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好太王碑論争の決着『市民の古代』第6集
中国側現地調査・王論文の意義と古田説について 藤田友治
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藤田友治
ただいまご紹介にあずかりました藤田です。今、司会者の方で、非常に適切に事態をよくつかまえられた説明をされたと思います。
好太王碑は、皆さんご存じのように、高句麗の好太王の功績と王が死んで墓を守る人 ーー守墓人・国烟・看烟ーー を記した碑文です。
好太王とは、高句麗の中期、最盛期の王で、碑文によりますと、正式名は「国岡上広開土境平安好太王」とあります。「国岡」とは、好太王碑が立っているところの地名であり、如山と鴨緑江の間の「聖地」でありました。「広開土境平安好太王」という名称の由来は、領土を広げ、国内を「平安」にして、秩序をよくした「好よき太王」(美称)という意味に求められます。碑文ではこの名称が四回出現しますが、その内の三回は「平安」を省略しています。今日(こんにち)、略称として、「好太王」と呼ばれたり、「広開土王」と呼ばれたりしていますが、省略の仕方について一言申しあげますと、古田氏もすでに言っておられますが、「広開土王」ではちょっとおかしいと思います。「広開土境王」ならば、意味もハッキリとして一つの省略形とみることもできますが、「広開土王」と呼ぶのは不正確ではないでしょうか。もし、省略するなら、最末尾をとり「好太王」がいいのではないでしょうか。
好太王が即位したのは西歴三九一年で、四一二年まで在位し、碑は好太王の死後二年して、好太王の子・長寿王(在位四一三〜四九一)が、父の功績と守墓人制度を明確にするために建立したもので、現在、中国の吉林省集安県太王郷太王村にあります。太王郷や太王村という地名は、好太王にちなんでつけられた地名です。
従来あまり強調されていなかったのですが、好太王碑建立の目的は父の功績をたたえるばかりではなくて、守墓人制度を明確にするためもあるわけです。碑面の三面から四面には、父の守墓人をどうするかということが明確にのべてあり、国烟を三十家、看烟を三百家、都合(合計)三百三十家にすると刻み、これらは好太王の軍が侵略し、奪ってきた城の民にあてはめているものです。こうとらえてはじめて、一面から二面の功績とつながりを得て全面的な把握ができるもので、従来の研究は言葉通りの意味で一面的であったと痛感します(詳細は拙著『好太王碑論争の解明』を参照下さい)。
好太王碑は古代史上の第一級の金石文であり、同時代の史料としてたいへん貴重なものです。しかし、この好太王碑文について、数々の論争が行なわれてきました。主要なのは、次の三点であったと思います。
一つは、碑文そのものが改ざんされているのか否か。意図的に文字が変えられているのか、そうではないのか。二つ目には、碑文に出現する「倭」とは何か。「倭」をどのようにとらえるべきか。倭は「大和朝廷」とするか。それとも、九州の政権(九州王朝)とするか。あるいは、九州を中心とした「海賊」のようなものと規定するか。三つ目は、碑文にある「辛卯年」(三九一年)に倭は百済、新羅を「臣民」としたのか否か。これらの論争が非常に激しく、学界でウズを巻いてきたのです。
私は高校で日本史を教えていますが、好太王碑文のところに授業が入りますと、実は非常に困っていたのです。どのように教えるべきかと悩んでいました。これは、学界のみならず、教育の現場でも苦痛を伴った迷いをもっているテーマであったわけです。と申しあげるのは、碑文そのものが改ざんされているとすれば、碑文を正しいものと無批判に教えることは間違った教育となるからです。もし、明大講師の李進煕(リジンヒ)氏の提起された説が真実だとしますと、碑文そのものが改ざんされているのですから、何も教えられないのではないか・・・と思いました。
「教師はよく何でも見てきたようなウソをつく」と言いましょうか、また、「見てきたようなウソをつかねばならない」という場合もあるのです。例えば、アジアの国々はこうです。中国はこうですと授業する時に、現地に行っていなくても、あたかも自分が行ってきたかのような臨場感を出して生徒の理解をうながすものです。しかし、教える側が、真実、自分自身がそう思っていないことをあたかも真実であるかのように生徒に思い込ませることは出来ないものです。その意味で、好太王碑について教えるにはどうしたらよいかと悩みました。
ちょうどその頃、古田武彦氏が「高句麗好太王碑文の新事実 ーー李進煕説への批判を中心として」と題して、東大を会場にした史学会第七十回大会(一九七二年一一月一二日)でしたが、李改ざん説に対する真っ向からの批判を、日本の学界で最初に、しかも厳密な史料批判(クリテイク)を通して行なわれたわけです。
私は授業においても、高校においては学説というのは基本的に両説を教えるべきであると考えています。邪馬台(壹)国論争、金印論等、必ずそうしています(詳細は『日本史資料集』の自主編集をしたテキストを参照下さい=茨木教材社)。
好太王碑について、李氏の説、古田氏の説を教えるべきであり、また、教える側は当然客観的に両説を平等に述べなければなりません。この点、誤解のないようにお願いしたいのですが、私自身は古田説が正しいと思っていても、また、古田史学を軸とした市民の古代研究会の事務局長をしていても、授業においては客観的に教えているのです。授業の中の疑問から古田説に出会い、古田説を学ぶために市民の古代研究会をやり、それらの成果を授業に生かしていくということです。
私が古田説に出会ったのは、十年前です。授業で、志賀島から出土した金印「漢委奴国王」、通説では「カンのナのワのコクオウ」と読ませるのですが、これを教えていまして、どうもこの読みはおかしいのではないかと思ったのです。通説の通りに読めない生徒があまりにも多いのです。試験をしまして、採点するとどうも「誤答」が多すぎるのです。これ一体なぜだろう・・・と考え込みました。金印は「委 イ」とあって「倭 ワ」ではないのに、無理に「委 ワ」と読ましているのですから、よく暗記できる生徒しか出来ないわけです。さらに「奴 ヌ(ド)」も「奴 ナ」と読ましています。これらのいずれも、自然な読みではなく、辞書を引いても載っていない読み方を生徒に強要しているわけです。この無理強いを生徒にし、教師に言われた通り書いている生徒には「○」、自然な読み方を自分で考えている生徒(テストでは、これが「出来の悪い」生徒となっている)には「×」をつけている採点者としての私の姿に気づいたのです。
疑問をもち出しますと採点がとまり、教科書のたった一行の意味を求めて、現地、九州への旅をはじめ、研究を始めたわけです。教科書の一行や一字であっても、おかしいと思ったことは徹底的に調べるという方針をもちました。研究史や文献を調べていって、最も整合的、論理的な説として古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』、『失われた九州王朝』で展開している金印論に出会いました(拙論「教育現場に新鮮な心をよみがえらせる古田氏との出会い」『市民の古代 ーー古田武彦とともに』第一集、同「金印『漢委奴国王』について」『市民の古代』第二集参照)。
さて、このの体験と同じようなことが、好太王碑の授業でも起こったのです。私自身は古田説が正しいと思っても、授業では李説、古田説それぞれを客観的に学界の研究状況として教えていました授業が終わって帰ろうとしますと、ある生徒が「先生は一体、古田説、李説のどちらが正しいと思いますか」という質問をしてくれました。この質問は、当時の私にとって内心非常にこまる質問でした。と申しあげるのは、学界の研究状況の紹介では済まない問いかけであり、自分自身が本当に正しいと思うのかどうか、勉強し研究しないとわからないのではないかという問いかけであり、全くその通りであると思いました。
自ら主体的にどう考えるべきかを研究しないとしたら、本質的には何事も語らぬに等しいのではないか。私が本格的に好太王碑の研究をはじめた導きの糸は、この生徒の鋭い質問だったように思います。心証として、李説よりも古田説の方が正しいと思っていても、厳密に学問的に、自ら調査し研究しないかぎりわからないのではないか。この点で、今までわかったようにふるまってきた授業なり、教科書の記述の虚構性、これら一切に疑いをかけるという作業をはじめたわけです。
これは、哲学の分野では、デカルトが「一切のものを疑う」ということを通し、最後には「疑う我」を見いだし、「我思う。故に我あり」(コギト・エルゴ・スム)という確かな立脚点を得たように、古代史上の確かな立脚点はありうるのか、という問題であったと思います。
古代の日本と朝鮮の関係は、好太王碑文を四〜五世紀の動かざる金石文の史料として、最大の立脚点としてきたのです。ところが、今、この立脚点そのものが動いているわけです。
