太安萬侶その五 称制の謎と紀の法則(会報59号)
ヤハタの神と宇佐八幡宮
小金井市 斉藤里喜代
一、ハタについての古文献
『日本書紀』の神代上・第五段第十一の一書において月夜見尊の前で保食神が海に向かって鰭(ハタ)の広(ひろもの)、鰭(ハタ)の狭(さもの)、を口より出す。天の熊人が月夜見尊に殺された保食神の死体に生まれた陸田種子(ハタけつもの)と水田種子(タなつもの)を天照大神に奉る。
『古事記』においては海佐知毘古が鰭の広物(はたのひろもの)と鰭の狭物(はたのさもの)を取る。
ここにおいてハタは魚と畑と二つのハタになる。また『日本書紀』神代上・七段の第一の一書・稚日女尊(わかひるめのみこと)が、斎服殿(いみはたどの)に坐して、神之御服織りたまう。同じく神代上・七段の第二の一書・日神が機殿(はたどの)に居る時に。とある。
『古事記』上巻「天照大神と須佐之男命」「3、須佐之男の勝さび」において、天照大御神が、忌服屋(いみはたや)に坐して、神御衣織らしめたまいし時、その服屋の頂を穿ち、天の班馬を逆剥ぎに剥ぎて堕し入る時に、天の服織女が見て驚いて、陵*(ひ)に陰上を衝いて死んだ。とあり、もう一つのハタは機織り、服織りのハタで布である。これで魚と畑と布の三つのハタになる。
陵*(ひ)は阜偏の代わりに木編。第3水準、ユニコード68F1
二、三つのハタ
広辞苑で魚の「ハタ」を引くと【羽太】と言うのがあり、「ハタ科の硬骨魚の総称。アカハタ・アオハタ・マハタ・キジハタ・クエなど種類が多い。多くは暖海に産する。マハタを単にハタと呼ぶ。食用魚として珍重。」とある。クエはアラのことである。今でも美味のため非常に高級魚である。別に魚偏に神や雷と書いてハタハタもいる。
同じく広辞苑で陸田の「ハタ」を引くと、
【畑・畠】「はたけ」におなじ。<名義抄>のみなので、「はたけ」を引く。
【畑・畠】(ともに国字で「畠」は「白田」の二字を合わせたもの)(1).水をたたえないで、野菜や穀類を栽培する農耕地。→白田(はくでん)を引くと(水無く乾いている田の意)
漢和辞典では白く土の乾いた田の意。「畑」の字源は会意。火と田の合字。草木を焼き払った耕地の意。
同じく広辞苑で布の「ハタ」を引くと、はためく旗は形状によって多くの漢字があるので、はためく旗は今は二三に絞り、他の布の「ハタ」を紹介することにする。
【旗】はた・漢音キ・呉音ギ。
【幟】はた・のぼり・漢音呉音ともにシ。
【幡】はた・のぼりばた・漢音ハン・呉音ホン・慣用音マン。
【機】はた・漢音キ・呉音ケ。
【秦】(日)はた・伴造としてハタベを管理し織物生産。
【服部】ふくべ→はたおりべ→はとりべ→はっとり、と変化(一で示すとおり『古事記』『日本書紀』では服を「ハタ」と訓でいる)
【織部】おりべ
【七夕】たなばた・当て字だと思う。七夕には織り姫がいる。
【凧】はた・たこ・国字風と布の合字
【帆】ほ漢音ハン・呉音バン
三、ヤハタの神のハタ
私が思うに、三つのハタは支配者が税をかける収入源となるものである。魚に畑に律令でも調といった布の反物の三つである。水田や米(水稲)が入っていないから、この三つのハタは縄文時代の支配者の取り分である。
さて三つのハタの内、八幡の女神のハタはどれであろう。それは機織りのハタであろう。他の二つのハタ、魚釣りや畑仕事は男女共同作業であるか、むしろ男の力仕事 という面がある。しかし古文献に顕われる限り、ハタオリは女の仕事である。ちなみに海の魚釣りは男の仕事と思えるが、川魚釣りは万葉集などには鮎を釣る乙女が出てくる。海人も後には皮下脂肪の関係か海女となるが、海男とはいわないので、海人は男女であろう。「倭人伝」にも「好んで魚鰒を捕らえ、水深浅と無く、皆沈没して之を取る」とあり、私は【皆】を【老若男女】と受け取る。
