『倭国の源流と九州王朝』(目次) 好太王碑文(藤田私釈)
『邪馬壹国から九州王朝へ』 好太王碑に現われる倭とは何か(藤田友治)
好太王碑論争の決着『市民の古代』第6集
中国側現地調査・王論文の意義と古田説について 藤田友治
闘論 好太王論争 へ
藤田友治
まず、好太王碑とはどのような史料であり、研究史上どう扱われてきたのかを考えてみましょう。(詳細は拙著『好太王碑論争の解明』新泉社をご覧下さい)。
高句麗は紀元前一世紀に中国東北地方に夫余族が建てた国であり、三一三年に楽浪郡を中国から解放して朝鮮北部を領土とし、好太王(広開土王、三七四〜四一二年)の頃に最盛期をむかえますが、六六八年に唐・新羅連合軍によって滅亡しました。「好太王」とは略称です。正式には碑文によると、「国岡上広開土境平安好太王」であり、「永楽太王」と号し、『三国史記』によれば、諱(いみな)を「談徳」と称しました。
好太王の在位は、三九一〜四一二年で、碑は好太王の死後、二年して彼の子・長寿王(在位四一三〜四九一年)が父の功績をたたえて建立したものです。現在の中国吉林省集安県太王郷太王村にあり、この村の名は好太王碑があるところからついています、碑は一五〇〇年を越える風雪に耐えて立っています。碑建立の目的は好太王の功績と守墓人制度(墓を守る制度で国烟三十家、看烟三百家を置くと碑文にあるもの)を明確にするためでありました。ところが、日本では従来からこの碑文をあたかも“我国の第一級の金石文史料”として扱ってきました。
好太王碑は東アジアの古代史を解明する際の第一級の金石文史料であるのは疑いを入れません。
この金石文として重要な好太王碑について“改ざん”説を李進煕さんが提起され、古田武彦さんが明確に“改ざん”を否定されて、提起者の李進煕さんと激しい論争を呼び起したことは、みなさんご存知と思います。
ポイントは、拓工が石灰を塗ったことにあり、それは意図的な“改ざん”ではなかったという古田武彦さんの説が正しく、また、中国の吉林省文物研究所の王健群所長の『好太王碑の研究』によって、拓工の名前(初天富、初均徳父子)まで判明したわけです。
私自身が、“改ざん”はないと確信しましたのは、教え子たちと一緒に拓本や釈文を比較研究をしていて、第三面十四行三十九字が釈文によってさまざまに変化することに気づいたからです。七 ー 六 ー 一と分かれるのは碑面 のキズを石灰によって埋めていたからで、それは年代によって変化していました。これが、李進煕さんがいわれる“改ざん”の実態なのだと明確にしえたのです。つまり、正体は拓工のなしたことでした。表Aを見ていただくと、七→六の一九〇〇年前後、これが「石灰全面塗付作戦」といわれたものの真相です。この文字をいかに変えようが、倭とは関係がなく、もちろんイデオロギーに関係しません。
次に、イデオロギーに関係しながら、李さんによっても提起されなかった問題にふれます。
最近、碑文研究上進展を得たことですが、守墓人の術語(ターム)に国烟、看烟の他に「都烟」があるかのように扱う学者や不明とする学者がいます。たとえば朝鮮金石文の研究で知られる井上秀雄氏は「都烟は、前後の書き方に従えば、『看烟』とすべきであるが、都烟としたのはたんなる衍字(えんじ 文中にまじる不用な字、よけいな字)か、あるいは特殊な烟戸であったのか、いまだ明らかになっていない」(「古代朝鮮金石文としての好太王碑」『書道研究』一九八七年創刊号)と言われています。この問題は好太王碑建立の目的の一つである守墓人に関することであるだけに未解決にしておくわけにはいかないのです。この文字(四面二行三五字)について約百年間の釈読は次の通りです。
(1) 「都」と判読・・・横井忠直、栄禧、羅振玉、楊守敬、今西龍、前間恭作、劉承幹、金毓黻、末松保和各氏ら。
(2) 「看」と判読・・・三宅米吉、水谷悌二郎、朴時亨、藤田友治、王健群、耿鉄華、福宿南嶋、武田幸男各氏ら。(発表順)
(年代は発表年代である。 ーー年名の不明なものは除外している)
年代 | 資料 | 字 |
---|---|---|
1883年 1889年 1898年 |
酒匂雙鉤加墨本 横井忠直の釈文 三宅米吉 |
七 七 七 |
1905年 |
内藤旧蔵写真 |
六 |
1913年 1915年 1918年 |
写真 今西龍の釈文 写真 |
七 七 七 |
1919年 |
朝鮮金石総覧 |
一
|
1922年 1934年 |
劉承幹の釈文 金毓黻の釈文 |
六 |
1959年 1966年 1983年 1984年 |
水谷悌次郎の釈文 朴時亨の釈文 藤田友治の解読 王健群釈文 |
一 一 一 一 |
一つの文字をめぐって研究者間で二分されている困難な問題ですが、好太王碑文の論理、拓本等の研究、現地調査によって確定しうるのです。
(一)碑文の論理
碑文には各地域の看烟を合計して「三百」と明記しています。問題の閏奴城(ジュンヌ)の姻戸は「二十二」であり、この数を看烟に含めるとピッタリ「三百」となり、碑文と合致します。さらに碑文は第四面の烟戸をまとめたところで「国烟三十、看烟三百、都合三百三十家」と総括しており、ここに「都烟」なるものは一切入っていないのです。さらに国烟と看烟の比率が一対十となっており、高句麗の社会制度の整然とした確立をうかがわせます。「都烟」という単位やその数「二十二」は混乱を持ち込むものとなりましょう。
(二)拓本等の研究
「都烟」とつくるのは酒匂雙鉤加墨本そうこうかぼくほん、シャバンヌ拓本、内藤虎次郎旧蔵本、大東急記念文庫本等です。讐鉤加墨本は厳密な「拓本」ではなく、墨をぬる際に人為的になりやすく、また、シャバンヌが碑を調査し拓本を購入した時期(一九〇七年四月)は石灰が塗られ仮面字が多くありました。その証拠となるのは王健群氏が明らかにした拓工・初均徳の抄本であり、これは「都」とつくっています。つまり、拓工がつくった文字です。
