邪馬台国論争は終った に戻る
『続・邪馬台国のすべて』−ゼミナール−朝日新聞社
古田武彦
問
先ほどから「邪馬壹(いち)国」とおっしやっていましたけれども、ヤマイ国のことですか。
古田
それは邪馬台(たい)国というのと同じなんで、あれはヤマト国ですね。ふつう多くの論者は、近畿大和(やまと)とか、筑後山門(やまと)ですね。だけど、一般には、ヤマタイ国と読んでおります。あれと同じなんです。私もだいぶ考えたんですけれども、結局、ヤマイチ国と読んでいこう、と考えました。この字面の読みの問題については、『「邪馬台国」はなかった』(第五章)に書きましたけれども、本来ならヤマイじゃなくて、ヤマウィ(邪馬倭)ということになりますが、発音しにくいですね。
問
ヤマイチ国は存在しない名前ではないかと思うので、ちょっと違和感を感じますが。
古田
それはそのとおりです。ですからそうおっしゃる方がかりにヤマウィ(倭)国と発音されるとしても、またヤマイッ(壹)国と発音されるとしても、本当に“魏の時代通りの発音”となるとなかなか面倒です。ですから発音しやすいようにヤマイチ国でいいではないか、と思ったのです。『邪馬壹国の論理』の表紙裏にも書きましたが、要するに発音の便宜上の問題です。
問
最後のお話の、奴国(なこく)というのは、どこにあるということになるのですか。
古田
これは『「邪馬台国」はなかった』をお読みいただければわかるんですが ーーわたしは「ヌ」または「ノ」と読みます。糸島郡ですね。ここは昔は糸島水道で二つに分かれておりまして、水道の北のほうは志摩郡です。問題は、水道から南のほうですね。これを現在まとめて、原田さんなんかは伊都国といっておられる。原田さんのみならず、江戸時代からそういっているわけです。しかし伊都国というのは戸数が「千余戸」ですね、千余戸であんなにおびただしい遺物群が出てくるのは、考えてみればおかしいわけです。ですから『「邪馬台国」はなかった』の解読では、糸島水道寄りの、「一大率」といった、倭国の官庁や軍団所在地のところが伊都国であって、あと(南の平野部)は、すべて奴国(ぬこく)です。これは「ぬこく」と私は読むんです。奴国は「二万余戸」ですからね。そのへんのところは私の本を見ていただいたらよろしゅうございます。
問
今日の先生のお話の最後の部分ですが、これはこの会場にも生徒が来ておりますが、朝日カルチャー.センター(東京・新宿、住友ビル)で古代史の講義を聞いているんです。弥生時代から古墳時代を甘粕健先生が担当しておられますが、甘粕先生は先生よりもっとたくさんの史料で、たとえばガラスの鋳型、あるいは農具で最も必要な石の道具、これらをきょうの先生のお話のような図面にもっと重ねられて、淡々と伊都国、奴国、末盧国というようなことでふれられているんです。この説は、先生が初めて出されたのか。甘粕先生なんか膨大な史料で、地域をもっと狭めて、何キロあたりでどの遺跡がどうだということを論証されています。その点について、先生は“初めて”ということであるか、あるいは“大勢の人がとなえているが、私はこうだ”というふうにお考えなのですか。
古田
ちょっと伺いますが、甘粕さんは博多湾岸が卑弥呼の都の地であるとおっしゃっておられるんですか。
問
それは奴国という形で、このへん一帯が、ということで、遺跡を中心にこのような形だということをいっておられます。
古田
それは、甘粕さんだけじゃないんです。それはもっと前の、中山平次郎さんとか、梅原末治さんとか、そういう方々はみんないっておられるわけです。甘粕さんはその方々からすれば、ずっとあとの世代になられるわけです。とくに甘粕さんの新しい説というわけじゃないんです。
ただ問題は、次の一点です。あそこが奴国(なこく)だというのは、考古学の問題じゃないんですよ。あそこに出てくる遺跡や遺物に、奴国と書いてあるわけじゃないんです。ところがそれを奴国と考古学者がいったところに、重大な問題が出てきたと思うんです。決して簡単な名前だけの問題じゃないんです。
