古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編1
『親鸞』
ー人と思想ー
古 田 武 彦 著
序
桜が過ぎ、紅葉が散る、自然再生の証〈あか〉しである。たとえ上天に月輪が消え去り、太陽が存在を失ったとしても、それは大宇宙再生そして新生の一コマに過ぎぬであろう。けれども、その間、真実は一刻も姿を消すことがない。
わたしがこの世に生まれ、真実を求めはじめてより、わずかに七十数歳。その歩みは遅々として幼児の伝い歩きに似る。それが数巻の書をなし、著作集の名をうる。過分とすべきであろう。
その探求の行路は、親鸞にはじまった。青年の草創、国家の敗戦に遭遇し、人間の造り上げた観念の大廈〈か〉が一夜にして崩落するを見たからである。各家、専家、相競って昨日の非を忘れ去り、今日の道理を説く姿に接したのである。それらの百言万説にかかわらず、実証の事実、論証の真実を求めること、それが唯一の指針となった。それのみを研究の大道と信じたのである。
それはまた、日本古代史研究の方途となった。明治以降、薩長の国家は政略の便宜によって、あえて天皇家中心の歴史を以って国是となし、教科書の名において流布せしめた。以て百年の大計としたのである。そのため、戦前においては白村江の敗戦が除かれ、戦後も九州中心の神籠〈こうご〉石の存在が除かれつづけている。天皇家以前の倭国(九州王朝)の一大軍事要塞群の存在をしめしているからである。もとより、親鸞によって心血のそそぎこめられた「主上・臣下、背法違義」の一句など、日本思想の基石とすべきページは存在すべくもなかったのである。
今日の是は、再び明日は崩落の日を迎えることであろう。一国家の一時期の便宜は、真実とこれを相対すれば、一夕のかげろうよりもはかないからである。親鸞は己が生涯を賭したミダ仏さえ、大自然の真実を知るための「れう」(料。手段)であると言い切った。後生のわたしたちにとって、何にはばかり、何にためらうことがありえよう。
そのような未来の探求者たちの前にひそかに本集をささげたい。
二〇〇二、四月七日朝、記。
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序 3
目次 5
親鸞と出会う
9
青春の決断ー親鸞の生涯
10
いずこへゆく 30
『歎異抄』 と現代
34
『歎異抄 』で親鸞に逢う34
親鸞研究の貴重な史料 34
若い研究者から論争を 35
万代を驚倒させる一言 36
深い真理に目覚める暁 37
親鸞ー人と思想
39
読者との約束
40
きみとわたしとのめぐりあい 40
きみへの注文 42
親鸞について ー青年は親鸞を愛する 44
わたしが親鸞に会ったとき 44
弟子一人(いちにん)ももたず 45
真実に偏執(へんしつ)しよう 48
親鸞とマルクス 49
I. 半生(はんせい)の霧
52
生きた親鸞を探求しよう 52
無動寺谷のおもいで 52
親鸞の肖像画 53
本願寺への道 54
親鸞はいなかった! 55
筆跡による存在証明 56
伝記への挑戦 57
中沢史学の意味 63
伝説から光が! 64
霧の中の真実 64
礒長(しなが)の夢告 69
なぜ真実は隠されていたか 70
二十代の青春 73
堂僧 76
大乗院の夢告 77
山を降りる 79
恵心尼文書 79
女犯の偈文 81
親鸞の足どり 83
たとい地獄でも 84
女犯の偈文の意義 85
問いつめる女 86
II. 斗いと思想の生涯 90
ー裏切らざる人生ー
人民の苦しみと専修念仏運動 90
時代の相(すがた) 90
稚児のなげき 91
専修念仏(せんじゅねんぶつ)93
法然との出会い 97
本願に帰す 97
法然と親鸞の間 98
吉水の法然 100
『選択集』 101
スポンサー兼実 102
親鸞の見た法然 103
ミダの化身としての法然 104
南都北嶺の攻撃 106
ー権力と宗教の野合ー
七箇条の起請文 106
南都の奏上 108
承元の大弾圧 113
住蓮・安楽 113
安楽の面魂 116
都を追われる 119
ー越後流罪と承元の奉状ー
流罪 119
承元の奉状 120
承元の奉状をめぐる論争史 121
承元の奉状の立場 124
越後における親鸞 126
二人の妻 128
親鸞の妻と子 128
一人妻説は成りたたない 129
親鸞の子どもと、その母 131
同時に二人の妻 134
東国親鸞教団の誕生 136
法然の死と東国への旅 136