一方、石灰塗付の影響が少ない水谷悌二郎氏所蔵拓本では「看」とかろうじて判読できますが、右半分にキズが入っています。また、傅斯年(ふしねん)氏旧蔵(甲)本・中央研究院歴史言語研究所所蔵(武田幸男『広開土王碑原石拓本集成』)も「看」と読めますが、右半分にキズが入っています・
(三)現地調査
現地で碑面に接し幾度も確認しましたが、風化にあった文字であり、キズを石灰で補って、「都」とつくったと思われました。つまり、正しくは「看」であるとの確証をえたのです。
さて、この問題もささいなようで実はそうではなく、重要な問題を提出していました。“改ざん”説を真に徹底させるならば、高句麗の守墓人の制度にかかわる「都烟」なるものの実体があれば、真にイデオロギー、制度にかかわるものであり、李氏はこの文字こそ真に問題提起をされるべきであったのです。
この文字こそ守墓人制度に深くかかわるからです。だが、李氏は先にのべた国烟の数を合わなくさせている最大の文字「七 ー 六 ー 四 ー 一」(三面十四行三十九字)を“改ざん”とすることなく、しかも直接的に制度にかかわる「都烟」問題を問うことなく、「海」の字のズレという拓本上の疑惑にとどまったのです。つまり、自己のイデオロギーを優先させ、実証的かつ現地調査に基づいた碑文研究から出発したものではなかったのです。以上によって明白なように、李氏の提起された“改ざん”説は成立しません。
だが、李氏の示された真摯な研究動機や日本軍国主義批判は今日においても正しいものであり(李仮説の否定と同時に李氏の軍国主義批判そのものも消し去ろうとする試みに反対です)、李仮説の提起によって古田武彦氏や王健群氏らのような詳細な好太王碑研究が一層進展しえたわけであり、小生の貧しき研究もどれほどの恩恵を受けたか計り知れないことと感謝しています。この点は是非、ご留意下さい。
好太王碑“改ざん”論争は決着がつきましたが、じつは残された課題は多いのです。好太王碑文中にある「倭」とは何かをめぐってシンポジウム等で論争が始まっています。(詳細は拙論「好太王碑に現われる倭とは何か」『シンポジウム・邪馬壹国から九州王朝へ』新泉社参照)
詳細な現地調査で“改ざん”説を否定した王健群氏は大著『好太王碑の研究』によって倭を十一ヵ所としていますが、わたしたちの現地調査では、現段階で確認できる倭の文字は八ヵ所であり、これに研究史上かつて読めた文字一ヵ所を入れ、九ヵ所出現すると認められるが、十一ヵ所も認めることはできません。
王氏が「新たな倭」とした文字は次のようです。
(1) 二面九行九字目は、今日では不蘇明で字形を確認することができません。しかし、過去に「来」と読めた文字です。
(2) 二面十行二二字目も「来」と読めた文字です。
(3) 三面一行四十字は「□」で不明とせざるを得ません。
さらに、王氏が「倭」と認めなかった二面九行三八字は倭でいいのです。
この指摘は、『好太王碑論争の解明』でおこない、また三年前のシンポジウムでもおこないました。最近、東大の武田幸男さんは『広開土王碑原石拓本集成』を発表され、武田さんの試釈も倭を九つとしておられ、私と同じ見解でした。(川口平三郎氏のご教示を得る)
また、王氏は倭を「倭寇」として北九州一帯の海賊ととらえています。自説を展開する際、先行説に考慮しなければならないのですが、王氏はしばしばこれを無視されます。倭を海賊ととらえる説はすでに金錫亨氏や旗田巍氏によって主張されていたのです。
「倭」は海賊か国家かという議論のポイントは、日本列島がまだ統一されていなかった。五世紀では、国家関係が成立していたとは思えない」という王氏の主張にも見られるように、「国家」という概念と実体の把握にあります。四世紀末の東アジアは、高句麗と新羅、倭と百済とがそれぞれの利害が複雑に交わる中で同盟と対立があり、対立は抜きさしならない状況となって、結局好太王碑文にあるように戦争となっていったものです。
好太王碑文と『三国史記』は成立年代が異なっていても、基本的にはこの歴史的事実を反映しており、内容的に一致しているのです。しかし、倭を国家でなく海賊とみなして解読すると、当時の国家間の矛盾を処理できないばかりか、それぞれの国の歴史を見誤ることとなるでしょう。
もとより、「倭」を大和政権ととらえたり、朝鮮を「植民地」ととらえる従来の日本の通説は誤まりです。この限りで、大和中心主義や日本帝国主義の歴史観の歪みを問い質そうとされた金錫亨、朴時亨、李進煕、王健群ら各氏の研究動機、姿勢は今日的に重要です。彼らに対する日本の学界での応答は本質的には脆弱ですが、唯一、九州王朝説の古田武彦氏の立論がこれに答えています。「倭」を九州を中心としている。高句麗軍と交戦したととらえる一点において、立場の違いを越えて共通しているのは歴史的真実であるからです。
「海賊」とは大和朝廷ではない、九州を中心とした勢力と考えています。
好太王碑の前で、中国、朝鮮民主主義人民共和国、韓国、日本の学者達が一字一字を確認しながら、高句麗、百済、新羅、倭について徹底したシンポジウムが行われることを期待しないわけにはいかないのです。そして、このことは、古代史の真実を追い求めるためだけでなくて、今日、明日において東アジアの学術交流、友好にかかわることです。好太王碑の真実を求めるということは、そういういうことでなければならないでしよう。
さて、問題のポイントである「倭」を九つと確定しました。それでは、好太王碑文全体の中で、「倭」の位置はいかなるものであるのか。そのためにも、碑文の全体を正確に復原しなければなりません。これは、いうのは簡単ですが、じつはたいへん難しい作業です。風化作用に加え、拓工による石灰塗布、さらに異体字等により(たとえば)、約百年間の研究によっても完全に解読されたとはいいがたいのです。この点は、好太王碑文は一八○○字足らず(王氏一七七五字)にもかかわらず『三国志』魏志倭人伝が約二千字であり、研究者だけでなく、広く市民の研究対象となっているのと異なります。文字そのものについての論争は古田さんが「台」を原文通り「壹」が正しいとしたのが本格的な始まりでしたが、数ヵ所だけであり、好太王碑の異なる解釈と比べますと、一ケタもニケタも違いがあると、言っても過言ではありません。この問題点があるので、好太王碑文は魏志倭人伝と比較すると市民のみなさんの研究資料とはならなかったのではないかと考えています。
