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『「邪馬台国」はなかった』


『盗まれた神話』 ーー記・紀の秘密(ミネルヴァ書房
2010年3月刊行 古代史コレクション3

結び 真実の面前にて

古田武彦

 未証みしょう説話

 『記・紀』の神話や説話は史実だろうか? いいかえれば史実をその中核にもっているものなのだろうか?
 この問いに答えるために、わたしはここに「未証説話」(いまだ史実として証明されない説話)という概念を新たに提起したいと思う。
 近年の人類学的研究者が次々と報告しているように、アフリカ各地には神話と説話の厖大な体系が眠っている。いや“眠っている”ように見えるのは、外からの目で見たからにすぎぬであろう。その大陸の内部では各部族の中で、それぞれの神話・説話の伝承体系は、“輝けるわれらが歴史”として生き生きと伝承され、今に生きつ、づけているのだ。
 では、これらが本当にその部族の歴史、つまり史実か? と問えば、“答える”ことはできないであろう。なぜなら、その真否を裏づけるべき、客観的な対照史料、つまり基準尺がないからである。
 だからといって、これらをすべて「根拠のない厖大な作り話集」として片づけるならば、それは外なる軽薄な文明人たちの思いあがりにすぎないであろう。この本のはじめに書いた“アレックス・ヘイリー氏の奇遇”のように、彼等の伝承は、まことに“簡明なる史実”だったことが劇的に立証されたのであるから。
 だが、それ以前やそれ以外の伝承も、それと同じく史実であるか? そう問いただすならば、誰人もふたたび沈黙するほかはないであろう。なぜなら、それを判定すべき基準尺が欠如しているのであるから。 ーーこのような説話をわたしは今、「未証説話」と呼ぶのである。
 もしだれかがこれに対し、“それは史実でない”というなら、その判定は正しくない。基準尺なしに「 ーーでない」というような判定は、 ーー恣意的な独断でない限りーー できはしないからだ。同様に“史実である”という判定もまた不可能である。なぜなら、“一つの事例においては正しくても、他の場合も同じくそうか” ーーこの間いに対しては、学問的客観性を厳密に保持しようとすれは、“答える”ことはできないのだから。
 このような“史実か否か、不分明のまま”の世界各地の説話群、それらをわたしは「未証説話」として規定するのである。
 『記・紀』も、本質において、その例外ではない。そのような「未証説話群」の一つ、つまり、“one of them”としてとらえること、それが問題の核心である。すなわち、『記・紀』もまた「未証説話の宝庫」の一つなのだ。しかし、『記・紀』の場合、別に留意すべき一点がある。
 それは“権力者の庭の中で文字に書かれた”という事情だ。むろん、先の世界の各地の「未証説話」群の場合にも、“そこに権力の介入はなかった”とはいえないであろう。なぜなら、わたしたちいわゆる「文明人」が、その地をたとえば「未開人の部落」と呼んだとしても、その人々は、実は何千年、何万年もの歴史、権力争奪のなまなましい時の流れを必ず背景にもって現在に至っているのだ。けっして太古の「原始共同体」が、タイム・マシンによって凍結されて現在に突如出現したわけではないのであるから。
 けれども“広大な領域を支配する権力者ほど広大な介入を必要とし”、そのとき“文字がよき道具となる” ーーこの事実、少なくともその可能性をわたしたちは否定することはできない。
 そのような“未証説話における、権力の介入”、この興味深い問題の探究に対しても、『記・紀』はまた「無限の宝庫」を提供しているのである。
 なぜなら、一般に未証説話の場合、比較すべき客観的な基準尺がないのであるから、もしその中に「権力の介入」が実際に行なわれていたとしても、そのこと自身を現在において証明すべき手段がないのである。
 この点、『記紀』は ーー最初にのべた通りーー 稀有の好条件に恵まれている。なぜなら、中同という世界史上まれに見る記録文明圏が隣接し、それと定期的な通交を行なってきたからである。したがってその中国側史料(さらに朝鮮半島側史料)にあらわれた“日本側の動静”と比較すると、『記・紀』という未証説話の真偽が判定できるのである。
 そしてその結果、一方で、本来の天皇家伝承の中の熊襲がまさに中国側史料の「倭国」と一致することが明らかとなってきた。さらに「神武東征」説話も、その行路の戦闘と不戦闘の落差をなす一線は、現代の考古学的出土物分布状況と、よく適合していた。すなわちこの場合、未証説話はまさに史的事実と対応していたのである。
 ところが他方、「権力の介入」もまた、赤裸々に明らかとなってきた。すなわち、筑紫を原点とする九州王朝の歴史を大はばに「盗用」していたこと、それが立証されてきたのである。それは神話段階だけではない。九州王朝の発展史や朝鮮半島側との交渉史、その各段階にわたって他王朝の歴史を切り取ってあたかも自己の歴史であるかのことくに、見せかけていた。 ーーそれが明白となったのである。
 またこれらの点において一見“純粋”に見えた『古事記』も、神話段階においては“大きな盗用”を犯していたことが明らかとなってきた。しかもこの場合、『日本書紀』とは異なり、挿入した原史書(「出雲古事記」)の題名すらカットされていたのである。
 このように『記・紀』は、一に未証説話の「史実との対応」という性格、二に権力の介入による「改変」という性格、この二性格を、ともにあわせもっていることが判明してきたのである。