なぜ東国へ 137
何をめざして 139
生きている住蓮・安楽の書 141
ー生涯の著述『教行信証』ー
『教行信証』はなぜつくられたか 141
生きている住蓮・安楽 142
親鸞という名まえの意味 145
体験と歴史の論理 146
ー三願転入の告白ー
三願転入の論理 146
「今」を求めて 148
宗学の誤りの深い根 151
反体制への転化の論理 152
三願とは何か 154
『教行信証』はいつ作られたか 156
科学的な筆跡判定法 159
思いもがけぬところに鍵が 161
果てしなき内と外との斗い 164
東国時代の心の斗い 164
一切経校合(いっさいきょうきょうごう) 166
念仏禁圧令の嵐の中の帰郷 170
京に帰る 170
あいつぐ念仏禁止令 175
弾圧と帰郷 177
分裂の中の悲劇 179
ー建長の弾圧と親子の義絶ー
建長の弾圧 179
護国思想の問題 181
服部之総の投じた石 184
性信の『血脈文集(けつみゃくもんじゅう)』 186
四つの手紙 187
善信と親鸞の同一証明 188
分割支配の論理を打ち破る 189
生きながら仏にひとしきわれら 190
性信の人間像 191
蓮光寺本発見の糸口 191
善鸞義絶 193
金剛神心を守り、弾圧者のために祈れ 196
逆謗闡提(ぎゃくぼうせんだい)196
逆謗闡提の歴史 198
親鸞の逆謗闡提 199
五逆にあらざる われら 200
近代宗学の落とし穴 202
法然の意志 203
恩光の応答 205
親鸞生涯の回答 207
正しく恵まんとおぼす 209
後鳥羽院 210
親鸞の死 211
III 永遠の対話 214
ー『歎異抄』ー
『歎異抄』ー解説
214
『歎異抄』ー親鸞のことばと私のこたえー
217
宗教は滅び親鸞はよみがえる 248
親鸞年譜 252
あとがきー若き魂への手紙ー
253
参考文献 255
親鸞伝をめぐって 257
親鸞 258
愛欲の広海 258
弾圧をのりこえて 261
三願転入の論理 265
晩年の悲劇 268
親鸞伝の史料批判
272
親鸞伝の基本問題ー「伝絵」の比較研究ー
329
書評 353
日本宗教史研究会編 日本思想史研究 354
神の運命 369
ー歴史の導くところへ
宗教の壁と人間の未来 ー序説
370
近代法の論理と宗教の運命 390
ー“信教の自由”の批判的考察ー
前文 390
I 近代国家の方の中の「信教の自由」 393
II 「信教の自由」の歴史的成立についての若干の考察 407
III 「信教の自由」への戦闘的無神論の批判 431
IV 日本近代社会の精神状況への考察 458
ーその論理の抽出の試み
古代の論理と神話の未来 480
歎異抄の本質ー流罪記録の『眼睛』について 493
あとがき 515
初出一覧 519
あとがき
一
第一集には、わたしの研究史にとって忘れぬことのできぬ旧稿や旧章がいずれも収録されている。
たとえば、『親鸞ーー人と思想』清水新書のセンチュリーブックスの一として公刊されたのである。けれど、四十才代の前半、一字一句に思いをこめ、幾度も読みかえしつつ、身をけずり、推敲の筆を相重ねながら、ようやく成稿を見た。
それまでは、親鸞に関し、もっぱら学術上の論文を手がけていた。読者は同じ研究者、それも親鸞や中世思想史に関心のある人たちであるから、筆致に迷うことはなかった。どれだけ論証を重ね、加上して注記しても何のさしつかえも生じぬから、執筆上、きわめて“容易”であった。
しかし、右の場合、ちがった。読者は若い人びと、たとえば高校生が想定されている。その人びとに語りかける。わかってもらう。この種の文章としては、はじめての体験だった。わたし自身にとっても、貴重な収穫となったのである。
二
右に先立つ三十代後半、思いがけぬ収穫となったのは、「信教の自由」をめぐる一稿であった。「近代法の原理と宗教の運命」がそれである。日本の新憲法の一節を発端とし、西欧文明圏の根本性格を論じた小論である。わたしの研究の背景、その思想的視野をしめすものとして、最近にわたるわたしの研究動向たる、イリヤッド・オデッセーに対する史料批判の道へと相通ずるものがあろう。
三
親鸞研究に次ぎ、日本の古代史研究は、四十代後半以降における、研究の主要テーマとなったものであるけれど、対象こそ異なれ、わたしにとって同一の学問、同一の研究方法の実行に過ぎなかったのである。
この点、本集に収録された「親鸞伝の史料批判」(昭和六十年)がその消息を十分伝えている。すでに古代史学の世界を渉猟した後、親鸞伝中の問題点を同一の立場から俯観したのである。