私はまず“改ざん”論争にこだわりました。もし“改ざん”されているのが真実なら、それを基に考えることは「空中楼閣」となるからです。研究をしてみて、霧の中からようやくハッキリと見えてきたことは、“改ざん”説そのものが“「空中楼閣」であった!”ということでした。そこで、『好太王碑論争の解明』を書いたのです。それは、学界、教育界において“改ざん”説が有力であった時代の産物であったのです。これを乗り越えることに全力を注いだのです。
私の本に対して、ご厚意ある解説を古田武彦さんからいただき、かなりの研究者からご賛同もいただきましたが、山田宗睦さんは適切なご批評を下さいました。「碑文そのものについて全面的な解明(注釈)をきちんとすべきでした」(『市民の古代』9集)といわれたわけです。つまり「論争の解明」ではなく「碑文の解明」をすべきだということです。これは、さきほどいいましたように文字の確定が難かしいのです。以来、三年かかって念願の宿題をようやく果たすことができ、今年の正月明けに完成させ、「好太王碑の碑文と釈文」という論文として大阪府教育委員会へ提出しました(この論文は大阪府教育委員会教員研究表彰を受ける)。
一字一字をなぜこれが正しいのかを考え、文字の確定から、次に注釈、現代訳、解説と段毎にのべていますがここですべてを申しあげることは時間の制約があってできないのが残念です。そこで、まず碑文を私はこう解読したという試釈を初めて発表します。もとより、これは完全なものでなく、研究の前進によって修正していくべきものととらえています。これを現代訳にしてまず全体像をとらえてみましょう。(ここでは倭の場所に限定します)
高句麗の支配者層にとっては「広開土境をした」「好よき太王」(広開土境平安好太王)であっても、隣国にとっては恐るべ好敵手であった。当時の百済王にして戦慄(せんりつ)せしめ、「王は談徳(好太王 ーー引用者註)が用兵に秀れていることを聞いているので、城を出て戦うことができなかった」(『三国史記』百済本紀・十六代辰斯王八年秋七月)くらい、恐るべき敵であった。
好太王碑文がのべる好太王の対外戦争の記事を次にすべて掲げよう(基本釈文を王健群氏のものとしているが、解釈は必ずしも王氏のものではない。碑文中の空白や省略を( )で補足しているのは筆者、インターネット上で碑文の読み取り文字は青色表示)。
(1) (三九五年)「永楽五年、乙未オツビ」好太王は卑麗が連れ去った(高句麗)人を返さないため、自ら軍勢を率いて討伐に行き、富山を過ぎ、山を背にし塩水の上(ほとり)に至って、其(碑麗)の三部洛(落)、六、七百の営(ナント)を攻め破り牛馬、羊の群を数え切れぬほど獲得した。(好太王は)ここにおいて駕をめぐらし、嚢(ノウ)平道(遼陽から高句麗に至る交通路)を通り、東に進んで帰ってきた。□城、北豊に到着し、好太王は狩りの用意を命じ、(道々)土境(国土)を巡遊し、狩猟しながら(王都に)還ってきた。
◎百残(百済)と新羅は旧(もと 高句麗の)属民であった。そこで従来から朝貢してきていた。(ところが)1倭が[立/木](辛の古字)卯年に(三九一年)(百済新羅の地に)やって来た。(そこで 高句麗 ーー倭とする異説ありーー は)海を渡って百残(東海で倭 ーー百済とする説が多い)を伐ち、新羅をもって臣民とした。
[立/木]は、立の下に木。辛の異体字。
(4) (三九九年)「永楽九年、己亥キガイ」百残は自分の誓言に背き、2倭と修好した。(百済を警戒するため)好太王は南下して平穣(壌)を巡視した。そのとき期せずして、新羅が使者を派遣してきて好太王のもとに訴えてきていうには、「3倭 人がその(新羅と倭)国境に満ち、城池を潰こわし破り、『奴客』(新羅王である私)は高句麗の民となっていますから、わたしは太王に帰順しその命に従いたいと思います」と話した。
好太王は慈悲深く、新羅の忠誠をたたえた。そこで好太王はとくに新羅の使者に秘密の計略を授けて帰らせた。
(5) (四〇〇年)「永楽十年、庚子コウシ」好太王は将に命じて歩騎五万を遣わし、新羅を救いに行かせた。男居城より新羅城にいたるまでのあいだには 4倭 人が満ちていた。官軍(高句麗軍)がつくと、5倭 賊は退却をはじめた。(官軍は)倭 を追撃し任那加羅の従抜城まで追った。この城はたちまちのうちに降服したので、新羅人にこの城を守備させた。(さらにまた)新羅城と塩城を攻め破り、6倭 寇は7大敗した。城内の新羅人の九割までが倭人について行くのを拒否し、高句麗の軍隊はまたこれらの城を新羅人に守備させた。新羅城・・・・残余の倭寇は敗走した。また□城を占領し、同じく新羅人に守備させた。以前、新羅王は自ら朝貢し命令に従うことはしなかったが・・・・広開土境平安好太王が新羅を助け 9倭 寇を撃ち破ったので新羅王は・・・・ようやく自ら朝貢に来た。(この部分は碑文の脱落が多い。王説をあげたが、王志修・栄禧釈文では異なっている。)
(6) (四〇四年)「永楽十四年、甲辰コウシン」8倭は軌ならず(ルールを守らず)、帯方地方に侵入した。(百済の軍隊と連合して ーー王説)石城を攻め落とした・・・。好太王は自ら軍隊を率いて討伐に行った。平壌から出発し、先頭部隊が敵と遭遇した。好太王の軍隊は敵の進路を遮断し、敵軍に突っ込んで斬(き)り殺し尽くし、9倭寇は潰(つい)やし敗れ、多数の敵軍を斬り殺した。
