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『失われた九州王朝』


『盗まれた神話』 ーー記・紀の秘密(ミネルヴァ書房
2010年3月刊行 古代史コレクション3

第三章 『記・紀』にみる九州王朝

古田武彦

 熊襲くまその国とはどこか?

 では、『記・紀』の中の九州とは、一体どんなところだろう。そこにはなにか注目すべき政治勢力がいた、と書かれているだろうか。 ーーその通りだ。
 そこには、熊襲(くまそ)国があった、という。近畿天皇家が日本列島を統一する上で、最大の難敵、それが熊襲だった。一応“東の蝦夷(えみし)、西の熊襲”ということになっているが、蝦夷の方は「天皇の親征」など記されていない。ところが、熊襲の方は再三「天皇の親征」があったとされ、後にのべるように天皇(仲哀)がその戦のさ中で賊の矢に当って戦死したという記事すらある。
 “それはその通りだ。しかし、”と人々は反問するだろう。“熊襲国は南九州を本拠としていた。これが定説ではないか。とすると、あなたのいう、北九州の筑紫を中心地とする九州王朝とはまるでちがうではないか?”と。
 では、この問題を吟味してみよう。たしかに“熊襲は南九州”という命題は、これこそ今まで疑われたことのない「定説」だ。では、この「定説」が生み出された、その史料上の根拠はどこにあるのだろう。それは、『記・紀』中ただ一つ。『古事記』のはじめ、国生み神話の中に出てくる、つぎの記事だ。
 次に筑紫島を生みき。此の島も亦、身一つにして面四つ有り。・・・筑紫国・・・、豊国・・・、肥国・・・、熊曾国・・・。
 なるほどこれは明瞭だ。この配置なら、疑う余地もなく、「熊襲=南九州」という定理が成立できる。従来、疑われなかったのも、無理はない。
 しかし、わたしは考える。“蝦夷は東へ移動する”という、有名なテーマがある。「蝦夷」というのが、東方における「天皇家の未征服民」を指す以上、天皇家の征服領域が拡大すれば、「蝦夷の住地」もまた、東へ移動するのは当然のことだ(そこで蝦夷と呼ばれているものの実体が、同じ種族であるか否かを問わず)。とすると、西なる「熊襲の住地」も、同じではあるまいか。時代によって、歴史の変転の中で、指す場所が変ってきているのではないか。つまり、“北から南へ移動しているのではないか”というわけだ。 ーーこの考えが、一つの突破口となった。
 もし右のようだとしたら、『記・紀』を通じてたった一つしかないこの『古事記』の政治地図にあてはめて、『記・記』の全熊襲説話を解読してゆくとしたら、これは危険きわまりない。なぜか? 今、『記・紀』中の熊襲記事、三つの全部について考えてみよう。
 (1) 景行天皇の熊襲大遠征(『日本書紀』のみ)
 (2) 日本武尊の熊襲暗殺説話(『記』『紀』とも)
 (3) 仲哀・神功の熊襲遠征説話(『記』『紀』とも)

 第一の問題は、さきの国生み神話政治地図の生まれた時期だ。それはまさか神代だというわけにはいかない。そこで今かりに、その時期が右の(1)ー(3)の説話の生まれた時期すべてより前だった、としよう。とすれば、当然、この政治地図に従って(1)ー(3)を読んでもいいことになる。
 しかし、もし(1)と(2)との間に、この政治地図が生まれたとしよう。とすると、(2)以下はこの地図に従って読んでいいが、(1)は駄目だ、ということになる。
 またもし、(1)ー(3)以後の時期だったら、すべてこれらの説話をこの地図で読んではならないこととなろう。しかも、もしかりに“熊襲の位置が北から南へ移動した”と仮定してみた場合、この政治地図は、そのどんづまり(最南端)の形をあらわしているから、(1)ー(3)以後である可能性も強いわけだ。
 また史料上、気になることがある。それは、(1)の場合、『日本書紀』(以下、『書紀』と略称)にしかなく、この地図は『古事記』にしかない。これもなにか“不安定さ”を感じさせる史料状況だ。いきなり、この二つを結びつけていいのか? これも疑惑だった。
 第二は、この国生み神話は本当に近畿天皇家内で作られたのか、という問題だ(この一見突拍子もない疑惑のもっていた深い意味は、やがて本書の進行の中で明らかとなろう)。
 要するに、この政治地図の生まれや素性、つまりこれがいつ、どこで、だれによって生み出されたかは、不明だ。これらを明らかにしない限り、この孤在した一枚の政治地図に頼って全熊襲説話を読解する、それは、史料操作のやり方として、慎重さを欠いている。 ーーわたしはそう判断するほかなかった。
 では、熊襲の位置を実際に判定するには、どうしたらいいか。この出自不明の地図は一応わたしの手もとに「保留」しておいて、これとは別個に、熊襲説話自身のさし示す熊襲の地理的位置を求めねばならない。これがわたしの新しい方針となった。