好太王碑は戦後ずうっと日本人研究者には開放されていませんでした。そこで、碑文を実際に調べようと、随分苦労して、古田氏と一緒に現地調査を要求するために中国へ旅立ちました(一九八一年八月下旬。詳細は「好太王碑の開放を求めて」『市民の古代』第四集)。北京の国家文物管理局や吉林省の文物管理所との交渉を重ね、ようやくにして「集安の好太王碑については、必ず開放する」という言質を得ました(朝日新聞、一九八一年八月三〇日付朝刊参照)。
このようにして、待望した好太王碑の現地調査が、一九八五年三月下旬に実現しました。好太王碑の高さは、六・三九メートルもあり、非常に高いものです。模型を朝鮮民主主義人民共和国の方で作製し、日本で高句麗文化展を開催した折に見られた方もあると思います。第一面(南東)、第二面(南西)、第三面(北西)、第四面(北東)と四面にわたって文字がビッシリと書いてあるわけです。文字は石に彫っています。一字の大きさは約一二センチ位です。
現地では、歴史学者の古田武彦氏、哲学者で古代史にも詳しい山田宗睦氏と私の三人で一つ一つの文字を朝から晩まで追っかけたわけです。今までにも、好太王碑の現地調査はなされてきましたが、私たちの調査団は従来の集安滞在期間(一泊〜二泊)を大巾に越える四泊五日間、好太王碑の前に立つことができたこと、一つの文字に対して、三者以上で確認したこと、さらに、吉林省考古学研究所長の王健群氏とかなり突っこんだ対談ができたことが成果だと思います(詳細は『市民の古代』第七集、「好太王碑現地調査報告」を参照)。
話ははじめにもどります。好太王碑が日本古代史上注目されてきたのは、碑文に「倭」という文字があるからですが、この倭はどのような意味、文脈で使われているかが最大の問題であるわけです。この点を分析するために、過去百年間の歴史家たちによって、拓本や釈文(解釈をした文)、写真等によって研究が進められてきました。私自身の研究も、これらの資料を入手しうるかぎり集め、一字一字の異同調査から始めました。
この調査は、私一人ではなくて、私が当時勤めていました大阪府立茨木東高校の地歴部のメンバーと一緒にやり、高校生達の力が大きかったものです。生徒と一緒に拓本や釈文の文字を一つ一つ追っかけていったのです。実際に作業をすすめていきますと、驚くほど異字があり、生徒も熱中して調べていきました(詳細は拙論「好太王碑改削説への反証」『市民の古代』第五集参照)。
二〇本の釈文中、一八○○余字について異なる解釈を示したのは次の通りでした。
A 釈文の一本だけが異なる姿を示している文字は、一八〇〇余字中一六三字ありました。(全体の九・〇%)
B 釈文の二本以上が異なって解釈されている文字が一八〇〇余字中一三四字ありました。(全体の七・四%)
同一の碑文であるはずなのですが、計二九七カ所も解釈がわかれているという資料の状況を鮮明に測定することができました。
最近の青年層を「新人類」とか言うようですが、決してそうではなく、また、「文字を知らない」とか言われているようですが、これもそうではなくて、対象を新鮮な目で見る力をもっている面を引き出すか否かにかかわるのではないでしょうか。対象そのものに引かれる面があれば、私達が驚くほど夢中になってやるのです。私自身、このエネルギーに驚き、彼らをセーブするのに苦労したくらいです。学校のクラブとして研究をするだけではなくて、帰宅後も私の家にまで来てくれて続きをやるので、夜は一〇時、一一時になり、親への連絡で心配したくらいです。
これは一体何がそうさせるのかと考えますと、好太王碑文の釈文では異字が多く、作業それ自体は煩雑ではありますが、どれが正しいのかという探求心、真理を求める気持ちがそうさせるのでしょう。
歴史の勉強が、年代や人名を暗記するだけで終わるのではなくて、過去の記録や資料はどのような事実をどう伝えているのか探ることによって引きずり込まれるような新鮮な勉強があったのです。
文字を追っかけた段階では、過去百年間の研究史上、たとえば、李進煕氏の提起された「来渡海」の問題も、過去のデータはほぼ「来渡海」と判読しているのです。例外として水谷釈文は「海」を「□不明」としています。その根拠となっている水谷氏所蔵拓本は確かにいい拓本なのですが、「海」は碑面のキズと合わさってややぼやけています。「海」という字は、碑文の凹凸があるところで、その最も凹面のところにあります。このことは現地に行って調べると、非常にハッキリと解ることですが、机上の拓本研究ではそんな様子まではわからなかったのです。
(インターネット上では、碑文の読み取り文字は青色表示)
つまり、拓本の上では、李さんの言っておられる「海のズレ」をおかしいと感じられるのですが、現地に行きますと、拓本上のズレがなぜおこっているのかが一目瞭然にわかります。凹凸のひどさは上の図のように二〇センチもへこんでいるところに「渡海」があたっており、しかも「海」は碑面にヒビが入って「」となっており、樹脂加工(碑面を保存するために中国側が入れたもの)「」が入っています。
拓本だけの研究では、この「海」は改ざんした文字ではないかという李氏の問題提起も成り立つのですが、現地調査でこの問題は解けるわけです。
凹凸やキズは好太王碑文ではひどくあり、次の写真を見ていただいてもよくわかるように凹面のところを拓本にとろうとすると、どうしてもズレをおこしやすいものです。隅角のところは、風化作用も受けて荒れています。こういう状態のもとで、拓工が拓本をとる時文字を鮮明に出そうとして、初均徳や初天富ら(中国の好太王碑の拓本を採った拓工。王健群氏の調査による)は、石灰を塗って文字をとったわけです。つまり、意図的な改ざんではなくて、拓工が文字をきれいにとろうとするために石灰を塗ったものであったわけです。
実は「海」字以上に大きな問題であるのにほとんど本格的に取りあげてこなかった問題があります。碑文では守墓人の国烟の合計数は「三十家」となるとハッキリ書かれているのに、釈文ではさまざまな数にわかれているのです(例えば酒勾雙鉤加墨本「三七」、栄禧本「三二」、羅振玉本「三五」、劉承幹本「三六」、末松保和本「三一」等々)。
この国烟の数を合わなくさせている最大の原因は、碑文第三面第一四行三九字目の文字「」で、この字がブラック・ボックスのようにさまざまな数を示していることによります。もし、改ざんと言うなら、これ程明確な「改ざん」の文字は他にありません。釈文の異同だけでなく、写真でさえ異なった数として検出されているわけです。内藤旧蔵写真では「六」となっているのに、一九二二年撮影の写真では「七」となっています。これは一体なぜなのでしょうか。
この隠された「改ざん」文字の追求に私は全力を注ぎました。過去百年間にわたる研究史上次のような異なった文字となって判読されていました。
(1) 「七」と判読・・・横井忠直、三宅米吉、今西龍。
(2) 「四」と判読・・・栄禧。
(3) 「六」と判読・・・・・・羅振玉、楊守敬、劉承幹、金毓黻。
(4) 「一」と判読・・・・・・前間恭作、水谷悌二郎、末松保和、藤田友治、王健群。
(5) 「□不明」・・・朴時亨、集安県博物館釈文。
一つの文字が何ゆえ、「七」「六」「四」「この四通りの数に読みとれるのか、私は拓本や写真等をくり返し比較しながら長らく解明できずにいましたが、一九八一年八月に古田氏と一緒に中国吉林省博物館蔵拓本の「」という文字を見て、ようやくこの謎を解明することができました(詳細は拙論「好太王碑論争の決着ー中国側現地調査・王論文の意義と古田説について」『市民の古代』第六集)。
この文字は拓工によって石灰が塗られ、仮面字となっているもので、「」の部分は碑面のキズであり、そこに石灰をどう埋めるかで、「七」「六」「一」等に分かれるか決まるわけです。この文字は「一」以外にはあり得ない(国烟の合計が「三十」となるには)と私は現地調査前に結論づけ、発表したわけです(一九八四年、前掲論文)。
現地調査では従来の論争の文字(「来渡海」等)の他に、私にとってはこの文字が実際はどうなっているのかが最大のポイントでした。「一」以外の文字であれば、私の仮説は誤っているわけです。碑文をくり返し精密に観察した結果、この問題の文字は「一」がやはり正しいということを私だけではなく古田武彦氏、山田宗睦氏らの確認を得たのです。
そして、この文字は次頁の表のように時代によって変化していたのです。この表を分析しますと、一八九八年まで「七」であった文字が、一九〇五年以降は「六」となっており(一九〇九年まで)、第一回目の仮面字の作業は一九〇〇年前後(一八九九年〜一九〇五年)であることがハッキリとわかります。これは、李進煕氏がかつて主張されていた「石灰全面塗付作戦」なるものの正体であったわけです。つまり、意図的かつイデオロギー上の改ざんではなくて、拓工による仮面字であり、その証拠を明確に残していたわけです。
(年代は発表年代である。 ーー年名の不明なものは除外している)
年代 | 資料 | 字 |
---|---|---|
1883年 1889年 1898年 |
酒匂双鉤加墨本 横井忠直の釈文 三宅米吉 |
7 7 7 |
1905年 |