(7) (四〇七年)「永楽十七年、丁未テイビ」(好太王は)歩兵と騎兵五万人を遣わし(百済を攻撃した ーー説。王志修・栄禧釈文では倭寇となっている)、高句麗の軍隊は四方から包囲する作戦をとった。敵軍を斬り殺し、そそぎ尽くした。われわれは鎧一万余領を獲得し、獲得した軍用物資と兵器は数え切れないほど多数にのぼった。撤兵の途中も沙溝城、婁城ルロウ、□城等を奪い取った。
ここて、最近出版された東大の武田幸男さんの『高句麗史と東アジア ーー「広開土王碑」研究序説』(岩波書店)の解釈についてふれます。武田さんは次のように釈読しておられます。
而しかるに倭、以て、辛卯の年来よりこのかた、□を渡りて百残を破り、新羅を□□し、以て臣民と為せり。
(インターネット上では、碑文の読み取り文字は青色表示)
武田さんは、原石拓本を収集されて比較研究をすすめられたのは貴重なことだと思いますが、この釈読には問題が残ります。
まず「□」は従来の「海」と読まれたのを否定していることです。「海」の字は碑面の凹名にあたり、サンズイが不明確です。しかし、約一〇〇年間の釈文は「海」と読めた文字であり、これを「不明」とするのは厳密なようで、じつは不可知論(何もかも解らないこと)へと議論を導きます。武田さんと同じ基準で「厳しく」見ますと、ほかの「海」(一 ー 五 ー 二二)も今日「□」(不明)とすべきところですが、武田さんはこれをハッキリと「海」としておられます。
「海」が論争となったから「□」としておられるのは、明らかに“改ざん”説を完全に克服しておられない態度であるといえるでしょう。このように、「厳密」にみえて、じつは客観的でなく、恣意的であるのです。もし、同じ基準を採用するなら、碑文は欠字だらけの文章となるでしょう。
次に、「以・・・来」の読み方で、従来の通説の矛盾は、「来渡海」の三字を「来りて海を渡る」とすると倭を、主語と解した場合、朝鮮半島に来て、海を渡ると倭へ帰ることになりおかしなこととなります。
そこで、西嶋定生さんは、「断句の方法としては、新説の方が正しいという結論に到達した」とされ、「以・・・来」を「〜よりこのかた」という解釈で乗り切ろうとされたのです。王健群さんも同じでした。この解釈が、倭を主語とし、百済、新羅を臣民と解する「根拠」とされたのです。
しかし、これに対して私は碑文の用例に従うべきだと主張したのです。(拙著、一九八六年)
碑文の「以来」は、ハッキリとつながっているのです。
「自比以来」(二面六行)
「先王以来」(四面七行)
「来」の全用例は、九回出現しており、「〜よりこのかた」と解する時は、必ず「以来」とつながっていたのです。
さて、武田さんは、従来、「来」字の釈読を旧稿では「来る」の意味で解していました(「広開土王碑文辛卯年条の再吟味『古代史論業』上。)しかし、西嶋さんの批判を受けて、西嶋さんと同じ「よりこのかた」と改めておられます。
改めたのだけれども、なお、疑問を感じられて、よく読めば、注釈で、次のようにいっておられます。
「来」字を“来る”と読む立場から論述したが、その後西嶋定生によって詳密な反論をうけた。分離した「以・・・来」二字をまとめて、「よりこのかた」と釈読するのは、時間の経過を示す『碑文』の「略的な表現法」例えば「自比以来」「自上祖先王以来」など、二字連語の表現法と異なる点に疑問が残る。(『高句麗史と東アジア』一八三頁、以来は傍点、インターネット上は赤色表示)
みなさんは、この文章を読まれて、どう思われますか。「疑問が残る」とあるのは学者としての良心」であり、一方で、ためらいであるのです。しかし、論理的にいいますと、疑問が残るのに西嶋説に従うのはおかしいと思われませんか。碑文は、この点を、すでにハッキリと示しています。「以来」は分離しておらず、「来」は動詞であるという碑文の論理、用法に従うべきです。
これは、「倭」を主語として解釈し、百残、新羅を臣民としたという通説を維持する最後の苦肉の策ですが、いずれも論理的に成立しません。古田さんがすでに解釈した通り「倭が来る」までで切り、高句麗が「渡海破」をしたのです。好太王碑文は誰れのために立碑されたのかという最大の立脚点に立てば、自明の論理です。
さらに「以」も高句麗が百済、新羅を属民としていたことをさし、「これを以て」の内容は倭が行動するという不自然さを残しています。
次に欠字問題についてのべます。この二文字は早くから風化にあり、厳密には「□□」不明とせざるを得ません。しかし、初均徳の「碑文手本」に「東□」とあるのをヒントにして、わたしは「東海」と試論を拙著で発表しました。この「東」については、「王健群氏をはじめ現地関係者も上方の碑字の左上部残画が『東』に近かったと証言していて」と武田さんもいっており、注目されます。その場合、中小路さんが、「好太王碑文私見」(『市民の古代』10集)ですでに解釈されました。可能な訓じ方は、「ひがしのかた」「東方に向かって」という訓です。これは今回武田さんも「東のかた」とも考えておられ、発表としては中小路さんが九州の三年前のシンポジウムでいわれたのが先でした。なお、この問題は今後の科学調査に期待しましょう。
次に倭について考えてみましょう。
倭がはっきりと「倭」として扱われる最初の文献としては、『山海経せんがいきよう』(周の戦国時代に出来た地理書)が知られています。
蓋がい国は鉅燕きょえんの南、倭の北に在り、倭は燕に属す。
とあります。蓋国はピョンヤン近辺ですから、これはどう考えても朝鮮半島の南半部にも倭がいたと考えられます。
次に『漢書』(地理志)を考えてみましょう。
夫それ、楽浪(郡)の海のなかに倭人が住んでいて、分かれて百余国をつくり、毎年(楽浪郡に)使者を送り、献見しているとのことである。
危四度より斗六度にいたる分野は、析木の次といい、燕の分野である。
(『東アジア民族史1」東洋文庫より、アンダーラインは引用者。インターネット上は全文赤色表示)