 

 天国以前

 つぎの問題に移ろう。それは“「天国あまくに」の前は、天(あま)つ神たちはどこにいたのか?”という問いだ。これはこの本を読み終った人の必ず抱く疑問であろう。人間の問う力に際限のない限り、これは至当の問いであるといえよう。しかし、本書の採用した方法論による限り、率直にいって、答えることは不可能だ、というほかはないであろう。
 『記・紀』では、“「天国」の天つ神たちは、なぜ、筑紫ヘニニギノ命を派遣したか?” この問いがすべての出発点となっている。いわば「天国」は“永遠の原域”であって、“天つ神たちは、どこから「天国」へ来たか? ”そのような発想は、『記・紀』には存在しないのである。
 この「天国」が実は「海人あま国」であること、それはこれが一定の海上領域である点からも、容易に想像できるところであろう。さすれば、「天つ神」はすなわち「海人つ神」となろう。『記・紀』神話の杜なる領域は、「天国」を中心とする対馬海流文明圏だ。では、この海上領域に割拠していた海人族は、はじめからそこにいたのか、それともどこかからやってきたのだろうか?
 このような問いに対する回答、それは思うに本書の用いた方法とは異なる、別の方法にまたねばならぬであろう。たとえば考古学的方法、たとえば人類学的方法、たとえば比較神話学的方法等々だ。また、中国の史書、『魏略』の文面とされる「其の旧語を聞くに、自ら太伯の後と謂う」なども、その見地からかえりみられるべきであろう。要するに、それは本書の任務ではない(なお、日本列島には倭人と並んで東[魚是]人(とうていじん)がいて、二大青銅器圏を形造っていた。この点については古田「銅鐸人の発見」、『歴史と人物』一九七四年九月号、第15回朝日ゼミナール『古代史のナゾに挑む』の“「邪馬台国」はなかった ーーその後”参照)。この問題については、意想外の新しき問題が発展してきたので、稿を改めてしたためたい。

 

 あやうかった真実

 最後にどうしてもいわねばならぬこと。それは『記・紀』という二種類の本がわたしたちの手に残されていた、という、その“幸運”についてだ。
 『日本書紀』は天皇家の正史、つまり公認の史書であった。いわば“検定ずみの教科書”だったのである。これに対し、『古事記』はもとは同じ天皇の“息のかかった”史書ではあったものの、結局において、非公認となって闇に葬り去られていた。いわば「権力の検定」によって、正史『続日本紀』への登録すら拒否された史書なのである。
 その検定不合格の史書たる『古事記』がいかにして十四世紀(南北朝期)まで生きのび、その時点で浮上しえたのか。その数奇なる流転の経緯(いきさつ)は、すでに遠き時間の闇の中に隠されている。
 しかし、もしこの「浮上」がなかったとしたら、・・・・必然、権力による検定済みの『日本書紀』だけが、わたしたちの目の前に古代の史書としておかれていただろう。そのとき、本書の論証を貫く方法論は、その有効性を十分に発揮することは到底できなかったであろう。すなわち、『日本書紀』が他王朝の史書を「盗用」していたこと、そしてその遠く厖大な発展史を、あたかも自己の歴史であるかのごとく見せかけていたこと、その途方もないやり口は、ほとんど「完全犯罪」と化していたかもしれないのである。
 思うてここに至れば、権力の介入と、それを生きのびた真実のあやうさに、わたしはいつも慄然、夏なお寒きものを肌に覚えざるをえない。

 補章 神話と史実の結び目


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