内藤旧蔵写真 楊守敬の雙鉤本 羅振玉の釈文 |
6 |
1913年 1915年 1918年 |
写真 今西龍の釈文 写真 |
7 7 7 |
1919年 |
朝鮮金石総覧
|
1 |
1922年 1934年 |
劉承幹の釈文 金毓黻の釈文 |
6
6 |
1959年 1966年 1983年 1984年 |
水谷悌次郎の釈文 朴時亨の釈文 藤田友治の解読 王健群釈文 |
1 □ 1 1 |
李氏の提起された改ざん説は誤りですが、李氏の研究動機や軍国主義批判には全く賛同しますし、李仮説の提起によって好太王碑研究が一層進んだものと言えましょう。
さて、私たちの今回の現地調査ではこの他にも従来にはないさまざまなことを経験しました。好太王碑は集安という、中国領土内ですが鴨緑江をはさんで朝鮮民主主義人民共和国との国境にあります。朝鮮民主主義人民共和国と日本との間には今なお残念ながら国交はありませんので、その意味で私たちの調査団が集安に入りますと、私たちも相手側も緊張しました。あらゆる所で「未開放地」という制限と部分的な「開放」とが虫食い的にまざりあい、雪どけにはなっているのにまだ残雪がたっぷり残っているという感じでした。八ミリカメラやVTRもよいという許可も初めて引き出して、いざ撮(と)ろうとすると制限だらけであったりもしました。
従来の調査団では一日から二日位しか集安に滞在を許されなかったので、この位の時間ではあのスケールの大きい好太王碑文を読みとるのはまず不可能です。この点、古田氏とも相談して、現地にともかくも最大限長時間滞在し、好太王碑をみる時間を願い出ようということが私達の調査団(東方史学会)のポイントでした。そのため、交渉を重ね、ようやく四泊五日間という今日まで最大の滞在日数を許可していただくことができました。
三月下旬といっても、集安はやはり大陸で底冷えはあるし、また、大雪にも見舞われました。晴れの日も曇りの日も、雪の日もズーッと好太王碑を朝に、夕に見続けていたわけです。雪が降った日なんかは、写真を撮るのは条件が悪く、雪による乱反射で白くなってしまうのですが、肉眼で碑文を見る分にとっては、ライトが全面にあたった様に非常に文字がよく読みとれるという経験をしました。このことも、私達の好太王碑現場調査にかける執念が通じたのかなと自然の恵みに感謝しました。
それでは、このようにして読みとった文字が、どのような意味をもつのか、何を読みとったのか、「倭」とは何かという問題を考えていきます。
好太王碑文には、従来、「倭」は九カ所であるといわれてきました。ところが、現地で三カ月調査されました王健群氏によりますと「倭」は新たに追加されて、合計十一カ所におよんでいます。この問題をまず確定しない限り、倭についての基本的な議論ができず、「こちらにもある」「あちらにもある」という形では議論の共通の前提とはならず、倭の全体像に迫ることはできないわけです。
これは学問的な基礎作業であり、これをひとつしっかりとしておきたいと思います。さらに一字一字の確定作業を私たちはこのような方法でしていたのだということも汲みとっていただければ幸いです。
従来からの日本側の共通理解では、倭の文字は九カ所であり、今回の現地調査の結果は次の通りです。
(1) 「倭以辛卯年来渡海破百残□□新羅」「倭」(第一面第九行六字目 ーー以下、一 - 九 - 六と略記)は鮮明に確認できた。勿論、仮面字でなく原碑そのものであった。
(2) 「百残違誓与倭和通」・・・「倭」(二 - 六 - 四〇)は鮮明に確認できた。
(3) 「倭人満其国境」・・・「倭」(二 - 七 - 一五)は鮮明に確認できた。
(4) 「倭満其中」・・・・・・「倭」(二 - 八 - 三一)は鮮明に確認できた。
(5) 「官軍方至倭賊退」・・・・・・「倭」(二 - 八 - 三九)は鮮明に確認できた。
(6) 「倭満」・・・「倭」(二 - 九 - 三六)は鮮明に確認できた。
(7) 「倭潰」・・・「倭」(二 - 九 - 三八)は今日では不鮮明で字形を確認できない。
(8) 「倭不軌侵入帯方界」・・・「倭」(三 - 三 - 一三)は鮮明に確認できた。
(9) 「倭寇潰敗斬殺無数」・・・・:「倭」(三 - 四 - 一三)は鮮明に確認できた。
(インターネット上では、碑文の読み取り文字は青色表示)
今日確認できる「倭」は八カ所で、確認方法は肉眼を基本とし、望遠鏡、八ミリカメラのズームアツプ等の光学機械や赤外線写真をも参考としました。なお、同一文字について一者の主観を排するために、三者以上で確認できるものとしています。三者とは、古田武彦氏、山田宗睦氏と私です。なお、厳密に申しあげますと、(1)、(3)、(5)、(6)、(8)、(9)の六カ所の「倭」は「女」の部分を「」としています。しかし、意味上の違いはなく、今日においても中国で見ることのできる文字です。
では、(7)の「倭」は今日では判読できなかったのですが、過去においてどう読まれてきたのでしょうか。次のようです。
(1) 「倭」と判読した釈文
韓国金石全文・栄禧・羅振玉・楊守敬・集安古跡(天理大学図書館蔵)・前間恭作・劉承幹・金毓黻・水谷悌二郎・末松保和・朴時亨・集安県博物館釈文(未発表)。
(1)' 「倭」と判読するが疑問もあるとする釈文
三宅米吉・今西龍。
(2) 「倭」と判読できる拓本
上田正昭所蔵拓本・天理大学所蔵拓本・韓国ソウル大学所蔵拓本・シャバンヌ拓本・内藤虎次郎旧蔵拓本・総督府拓本・東洋文化拓本・大東急記念文庫本(大阪府立茨木東高校地歴部復原本)・酒匂雙鉤加墨本(拓本らしくしているが拓本ではなく、ふちどりをして墨をぬったもの)。
(2)' 「倭」と判読できるが、疑問もある拓本 ーー京大人文研所蔵拓本。
(3) 「倭」と判読できる写真 ーー内藤旧蔵写真、一九一三年撮影の写真。
(3)' 「倭」と判読できるが、疑問もある写真 ーー 一九一八年撮影の写真。
(4) 「不明」としたもの ーー横井忠直釈文。
なお、不明とした横井釈文は酒匂本のハリ違えが原因でミスを犯したもので、第二面一〇行、つまり次の行の三八字目に「倭」が入ってしまっています。「不明」とはなっていますが、「倭」と判読したケースと考えられます。初均徳抄本は間違えており、次の文字「潰」字が入っています。
以上、約百年間近い研究史上から明らかなように、この文字(二 - 九 - 三八)は「倭」でありましたが、風化作用によって今日判読できない文字となってしまっていると結論づけられます。
ところが、王健群氏の『好太王碑の研究』によりますと、この文字は「倭」ではなく、「大」という文字になっており、「新たに判読」したとされています。果たして、どちらが正しいのでしょうか。
ご存じのように王健群氏は、好太王碑を約三カ月もかけて現地調査をしておられるだけに、この問題は看過できないでしょう。今日、最も新しい拓本である周雲台拓本(王健群氏が発表されたもの)を分析しましょう。前の図において、周拓本の「大」の字( (1)〜(5) )をすべて抜き出したものと、問題の「大」( (0) )を比較検討しますと一見瞭然に判明します。つまり、王氏の言われる「大」とは到底認めることはできないのです。むしろ、「倭」の字の下半部の「□女」字の痕跡をとどめているのです。さらに、やや不鮮明ではありますが、「イ にんべん」さえ読みとれ、どう考えても「大」ではあり得ません。
仮に王氏の主張通り「大」と認めたとしても、「倭冠大潰」(二 - 九 - 三六〜三九)となったはずなのに、続いて「倭潰」(三 - 一 - 四〇〜四一)ことなる等、好太王碑文の簡潔にして明確な論理や文脈をこわしてしまうものとなるでしょう。これは、王氏の誤った判読と言わざるを得ません。この文字は、約百年間の先学たちの判読通り「倭」とあった文字であると思います。
このような誤った判読をなぜ第一線のすぐれた学者がやってしまったのだろうと考えますと、やはり好太王碑の大きさがそうさせたのだと思うのです。私の指摘が王氏の間違いをことさら批難することのみのように受け取られたら、ちょっと困るのですが、本当はあの好太王碑の雄大さ、大きさを把握していただきたいわけです。と申しあげるのは、文字をおっかけていきますと、下から上部の文字を読みとるのは困難ですから、足場を組んでその上でジーっと文字を読みとったのでしょうが、文字は光線の関係で朝、昼、夕とかわる可能性をもっています。この文字は、今日ほとんど判読できませんから、ジーっと見つめ続け「□大」と読みとられたのでしょうが、後に自分が依頼された周拓本で同一文字を同一倍率で比較検討すればよいとは思われなかったのでしょう。
王健群氏の『好太王碑の研究』によれば、王氏は「倭」の字を、「新たに解読」したとして三点を主張しておられます。「倭」字については、本来日本人側で最も神経を使わねばならない基本の字であるはずなのですが、この問題はほとんど触れられることなく、「倭」とは何かに議論がいってしまっている感があります。しかし、最も基礎的な作業を踏まえないで議論していては、「砂上楼閣」と後世言われることになりましょう。率直な論争は真実の友好を育てるものであり、面従腹背では学問の進展は望めないものです。