『漢書』は前漢の時代の史実を記載した書物で、後漢の班固(はんこ 三二〜九二年)の撰で、父の班彪(はんぴよう)の修史の業をつぎ、明帝の命で八十年頃(建初年間)にこの書を作りました。地理志の部分は班固の創始です。
従来から『漢書』(地理志)の倭人のことはよく知られており、高校のどの教科書・史料集等にも掲載されています。しかし、従来は傍線部がカットされていました。そのためもあって、楽浪海中の倭人とは日本列島にのみ限定した見解が支配的であったわけです。
しかし、原文ではよく読むと「危四度より斗六度にいたる分野は、析木の次といい、燕の分野である」という文章が続いているのです。この文章は非常に重要な当時の地理認識を示しているのです。「地理志」において地理認識を示しているのは当然な姿ですが、従来はこの肝心カナメの部分をカットしていました。
従来、ほとんど注目されなかった部分だけにやや詳細に考えてみましょう。
「危き」は二十八宿の一つで、北方の星宿をいいます。宿とは星座のことで、古代中国で発展した天文観測に基づいて五行思想と結合し、日月五星(木星、火星、土星、金星、水星)の運行の位置を示す中に、黄道・赤道附近に特定された二十八の星座があります。
「斗と」も星宿で斗宿といい、やはり二十八宿の一つで北方の星宿をいいます。
「析木」は星次の名で、箕宿・斗宿に相当し、十二支の寅(北より六〇度東)の方向をいうのです。
これは『淮南子えなんじ』という前漢の武帝の頃、淮南国の王の劉安が命じて編纂させた本にくわしく記されているもので、二十八宿の分度、および四方・九天・分野との関係を表にしますと、表Bのようになります(楠山春樹著『淮南子』上・新釈漢文大系、参照)。
「危四度より斗六度にいたる分野は、析木の次といい、燕の分野である」ということについて、どこを基準点にしてのべたものでしょうか。『漢書』を撰した班固は後漢の人です。前漢の都は長安であり、後漢の都は洛陽でした。そうすると、後漢の都、洛陽を基準として方向、地理志が描かれているとみるのが自然でしょう。
洛陽を基点として、北より六〇度東の方向に倭人が居住し百余国に分かれていたという地理的認識をもっていたことが判明します。つまり、倭人は朝鮮半島にいたわけです。
従来の通説は日本列島にのみ倭人を限定していたため、地理志の肝要の文章をカットして理解するしか方法がなかったものと思われます。
この認識こそが、前の『山海経』と次の『三国志』魏志倭人伝との間にある漢人の地理認識として接続を意味している重要なポイントと思われるわけです。
さて次に、『三国志』魏志倭人伝は、
倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑こくゆうを為す。
と、倭は九州を中心とした倭が出てきます。しかし、朝鮮海峡をはさんで、朝鮮半島内の「狗邪韓国こやかんこく」も倭地と考えられます。それは郡より女王国に至る距離計算からそうなることを実証的に古田さんは『倭人伝を徹底して読む』の中で証明しておられます。
また、韓伝に、「(韓地)南、倭と接す。」
とあり、
「東西、海を以て限りと為し、南、倭と接す」とあります。
つまり、好太王碑の第一面に出現する「倭」とは、このように東アジア、中国、朝鮮から見た「倭」をさし示すという明白なことを何の認識のくもりもなく、予断と偏見をなくして見つめると明白になってきます。後世の国境概念、国家観でみるべきでないのです。
そうすれば、辛卯年をもって倭が(高句麗の従属国である百済や新羅に来る)という意味が従来よりも一層ハッキリします。つまり、倭は日本列島のみであれば、当然、海をこえて行かなければならず、碑文は
「渡海而来」(『三国史記』新羅本記始祖三八年条)
「渡海来征」(『三国遺事』巻三宝蔵奉老の条)
となるべきです。とすれば、「来渡海」という用例は西嶋さんが、いろいろ探されたのですが、その例は好太王碑文の他はないのです。つまり、倭は陸つづきに来ていたのです! 海を渡らずとも! この点が、決定的に重要な認識になります。倭を日本列島と前提し、そこにとらわれるとき、当然に渡海しなければなりませんから、そうすると奇妙なことに、「来渡海」として表現するとどうなるか、来ているのに、海を渡って帰ってしまうこととなるという旧説の最大の矛盾があったのです。
正しい読解は一つしかありません。海峡国家としての「倭」は、九州の博多湾を根拠地とし、壱岐・対馬で橋渡しをして、朝鮮半島南部にもいたのです。だから、百済、新羅と隣国として友好関係(一時の敵対関係をも含む)を結んだのです。これは、高句麗側からみると、たいへんな脅威であり、碑文の誇張ではなくて、あの倭を討伐することは重大な功績となるわけで、この理由によって好太王碑文に明確に記していたのです。
もとより、他国を侵略することはいかなる大義名分があってもあやまりです。ですが、歴史をリアルにとらえて、そこから生きた教訓を引き出さねばなりません。まず教訓、教義があって、歴史観ができるのではありません。高句麗とて百済、新羅に侵入したのです。しかし、結局、唐、新羅連合軍によって滅ぼされてしまいました。九州王朝の滅亡の美学とともに、歴史のかなたへと消えてしまいました。
わたしたちは、この滅亡した古代国家を、再び、その誤ちをくり返さない意味において、歴史的真実の探求、実証として、再びよみがえらせるのです。真実それがそうあったがままに認識するのです。従来の近畿天皇家一元史観から解放して古代史の真実を、とり戻すのです。真実こそが百の教訓や学説にまさるからです。
藤田試釈(○は新釈)
(第一面)
1 惟昔始祖鄒牟王之創基也出自北夫餘天帝之子母河伯女郎剖卵降世生而有聖彳□□□□□命駕
2 巡幸南下路由夫餘奄利大水王臨津言曰我是皇天之子母河伯女郎鄒牟王爲我連葭浮龜應聲即爲
3 連葭浮龜然後造渡於*沸流谷忽本西城山上而建都焉不樂世位因遣黄龍來下迎王王於*忽本東岡戸