邪馬壹国 ーーあの人たちのいう邪馬台国ーは、博多湾岸ではないのだ、という“論議”を含んでいるのです。事実、小林行雄さんによって、筑後山門郡なんて何も出てこないじゃないかという、それはそれとして一つの筋の通った論文が出ています(「邪馬台国の所在論について」昭27.6、『古墳時代の研究』所収)。また原田大六さんが『邪馬台国論争』(昭44.5)で明快に説明されたものがあります。それは、いまの糸島郡と博多湾岸のあたり(その他に唐津・立岩等)に鏡が集中しているじゃないかということ、それにくらべて筑後山門郡なんか問題じゃないんじゃないか。だから筑後説なんてけしからん、と口をきわめていっておられるわけです。この小林さんや原田さんたちは三世紀の女王国を近畿へ持っていかれるわけです。それで卑弥呼のもらった鏡については、三角縁神獣鏡へ持っていかれるわけです。糸島郡と共に、いわゆる「奴国」に非常にすぐれたものが出ている。九州内部には、これら以上の中心地はありえない。これが基本認識だったのです。「奴国」という言葉をのけて、ここ(博多湾岸)に銅矛・銅戈その他の中心地がある、という認識自体は、中山平次郎さんや梅原末治さん以来、考古学者はみんな知っていることなんです。京大の調査団が須玖遺跡に行ってから、ことに非常にはっきりしたことなんです(島田貞彦・梅原末治「筑前須玖史前遺跡の研究」〈京都大学文学部考古学研究報告一一〉昭5)。ただそれを「奴国」だというのは、考古学からくるんじゃなくて、新井白石や宣長の判断からきているんです。それを考古学者は意識していなかったわけです。そこに“邪馬台国はわからない”という問題が出てきたんです。いままで甘粕さんの書かれたものは拝見しておりますけれども、私以前に卑弥呼のいた女王国の中心が博多湾岸だという説はなかったと思います。
問
『隋書』に“『魏志』のいわゆる邪馬臺”とあるんですが、これはどうお考えでしょうか。
古田
この問題は私かつてだいぶ論じたんですが、時間の関係がありますので、毎日新聞社から出ている『邪馬臺国の常識』(松本清張編、昭49・11)をごらんください。その中で私は「邪馬壹国の史料批判」という題で、かなりの分量書いています。一言にしていえば、唐宋代においては、古代史書を“手直し”して、それを“『魏志』に曰く”といった形で載せるという慣習が一般に行われていたのです。一例をあげますと、南史で発見したんですが、『三国志』倭人伝を引きながら、「韓国を歴(ふ)るに」を「朝鮮国を歴るに」と直し、『通典』では、後漢書倭伝の「会稽東冶(かいけいとうや)の東に在り」を「会稽[門/虫]江(びんこう)の東に在り」と“手直し”して書いてあるのです。これはその時代の用字(地名)で原文を“書き直して”書くという手法が一般に行われた。これは私の論文を見ていただければ幸いです。なお、一言、付記させていただきます。講演中に、「素人」という表現がしばしば出てきますが、これは“一介(いっかい)の人間として、真実を知ろうとする者”を意味する、わたしの言葉です。お耳ざわりの点、ご容赦くださいますよう。(50.10.24)
[門/虫](びん)江の[門/虫]は、門の中に虫。JIS第三水準ユニコード95A9
右の講演以後において、ここに述べた「卑弥呼のもらった鏡」の問題について、わたしの考え方を前進させ、問題の概念をさらにハッキリさせることができましたので、左に簡明に述べさせていただきます。
第一は、「禅譲鏡の理論」です。講演では、「在庫鏡」という言葉を使いました。これはこれで実体を平明にあらわす、ありていな表現だ、と思っていますが、この言葉では“「漢→魏」という国号の変更時点(二二〇年)を超えて在庫しつづけ、新王朝(魏)の所有となっていた鏡”という大義名分の問題が表現されていません。
そこで、新たに「禅譲鏡」という理念を提出したいのです。意味するところは、もちろん、“「漢→魏」の禅譲にともなって、被禅譲王朝(魏)にゆずりわたされた鏡”という意味です。実体は同じ「漢鏡」でありながら“魏朝の所有下におかれることとなった「漢鏡」”ということです。「卑弥呼のもらった銅鏡」の実体は、この「禅譲鏡」であった ーーこれがわたしの理論です。
