ペダヤの娘 | |
ハシュバ | ペダヤの娘 | |
オヘル | ペダヤの娘 | |
ベレクヤ | ペダヤの娘 | |
ハサドヤ | ペダヤの娘 | |
ユシャブ・ヘセド | ペダヤの娘 | |
ハツレルポニ | エタムの姉妹 | |
ヘノレア | アシュフルの妻 | |
ナアラ | アシュフルの妻 | |
ビトヤ | ファラオの娘、メレドの妻 |
|
マアカ | ペレシュの母 | |
ハモレケト | イシュボド等の母 | |
シェエラ | エフライムの娘 | |
セラ | アシュルの娘 | |
シュア | へベルの娘 | |
フシム | シャハライムの妻 | |
バアラ | シャハライムの妻 | |
ホデイシュ | シャハライムの妻 | |
マアカ | ギブオンの妻 | |
歴代誌下 | マハラト | レハブアムの妻 |
アビハイル | マハトラの母 | |
ミカヤ | アビヤの母 | |
シムアト | ザバドの母 | |
シムリト | ヨザバドの母 | |
エコルヤ | ウジヤの母 | |
エズラ記 | 無 | |
ネヘミヤ記 | ノアドヤ | 女預言者 |
エステル記 | ワシュティ | クセルクセスの王妃 |
エステル | 〃 、アビハイルの娘 | |
ゼレシュ | ハマンの妻 | |
ヨブ記 | エミマ | ヨブの娘 |
ケツィア | ヨブの娘 | |
ケレン・プク | ヨブの娘 | |
詩編 | 無 | |
箴言 | 無 | |
コヘレトの言葉 | 無 | |
雅歌 | 無 | |
イザヤ書 | 無 | |
エレミヤ書 | 無 | |
哀歌 | 無 | |
エゼキエル書 | オホフ | 架空(?)の娘 |
オホリバ | 架空(?)の娘、オホラの妹 | |
ダニエル書 | 無 | |
ホセア書 | ゴメル | ホセアの妻 |
ロ・ルハマ | ホセアの娘 | |
ヨエル書 | 無 | |
アモス書 | 無 | |
オデバヤ書 | 無 | |
ヨナ書 | 無 | |
ミカ書 | 無 | |
ナホム書 | 無 | |
ハバクク書 | 無 | |
ゼファニヤ書 | 無 | |
ハカイ書 | 無 | |
ゼカリヤ書 | 無 | |
マラキ書 | 無 |
さて、では「マリアが多過ぎる」のは何故なのだろうか。偶然でないとすれば可能性は二つに絞られる。
(1).イエスは「マリア」という名前に特に関心があり、「マリア」を中心に布教活動をおこなった。
(2).イエスもしくはイエス死後の中心的指導者が信者の内特別な存在に「マリア」という名前を与えた。
(1).ではイエスは単なるマザコンである。しかも新興宗教の開祖たるイエスがわざわざ布教の選択肢を狭めるとは考えられない。
それでは(2).を検討してみよう。先に「イエス死後の中心的指導者」の可能性を示唆したが、これはまず考え難い。イエスには後継者が数多く存在したが、他に抜きん出た唯一無二的後継者は見当たらないからだ。従ってここでは、「イエスの名付け」の可能性について検討し、それが否定されて初めて、これに移りたい。
実はイエスには前科がある。
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、(マタイ4-18)
ペトロが何故こんな呼び方をされているのかは、次の文章で理解できる。
イエスが山に登って、(中略)シモンにはペトロという名を付けられた。(マルコ3-13〜16)
つまり、「ペトロ」とはイエスがシモンに付けた名前なのである。さらに、この部分はこう続く、
ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。(マルコ3-17)
要するに、イエスは弟子たちに名前を与えていたのである。考えてみれば古来より権力者や宗教的指導者が臣下や弟子に名を与えることは珍しいことではない。また、名前が霊力を持つと信じられていた時代では、名付けは人を霊的に支配する手段でもあった。イエスが高弟に名付けを行うことは、宗教的指導者として当然の行為であったかもしれない。比較の対象として不愉快に思う真摯なキリスト教信者にはご寛恕戴くとして、先日死刑判決を受けた某新興宗教の教祖は幹部たちにサンスクリットの名前を与えていたではないか。
さて、こうして「マリア」とはイエスの名付けたものである疑いが浮上してきた。では、イエスが名付けた名前が何故「マリア」だったのだろうか。その考察に入る前に、言わずもがなではあるが、再確認を行いたい。それはイエスの精神世界を分析する場合のイエスの立場の問題だ。イエス生存当時、イエスはキリスト教の教祖ではなく、ユダヤ教の改革者であったことは疑いがない。従って、イエスの精神世界はユダヤ教とモーセの律法の支配下にあった。これを抜きにしてイエスの考え方を考察することは不当であると思われる。
ではその考察を始めよう。最初に特筆すべきこと、それはイエスの名前である。新約はギリシャ語、旧約はヘブライ語で書かれているため、通常聖書に親しんでいる人ですら気付きにくいが、「イエス」のヘブライ語読みは「ヨシュア」である。つまり、イエスはモーセの後継者であるヨシュアと同名なのである。そしてその意味は「神は救い」であるそうだ。(新共同訳聖書用語解説による)
ヨシュアはモーセ以降のイスラエルの指導者たちの中で殆ど唯一神に従い通した人物であるが、イエスにはこんな発言がある。
わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止する為ではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることは無い。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。(マタイ5-17〜19)
ヨシュアはまたイスラエル十二部族を率いて、神との契約の地を勝ち取った。筆者のような異教徒からすれば「ヨシュア記」は「胸くその悪くなるような」記述で満たされているのだが、だからこそユダヤ教徒からはヨシュアは旧約最大の英雄の一人と見られていると思われる。ところがイエスは、
イエスが山に登って、(中略)そこで十二人を任命し、使徒と名付けられた。(マルコ3-13・14)
では、何故使徒が十二名なのかは、次で判明する。
イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。(マタイ19-28)
つまり、イエスは十二使徒とイスラエルの十二部族を同一視しているのである。これはイエスが彼自身をヨシュアに見立てていることに他ならない。「イエス≒ヨシュア」が成立するのであれば、その親の世代、「母マリア≒アロンの姉ミリアム」もイエスの意識にあったであろう。そしてそのミリアムは旧約に最初に登場する「女預言者」なのである。預言者とは「神の言葉を預かり人に伝える者」である。とするならば、イエスの言葉を他者に伝える者も預言者ということが可能だ。これは単に筆者の付会ではない。
主はモーセに言われた。「見よ。わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。わたしが命じるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが、イスラエルの人々を国から去らせるよう、ファラオに語るであろう。(出エジプト記7-1・2)
イエスの弟子たちはイエスの言葉を人々に語り歩いたであろう。それは十二使徒だけの務めであったとは思われない。イエスに付き従う女性たちの何人かはその役割を担ったこと想像に難くない。彼女たちはイエスの女預言者であった。そんな彼女たちをイエスは「ミリアム」と名付けたのではあるまいか。
自らをモーセの後継者ヨシュアに、十二使徒をイスラエルの十二部族になぞらえ、数人の女預言者である「マリア」を従えたイエス。超俗の聖人ではなく、野心と稚気に満ちた俗人のイエス像が見えてくる。だが、それもよしとしようではないか。何故なら、
父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。(ルカ23-46)
と、従容と死んでいくイエスよりも、
わが神、わが神なぜわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27-46)
と、叫ぶイエスの方が、筆者は好きなのだから。
(テキスト:新共同訳聖書 日本聖書教会)
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