それらは終始、わたしひとりの探求だった。みずからの理性にとってうなづけるか否か、その一点を根本の視点としている。
しかしながら、その反面、読者からの尽きせぬ支援があった。それによって自分自身では思いもかけなかった「失陥」を補って下さったのである。
この点、親鸞研究においても、変わりはなかった。その二者をここに特記させていただきたい。
その一は、和本教行信証における「主上・臣下」の“一行空白”の件。わたしは戦時中(昭和十五年)の『真宗聖教全書、二』によって、「主上」の二字削除を“正”としたが、(第三集二六五〜七ページ)、実は同時期(昭和一五〜六年)の和本に、「一行空白」の版本が存在したという(高岡市、柴野純隆氏による)。記して感謝し、故服部・野間氏に訂正報告する。
その二は、大乗院の夢告をめぐる「日程」である。(ページ数は本集)
十二月三十一日 → 十二月二十八日(65ページ後3行目)
一月一日ころ → 十二月二十九日(80ページ後5行目)
十二月三十日の直後→十二月二十九日二十八日その日のうちに(80ページ後4行目)
その理由は、「四月が六日、二・三月が<小、二十九日>、一月が<大、三十日>、正治二年の十二月が<小、二十九日>であること。(群馬県太田市、平田之宏・英子夫妻による)。記して感謝したい。
四
右とは別に、わたしの立論に対する批判も存在した。この点、古代史の世界とは異なり、わたしにとって大きな喜びとなった。
一は、本集所収の「親鸞伝の基本問題 ー『伝絵』の比較研究」に対する批判である。(平松令三、神崎充晴氏)。
一は、わたしの親鸞研究の一原点をなす、「三夢記」に対する史料批判、これに対する反論である。(平松令三、山田雅教氏)。
平松氏は、京大において赤松俊秀氏に学ばれた、高田専修寺を母体とする研究である。わたし自身も、専修寺所蔵の文書を拝見するさい、御世話になった。報恩のため、再批判の筆を執らせていただくこととする。いずれも、わたし自身の年来の学問と方法に深くかかわるところだからである。(第二集、所収)。
その機縁を与えて下さった諸氏に厚く感謝させていただきたい。
五
なお末尾ながら、本集所収の『親鸞ーー人と思想(初版)』に関する、忘る能わざる錯失について記させていただきたい。
本書が昭和四十五年(一九七〇)上梓され、その贈呈本を一読された田村圓澄氏、(当時、九州大学)より、故人の如く叙述されていた(本集一一一ページ 注)長沼賢海氏が、なお御健在の旨、葉書を以ってお知らせいただいたのである。
その一葉を受信した夕、直ちにわたしは山陽線の汽車に乗り、太宰府たる長沼氏のお宅へとむかった。そして氏の面前で無礼をおわびしたのである。氏はこれを一笑に附し、かえって「邪馬台国」に関し、各学者こぞり、一堂に会し、連日にわたって徹底的に論議・論争すべきを切に説かれた。思えば、その前年、わたしの論文「邪馬壹国」が史学雑誌に公表されたのを御存知だったからであろう。
その史学雑誌に明治四十三年以来、陸続として十編近き親鸞聖人論を発表し、斯界を導いた氏が、当時九十歳を越えてなお矍鑠(かくしゃく)としておられたのである。
氏の闊然(かつぜん)たる風貌と共に、学問に対する真摯(しんし)の姿は、愚妹(ぐまい)のわたしを根底より打った。その後の研究姿勢に対して、大いなる教導を与えられたのであった。
記して、おわびと深い感謝の念をささげさせていただきたい。
(注)一二四ページの「ひとり喜田は」が初版では「長沼と喜田は」とあった。
二〇〇二年四月十日 記
初出一覧
青春の決断ー親鸞の生涯ー 伝統と創造第四輯 大谷大学 昭和六十一年二月一日
いずこへ行く 京都新聞 昭和五十六年一月六日
歎異抄と現代 真宗大谷派難波別院『南御堂』第三二七号 一九八九年十一月
親鸞ー人と思想 清水書院 一九七〇年四月一五日
親鸞 (株)社会思想社 現代教養文庫635 日本名僧列伝 昭和四十三年十月三十日
親鸞伝の史料批判 聞光第二十九号 聞光学舎 昭和六十一年六月十日
親鸞伝の基本問題 『真宗重宝聚英』第五巻 平成元年 同朋舎出版刊
ー『伝絵』の比較研究ー
神の運命 (株)明石書店 一九九六年九月三十日
ー歴史の導くところへ (金沢大学暁烏賞受賞論文収録)
日本宗教史研究 史林第五十一巻六号 一九六八年十一月
日本宗教史研究会編
歎異抄の本質 書きおろし 二〇〇一年九月九日
ー流罪記録の「眼睛」について