第二は、「好物鏡の理論」です。魏の明帝が詔書の中で、汝に「好物」を与える、といっている(賜二汝好物一)、その種々の品物の中で、抜群の量をもっているものが、「銅鏡百枚」です。ですから、「好物」の中の中枢に「銅鏡」のあったことは、当然です。さて、問題はこのような表現の出てくる背景、つまり“魏・倭間の認識”です。中国側は“倭国は鏡が好きだ”という認識をもっている。これが第一です。倭国側も“そういわれて当然だ”と思っている。これが第二です。この“二つの認識”が右の一句の中にふくまれている、そう考えるのが自然ではないでしょうか。
では、そのような“相互認識”はいつ、成立したのでしょうか。“たまたま、景初二年の卑弥呼の使が「われわれは鏡が好きです」といったら、その「鏡」を与え、詔書にも「好物」と書いた”このようなケースもありえないことではありませんが、ただそれだけの背景と見ることは、無理です。なぜなら、それが倭国の使の発言にもとづく事新しい認識なら、そのような事情が書かれたはずです。たとえば「汝の望む所に依り」といった文句です。それはない。ないだけでなく“この認識は、お互いの間には自明のことだ”といった、自然なひびき、それがこの「汝に好物を賜う」という一句のひびきにはこめられています。ですからやはり、卑弥呼以前において、中国と倭国との間にすでに“鏡の授与関係の周知の歴史”があってこそ、右の一句は自然だ、と考えられます。
とすると、その“過去の歴史”において“授与されてきた鏡”とは、いったいどんな鏡でしょうか。それは当然「漢鏡」です。なぜなら、景初二年(二三八年)以前に「魏 ーー 倭」間の交渉があったとは考えられません。もしあれば、当然『三国志』に書かれているはずですから。とすれぱ、必然にその授与の歴史は、漢代のこととなります。これらの、漢代に「漢→倭」間に授与されていた漢鏡のことを、先の「禅譲鏡」と区別して、いま「好物鏡」と名づけます。さて、この「好物鏡」は、当然日本列島では、弥生遺跡から出土するはずです。後漢末(一三〇年)以前のことですから。繰り返しますが、これは明白に「漢鏡」です。では、弥生遺跡中、早い時期、つまり一〜二世紀の遺跡から漢鏡がかなり多数出土する ーーそんな地帯が日本列島にあるでしょうか。あります。それは、やはり圧倒的に九州北岸の筑前中域(糸島郡と博多湾岸)です(前出六〇ぺージ第6表参照)。こうしてみると、ここでも、まがうことなく倭国の中心(都)はこの地帯です。疑う余地はありません。これが「好物鏡の理論」です。
以上、「禅譲鏡」と「好物鏡」の二つの理論、いずれも「漢→魏」代にわたる、倭国の中心が多湾岸とその周辺山地(糸島郡を隣接聖地とする)であることを明確に指示しているのです。
※ ※
次に、この「邪馬台国のすべて」第一部(四二〜四四ぺージ)に、佐伯有清さんがわたしの説に対する批判を二点あげておられますので、論の“かみ合わせ”として、お答えしたいと思います。
第一は、現存最古の『三国志』南宋本(紹興本・紹煕本)が成立する以前に、「臺→壹」のあやまりが起こったのではないか、という指摘です。つまり、十二世紀に成立したのが南宋本だから、原本(三世紀)との間に約九世紀の期間がある。この間にあやまりなし、としがたい、という批判です。たしかにその通りです。わたしもそう思います。そう思ったからこそ、「臺と壹」の全調査を行ったのです。“もし「原著者 ーー代々の書写者ーー 代々の版刻者」の中のいずれかの段階で、「臺」と「壹」とをまぎらわしく書いていた人があったとしたら、他の個所にもそのようなあやまりが現れているにちがいない”そう思ったのです。