4 龍首昇天顧命世子儒留王以道興治大朱留王紹承基業至十七世孫國岡上廣開土境平安好太王
5 二九登祚号爲永樂太王恩澤洽干皇天威武振被四海掃除不□庶寧其業國富民殷五穀豊熟昊天不
6 弔州有九宴駕棄國以甲寅年九月廿九日乙酉遷就山陵於*是立碑銘記勳績以示後世焉其辭一
7 永樂五年歳在乙未王以稗麗不□□人躬率往討過富山負山至鹽水上破其三部洛六七百營牛馬羣
8 羊不可稱數於*是旋駕因過褒平道東來□城力城北豊五遊観土境田猟而還百殘新羅舊是属民
9 由來朝貢而倭以辛*卯年来渡海破百殘□□新羅以爲臣民以六年丙申王躬率水軍討伐殘國軍至菓*
10南攻取壹八城臼模盧城各模盧城幹氏*利城□□城關弥城牟盧城弥沙城□舎蔦城阿旦城古利城□
11利城雑珍城奥利城句牟城古須耶羅城莫□□□□城□而耶羅□[王彖]城□□城□□□豆奴城沸□□
於*は、於*の異体字。
菓*は、近似表示。穴頭に果。[穴/果]JIS第3水準ユニコード7AA0
氏*は、氏編の下に一。JIS第3水準、ユニコード6C10
(第二面)
1 利城弥鄒城也利城大山韓城掃加城敦抜城□□□城婁賣城那散那城那旦城細城牟婁城干婁城蘇[大/火]
2 城燕婁城析支利城巌門三城林城□城□□□□□利城就鄒城□抜城古牟婁城閏奴城貫奴城彡穰
3 城□□城□□廬城仇天城□□□□□其國城殘不服義敢出百戦王威赫怒渡阿利水遣刺迫城殘兵
4 帰穴□便韋城而殘主困逼獻出男女生口一千人細布千匹跪王自誓従今以後永爲奴客太王恩赦□
5 迷之愆録其後順之誠於*是得五十八城村七百將殘主弟幵大臣十人旋師還都八年戊戌教遣偏師觀
6 帛慎土谷因便抄得莫新羅城加太羅谷男女三百餘人自此以来朝貢論事九年己亥百殘違誓与倭和
7 通王巡下平穰而新羅遣使白王云倭人滿其國境潰破城池以奴客爲民帰王請命太王恩慈矜其忠誠
8 □遣使還告以□計十年庚子教遣歩騎五萬往救新羅従男居城至新羅城倭滿其中官軍方至倭賊退
9 □来背急追至任那加羅従抜城城即帰服安羅人戌兵抜新羅城□城倭□□潰城□
□九盡更□来安羅人戌兵滿□□□□其□□□□□□□言
[大/火]は、大の下に火。
(第三面)
1 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□辞□□□□□□□□□□□□潰
2 □以随□安羅人戌兵昔新羅寐錦末有身來論事□国上公開土境好太王□□□□寐錦□家僕勾
3 語□□□朝貢十四年甲辰而倭不軌侵入帶方界和通残兵□石城□連船□□□王躬率□□□平穣
4 □□□鋒相遇王憧要截盪刺倭寇潰敗斬殺無數十七年丁末教遣歩騎五萬□□□□□□□□王師
5 □□合戦斬殺蕩盡所穫鎧[金甲]一萬餘領軍資器械不可稱數還破沙溝城婁城牛住城□□□□□□那
6 □城廿年庚戌東夫餘舊是鄒牟王属民中叛不貢王躬率往討軍到餘城而餘城國駭□□□□□□□
7 □□王恩普覆於*是旋還又其慕化隋官来者味仇婁鴨盧卑斯麻鴨盧社婁鴨盧粛斯舎鴨盧□□□
8 鴨盧凡所攻破城六十四村一千四百守墓人姻戸賣句余民國烟二看姻三東海賈國烟三看烟五敦城
9 民四家盡爲看烟干城一家爲看烟碑利城二家爲國烟平穣城民國烟一看烟十[此/言]連二家爲看烟俳婁
10人國烟一看烟州三梁谷二家爲看烟梁城二家爲看烟安夫連廿二家爲看烟改谷三家爲看烟新城三
11家爲看烟南蘇城一家爲國烟新来韓穢沙水城國烟一看烟一牟婁城二家爲看烟豆比鴨岑韓五家爲
12看烟句牟客頭二家爲看烟求底韓一家爲看烟舎蔦城韓穢國烟三看烟廿一古須耶羅城一家爲看烟
13[日/火]古城國烟一看烟三客賢韓一家爲看烟阿旦城雜珍城合十家爲看烟巴奴城韓九家爲韓咽臼模盧
14城四家爲看烟各模盧城二家爲看烟牟水城三家爲看烟幹氏*利城國烟一看烟三弥鄒城國烟一看烟
[金甲]は、金編に甲。JIS第3水準ユニコード9240
[此/言]は、此の下に言。JIS第4水準ユニコード8A3E
[日/火]は、日の下に火。JIS第3水準ユニコード7085
(第四面)
1 七也利城三家爲看烟豆奴城國烟一看烟二奥利城國烟二看烟八須鄒城國烟二看烟五百
2 殘南居韓國烟一看烟五大山韓城六家爲看烟農賣城國烟一看烟七閏奴城國烟二看烟廿二古牟婁
3 城國烟二看烟八[王彖]城國烟一看烟八味城六家爲看烟就咨城五家爲看烟彡穰城廿四家爲看烟散那
4 城一家爲國烟那旦城一家爲看烟句牟城一家爲看烟於*利城八家爲看烟比利城三家爲看烟細城三
5 家爲看烟國岡上廣開土境好太王存時教言祖王先王但教取遠近舊民守墓酒掃吾慮舊民轉當羸劣
6 若吾萬年之後安守墓者但取吾躬巡所略来韓穢令備酒掃言教如此是以如教令取韓穢二百廿家慮
7 其不知法則復取舊民一百十家合新舊守墓戸國烟卅看烟三百都合三百卅家自上祖先王以来墓上
8 不安石碑致使守墓人姻戸差錯唯國岡上廣開土境好太王盡爲祖先王墓上立碑銘其烟戸不令差錯
9 又制守墓人自今以後不得更相轉賣雖有富足之者亦不得檀買其有違令賣者刑之買人制令守墓之
(インターネット上では、碑文の読み取り文字は青色表示)
先ず最初、大きな点で「倭」をもう一度確認して、そしてその構造が、「勾玉」という問題、九州のこの地の問題、「三種の神器」が吉武・高木遺跡から出ていますが、そこと関係してどうつながっていくのか、主要な二つの点を申し上げたいと思います。
高句麗が朝鮮半島の北方にあり、好太王の頃ひじょうに強い力となってきています。続いて西側に百済、好太王碑文では「残」と書かれています。高句麗からみて百済をさげすんだ見方をしています。そして東側に新羅。ところで「倭」は辛卯年をもって来る、ということですから、その前に「海を渡って来た」とかはございません。ポイントは、倭はすでに来ていると、朝鮮半島から来て、そしてけしからんことに(高句麗から見てですね)、新羅や百済の地に盛んに入って来る。たとえば、百済と倭は非常に親しい関係にあるということを好太王碑は証言しています。高句麗は、あのけしからん倭と離れると言っていたというニュアンスの中で、永楽九年、百済は自分の誓言に叛き倭と修好し、仲良くしていることが高句麗にとっては非常にたまらないことであると。この点がひとつ。つまり、百済との関係で倭というものが居る、と。