 

 仲哀天皇の敗死

 では、三つの熊襲説話について、時間の順序の新しい方から逆にさかのぼりながら、検査してゆこう。まず、仲哀・神功の熊襲遠征説話だ。ここでは、ただ一つの地名が書かれている。「橿日かしひの宮」だ。ここは北九州の福岡市の東辺に当る。現在の香椎宮(かしいぐう)だ。
 ここで仲哀天皇は死んだ。ところが、死に方について二説ある。
 (一) a)其の大后息長帯日売姫命は、当時神を帰(よ)せき。故(かれ)、(仲哀)天皇筑紫の訶志比宮(かしひのみや)に坐(ま)し、将(まさ)に熊曾国を撃たんとせし時、天皇御琴を控(ひ)きゐて、建内宿禰(たけうちのすくね)の大臣、沙庭(さにわ)に居て、神の命を請ひき。・・・・(中略)・・・・爾(しかる)に稍(やや)其の御琴を取り依りて、那摩那摩邇(なまなまに)(ひ)き坐(ま)しき。故、未だ幾久(いくだ)もあらずて、御琴の音を聞かず。既(すなわ)ち火を挙げて見れば、既に崩じ訖(おわ)んぬ。〈『古事記』〉〈『書紀』本文〉〈『書紀』「一云」〉
   (b)(仲哀)天皇忽(たちま)ち痛身有りて、明日崩ず。
 (二) 一に云ふ、天皇親(みずか)ら熊襲を伐ち、賊の矢に中(あた)りて崩ずるなり。