王氏の主張される「新たな倭」の字を一点ずつ分析してみます。
1). 王氏の指摘する一点目の「倭」(二 - 九 - 九)字について
私達の現地調査では、今日では不鮮明で字形を確認しがたい文字です。約百年間にわたる碑文研究史の上では次のようです。
(1) 「來」と判読した釈文
横井忠直・今西龍・前間恭作・金毓黻・末松保和・韓国金石全文・奉天省輯安古跡。
(1)' 「来」と判読した釈文
羅振玉・水谷悌二郎。希古棲金石莢編。朴時亨。
(1)" 「耒」と判読した釈文
揚守敬・初均徳抄本。
(2) 「来」と判読できる柘本
東洋文化拓本・シャバンヌ拓本。大東急記念文庫本。天理大学所蔵旧拓本。
(2)' 「耒」と判読できる拓本
総理府拓本・酒匂雙鉤加墨本・上田正昭所蔵拓本・韓国ソウル大学所蔵拓本。
(3) 「来」と判読できる写真
現在のところなし。
(3)' 「耒(半字)」と判読できる写真
一九一三年撮影の写頁。
(4) 不明とする資料
内藤虎次郎旧蔵拓本・三宅米吉釈文・集安県博物館釈文・内藤旧蔵写真。
「來」・「来」・「耒」と異なって表現されてはいますが、本字が「來」で意味は全く同じです。「倭」と読んだケースは、王氏を除いて過去百年間にわたり一例もないという事実を重視すべきでしょう。王氏の判読はあまりにも孤高と言えるものです。
「来」字を碑文中から全て摘出しますと、第一面では三例、第二面では二例、第三面では三例、第四面では二例、合計十例あり、全碑面にわたってあることと、好都合なことにその位置は上・中・下と分かれており、裂傷や風化で傷つけられて復原できない文字ではありません。
周雲台拓本によれば、上表のように、「来」につくっているのが基本形です。問題の「来」は(1)ですが、王氏は左上の「ノ」のキズを「倭」の字の一部と見なし、さらにのつくりを無視されたとしか考えられません。の部分は、(3)の「来」(二 - 六 - 二六)、(4)の「来」(三 - 七 - 一七)と共通しますし、また「来」の字の「二」の開き方は、(5)の「来」(四 - 七 - 二九)と同じ程度に大きく開いているのと共通します。これが「倭」であればのような部分は決してあり得ないのがポイントとなります。
従って、一点目の字は「来」であって、「倭」ではありません。
2). 王氏の指摘する二点目の「倭」(二 - 一〇 - 二二)について
私たちの現地調査では、今日では不鮮明で字形を確認することができない文字です。そこで先学の判読を調べます。次のようです。
(1) 「來」と判読した釈文
前間恭作・金毓黻・末松保和・韓国金石全文。
(1)' 「来」と判読した釈文
楊守敬・劉承幹・水谷悌二郎・海東金石苑・初均徳抄本。
(1)" 「大」と判読した釈文
栄禧・奉天省輯安古跡。
(1)"' 「尖」と判読した釈文
横井忠直・三宅米吉。
(2) 「来」と判読できる拓本
シャバンヌ拓本・周雲台拓本。
(2)' 「来」とも読めるが、はっきりしない拓本
東洋文化拓本・内藤虎次郎拓本・京大人文研所蔵拓本・天理大学所蔵旧拓本・韓国ソウル大学所蔵拓本。
(2)" 「尖」と判読できる拓本
酒匂雙鉤加墨本
(2)" 「十」とする拓本
大東急記念文庫本。
☆行そのものを拓出しない拓本
上田正昭所蔵拓本。
(3) 写真類は「特定字」と判読できない。
(3) 不明とする資料
今西龍・朴時亨。
以上の資料から、「倭」と読んだ例は一例もないということが解ります。判読は確かに光線の関係、観察者の碑文に対する角度、距離によって、碑面のキズと印字とが区別しにくいのが実情です。従って、一人の観察者によって確定するのではなくて、多くの資料や釈文、現地調査によって総合的に判定する必要があるでしょう。王氏の言われる「倭」とするのは無理があります。しかも、王氏が参考とされたはずの周雲台拓本では、この字は「来」とつくっているのです。
私見によりますと、この字は「来」でよいと考えます。根拠は次の通りです。比較的早い時期に作成された特徴をもつ雙鉤本では、酒匂本に「尖」とつくったり、大東急記念文庫本に「十」とつくっています。この両本は机上で作成されていますから、両本を合成することもできます。そうしますと、「」の字となり「来」字の一部となりますが、「倭」の字には決してなりません。また、王氏が発見した初均徳抄本も重要な資料で、拓工には「来」と見えていたのです。
観察者が一者でなく、時代、民族を越えて碑文上見えた文字は、「倭」ではなく、「来」であったわけです。
3). 三点目の「倭」(三 - 一 - 四〇)字についてこの文字は第二面と第三面の隅角のところにあり、早くから風化をうけていた箇所です。水谷所蔵拓本は拓出していますが、文字として判読できません。その他の拓本、雙鉤加墨本では第三面一行そのものを全く拓出していません。従って、これらの拓本類に依拠した釈文も、この文字を「□ 不明」とせざるを得なかったものです。ただ、栄禧・金毓黻・奉天省輯安古跡・韓国金石全文は「王」字と判読しているようです。
今日では、風化作用のため全く判読できない文字となっています。そこで、何らかの手掛りを得るべく、その次の文字「潰」(三 - 一 - 四一)を丁寧に調べてみました。この文字は比較的よく残っていました。上の図(1)では、タテの長さ11センチに対し、(2)の「潰」(二 - 九 - 二九)は11.2センチであり、誤差は0.2センチ程度です。この程度の誤差は他の文字においてもしばしばあり得ますから、この文字の同一性は確保できるでしょう。
「潰」の意味は、1).ついえる、2).くずれる、3).やぶれる、4).つぶれる、5).みだれる等であり、潰走・潰滅・潰決など否定的な意味に使用されています。好太王碑文中の全ての「潰」字を抜き出しますと次の通りです。
(1) 「倭人満其国境潰破城池」(二 - 七 - 一に潰字)
(2) 「倭満倭潰」(二 - 九 - 二九に潰字)
(3) 「倭冠潰敗」(三 - 四 - 一五に潰字)
これらの用例はいずれも高句麗にとっての敵軍であった「倭人」「倭」「倭冠」に対して使用されています。従って、「倭潰」と解読された王氏の可能性は否定できません。ただし、「倭」としても、三面一行それ自体が今日ほとんど判読出来ないことから、文脈として何かの意味を引き出し得ません。今日では不明というほかはないでしょう。
王健群氏の「倭」字検出について現地調査や拓本・釈文・写真類の検討結果をまとめます。
一、王氏が否定した「倭」(二 - 九 - 三八)は間違いであり、「大」ではなく、「倭」である。
二、王氏が新たに解読したとする「倭」
一点目、「倭」(二 - 九 - 九)は間違いであり、「来」とすべき文字である。
二点目、「倭」(二 - 一〇 - 三)は間違いであり、「来」と読めた文字である。
三点目、「倭」(三 - 一 - 四〇)は可能性はあるが、厳密には「□ 不明」とすべき文字である。
以上から、現段階で確認できる倭は、私たちの現地調査の通り八力所であり、これに研究史上かつて読めた文字一カ所を入れ、九カ所と認めることができます。しかし、王氏の一一カ所は認めることはできません。
論争点 | 李進煕 | 古田武彦 | 王健群 | |
(1) | 好太王碑はいつ知られるようになったか。 | 「再発見」は一八八○(光緒六、明治一三)年である。 | 「発現」は、一八七四〜七五年(同治末年〜光緒初年、明治七〜八年)ごろである。 | 清の光緒初年(一八七五)に発見された。 |
(2) | (研究史・編年の基礎) 栄禧本をどう見るか。 |
[言闌]言の記述は全くの嘘である。 | 酒匂改削以前の拓本にもとづく栄禧を「嘘」とするわけにはいかない。 | 栄禧は真実を語っていないという者もいるが、なぜそのようなことをする必要があるのだろうか。石碑がはっきりみえないから、誤りもある。 |
(3) | 酒匂雙鉤加墨本の入手は。 | 一八八三年(明治一六)に、碑を改ざんした上で、持ち帰る。 | 酒匂本人が言うように、「故ニ(我)強迫シテ漸ク手ニ入レタリ」とある通り、現地で入手 | 酒匂は現地で石摺りを業とするものから手に入れた。彼自身が写しとったものではない。 |
(4) | 参謀本部・酒匂が“改ざん”したのかどうか。 | 酒匂は、意識的に朝日関係史に直接かかわる個所をすり替えた。 | 酒匂による改削はない。文字の異同は拓工によるもので、“イデオロギーの改ざん”ではない。 | 酒匂による改ざんはない。文字の異同は、清朝の拓工による初天富、初均徳親子が石灰を塗って、文字をつくった。 |
(5) | 参謀本部からきびしい絨口令がでていたか。 | 参謀本部での解読作業を世に知らせないし、きびしい絨口令がでていた。 | 李の論理は“永久自転”であり、「碑文之由来記」は酒匂の自筆文書であり、ひたかくしにされたということはない。 | 日本軍国主義を、実事求是にもとづいて批判する。意図的な改ざんはないのである。 |