しかも新羅は困っている。古田先生が昨日ハッキリと申されましたが、中国の学者朴ジンソク氏との討論の中で「其の国境」は何を措すか、それはもう断然新羅と倭の国境を指すわけで、倭人が新羅と倭の国境に満ちていると、そして新羅の地に来て「城池」を壊していると、ですから倭と新羅の関係、倭と非常に親しい百済との関係、の中で、好太王碑文は敵側の資料ですから見事に証言している、ということを申しあげました。
また、この朝鮮半島内の「倭地」の問題は、私たち日本の方が言うのではなくて、第三者の国としての中国が、文献上(『山海経』、『漢書』地理志、『三国志』魏志倭人伝等)ずっと残していたんだということを申しあげました。まずここでひとつの構造を描いてみます。倭は百済と非常に親しい、新羅とも親しいが新羅を攻めている。こういう構造でした。ですから高句麗は「歩騎」、騎兵隊と兵隊を五萬も持って戦うわけです。こういう大きな構造の中で国を捉えていただきますと、この「倭」の構造が、じつは今度は全く異なる分野でも同じ形であらわれてきます。この構造は頭の片隅においていて下さい。
さてそこで、今度は全く異なる形でお話を進めることにいたします。
わたしは韓国の考古学をいろいろと勉強をしてきたのですが、勾玉が王冠の冠に掲げられています。この王冠というのは当然王位のシンボルです。で、そのシンボルに勾玉を掲げるということは一体何を意味するでしょうか。
この王冠が、出土したのは「加耶」です。加耶と呼ばれているところは、「倭」であると思います。その加耶の国で王冠が出土し、勾玉が掲げられています。あるいはすでに古田先生が著書の中でもお書きになっていることですが、新羅の王冠、これは古新羅の瑞鳳塚(ずいほうづか 慶尚北道慶州市)から出ました。これがカラーだったら凄いのですが。韓国の国立博物館に今もありますが、非常に大きな、キレイな、見事なものでした。左端に勾玉を掲げています。で、百済にも勾玉は王冠とか出土物から出て来ます。百済・新羅、もちろん加耶からも勾玉が出て来ます。じゃあ高句麗はどうだろう。高句麗もいろいろデータを集めて見ました。あるいは韓国だけではなく、朝鮮民主主義人民共和国の報告書を見たり、中国の集安県の博物館に寄せていただき、その副館長の耿鉄華さんと文通したり、やりとりしたのですが、「高句麗からは勾玉は出土しない」、厳密にはほとんどないと言っていいでしょう。まだ全部の全部ではなく見落しがあるかも知れませんから。しかし大勢としてはほとんど出土しない。この点は非常に重要な認識になってきます。と申しますのは、みなさんご存じのように、勾玉は縄文時代から、日本では既に造っています。で、この勾玉の型についてはいろいろな説がございますが、ちょっとここでイメージをつかむために申しあげますけれども、勾玉は当初は動物の牙のようなもので造られています。それからだんだんと玉を曲げていくのですが、ここに「通し糸」のところがありますね。とうぜんこれは、首に掛けたりして飾るのですから・・・・。そして、だんだんと変化しながら、最後は「子持ち勾玉」のような独特の形へ発展経過をたどるようでございます。匂玉は日本独特のもので、縄文時代からすでにございます。この点が先ず一つです。
そういうことであれば、縄文文化を基底にして新たに弥生文化が開花するのです。それぞれの部族が王権なり首長のシルシとして持っていた、後にそれは装飾品に変って行きますけれども、そういう経過の中で、勾玉は非常に深い問題を持っている。と申しあげるのは、この勾玉は高句麗にはほとんど出ないということです。百済にはもちろん王冠の飾りになっているし、新羅も加耶にも出ているのに。この匂玉の分布状況は一体何を意味するのでしょうか。
これは倭の集団の影響力によるのではないか、ということになってきます。そしてその見事な勾玉の集団は先程、また昨日申しあげた高句麗との勢力関係、好太王碑文と構造上見事に一致いたします。これが今日まず申しあげたい大事な点です。
次に、これはさらに意外なところにいきます。天皇家が「三種の神器」は三つであると、みなさんはそれぞれ習われてきたあるいは常識として取り上げる必要もないのですが、ご存知の「草薙くさなぎの剣」、そしてこの「勾玉」、それから鏡・「八咫鏡やたのかがみ」。これが三種の神器です。非常にキレイな写真で、『九州の真実・60の証言』(かたり部文庫)に出ています「最古の三種の神器」、なんと九州の吉武・高木遺跡から出土していますね。現場に立ってみると、飯盛神社があり、室見川の合流する非常に重要な全体の構造の位置の中で、やっぱり九州の地からこの「三種の神器」は間違いなく出ていると実感したものです。これが後に、そっちはそんなこと云うけど「三種の神器」なんていうのは天皇家のものではないのか、九州王朝論とどう関連するのかと思われるでしょうが、実は重要な意味を持つのです。
『日本書紀』をズーッと丹念に読みますと、「三種の神器」と言っているけれども、近畿では「二種」なのですね。「勾玉」がカットされていたのです。いままで「三種である」のは当り前の当り前、と思い込んでいたのがそうではないのです。たしかに「第一の一書」においてはこの「三種の神器」は出てくるが(明らかに神代紀に)、これは九州王朝の史料です。「一書」にあると言うのですから抜いてきたわけです。『日本書紀』はそういう点でかなり正直です。本文にはないという姿を示しています。
他ではどうなっているか。要点だけお話しますが、継体天皇の元年の記事より、天子の「璽符ジフ」というのは「剣と鏡剣と鏡」と、はっきり書いています。宣化天皇紀も然り、推古天皇紀も、舒明・孝徳紀も、持統天皇紀においても「璽符」は「剣と鏡」というふうにハッキリ書かれています。どこまで調べてもそうです。天皇家の内部にある『古語拾遺』にも「天の璽は鏡と剣」とハッキリ書いています。「勾玉」がズーッと抜けています。一体何故なのか? この点、現在も研究中ですが、ヒントは古田先生がすでに『ここに古代王朝ありき』の中で書かれた、「沙本[田比]売サホヒメと沙本[田比]古サホヒコ」にまつわる、美しい愛とロマンと滅亡の話に出て来ます。