ところが、案に相違して(調査前は“おそらく少しくらいはあやまりがあるのではないか”と思っていたのです)ない。あやまりと認識しうるものがなかったのです。“これでは、安易に「臺→壹」の原文改定はやれないぞ” ーーそう思ったのがわたしの研究の立脚点です。ですから佐伯さんのいまの疑いは実はわたしの過去の疑いそのものなのです。ですから、佐伯さんがいまにしてなお、このような疑いに執着されるのなら ーーそれはもちろん、結構なことですーー その実証をあげられるべきです。もう現在の研究水準では、“南宋本以前にあやまりが起きたのでは?”というアイデアだけでは、学問的意義をもちえないこと、それは「邪馬台国」研究史の大家たる佐伯さんの、よくご存知のところではないでしょうか。
第二に、佐伯さんは“中国外の事物としての「臺」はあやまりうるのではないか”という論点を出しておられます。これはすでに述べた問題です(「邪馬壹国の諸問題 ーー尾崎雄二郎・牧健二氏に答う」、『邪馬壹国の論理』昭50・10所収)が、いま簡明に二箇条に集約してお答えしましょう。
(一)右の疑いも、後代研究者(たとえば佐伯さん)の“一つのアイデア”に過ぎません。ですから“本当にそうかどうか”という実証的検証こそ研究者の生命です。すなわち、
(1) 三国志において夷蛮伝(烏丸・鮮卑・東夷伝)には、(他の帝紀・列伝以上に)一般的にあやまりが多いか否か。
(2) ことに「臺」と「壹」の錯誤が(他の帝紀・列伝とは異なって)認められるか否か。
右について佐伯さんは何の実証も出しておられません。ことに今の場合、(2) こそ問題の急所です。この点の実証的提示こそ、これまた研究者の生命です。
ところが、史料事実において、わたしが『「邪馬台国」はなかった』にしめしたように、全くその事実(夷蛮伝における「臺と壹」の錯誤 ーー 問題の「邪馬壹国」「壹與」は除く)は認められなかったのです。わたしは全三国志の中でも、ことにこの一点に注意を集中しましたが、ついにその事実のないことを確認するほかありませんでした。
(二)このさい、注目すべき事例が倭人伝に出現しています。
(1) 壹拝(卑弥呼、正始四年の貢献)
(2) 臺に詣る(壹與貢献)
これはいずれも“中国側の事物”であり、佐伯さんに従えば“見まちがいにくい”事例です。また前代の史書と対比しても、 (1)は「壹朝」「壹反」「壹至」といった夷蛮貢献の事例(いずれも漢書 ーー第一書三一五べージ参照)の一つですから、決して「臺拝」のまちがいではありません。いわんや (2)が「壹に詣る」のまちがいでないことは明白です。
してみると、代々の書写者・版刻者は、これらの個所でまさに自己の書写原本・版刻原本における「壹」や「臺」の筆癖や字形を正しく確認できていたはずです。そうすると、隣接して三回も出てくる「壹與」の「壹」についても、見まちがう可能性は、まずありません。ということは、同じ倭人伝中の中心国たる「邪馬壹国」についても、見まちがい得ない ーー これが「書写・版刻上の道理」です。“三国志全体の中での比重”ならば、ともかく“全倭人伝中の比重”において、「邪馬壹国」が最重要クラスの固有名詞であること、それを疑いうる人はありませんでしょうから。このようにして、この論点についての佐伯さんの疑いもその妥当性をもつことは結局むつかしい。わたしにはそう思われるのですが、どうでしょうか。
以上のように ーーことに先に述べた「魏臺」の事例は決定的です ーー 『三国志』に関する限り、「邪馬臺国」の表記は決してあり得ないことがハッキリしたいま、専門的学者も、従来の「邪馬臺国」(邪馬台国)一点張りの表記慣例を、ようやく改められるべきときがきた ーーわたしにはそう思われるのですが、この点について佐伯さんのお答えがお聞きしたいものです。
※ ※
次にこの一連の講演の中で、伊藤清司さんが、大意左のように批判してくださっています。“なお、最近古田氏が、『邪馬壹国の論理』という本の中で、『海賦』の詩を取りあげられて、その中の、「若しそれ穢(わい)を負うて深きに臨み」云々という文章を問題とされ、これは倭の持衰(じさい)のことをうたったものであるという解釈をされ、この『海賦』の詩は持衰を乗せて中国に渡った倭国の船のことをうたったとされていますが、沖に船を漕ぎ出す人びとが、斎戒して身の安全を祈ることはかつて普遍的な習俗であって、私は同氏の倭の持衰説は支持できないと思います”(本書一七六ぺージ).