 つまり、『古事記』は「神がかり死」もしくは「自然死」といったかたちで書いてある。『書紀』本文は「病死」の態(てい)だ。この二つはまずは似ている。それに対して、(二)の『書紀』「一に云ふ」の方はちがう。簡明直截に、敵の矢に当っての戦死だ。どちらが本当だろう。いいかえれば、どちらが本来の伝承だったのだろうか。
 わたしは「戦死」の方だ、と思う。この点、あるいはある人々には、論証などなくとも、直観の力で賛成していただけるかもしれぬ。しかし今必要なのは、論証だ。煩をいとわず、吟味してみよう。
 わたしは『記・紀』を見る場合、つぎの二つの原則を大前提とする。
 (1) 『記・紀』は、天皇家中心の「大義名分」に貫かれた本である。
 (2) したがって『記・紀』は古来の伝承に対して、天皇家に「有利」に改削・新加(新しく付加)することはあっても、「不利」に加削することはない。
 まず、(1)について説明しよう。
 すでに前の本で詳しくのべたように、“天皇家は永遠の昔から、この日本列島の中心の存在だったのだ”という「大義名分」が『記・紀』を貫いている。それは「歴史事実の実証」以前の、いわば「観念」としての大前提なのである。それは国内問題だけではない。たとえば、
  冬十月に、呉国、高麗国、並に朝貢す。〈仁徳紀五十八年〉
  夏四月に、呉国、使を遣して貢献す。〈雄略紀六年〉
 とあるように、中国(や高麗)との通交さえ、あちらが日本の天皇家に臣従し、朝貢してきたように書いてあるのだ。だから、これは「朝貢」の事実を示す記事ではない。『記・紀』の大義名分に立った筆法なのである。
 (2)については、健康な常識をもってすれば自明の判断だといえよう。もっともなにが有利か不利か、理屈をいえば種々疑いが生じよう。たとえば“これは一見「不利」に見える。しかし、そのような「不利」な事件をのりこえてきたところに天皇家の歴史のすばらしさがあると見えるように、わざと一見「不利」に造作したのだ”といった風に。
 しかし、『記・紀』はトリックにみちた近代の推理小説ではない。天皇家が公的に開示した正規の史書(ことに『書紀』の場合)なのだから、あまりまわりくどくひねた解釈で強いて“「有利」ととる”のではだめだ。簡明率直、万人に与える直截な印象が問題なのである。
 以上二つの自明の命題、これをわたしは「二つのフィルター」と名づけよう。『記・紀』という本の記述には、すべてこの二つのフィルターがかかっている。だから、わたしたちは逆にいつもこの“フィルター越し”に、問題の真相を見つめねばならないのだ。この本の進行の中でいつも、この方法を厳正に適用してゆくとき、この方法のもつ「深い意味」をわたしたちはくりかえし思い知らされることとなるだろう。
 さて、当面の問題にたちかえろう。
 まず、『古事記』や『書紀』本文の、一種神秘的な「自然死」や「病死」の方が“本来の伝承”だったとしよう。ではなぜ、後代の官人が天皇の戦死という“不名誉な話”を造作したのだろう。なんらかの意味で右の「自然死」や「病死」伝承をきらったとしても、それなら「天皇は英雄的に賊を討伐したのち、帰途の道すがら病没された」とでも、造作すればいいのではないだろうか。
 近畿からの古代遠征軍の主導者たる天皇自身が、その敵の矢に当って死んだ、というのでは、ハッキリいって「敗死」の印象をさけがたい。それゆえ、先にあげた「第二のフィルター」から見ても、「敗死」造作説は成立できない。
 逆の場合を考えよう。本来の伝承事実は「戦死」の方だった。しかし、その“敗戦”の印象をきらい、「自然死」や「病死」めいた説話が作られた。 ーーこれなら理解できるのである。
 もっとも、この神がかりという神秘の場で“突如おとずれた死”というテーマについて、神話学者はさまざまに論じてきた。要するに、古代信仰と古代儀礼にふさわしい、というのである(たとえば、三品彰英『増補日鮮神話伝説の研究』)。けれども、そのことは決して「戦死→自然(病)死」という先後関係に矛盾しはしない。ただ、神のたたりによる「自然死」や「病死」説話の成立が意外に“古い”、そのことを示しているのである(「戦死」の時点にひきつづく時期と見てもよい)。後代の『書紀』の編者は「自然(病)死」説話と「戦死」記事を並載しているのであるから、この「自然(病)死」説話の造作者でないことは明らかである。

 

 死の伝承は変貌する

 このように王や偉人の死の真相を、その作者の所属集団の心情にあわせて書き改める、このような事例は決して珍しくない。
 たとえば、前著(『失われた九州王朝』)で書いた磐井(いわい)もそうだ。
 (一) a)此の御世に、竺紫(つくしの)君石井、天皇の命に従はずして多く礼无(な)し。故かれ、物部荒甲(もののべあらかい)の大連(おおむらじ)、大伴の金村(かなむら)の連(むらじ)二人を遣はして、石井を殺すなり。〈『古事記』継体記〉
   b)遂に磐井を斬りて、果して疆場(さかい)を定む。〈『書紀』継体二十二年〉
 (二) 俄(にわか)にして官軍動発し、襲はんと欲するの間、(磐井)勢、勝たざるを知り、独り自ら遁(のが)れ、南山峻嶺の曲に終る。〈『筑後国風土記』〉

 『筑後国風土記』の方では、まるで「自然死」のような描写だ。しかし、事実は『記・紀』の方にあろう。それを現地(筑後)側の伝承では、露骨にいうをはばかり、一見「自然死」のように婉曲に表現しているものと思われる(この点『失われた九州王朝』第四章一参照)。
 他の例をあげよう。福音書中の「イエスの死」だ。
 (A) そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。・・・イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。〈マルコ伝。マタイ伝もほぼ同じ〉
 (B) そのとき、イエスは声高く叫んで言われた。「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」こう言ってついに息を引きとられた。〈ルカ伝〉