(6) | 酒匂本の資料性格についてどう見るか“改ざん”箇所の文字をどう見るか。 | 酒匂によってすり替えられた碑文の隻鉤加墨本である。犯罪行為をおおいかくすために、「石灰塗付作戦」が必要だった。 | 現地拓工によって作成された讐鉤加墨本であり、最末字の「之」の誤りなどを見ると日本側の雙鉤者はいない。 | 雙鉤本は、拓本をつくるよりも手間がかかり、熟練した職人ですら半月以上かかる。酒匂はスパイなら、長期間この仕事は続けられない。最末字の「之」の誤りなどから、酒匂は自ら改ざんしていない。 |
(7) | “論争”にはならなかったが、根本の問題=「倭」とは何か。 | 「来渡海」は酒匂が石灰を塗って「碑文」を雙鉤したもの。碑面そのものの再検討をしなければならない。 | 「海」だけを疑っても、肝心の一点「倭」があれば“論理貫徹”できない。全写真・拓本・雙鉤本・釈文とも「倭」字は厳存する。倭は、九州王朝を意味する。 | 「来渡海」は現在も石碑に存在しており、確実であり、李氏の憶測である。碑面、一字一字実地に再検討した。倭は十一回出現する。この倭は北九州一帯の海賊である。 |
[言闌]は、JIS第4水準ユニコード8B95
好太王碑文中の倭の文字を確定することによって、倭とは何か、問題の核心部の検討に入ることができます。そこでまず、最近のシンポジウム(講演会・討論会を含む)の動向をとらえておきましょう。
一 シンポジウム「四・五世紀の東アジアと日本 ーー好太王碑をめぐって」(読売新聞社・東方書店主催、有楽町読売ホールにて、一九八五年一月十一日〜十二日)。中国側講師王健群・方起東・賈士金、日本側講師三上次男・上田正昭・佐伯有清・武田幸男・李進煕各氏。
二 講演会「中国の好太王碑研究の意義と問題点 ーー王健群氏に問う」(市民の古代研究会・古田武彦と古代史を研究する会共催、東京勤労福祉会館ホール、一月十三日。大阪読売文化センター 一月十五日)。講師古田武彦氏・藤田友治。
三 討論会「好太王碑・長春討論会」(読売新聞社主催、中国吉林省博物館、七月七日、八日)。前の一とほぼ同じメンバー。
四 討論会「好太王碑をめぐって」(東方史学会主催、中国吉林省博物館、三月三十日)。中国側は王健群氏、日本側は司会に山田宗睦氏、参加者・古田武彦氏と藤田友治ら。
五 講演・討論会「好太王碑と高句麗文化について」(市民の古代研究会主催、大阪茨木福祉文化会館、九月二十日)。朝鮮民主主義人民共和国の孫永鐘氏と通訳に全浩天氏、日本側に司会として藤田友治、講師・古田武彦氏。
六 シンポジウム「好太王碑の再検討 ーー四世紀の倭とは?」(読売テレビ・読売新聞大阪本社主催、大阪中央公会堂、一九八六年十一月十六日)。中国側・王健群氏、日本側・上田正昭・井上秀雄・鬼頭清明、通訳に朱実各氏。
一番最初のシンポジウムの「成果」をまとめますと、まず好太王碑の改ざん論争について、改ざんか否かの論争点をキッチリとすべきであると思います。相変わらず、李氏は改ざん説を撤回しておられないわけです。しかし、論点は「倭とは何か」という問題にいっているわけです。結着をつけられるものはつけておいた方がよいと思います。この意味で、改ざん論争について整理します。前の表をご覧下さい。
この論争のポイントの一つは、拓本上、「海」という字がズレているのではないかということから、李氏は意図的な改ざんがあると主張したわけです。しかし、もし仮に「海」という字が改ざんされていたとしても、「倭」そのものを疑わなければ、「朝日関係史に直接かかわる」問題とはならないのですし、「海」は凹面にあり、ズレをおこしやすい場所である上に、キズもあって、拓工によるものであることがわかり、イデオロギー上の改ざんでないのが事実であったわけです。
この点は、既に古田氏が史学会大会で述べられたところですし、しかも拓工、初天富、初均徳の名前を割り出したわけです(王健群氏による)。
さらに、酒匂が改ざんをやったかどうかということも、表の(6)にあるように、好太王碑文の最末字「之」の張り誤りなどから、日本側の雙鉤者はいないと考えられます。この点も既に古田氏が主張しておられたことで、この観点を知らずに別に分析された王氏も、同じ視点から同じことを主張しておられます。つまり、真実は一つということです(王氏は古田氏の論文名は知ってはいたが、入手できず読んでいなかったことが、中国での討論会席上で判明。詳細は『市民の古代』第七集討論会の記録を参照)。
改ざん説は、「名存実亡」となったわけです。論争の主要な点は、今後、倭とは何かになるでしょう。従来、李氏は改ざん説の立場から「渡海破」は石灰の字だと言っておられるのですが、この間のシンポジウムで、改ざん説は否定されてきています。いくらなんでも、李氏はこれに気づいておられますから、倭というのは九州あたりの「海賊」ぐらいなら認めるというニュアンスで言っておられます。朝鮮民主主義人民共和国の学者たちが、日本の大和朝廷説に対する批判として、九州あたりの海賊だと考えていたのとほぼ同じです。
古田氏の立場は、前にのべました六のシンポジウムでも紹介されていましたが(司会者の上田正昭氏による)、倭とは九州王朝であるという説であることは、皆さんご存じの通りです。王健群氏は、「倭は北九州一帯の海賊である。(原文では「海盗」となっています)」という見解です。
また、北九州の倭とする立場は、上田正昭氏や朝鮮の孫永鐘氏らによって主張されています。ところが、この間のシンポジウム等で、今まで教科書にもハッキリと書かれている倭=大和朝廷説も明確な論証がないのです。大和朝廷説に代わって、妥協説ともいうべき、倭は大和朝廷 ーー 九州軍連合説、つまり大和朝廷なのだが、九州の軍として朝鮮半島に攻めたのだという説が佐伯有清、鈴木靖民各氏らにより出されています。
この二年間程のシンポジウムの流れは、倭とは海賊であり、政権ではないということと、その根拠地は九州から出撃しているという説が主流となっているようです。九州を重視するのが、今や多数となってきているようですが、不思議な感をもちます。九州王朝説を古田氏が提起された頃と比較しますと、今日の状況とはこれだけ変わってきているわけです。では、これらの主流説を批判的に検討します。まず、何ゆえに「海賊」とするのかを考えます。
王健群氏の大著『好太王碑の研究』によりますと、倭の把握は次のようです。
歴史的にみて、当時倭には統一政権が形成されていなかった。倭の百済、新羅侵入は、北九州一帯の略奪者が群をなして海賊行為をはたらき、朝鮮半島南部に進入し、殺人と略奪をくりかえし、当地の物産を強奪したにすぎなかった。「以為臣民」とは、一時的な制圧であり、まもなく倭は引き揚げていったので、国家間の支配関係があったわけではなかった(前掲書、一七五頁)。
王健群氏の辛卯年(三九一年)の読解は「渡海破」の主語を倭とする点で通説と同じですが、これを大和朝廷とはせずに、「倭寇」として北九州一帯の海賊としています。しかし、王氏は碑文の全解釈を通してその説を徹底できてはいません。例えば、一四年甲辰条(四〇四年)、「而倭不軌、侵入帯方界」のところでは、「不軌」という語句がもつ意味を解していません。つまり、海賊では最初からルールなど守らないわけです。ところがここでは倭は国家であるが、ルールを守らず、「海賊」のように帯方界に侵入してきたと批難しているのです。本当の海賊であったならば、わざわざ「不軌」だと言う必要がないわけですね。
さらに、「和通残残□□石城」というところにおいて、王氏の解釈は倭と百済の連合を認めており、百済も倭との「和通」としています。そして、「この二国は互いに相手を利用したのだ」ととらえ、「つまり倭は百済の力を借りて略奪をはたらき、百済は高句麗に抵抗するために倭の力を利用し、失地回復を計ったのである」(前掲書、二〇五頁)と解しています。ここでは、倭と百済という二国間の関係として正しくとらえていると思うのですが、そうとらえれば、王氏の自説である海賊説、倭を国家として把握しない説と矛盾することになります。王氏の海賊説は、一六世紀の「倭寇」(海賊)と同様にとらえており、後代の状況を古代にそのまま投影させているだけで、古代それ自身の分析とはいえないものです。この点、海賊説の生みの親とも言うべき、金錫亨氏や旗田巍氏は少なくとも、自説の根拠をあげています。それ故、その根拠を分析してみましょう。
金氏は「ただ『不軌』にもどろぼうのように攻め込んできたのであって、おそらく船で海賊のように襲いかかり無数の死体を残して逃げていったように比較的小規模の襲来を、碑文では誇張しているものと思われる」(『古代朝日関係史 ーー大和政権と任那』三七六頁)という。
この見解は、碑文にある「倭寇」や「倭賊」の語に立脚しています。だが、好太王碑文は何よりも高句麗側の大義名分を主張している史料であることが忘却されてはなりません。相手が正規軍であっても「寇」や「賊」という語句は使用されているのが常なのです。
これについては、既に古田武彦氏が『失われた九州王朝』で具体的資料をあげて反証しているところですが、史料批判として正当であると思います。
A、明帝、淳州は絶遠にして、南、蜀寇に接するを以て・・・。〈三国志、魏志二七〉