これに対するわたしの立場は左のようです。伊藤さんは航海者が「斎戒して身の安全を祈る」ことを普遍的な習俗だ、といっておられますが、この原文の「穢を負う」というのは、ただ“斎戒しない”ことを意味するものではありません。“頭を梳らず、[虫幾]蝨を去らず、衣服垢汚」の「一人」の者を船に乗せる、という倭人の「持衰」習俗をしめしている、と私は思います。もし、船が暴風雨の災害にあったら、「其の持衰謹まず」つまり「肉を食わず、婦人を近づけず」といったタブーを破ったもの、として“殺される”というのが、倭国の「持衰」です。この点、『海賦』にも、「誓いを虚しうして祈りを愆(あやま)てば」難船の目にあう、といって、同一習俗の存在を指示しています。決して、単に航海時の「斎戒」といった、普遍的な習俗程度にとどまってはいないのです(「誓いを虚しうして」は“たてた誓いをホゴにして”の意ですが、このさいの航海者が“斎戒せず”に来たのなら、この表現はナンセンスです。またここは“深海航行”で、中国行きとは限りません)
[虫幾]は、JIS4水準、ユニコード87E3
では、この「持衰」自身も、東アジア一般の普遍的習俗だったのでしょうか。そうは思えませんなぜなら、陳寿がこれを「倭人の独特の習俗」として倭人伝だけに特記しているからです。だからそれは、少なくとも三世紀西晋朝の朝廷内の官人たちの共通の認識を反映しているはずです。そして『海賦』の作者、木華もまた、陳寿と同一世紀、同一朝廷内の官人だったのです。ですから、両者の叙述を同一視することは、決して史料批判上、恣意ではありません。むしろ必然です。
また「三千里」問題、「遍荒、王命」問題など、わたしは『海賦』のニュースソース、倭人説の裏づけとして提出しましたが、これについて伊藤さんはふれておられないようです。またもっとも明白な事実、それは問題の「裸国・黒歯国」記事が、倭人伝と『海賦』の両者に共通して表れていることです。しかも倭人伝の場合「裸国(らこく)・黒歯(こくし)国」は、倭国の邪馬壹国を基点として、その方角や航程が記されています。つまり、“倭人の報告によるもの”という形です。それなのに、陳寿と同世紀、同朝廷の官人たる木華の同じ二国記述を“倭人から切り離して”論ずることは、史料批判の上からいって、かえって無理、不自然ではないでしょうか。学界は、「三世紀倭人の新史料」として『海賦』を認めることに“躊躇(ちゅうちょ)”もしくは“無視”をしめしていますが、わたしはこの問題についても、正面から大いに論議の起こることを期待します。そしてそのためにも、伊藤清司さんの今回のご発言に感謝します。その気持ちをこめつつ、失礼ながら反批判を述べさせていただきました(なお、この問題に対するアメリカ考古学界からの提議については、古田訳著『倭人も太平洋を渡った』創世記社、昭52年4月刊、参照)。
※ ※
なお、先回の朝日ゼミ、ナールで、原田大六さんが講演後の質疑応答で、質問者からわたしの説について聞かれ、次のように答えておられます。
「それは、時間を百時間ぐらいくれますと、大反論をします。ただ、一言でいうと、むちゃです。奈良時代に、恰土城というものがちゃんとわかっています。それは、いま発掘をやっている東端で、伊都国の境界線です。そういうことが、はっきりわかっているにもかかわらず、あそこを奴国だというのは、ちょっとひどい。だけど、これはたいへんな論争になります。きょうは、邪馬台国論争にまいったのではありません。これでごかんべん願いたいと思います」(『古代日本の権力者』一七四べージ、朝日新聞社、昭50・8)。