[田比]は、JIS第3水準ユニコード6BD7
あの中で、垂仁紀に「ここに天皇悔い恨みたまいて、玉作り等を悪みて、その地をみな奪い取る。故に諺に『ところ得ぬ玉作り』と言うなり」と、このように出ています。私も図書館に行って、『古事記』の真福寺本をじかに見ました。実際、普通の本は「玉作り」のところで、「みな奪い取る」の「取る」をとっているのです。もともとあった土地を奪ったぐらいにしているが、もとから持っていないところを奪い取っているのです。玉造り集団と激突する、これがなんと東奈良遺跡・銅鐸圏文化でのことです。なぜ宝器としての銅鐸のことが『日本書紀』『古事記』に出て来ないのかという問題と合せて、非常に重要な問題、「玉造り集団と激突している」ということがあります。もちろん「三種の神器セット」を持つ集団と、「二種」という集団もあるでしょう。これは文化圏の違いであろうと思います。けれども非常に重要な事はそのあとの継体天皇の集団も、「二種」文化圏の集団だということです。
「勾玉」は九州であれ近畿であれ、縄文時代から発達してきたものである。全国いたるところの資料館や博物館でご覧になれます。非常に独特な物です。製品は玉製であれ様々な素材で、その形態も様々です。非常に美しいものです。で、この勾玉が「三種の神器」だと思っていたものを、なぜ天皇家は自ら外してしまうのか。本来は天皇家は二種であるのに、『日本書紀』は「一書」も入れ込んで、あるいは『古事記』の伝承も当然入れ込んで、「三種の神器」のような観念が作られていたんだということになります。
しかし、このことは、じつは九州の方が「王権の成立」が早いのだということを示してきます。もう一歩進んで、『日本書紀』や『古事記』では、あの「三種の神器」を、なぜ賢木(さかき)取って上・中・下に掛けるのだろうかを考えてみましょう。その出てくるところは見事に九州にみな関係があるのです。
たとえば「筑紫の岡の県主の祖熊鰐、天皇の車駕来るのをうけたまわって」、と云う。これは『日本書紀』の仲哀天皇紀に出て来ます。この「五百枝の榊さかきをこじ取りて」、大きな木を船の舳に立てて、上の枝に鏡、中には十握の剣、そして下には八坂瓊(やさかに)の勾玉を下げて迎えた、とあるのです。おかしなことです。近畿天皇家のことだと読み込んでいたら、「三種の神器」は出てきません。「九州の天皇」として読むべき間題がここに出ているように思います。で、この点は「ではなぜか、証拠を出せ」と云われるかも知れません。実は証拠は出ています。この吉武・高木遺跡、これからも発掘されるたびにいろいろな物が出るでしょうが、あきらかに九州に「三種の神器セット」が出ているのです。このように見ると『日本書紀』にもはっきりと「九州の王」がこれをやったと出ているのですから、符合してくるわけですね。
となりますと、なぜこのようなものを祭る信仰があったのだと。この点については、哲学的にもう少し深めて行く必要があります。中国の史書がその点を残していました。たとえば『三国志』魏書の韓伝を見ると、このように出ています。
人々は鬼神を信仰していて、各国の都にはそれぞれ一人を立てて天神を祭らしている」と。昨日、古田先生がすでにここで話されましたが、「天神」というのがハッキリ出て来ます。そしてこの「天神」を名付けて「天の君」、あるいは「天君」と読むのでしょうか。この辺は非常に厳密に考えないといけませんが、「天の君」または「天君」と云っている。また諸国には特別な地域があり「蘇塗そと」と呼んでいる。そこでは大木を立て、その木に鈴や鼓を掛け鬼神に仕えさせている。さまざまな逃亡者がそこに逃げ込めば、その逃亡者を外部へ追出したりはしない。これはどういうことかと云いますと、逃亡者が来てもこれを守るということは「主権」があるということです。アジール(解放区)であり自らの支配地域なのです。よそから何かを言われて「はい、そうですか」では主権がなくなります。
これは日本でもそういうことがありました。「金大中事件」のときに。主権というのはそういうことなのです。わたしたちが主体的に判断して守るということなのです。これは結局「天」、あるいは「天神」を祭るのが「天君」なんです。
このように考えると、ハッキリと「三種の神器」を「木に掛ける」という意味が理解できてきます。
この「天神」もじつはみなさんのお膝元にあるわけです。「天神」そして「天神祭り」、あるいは「天降」、そのような形で、この九州の地には現在もハッキリと地名などが残っています。これらがようやく繋(つな)がりかけてきたわけです。なぜ九州の王が榊に「三種の神器」を掛けたのか、「これは私の主権ですよ」という事を意味していたのです。「私の領域ですよ」と。そして迎えるときには主権の意志表示、あるいはそれは全体として、「私の支配下ですよ」ということを当然意味していたわけです。
この点から見ると、あの筑紫舞の「曲」の中に、またこれにつながる話がございます。このシンポジウムの始まる前日に福岡に来まして、一緒に旅をして、それを目の当たりに見ることができました。実際に見て、まがうことなく、「九州王朝」がさまざまな形で、地名や遺跡、高句麗の六メートル大の碑文に残っていたのだと、そしてその「証拠」に一つづつであれ突き当って行くんだ、というふうに思うところでございます。九州王朝が実在したから、地名や遺跡や金石文に残映として私たちに認識できるのではないでしょうか。ご静聴ありがとうございました。
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