 ここにも二つの異なった伝承がある。いずれがより古い伝承であろうか。“キリスト教信者の信仰の目”から見れば、当然、ルカ伝の方が「イエスの死」に似つかわしい。もしこの方が“より古い伝承”であったなら、後代のイエス信仰の中にいた誰人が、マルコ・マタイ伝のように「書き変える」であろうか。これではまるで、イエスが神に訴える、というより、神を“詰問”しているように聞えるではないか(もちろん「神学」的には種々の解釈がなされよう。だが、今はわたしは一素人として、つまり一個の人間として、率直な印象をのべているのである)。
 逆にマルコ・マタイ伝の方が本来の伝承であったとしよう。後代の敬慶な信者にとって、これではなにか“似つかわしくない”ように感ぜられた。そこでよりふさわしく、ルカ伝のような伝承が産み出されたのである(福音書研究のうえからも、ルカ伝はマルコ・マタイ伝よりあとの成立とされている)。
 わたしには仲哀の死の場合も、転移の経過はこれと同じだ、と思われる。
 もっとも、なお慎重に論ずれば、仲哀の場合、いわゆる「自然(病)死」と「戦死」とは”矛盾しない”死に方だとも考えられる。なぜなら、賊の矢に当って“即死した”とは限らないから、いったん癒えたかに見えていたのに、“たまたま琴をひいていたとき死んだ”というケースだ。この場合、死因は遅効性の毒矢か破傷風菌のせいだということとなろう。
 しかし、こんな“親切な”理解をしてみたところで、結局のところ、『古事記』や『書紀』の本文が「賊の矢」の件を“隠して“いることは、否めない。

 

 熊襲と新羅との間

 さて、まわり道をしたあと、本筋にたちかえろう。
 仲哀が賊の矢に当って戦死したとすると、橿日宮(かしひのみや)の地で、仲哀は賊と「接戦」していたこととなる。とすれば、南九州の熊襲とどうやって接戦できるのであろう。橿日宮と南九州との間の戦場名など一切出現しないのであるから。とすると、「熊襲=南九州」という先入観なしに、端的にこの説話内容自身を読めば、この熊襲は“北九州の存在”に見えてくるだろう。もっと切りつめていえば、博多湾岸(太宰府、基山付近をふくむ)を本拠とする熊襲に対し、近畿から襲来した仲哀軍が、博多の東の側面に当る橿日宮領域まで接近し、そこで「接戦」した。そしてその接近戦の中で、指揮者仲哀は戦死した。 ーーこのように考えると、この説話はまことに現実的(リアル)な、緊迫力を帯びてくるのではあるまいか。
 そして古来、戦闘と戦死の説話は、紀元前の『イリアス』から、はるか後代の『平家物語』まで、いずれも、緊迫した現実的(リアル)な臨地性、それを生命としているのではあるまいか。