B、呉将の周諭、数万衆を将いて来攻す。・・・・・・賊多し。賊衆盛にして当る可(べ)からざるなり。〈三国志魏志九〉
ここに表現されているAの「寇」、Bの「賊」とはそれぞれ蜀の劉備と呉の周諭(孫権の将)の正規軍のことであり、決して「小規模などろぼう程度」の存在ではありません。
私自身、中国の集安に実際に行ってよくわかったことなのですが、今も昔ながらに家の庭で豚を飼っているのですが、彼らの貴重な食料なのですね。これを盗んだり、傷つけたりすれば、たいへん悪いことなのです。そこで、金石文の「冦」をよく調べますと、「几」は家や囲いを意味し、「元」とは武器でもって殺すこと、「与」は豚なのです。つまり、飼っている家畜を殺すヤツは悪いヤツなのです。だから、正規軍であろうがなかろうが、「寇」を使って相手の不当性を訴えるわけですね。(文字上は近似表示、上を見てください。)
海賊説のもう一つの「根拠」となっている襲来時期について考えましょう。旗田氏は、倭兵の襲来が四〜六月の春夏の季節に集中していることから、朝鮮海峡が穏やかな時期に日本列島から季節風を頼って渡海した海賊集団であるととらえています。これを受けて、李進煕氏も、「事実、『三国史記』によりますと、『倭』が四世紀後半から五世紀にかけて新羅をしばしば襲っておりますが、それは波静かな五〜八月に集中しています。また、彼らは領土的支配をめざしているのではなくて、物資をかすめとって引きあげる海賊の集団にすぎませんでした」(『古代日本と朝鮮文化』共著、一〇八頁)としています。
だが、李氏の言っておられる「五〜八月」というのは正確ではなく、集中というならば四月です。これも『三国史記』を全て検出すればハッキリとわかる問題です。
『三国史記』新羅本紀を分析しますと、倭関係記事は実に多く記載されており、四七カ所出現します(第一代始祖赫居世居西干の「八年(前五〇)、倭人が出兵し、〔新羅の〕辺境に侵入しようとした」から、第二十一代招*知麻立干の「二十二年(五〇〇)春三月、倭人が長峯鎮を攻めおとした」まで)。倭関係記事のうち、「倭人」が最も多く二五カ所、「倭国」八、「倭軍」八、「倭兵」八、「倭王」一、「倭賊」一と表記されています。今、問題の倭が新羅へ侵略した月は、二月二、三月二、四月十二、五月五、六月五、七月一、八月一であり、夏、春とだけで月の記載のないのが各一、不明が四で、合計は三四回です。
招*は、JIS第3水準ユニコード70A4
四月〜六月に侵略した記事が多いのですが、だからと言ってこれが「海賊」であった証拠であるとするわけにはまいりません。朝鮮海峡が比較的穏やかな時期を選んで渡海するのは「海賊」であろうが正規軍であろうが、同じことではないでしょうか。あの冬の厳しい荒れる玄海灘を渡ることはいかに困難か、それについて私がお話しをするよりも、この九州の地の皆さんの方がよくご存じのことでしょう。
この史料分折を通じて解ったことですが、逆に、「海賊」とすることはできないという記事が多いという事実が判明しました。海賊説に立つ学者の方々はこれらの記事をどう解釈するのでしょうか。
A、第十五代基臨尼師今(きりんにしきん 在位二九八〜三一〇年)「三年(三〇〇)春正月、倭国と国使の交換をした」
B、第十六代訖解尼師今(きつかいにしきん 在位三一〇〜三五六年)「三年(三一二)春三月、倭国王が使者を派遣して、王子の花嫁を求めてきたので、阿食*の急利の娘を〔王子の花嫁として〕倭国に送った」
食*JIS第四水準98E1
Aでは国使の交換をするのですから、外交上の正式な手続きを経た国家間交流ですし、Bでは、更に友好を深め、王子の花嫁を求めに応じて送り、外戚となっているわけで、これ程親しい国はないわけです。
A、Bから海賊の姿を描きだすことはとうてい出来ません。Bの後に、決定的に重要な記事が出てきます。
B' 「三十六年(三四五)二月、倭国が国書を送ってきて、国交を断絶」(傍点は藤田、インターネット上は赤色)
そして、この記事の後に、三四六年、三六四年、三九三年、四〇五年、四〇七年(春三月、夏六月)、四〇八年、四一五年、四三一年、四四〇年・・・(以下略)と倭兵の侵入記事が続くのです。つまり、B'の国交断絶というポイントの記事を抜きにして、何月に攻めたかということだけを追っかけたのが、先ほどのデータであったわけです。海賊説の「根拠」はこのように一面的であり、木を見て森を見ない態度と言わざるを得ません。
外交権を持ち、自国の民を徴兵し、他国を侵略するのは国家としての行為です。九州からの出兵は異論のないところですから、そうしますと、AからB'までの記事を考えますと、九州王朝の軍であるわけです。また、新羅本紀のみならず、百済本紀においても、倭を海賊ととらえず、国家としています。
C 第十七代阿辛*王(あしんおう 在位三九二〜四〇五)「六年(三九七)夏五月、王は倭国と好(国交)を結び、太子の腆支を人質とした」
辛*は、草冠に辛。JIS第3水準ユニコード8398
このCの記事も倭 ーー 百済関係の当時の外交、国際的力関係の反映であるのは間違いありません。
これらの『三国史記』の表記と好太王碑文とを比較しますと、『三国史記』の年代を一年繰り下げていきます。そうすると、Cの記事は、好太王碑文の永楽太王丙申条(三九六)に当たり、好太王は自ら水軍を率いて百済を討伐し、百済の五十八の城、七百の村を奪っています。
そこで、やむなく、百済は対高句麗戦に備え、Cの記事にあるように倭国と国交を結び、太子の腆支を人質とし倭国へ送ったものです。この人質派遣でさえ、「強国」の百済が倭国に対して支配関係を維持する上で送ったと考える学者もおられるようですが、強弁としか言いようがありません。人質は外交関係の延長であり、政治的・軍事的弱者が強者に差し出す行為と見るべきです。百済の側の内部に倭国へ人質を送ってまで国交を結ばねばならない相当な理由があったのです。実は、百済本紀にそのことは正直に告自されています。
C' 「八年(三九九 ーー実は三九八)秋八月、王は高句麗を侵攻しようと思い、大々的に兵士や馬を徴発したので、国民はその役務に苦しんで、新羅に逃げる者が多く、戸数や人口がひどく減った」
この記事によりますと、百済は高句麗騎馬兵団と戦うべくもないでしょう。そこで百済は倭軍の力を借りる必要、必然性が生じた。好太王碑文はこれを簡潔に次のように、高句麗側の論理で記していたのです。
九年己亥、百残違誓、与倭和通。(二面六行)
「己亥」つまり三九九年、百済は六年丙申に高句麗に敗れ、自ら今後永遠にあなたの「奴客」になると誓った約束に違って、倭と修好(和通)したのです。
このように、四世紀末の東アジアは高句麗=新羅、倭=百済とそれぞれの利害が複雑に交わる中で連合し、抜きさしならない対立状況となり、結局戦争となっていったものなのです。
好太王碑文と『三国史記』は成立年代が異なっても、基本的にはこの歴史的事実を反映しており、内容的に一致しています。しかし、倭を国家でなく海賊とみなして解読すると、当時の国家間の矛盾を処理できないばかりか、それぞれの国の歴史を見誤ることとなるでしょう。
海賊か国家か・・・という議論のポイントは、「日本列島がまだ統一されていなかった四、五世紀では、国家関係が成立していたとは思えない」という王氏の主張にも見られるように、「国家」という概念の把握にあります。このことは、王氏がどのような視点の下で従来説の大和朝廷説に対したかを見れば一層よくわかります。
「そこで、伝説と碑文を結びつけて、日本は当時すでに統一されていたと主張し、そうすることによって日本を国家として出現させ、任那日本府を定説化し、もともと誇張された言葉をさらに際限なく誇張したのだった。これは歴史を研究するものの良心に背くものである」(『好太王碑の研究』一八四頁)
この点、王氏の海賊説にあたる金氏も次のように強く主張しています。「以上のような碑文解釈も他ならぬ彼ら日本人学者の立場と先入観から生じている。朝鮮といえば植民地と考え、倭といえば大和中心の統一国家と考えるのである。これはかつて日本帝国主義者が、古代日本の『大帝国』論を歴史的に証明しようとしていた論理体系の基本であった。破産したこの『大日本帝国』式の先入観に、今日も日本の歴史家たちは固執している」(『古代朝日関係史』三七九頁)
王、金両氏のいずれの見解も、大和中心主義や日本帝国主義の歴史観を問い正そうと批判されている姿勢には、私達が学ばねばならないと思います。けれども、大和中心史観の歪みを正そうとされるあまり、当時の倭の過小評価、更に国家像を矮小化してしまっているのではないでしょうか。
“大和政権以外に国家はなく、国家とは統一されているものである”という命題は、ほとんどの日本の歴史家とそれを根本的に批判しているはずの中国や朝鮮の学者をも縛りつけ、同じ土俵上において国家をとらえさせてしまったものです。
統一された国家でない限り、国家として認めないという立場をもし貫徹しようとするならば、当時の東アジアにおいて「国家」はどれくらい存在するのでしょうか。中国の魏、呉、蜀のそれぞれも「国家」でなくなり、朝鮮の高句麗、百済、新羅もそれぞれが「国家」でないという論理に行きつくでしょう。