これに対し、まずわたしの立場をハッキリさせます。
(一)「伊都国」は、もとの糸島水道(恰土郡と斯馬郡との間にあり、唐津湾側と博多湾側とを通ずる水路)沿いの地帯にある、「千余戸」の小領域です。これに対し、糸島水道と雷山との間の平野部は、「奴(ヌあるいはノ)国」であり、「二万余戸」の大領域です。
(二)ですから、糸島水道の東端に当たる所が「恰土城」であって、何の不思議もありません。事実、「伊都神社」は、糸島水道沿いの東側に当たる周船寺にあり、ここは恰土城の西麓です(一方、『和名抄』では、糸島水道と雷山との間の平野部に長野〈奈加乃〉・大野〈於保乃〉があります)。
(三)原田氏の発掘された、数々のすばらしい出土物に“「伊都国」という文字が刻んであった”わけではありません。ですから、それらが“伊都国王に属する”というのは、あくまで“後代の研究者(たとえば原田氏)の解釈”です。
これに対し、わたしはそれらこそ、まぎれもなく“邪馬壹国の各代(倭国中心王朝)の王や女王たちに直接属するもの”と考えています(奴国には長官と副官がいるだけで、「奴国王」など存在しません。女王国直属の、隣接地帯です)。現在の糸島郡は“倭国の中心権力(卑弥呼たち)にとっての聖地”つまり原田さんもいわれる「太陽信仰の聖地」なのです。ですから、もしかりにそこにたとえば女王(卑弥呼や壹與)たちの墓や祭祀遺跡があったとしても、決して不思議ではないのです ーー同じく博多湾岸の隣接地帯、海をへだてた志賀島に博多湾岸の王者(邪馬壹国の先代)の墓があったように。
(四)右の詳細について、なお論ずべき幾多の新しい論点があります。原田さんのお一言葉に応じて、いつ、なんどきなりとも、徹底した討論に応じさせていただきます(直接の公開討論でも、紙上の論戦でも、そのいずれでも結構です)。それは、尊敬すべき先達に対する当然の義務だ、とわたしには思われますから。
※ ※
なお、次にハッキリさせていただきたいことがあります。それは、一昨年(昭49.11.1)朝日ゼミナールで行われた「講演」で、佐原真さんはわたしの説に対する「批判」を述べられました(「消えた銅鐸」として、『続・日本古代史の謎』に収録)。それは次のようです。
“古田武彦さんは、「瀬戸内海領域は銅鐸圏に属していたが、やがて異質の武器形祭祀圏に属するようになった」と想像しています(『盗まれた神話』)。しかし、銅鐸が武器形祭器と同時期に製作され、しかも武器形祭器の製作のほうが早く終わって、銅鐸製作はさらにあとまで続くことは証明ずみであります”(『続・日本古代史の謎』第一刷、一一五ページ)。
けれども実は、右のわたしの本からの引用文には、一番肝心の記載部(注記)が削除されています。「やがて(その先後、断絶・共存の具体的関係は別としても)異質の・・・」というのが、わたしの原文です(『盗まれた神話』二七九ぺージ)。右の( )内をふくめると、当然佐原さんの「批判」は“見当はずれ”とならざるを得ません。なぜなら、わたしは佐原さんのような“誤解”を恐れて特に“両者(銅鐸と武器形祭器)の先後関係等は保留する”と明記しているのですから。
最後に、縄文期の倭人が周代(紀元前約一〇〇〇年)に貢献していた、という問題が歴史事実としてクローズアップしてきました。この点、後日詳論したいと思います(昭52・1・4、NHKスタジオ102 で発表)。(52.1.4)
邪馬壹国の論理性「邪馬台国」論者の反応について(『邪馬一国の証明』角川文庫 絶版)
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