 第二の局面に進もう。
 『書紀』本文によると、仲哀の死の前、神功皇后が神がかりしたとき、神はつぎのようにいったという。“熊襲討伐がうまくいかないといって心配することはない。この国以上の宝ある国が海の向こうにある。新羅の国だ。自分(神がかりした神)をよく祀ったら、平和的にその国は従うだろう。そしてまた、熊襲も自然に従うだろう”と。いいかえれば、熊襲討伐がうまくいかないのは、新羅がその背後にあるからだ、といわんばかりの口吻である。少なくとも全く無関係の二国ではないように見える。
 では、“新羅と熊襲を結ぶ”具体的な関係はなんだろうか。たとえば、軍需や物資の交流があったのだろうか。そしてなによりも、そのさいの地理的関係はなんだろう。
 このさい、かりに熊襲を南九州の存在とした場合を考えてみよう。はるか九州の西方海上を通じて連絡しあっていたのだろうか。それではあまりにも、迂遠な関係であり、「熊襲討伐難渋」の背景とはなりにくい。
 それに対して、この熊襲を博多湾岸に本拠をもつ存在として考えてみよう。
 狗邪韓国(こやかんこく 釜山近辺)ーー 対海国(対馬)ーー 一大国(壱岐)ーー 末盧国(まつろこく 唐津)ーー 伊都国(いとこく 糸島郡)を結ぶ、古来の幹線道路〈『三国志』魏志倭人伝〉があって、博多の西側に通じている。だから、いくら仲哀軍が東から切迫して、攻撃しても、この西のルートの確保されている限り、熊襲は容易に陥らないのである。こうしてみると、“熊襲討伐の難渋”から、その背後の新羅の存在へと目をむける、いわば必然性があるのではあるまいか。
 このようにみてくると、旧来の“熊襲=南九州”説に立った場合、この説話の全体はなにかピントがボケている。ちょうどわたしたち素人が時々やらかすピンボケの写真でも見せられているように。ところが、いったん“熊襲=北九州(博多)”という目から見た瞬間、説話全体はにわかに生動し、各部分は必然の脈搏(みゃくはく)をうちはじめる。 ーーそれをわたしは疑うことができない。

 

 授号の公式

 つぎは日本武尊の熊襲暗殺説話だ。
 これは、小碓(おうす)命が熊襲国へ行き、少女に変装してその国の首長の酒宴にもぐりこんだ。そして油断に乗じて熊襲の首長兄弟を刺殺した、という話だ。この説話には「地名」は出現しない(『書紀』の場合、熊襲の首長は「川上梟帥たける」と呼ばれているが、この「川上」についてはのちにのべる)。
 しかし、それに代って注目すべき点が二つある。
 その第一は、熊曾建(くまそたける)〈『古事記』〉が死のまぎわに、暗殺者たる小碓命に「倭建命(日本武尊)」という名を贈ったという、有名な話だ。
 (1) 熊曾建白(もう)す、「西の方に吾二人を除き、建(たけ)く強き人無し。然るに大倭(おおやまと)国に吾二人に益(ま)して建き男坐しけり。是を以て吾、御名を献(たてまつ)らむ。今より後は、応(まさ)に倭建御子と称すべし」と。是の事白し訖(おわ)れば、即ち熟菰*(ほぞち)の如く振り析(た)ちて殺すなり。〈景行記〉
     熟菰*(ほぞち)の菰*は、「子」がありません。JIS第3水準ユニコード82FD
 (2) 即ち啓(もう)して曰く、「今より以後、皇子を号して応に日本武(やまとたける)皇子と称すべし」と。言ひ訖りて及ち胸を通して殺しき。〈景行紀〉

 問題は“名前の献上”という行為だ。このようなテーマは、『記・紀』でほかに出現しない。そこで当然学者たちはこの点に疑惑の目をむけた。津田左右吉の場合は、「ヤマトタケル」(ヤマトの勇猛な人)などという抽象的な名前のつけ方から見ても、これは後代の大和朝廷の官人の造作にちがいない、と無造作に否定した。さらに細かく論をつめたのが吉井巌だ(「ヤマトタケル物語形成に関する一試案」、『天皇の系譜と神話』所収)。吉井はまずつぎのような例をあげた。
 (1)天皇ここに将軍八綱田の功をほめたまひ、その名をなづけて倭日向武日向彦八綱田と謂ひき。〈垂仁紀〉
 (2)天皇勅して、漁人に椎槁*(しいさお)の末を授けて、執らしめて、皇舟にひきいれ、海導者と為し、特に名を賜ひて、椎根津彦と為したまひき。〈神武紀〉
     椎槁*(しいさお)の槁*(さお)は、JIS第3水準ユニコード3C0F
 (3)汝忠(ただ)しくまた勇めり。また能く導きの功あり。この故に、汝が名を改めて道臣となせ。〈神武紀〉