九州王朝という概念を承認しないが故に、大和朝廷の認知しない北九州を中心とした「海賊」という表現が生み出されざるを得ないわけです。歴史の事実は、考古学、文献史学、金石学等が教えるように、九州を中心とした大和とは独立した勢力が、外交権をもち、自国民を徴兵して、朝鮮半島に侵略していたのです。これを国家と呼ばないわけにはいきません。(勿論、今日の日本国とは違います)。
国家の概念とは、広辞苑によりますと次のようです。
一定の領土に居住する多数人から成る団体で、統治権を有するもの。通常、領土・人民・統治権がその概念の三要素。
つまり、領土・人民・統治権の三要素が満されておれば国家と呼んでいいわけで、「特定の領土」・「人民」は時代によって変化するわけです。九州王朝は百済と「和通」したり、「国交」を結んだり、新羅と「断絶」したりする、つまり自国の統治権をもっているわけで、これを「海賊」と呼ぶのはあまりにも歴史の真実から遠ざかることとなるでしょう。
従来説は好太王碑文の研究を辛卯年条に集中してきた感があります。碑文一八〇〇余字(王健群氏によると一七七五字)中、わずかに三二字(その内二字分は不明)です。
(A) 百残・新羅、旧是属民、由来朝貢。
(B) 而倭以辛卯年来渡海破百残□□新羅以為臣民。
碑文が紹介されてから、従来は「(A) 百済・新羅は旧もと是これ属民にして、由来朝貢せり。(B) 而しかるに倭は辛卯の年(三九一年)を以もつて来り、海を渡って百済□□・新羅を破り、以て臣民と為す」と読み、四世紀末に倭が朝鮮半島へ進出し、百済・新羅を従服したくらいであるから、五世紀における近畿大和朝廷の全国統一の証拠としてきたのです。この説が従来説であり、教科書を通じて教育されてきました。
この解釈に対して、全く異なる読解法を提出した最初の人は、一九五五年に「広開土境平安好太王陵碑文釈略」という論文を発表した鄭寅普(チョンインボ)氏です。鄭氏は次のように言います。
百残・新羅は、ママ太王にとってはともに属民である。そして倭はかつて高句麗に来侵し、高句麗もまた海を渡って(倭に)往復し、たがいに攻撃し合った。そして百残が倭と通じたので、新羅は自分の臣民であるのに、どうしてこのようなことをするのかと思った。かくして太王は、みずから水軍を率いて出陣した。
この鄭氏の分析は「渡海破」の主語をはじめて高句麗とした点で優れています。好太王碑を建立した高句麗の立場に立ったわけです。碑文は好太王の功績を讃(たた)えるためで、倭の功績を強調する為ではありません。しかし、「討利」を「二重述語」として、好太王は百済を討ったが、新羅は利したとする点や主語を短かい文脈で六回も変える等問題も多いわけです。
従来説への全面的な批判は、一九六三年に金錫亨(キムソクヒヨン)氏の「三韓三国の日本列島内分国について」という論文によって、さらに一九六六年『初期朝日関係研究』(翻訳『古代朝日関係史 ーー大和政権と任那』一九六五年)によって体系的になされるようになってきました。金氏は次のように把握しています。
好太王統治以前から「百残」と新羅は高句麗の属民である。しかるに、百済は辛卯年(三九一)になって、「倭」まで動員して高句麗に敵対した。この「倭」は「北九州の百済系の倭で、故国のために動員されたものであろう」とし、碑文の論理から言えば、「属民」の位置から離脱したため、高句麗は水軍で海を越えて渡り、「倭軍の故国であり」自らを脅かす主たる対象の百済を撃破したのであった。
この金氏の解釈は、「渡海破」の主語を高句麗とし、百済を撃破したのだとしています。金氏のいわゆる分国論ですが、私は先程申しあげましたように、百済本紀にあるように百済内部の民の逃亡によって、倭の勢力を引き入れるべく、人質を派遣したと解しています。ですから、「故国のために動員」という解釈は史料の上からば無理があり、金氏の言われる通りだとすると、人質を派遣することはおかしいわけです。
同じ朝鮮の学者で好太王碑を現地調査された朴時亨(パクシヒヨン)氏は『広開土王陵碑』の中で「わが高句麗は海を渡っていき、それを撃破した。しかるに百済は(倭を引き入れて)新羅を侵略し、それを自分の臣民となした。こうして大王は六年丙申に、親しく水軍を率いていって百済を討って勝利した」と釈読しました。
朴氏の説は、高句麗を主語とする点では金氏と同じですが、違う点は百済は新羅を侵略し、新羅を臣民としたという解釈です。しかしながら、この解釈では好太王碑文の建立の目的である高句麗・好太王の功績を讃えることとはならず、しかも「臣民」という大義名分に関する用語を敵国・百済に対して使用するでしょうか。整合性がないのは、好太王碑文の解釈だけにとどまらず、『三国史記』の文献上からもおこってきます。高句麗本紀や百済本紀、新羅本紀からすべての対外戦争に関する記事を抜き出しても、百済が新羅を「臣民」とした記事はありません。
六〇頁の表を見ていただければ明白です。
さて、新説(主語を高句麗とする)の中で、最も整合的で説得力に富むのは、一九七三年に『失われた九州王朝』で展開された古田武彦氏の解釈です。
「渡海破・・・・・・以為臣民」の時点を、従来まで「辛卯年」(三九一)のこととして疑わなかったのですが、碑文の文体性格の分析から、この段の文頭つまり「王(以二碑麗□息□□)、躬率住討」をうけているとし、年代上の齟齬(そご)を氷解させました。従来の解釈では、年代順の勲績史である好太王碑文を、永楽五年→永楽元年(辛卯年)→永楽六年と錯乱してとらえてきていたわけです。
また、臣民論として、「臣民」なる用語は「朝貢」と同じく、“特定の方向性”をもった「一方向言語」であるとし、碑面にあらわれた「臣民」とは、“高句麗好太王の臣民”であるほかないとします。この論理は極めて重要な自明の道理であり、従来の説の欠陥を鋭く突くだけではなく、新説の朴説にみられる「百済が新羅を臣民とした」とする解読の矛盾を指摘しています。
最近、古田氏と孫永鐘氏(ソン ヨンジョンシ 朝鮮民主主義人民共和国・歴史学研究室室長)との間で講演・討論会を私達の会主催で行ない、私が司会を務めていたのですが、その席上で孫氏は朴時亨氏との対談で臣民論に賛同するだけではなくて、「高句麗が新羅を『臣民』とした」と解釈するという意見の統一が行なわれ、朴氏の主張が訂正されたという事実が明らかにされました(詳細は「好太王碑と高句麗文化について」『市民の古代』第八集)。学問には"国交断絶"がなく"国境"がない良い例だと思います。
古田氏はさらに「勲績」論を展開し、好太王碑の建立の目的に則し、第二部分で「永楽五年」から「永楽廿年」の八段階を分析し、全て高句麗好太王の「勲績」で結んでいるのであるから、「以為臣民」のところだけ「倭王の勲績」と解釈することはあり得ないとしています。この論も全く正当であると思います。ただし、「南面論」だけは、好太王碑現地調査以前の議論であり、現地調査後では私どもの意見をとり入れられて、『古代の霧の中から』において訂正しておられます。
私自身の見解は『好太王碑論争の解明』の中で展開しましたので、あえてここではくり返しませんが、碑文そのものの調査や拓本、釈文、写真等の検討、碑文それ自身の用例に従うべきだと考えます。この分析方法によれば、高句麗を主語とし、三九一年に倭は朝鮮半島内の地にやって来ていますが、高句麗は渡海して百済の東海で倭と交戦し、新羅を「臣民」としたと解読しています。
さて、これらの新説は、(B)の文の解読において文中の「来」でいずれも句切り、渡海の主語を高句麗とすることに共通項があります。この点が辛卯年の倭の意味をどう考察するかの分水嶺となる重要な点です。
この新説に対し、従来説からの反論を最後に検討したいと思います。
従来の学界では、倭を大和朝廷の側の派遣軍としていたのが主流であり、教科書にも掲載されていたわけです。更に、好太王碑文の解説を一つの根拠に、大和朝廷の全国統一を五世紀としていたわけです。最近の古代史学界では、日本統一の時期をもっと後にすることで従来説は変化してきていますが、さらにこの間のシンポジウムでは好太王碑文の倭を大和朝廷と解する考えは主張されなくなっています。そこで、あえて従来説(倭を主語とする)の側から新説(高句麗を主語とする)への反論を探し検討することで問題を一層深めていきたいと思います。
新説を丁寧に批判しようという試みは、西嶋定生氏の「広開土王碑文辛卯年条の読み方について」(三上次男博士喜寿記念論文集』歴史編及び「好太王碑文辛卯年条の読み方について」『好太王碑・シンポジウム ーー四、五世紀の東アジアと日本』)においてなされています。西嶋氏ご本人の意図は新説への批判にあるのですが、氏が採用された方法は厳密な史料批判であり、その方法を忠実に進まれたために、新説を批判するというよりもかえって肯定する論述となっています。
従来説の矛盾は、「来渡海」の三字を「来りて海を渡る」と読んできたのですが、「来」を動詞とする限り、鄭氏の指摘のように、「すでに〈来〉ているのに、さらに〈海を渡る〉というのはなぜであろうか」ということになり、倭は朝鮮へ来て、更に日本へ渡って攻めるというナンセンスな文となることにあります。
