2013年12月10日

古田史学会報

119号

1、続・古田史学の真実
    切言
   古田武彦

2、観世音寺考
観世音寺と観音寺
  古賀達也

3、『管子』における里数値
  古谷弘美

4、すり替えられた九州王朝
  の南方諸島支配
  正木裕

5,「天朝」と「本朝」
「大伴部博麻」を顕彰する「持統天皇」の「詔」からの解析
  阿部周一

6、“「実地踏査」であることを踏まえた『倭人伝』の行程について“を読んで
  中村通敏

7,文字史料による「評」論
「評制」の施行時期について
  古賀達也

8.トラベル・レポート --
讃岐への史跡チョイ巡り
  萩野秀公

9.「春過ぎて夏来るらし」考
  正木裕

10,独楽の記紀
なぜ、「熊曾国」なのか
  西井健一郎

 

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「墨子」と「呂氏春秋」における里数値の検討 古谷弘美(会報117号)

 


『管子』における里数値について

枚方市 古谷弘美

 管子(管仲)は春秋前期(紀元前645年没)の人で、齊の桓公の宰相として知られています。書物としての『管子』は戦国時代から秦漢にかけて成立したとされています。『管子』における里数値について調べてみました。テキストは明治書院、『新釈漢文大系 管子 上中下』を使用しました。

 ・立ちて六千里の侯と為れば、則ち大人従ふ。 幼官(玄宮)第八P152

 六千里四方の領地をもつ諸侯ですから、短里による約450km四方が妥当です。長里では当時の中国世界を超えてしまいます。
 『漢文大系』では六千里の侯について、「六千里は当時の天下の大きさで、覇主のことをいう。」(P154)としていますが、天下を制覇した者を侯と称するでしょうか。

 ・今歩する者一日なれば、百里の情、通ず。 法法第十六P301

 漢文大系本の通釈では「今かりに一日中歩き回れば、百里四方の範囲の事情に通じることになる。」としています。
 たとえば百里四方の中心点から出発して四辺を一周し、再び中心点に戻ってくるとすると、その移動距離は約五百里となります。五百里は短里で約38kmですから、一日で歩ける距離としては妥当でしょう。移動経路を多少複雑化しても六百里前後ではないでしょうか。長里では五百里は約210kmですから、1日の人間の歩行では無理です。

 ・故に地廣きこと千里なる者は、禄重くして祭尊く、 侈靡第三十五P645

 この箇所は齊桓公と管子の問答になっています。「禄重く」という語からわかるように、千里四方の所有者は桓公の臣下となります。長里で千里は約430kmとなり、齊桓公のほぼ全領域になります。短里では約76kmで、重要な臣下の領域として妥当ではないでしょうか。

 ・然る後に八千里の呉・越、得て朝せしむ可きなり。(中略)然る後に八千里の發・朝鮮、  得て朝せしむ可きなり。      軽重甲第八十 P1303

 春秋時代地図によれば、齊 ー 呉越間は約700km、齊 ー 朝鮮間は約700kmになります。8000里は短里では約600kmですから、この場合短里が妥当します。(春秋時代地図は筑摩書房、世界古典文学全集『諸子百家』に拠りました。)
 あきらかに歴史的状況や自然現象に矛盾する里数値に対して、疑念を示す注釈がつけられていない、もしくは納得できない注釈がつけれているというのが『新釈漢文大系 管子』を参照していて感じることです。
 『新釈漢文大系 管子』は平成元年と4年に出版されています。編者は中国文献の研究者として「短里」のことを知っていたはずです。注釈において、少なくとも「短里」という学説を紹介するべきではないでしょうか。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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