「実地踏査」であることを踏まえた 『倭人伝』の行程について 正木裕(会報118号)
“「実地踏査」であることを踏まえた
『倭人伝』の行程について“を読んで
福岡市 中村通敏
古田史学会会報118号に掲載された正木裕氏の標記論文を読んで、力作とは思いながらいくつかの疑問を感じました。それらの疑問点と、それらに対する小生の考えを述べて読者諸兄姉のご批判をお願いするものです。
第一点 海上の距離に「周旋距離」という概念は妥当なのか
正木氏は、狗邪韓国〜対海国〜一大国〜末盧国がそれぞれ「千里」とされていて実際の距離が合わないことに対して、潮汐流などを考慮して「周旋」という概念を導入されています。
しかし、末盧(松浦半島)〜一大(壱岐)間は三〇キロメートル弱です。充分目視出来る距離なのです。壱岐島の南側にある、岳の辻山は標高二一八mです。仮に、標高一〇〇メートルの山頂を海峡の対岸から水平線上で、人間が目視できる距離を計算すると、約六〇キロメートルです。計算式は略します。(現実に対馬から六〇キロメートル離れた韓国側の燈火を、気象状況によっては視認できるという事実があります。)
このように古くから双方の山なみを視認できる壱岐〜松浦半島間の距離を、倭人国の水先案内が「潮汐流に拠った周旋距離」で表すことはないでしょうし、魏使も距離認識が充分できたものでしょう。
第二点 末盧を唐津とした場合「山海にそうて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず」という記述に合わない、と正木氏は言われますが果たしてそうなのか。
魏使は唐津港で上陸し、そこから虹の松原沿いに進み、玉島川河口に至る、というのが古田説です。ただ、そこからは、海岸線は切り立っていて海岸沿いに通れたとは思えません。海から急勾配で標高八〇五メートルの浮嶽という山が迫っています。この浮嶽の裾野をそれこそ周旋しつつ、約八キロメートル通り抜けると、(国土地理院の地図では、)糸島の平野部に至るのです。
現在は海岸部を国道が通っていますが、各所に古代では難所であったことをうかがえる地形です。また、玉島川から東へ一.五キロメートルあたりに佐賀と福岡の県境があります。つまり、末盧国の領域はこの山地も含んでいた、とする方が、倭人伝の記事「海岸に沿って居て、(伊都国へは)前の人が見えないほどの草木が茂っている山路を行く」、という表現にピッタリです。
第三点 松浦町(呼子港)を魏使の到着地点とすると、五百里の位置は船越湾近くの一貴山あたりになるとされます。しかし、そこには大きな問題がある。
一里七六〜七メートルとしますと、五百里は三八〜三八.五キロメートルです。現在の道路によると呼子港〜西唐津間は約一三キロメートルです。西唐津から一貴山駅までの距離は二八.一キロメートルです。計約四一キロメートルであり、ほぼ距離的にはOKでしょう。
しかし、そうすると伊都国から百里の、不彌国は必然的に今宿近辺になり、正木氏もそうされます。
ですが、倭人伝には、不彌国から「南至邪馬壹国」という記事あります。これとの整合性はどうなるのでしょうか。正木説によると、今宿の南の高祖神社あたりが邪馬壹国となる論理ですが、その肝心のことを示さない正木さんのこの論文は何を言いたいのかよく分からないのです。
やはり、古田武彦先生が解析されたように、魏使は末盧国(唐津港あたり)に到着し、東南の方向へ五百里進み伊都国に至った。この場合の伊都国は前原〜周船寺あたり、とされる古田説の方が正木説よりも、この「伊都国」の位置による比定に限れば、論理的だと思います。
できれば、正木氏には、不彌国=今宿とした場合の邪馬壹国の領域について、論を展開して頂くことをお願いしてこの小論を終えます。 (二〇一三・一〇・二三)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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