この矛盾を解決するために、西嶋氏は「来」字と結合する動詞の例を、「来朝」・「来援」・「来貢」等多数あげて(論文中六七例)、「来」という行動が完了したあとで、それに続く行動がなされる例を探そうとされました。けれども、どのように多数の例を探しても「来渡」はやはり無理であることが西嶋氏自らによって証明されます。
そこで類似表現はないものかと、海外から朝鮮半島に到来した文章を『三国史記』や『三国遣事』に求めるわけですが、「渡海而来」(『三国史記』新羅本紀始祖三八年条)や「渡海来征」(『三国遣事』巻三宝蔵奉老の条)と表現しており、「来渡海」とは決してなっていなかったのです。
結局、西嶋氏は「断句の方法としては、新説の方が正しいという結論に到達した」と言われます。正直といいましょうか、自らの考えと違いましても、正しいのは正しいと言われる学問的良心だと思います。けれども、西嶋氏は従来説の肯定論者ですから、これでは矛盾することとなってしまいます。そこで、西嶋氏は「この矛盾をどのように解決するかが、以下の課題である」として、「以・・・・・・来」を時間の経過を示す助辞としての「来」字の用法と「以」字の用法とを結合させ、「しかるに倭は辛卯の年よりこのかた、海を渡りて百残□□新羅を破る」と解釈したのです。
一方、王健群氏も『好太王碑の研究』において、「百済と新羅は以前、わが高句麗の属国であった。従来から我々に朝貢していたが、辛卯年から、倭冠が海を渡って百済と新羅を打ち破り、臣民にしたため、〔そのときから、百済と新羅は我々に対し、臣として服従することも朝貢することもしなくなった。そのため〕永楽太王六年(三九六)にあたる丙申年に、好太王は自ら水軍を率いて、百済を討伐した」と解しています。
この西嶋ーー王両説は、従来説の弱点であります臣民論を依然として解決していませんが、「以・・・・・・来」の問題では、従来説の矛盾の一つを解こうと試みています。
更に、王氏においては好太王碑文を年代順に記述しているととらえる点は、この点の先行説である古田説と共通しているのが特徴です(差異点は、王氏は辛卯年の記事を次の六年丙申条に属するとする点です)。
さて、この苦肉の策ともいうべき西嶋ーー王両説は、好太王碑文自身の全ての用法、文脈、論理の前に成立することができるでしょうか。次に検討してみます。まず用語の意味を『大漢和辞典』(諸橋轍次著)において調べておきましょう。
一、「來」について(「「来」は略字)
一きたる。くる。二いたる。三かへる。四将来。未來。五つとめる。六まねく。いたす。よぶ。七このかた。から。より。
二、「以」について
一用ひる。二ひきゐる。三して。四もって。ここを以て。かくして。よって。意味を強める辞。五ともに。六やむ。七もってする。八これ。この。九もって。時を表はす詞。十もってすれば。十一ゆゑ。十二おもふ。十三はなはだ。十四およぶ。十五より。十六以。十七間民。やとひ人。十八姓。
三、「以來」について
一云云よりこのかた。其の後。二今より後。以後。自今。今後。
では、いよいよ好太王碑文に則して、碑文中の用法はどう使用されていたか、徹底的に調査してみます。「來」は碑文中、九回出現しており、その全用例は次の通りです。(次の○中の番号は、『大漢和辞典『』の「來」の用例番号、インターネット上は漢数字表示)。
(1) 「黄襲来下」(一 - 三 - 三一)・・・・・・六「まねく。よぶ」の意
(2) 「東来□城」(一 - 八 - 一六)・・・:・二「いたる」の意
(3) 「倭以辛卯年来」(一 - 九 - 一一)・・・・・・一「きたる」の意
(4) 「自此以来」(二 - 六 - 二六)七「このかた。より」の意
(5) 「来論事」(三 - 二 - 一八)・・・・・・五「つとめる」の意
(6) 「官来者」(三 - 七 - 一七)・・・・・・一「きたる。くる。」の意
(7) 「新来韓穢」(三 - 一一 - 一四)・・・・・・一「きたる」の意から「新来韓穢」と名詞化をしている。
(8) 「所略来」(四 - 六 - 一八)・・・五「つとめる」の意
(9) 「先王以来」(四 - 七 - 三九)・・・七「このかた。より」の意
以上の分析の結果、「來」は五種類の意味に使用されており、多義的です。しかし、重要なことが判明しました。七「このかた。より。」の意味で使用されている (4)「自此以来」や (9)「先王以來」はいずれも「以・・・來」と語を分けて不明確、多義性をもつことを避け、「以来」と使用されているという事実です。この史料事実を無視してはなりません。
つまり、もし西嶋ーー王両氏の解釈が成立することならば、好太王碑文では「倭辛卯年以来」となっていなければなりません。しかし、碑文は実際には「倭以辛卯年来」となっているのですから、やはり西嶋 ーー 王説は成立しないと言わざるを得ません。
この分析によって、私たちは辛卯年の記事の主語は何かを確定できる方法論を手にしました。即ち、碑文によれば、倭は辛卯年よりやって来たので、王は海を渡って百済の東海で倭を伐ち(欠字をこのように読解するのは、初均徳抄本に東とあるところからの議論です)、新羅を高句麗の臣民としたのです。
(インターネット上では、碑文の読み取り文字は青色表示)
この解釈は、従来説の難点、臣民論、動績論、「来」の用法のいずれも解決するばかりか、西嶋ーー王説の「以・・・来」説をも乗り越えるものであると思います。
この解釈は、『三国史記』の高句麗本紀、百済本紀、新羅本紀と矛盾するでしょうか。次に調べてみましょう。
前頁の表は、『三国史記』における対外戦争を三九年より三九四年まで抜き出して整理したものです。この表を注意深く分析すれば、攻撃された側の国の史料の方が、攻撃した側の国の史料よりも詳しく、具体的な地名を入れていることに気付きます(例えば、(2)百済本紀にある「石[山見]城」など)。通常は攻撃する側は戦果を大きく、被害は少なく言うのに逆になっています。つまり、『三国史記』の記事は一定の信頼をおいてもよい史料であると思います。
[山見]は、JIS第3水準ユニコード5CF4
表の(2)、(4)を見ますと、高句麗は百済を攻撃していますが、「臣民」とするには至っていません。もし、「臣民」としていたならば、どうして(7)(8)にあるような高句麗ーー百済の対戦記事があるのでしょうか。ここからも、従来説のような、倭が百済、新羅を臣民としたなどという解釈は全く成立しないのです。
倭を大和朝廷とするならば、どうか根拠をあげて私の言っていることを批判して下さい。私にとっては、どう考えても倭はこの地、つまり九州しか考えられません。好太王碑文を素直に読む限り、倭は何の前提条件もなく、書き手であり読み手でもある高句麗人にとって自明の「倭」として第一面九行目に登場しています。即ち東アジアで「倭」と呼ばれた地域を指示しています。そして、この「倭」とは大和朝廷ではなくて、九州王朝を意味していたわけです。
どうもご静聴ありがとうございました(拍手)。
史料名と
西暦表示 年号・月 |
好太王の行動 | 相手国 | 略奪地・攻撃地 | 城・物件 | 人及び戦果 | |
(1) | 高句麗本紀 三九一 新羅本紀 三九一 |
高句麗は使者を新羅へ |
新羅 |
人質を派遣 人質を送る |
||
(2) | 高句麗本紀 三九一 百済本紀 三九一 |
王は南進して攻略 談徳は四万の軍隊を率いて、侵攻 |
百済 高句麗 |
百済の十城 百済の北部、漢水の諸部落奪われる。 |
十城 石[山見]城 |
攻略する
略奪される |
(3) | 高句麗本紀 三九一 広開土王元年秋九月 |
北進して契丹を討伐 | 契丹 | 契丹 | 男女五百人捕虜本国民一万人連れ帰る | |
(4) | 高句麗本紀 三九一 百済本紀 三九一 |
王は百済を攻撃 |
百済
高句麗 |
関彌(かんぴ)城、二
〇日間攻撃 関彌城 |
陥落させる
攻めおとされる |
|
(5) | 高句麗本紀 三九二 百済本紀 三九二 |
百済が高句麗へ侵入、将軍に命じて防戦 百済は高句麗へ関彌城を取り返すため出兵 |
百済
高句麗 |
高句麗南部辺境 高句麗、関彌城 |
侵入されるが防戦する 攻撃するが引き帰す |
|
(6) | 高句麗本紀 三九三 百済本紀 三九三 |
百済が侵入してきたが王は精鋭な騎馬隊五千人を率いて迎え撃つ 高句麗へ出兵
|
百済
高句麗 |
高句麗
高句麗、 |
侵入されるが迎え撃つ 敗北 |
|
(7) | 高句麗本紀 三九三 広開土王三年秋八月 |
国の南部に七城を築き、百済の侵入に備える | (百済) | 七城を築く | 防戦準備 | |
(8) | 高句麗本紀 三九四 |
王は百済と戦う |
百済 |
泪水のほとり |
大敗させ八千人を捕虜 大敗し死者八千人をだした |
[山見]は、山編に見。JIS第3水準ユニコード5CF4
辛*(しん)は、草冠に辛。JIS第3水準ユニコード8398
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