 ところが、これらはいずれも“上位者から下位者への授号”のケースだ。これに対して、下位者が上位者に対して名を献上する例は、熊曾建 ーー『書紀』では川上臭帥の場合をのぞいては見当らない
 そこで吉井は熊曾建が「大和国に対立する西の国の強力者」だったと想定するが、それでもやはり彼(熊曾建、または川上梟帥)は「大和国については、何らの所有もまた権威をも本来もってゐなかった筈はず」とする。そこで上・下関係のない両者間でこの「名前の献上」といった行為があるのは不自然だ。だから、この話は「大和在住の作者が案出した」もの、とし、結局津田説の結論に同調している。この吉井の問題提起はまことに鋭い。しかし、その結論はわたしにはうなずけない。その理由をのべよう。
 吉井ものべているように、『記・紀』において名前が「A→B」と渡される場合は、「上位者→下位者」という一方向の例にみちている。その中で、なぜ、後代の官人がこれに反する話を造作したのか。それが問題である。七、八世紀段階で“地方豪族が天皇に名前を献上する”といった慣例ができていた様子もないから、これは変だ。“日本武尊の方が相手(またはその子)に熊襲建という名前を与え、以後、彼等はよく服従した”といった話なら、いい。だが、これは話が逆なのである。この点、「後代造作」説には、致命的な矛盾があるのではないだろうか。
 これに対する、わたしの考えをのべよう。
 (一)まず、“名前の献上”というときの「献上」という言葉。先にあげた例(本書四三ぺージ)で、中国の天子から「朝貢」をもってきた、と書かれていた。これと同じく、天皇家の方が“得た”ものは、『記・紀』ではすべて「献上」なのである。だから、このような大義名分上のイデオロギー用語を根拠にして、両者間の実際の上・下関係を論ずることはできない。
 (二)だから、要は「熊曾建→小碓命」という方向で、名前(日本武尊)が贈られたのである。
 (三)このことは、『記・紀』全体の授号の定式(上位者→下位者)から見ると、この説話は“熊曾建(川上梟帥)が上位者であり、小碓命(日本武尊)が下位者である”という上・下関係を背景にして成立していることとなる。

 これは、従来千有余年の天皇家至上主義の「常識」から見れば、まことに驚倒すべき“非常識”であろう。しかし、“古代説話は古代通念の中で理解する” ーーこれを、わたしは自明の真理と考える。そしてこの場合の「古代通念」とは、『記・紀』の示すところ、“名前は上位者から下位者に与える”という不動の命題にあった。
 『記・紀』だけではない。中国の天子にとって、夷蛮の王に「称号を与える」ことは、その重要な権限だった。このことは、「漢の委奴いどの国王」という志賀島の金印や「親魏倭王」という卑弥呼への称号授与の例に見る通りだ。そして他の何人にも天子はこの権限を許さなかった。『三国志』によると、遼東の公孫淵(こうそんえん)がみずから「百官を置い」たとき、魏の明帝は断乎、これを討伐したのである。
 これと同じ例は『記・紀』自身の中にさえ見出される。菟狭(うさ)の川上にいた「鼻垂はなたらし」は、「妄みだりに名号を仮した(勝手に名前を名乗り、授けた)」として討伐されたのである(景行紀十二年項 ーーこの点、のちに再びのべる)。
 このような「古代権力社会における厳格な授号の論理」から見ると、わたしは「日本武尊」の名号問題も、この論理にもとづいて考えるほかはない。
 第二に注目すべき点は、『古事記』によると、この熊曾建が兄弟で統治している、と見られることだ(『書紀』についてはのちにのべる)。
 (天皇)「西の方に熊曾建二人有り。・・・」・・・・爾に熊曾建兄弟二人、其の嬢子(おとめを)見感(みめ)でて・・・。

 すなわち、「兄弟統治」の形で描かれているのである。先の熊曾建末期(まつご)の言葉にも、「吾二人」という言葉が再度にわたって出現していた。

 

 九州王朝との比較

 以上の説話内容を、前著『失われた九州王朝』で明らかにされた九州王朝の史実と対比してみよう。
 まず、九州王朝が一方では、中国の天子に対して「臣」と称しながら、他方では、国内に対して「仮授の権(称号や名前を授ける権限)」を行使していたことは明らかである。
 窃(ひそか)に自ら開府儀同三司を仮し、其の余は成(み)仮授して、以て忠節を勧む。〈倭王武の上表文、『宋書』倭国伝〉
 この点、熊曾建が小碓命に称号(「ヤマトタケル」は、ヤマトの国で一番強い者の意)を贈った、とされ、「仮授の権」の所持者として描かれていることと、よく相応しているのである。
 つぎに兄弟統治の件。前著『失われた九州王朝』(朝日文庫)にのべたように、九州王朝は「兄弟執政」をその政治形態の一つの特徴としていた。卑弥呼が「男弟」と共に統治していたことは有名だ。
 (1) 名づけて卑弥呼と曰う。・・・男弟有り、佐(たす)けて国を治む。〈『三国志』魏志倭人伝〉
 (2) (イ妥国の使者言う)「イ妥王は天を以てと為し、日を以てと為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺(かふ)して坐し、日出ずれば便(すなわ)ち理務を停(とど)め、云う『我が弟に委ねん』と」〈『隋書』イ妥国伝〉
 (3) 戊寅(五五八年)、兄弟と改元す。〈『海東諸国記』〉

 (1)は、卑弥呼の「姉弟統治」として著名の一節である。
 (2)は、九州王朝七世紀前半、「日出ずる処の天子」の自称で有名な多利思北孤(タリシホコ)の使者の言である。兄は未明の宗教的祭祀権、弟が昼の行政権をそれぞれ分担しているさまが描かれている。
 (3)は、前著『失われた九州王朝』で明らかにした「九州年号」の一つである(本書三五五〜三五八ぺージ)。
 このような「兄弟執政」の点もまた、九州王朝は熊襲説話の所伝とよく一致しているのである。

 

 暗殺の公理

 以上によって、(一)地理的位置(北九州博多湾岸)(二)大義名分(授号権)(三)統治形態(兄弟執政)の三点とも、中国史書の中から分析された史実としての九州王朝と、『記・紀』の所伝の熊襲の性格と、両者一致していることがハッキリした
 なお、問題点をさらに立ち入って追跡しよう。
 この説話が「日本武尊の熊襲征伐」と呼ばれることがしばしばある。わたしのように戦前に小学校を出た者には、ことに教科書で“おなじみ”の表現だ。しかし、これは「神功皇后の三韓征伐」と同じく、説話内容の事実からはなれた、いかにも軍国主義好みの“誇大宣伝”だ。天皇家の皇后や皇子に、やたらといさましい「征伐」を行なわせたいのだ。
 ことにこの日本武尊の場合、単独でのりこんで「刺殺」したのであるから、“遠征軍を派遣して攻略する”意の「征伐」とは、およそかけはなれている。要するに「熊襲の首長暗殺譚」なのである。
 さて、「暗殺」のさいの「公理」はつぎのようだ。
 AがBを「暗殺」するとは、第一にAの実力はBよりであり、第二に、したがってAは通常の方法(大軍派遣)による攻撃を、強力なるBに対してなしえない。そういうときに行なわれる行為ではないだろうか。つまり「征伐」と「暗殺」とは、その意味では反対語なのである。
 いいかえれば、この段階では、天皇家は実力においていまだ熊襲に及ばなかったのである。つぎの段階の仲哀でさえ、遠征軍を主導したけれども、勝つことができず、みずから「敗死」してしまったのである。すなわち、筑紫の九州王朝は近畿の天皇家に対して、大義名分をもつとともに、軍事力においてもまた、まさっていたのである。
 さらに、暗殺に関する第二の「公理」がある。“暗殺によって大義名分は移動しない”。これをわたしは自明の真理だと考える。すなわち、
 (一)この暗殺によって大義名分は近畿天皇家(近畿の強大豪族)に移動しはしなかった。つまり、依然として、この後も、客観的には大義名分は熊襲の側にとどまっていた。
 (二)ただ、この伝承は“この事件によって大義名分は天皇家側に移ったのだ”と、天皇家側が主観的に主張しようとしている説話なのである。そこに、瀕死の熊曾建に苦しい「断末魔の授号」を行なわせねばならなかった、この説話の苦肉の秘密がある。


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