しかし、男が機を織るのは読んだことがない。編み物に於いては、現代における伝統として、イギリスのアラン地方の厚地の手の込んだアラン模様のセーターは男の人が編む。また、南米インデオの種族の中には父親が娘の誕生からお嫁に行くまでの間にその娘のために毛糸の色模様のスカートを編み続けて佩かせるため、娘は何十枚もスカートをはいて、腰から下はバレリーナの衣装のチュチュのようになる。編み物は男がしても、織り物に関しては女だけの仕事であり、女神がつかさどる。
古田史学会報五六号山内玲子さんの「八幡について」を読んでずいぶん参考になった。私自身は七夕や八幡や畑などハタについていろいろ調べていたので、八幡についての文献はおもしろかった。
ただし私は山内さんより古いヤハタに関心があったのでそれを述べさせていただく。私がおもうに、宇佐八幡宮は中野幡能さんが記述するように比祥大神(ひめおおがみ)が大元の祭神だとおもう。ハタおりの女神様である。ヤハタの神のハタはハタ織りのハタだとおもう。ヤは弥であり、辞書の通り数の多いことで、八に通じる。ヤハタは多くのハタ織物である。
四、ヤハタ神からハチマン神に
宇佐八幡宮のヤハタ神がなぜ女のヤハタ神から、男のヤハタ神に変わったかというと、広幡(ひろはた)の八幡(やはた)の大神と『続日本紀』の宣命第十五詔にあった事に関係してくるとおもう。
「ひろはた」は幅広い布で、『旧唐書』日本伝に開元の初の遣唐使が四門助教超元黙にお礼として闊幅布を遣じ白亀元年の調の布といっているその闊幅布ではないかとおもう。貫頭衣は幅広の布でないと様にならない。袖と肩を縫ってある当時の布が出土してきた。貫頭衣は幅が広くないとできないので狭い幅のものは当然縫わねばならない。
私が思うに、ハタの広物、ハタの狭物は魚より布に当てはまる。大体魚に広い狭いと形容するのはおかしいではないか。大きい小さいなら解かる。
その幅広の布をふんだんに使って船の帆を作る。もちろん誰もが作れるわけではない。権力者でなければ作れないし、敵に作られたら困るので、中国と別の意味で門外不出である。実際に船は帆があるのと無いのとでは雲泥の差がある。工学博士の茂在寅男氏は角川書店の野生号の実験に関わったとき、その当時一番の大型船の南九州の西都原出土の埴輪船に帆柱のあとが無かったにも関わらず、悩んだ末帆をつける英断をした。のちに帆柱のあとのある船が出土したので安堵したと多元の会の講演で話していた。事ほどさように帆があるのと無いのでは違うのである。
ちなみに羽衣伝説の【羽衣】は【船の帆】であると私は確信している。もちろん天女の【天】は【アマ】で【空】でなく【海】である。
はばはん船(幅帆船)は水も漏らさぬ硬織りの布(かとり絹 )か、丈夫な山繭の糸で作られた帆を持つの軍船だとおもう。 絹の柔らかさは石鹸で練らないと出てこない。練ると膠質が取れて、やわらかになり、量が目減りする。練らないとばりばりに硬い。三味線の糸は三本とも絹で出来ている。一番細い三の糸はよく切れるが一の糸は太くて丈夫である。船の帆を通じて、機織り(はたおり)の女神が船戦(ふないくさ)の【女神】に変わるのにそんなに抵抗感はないとおもう。「海神」と書いて「わたつみ」と読む。いざなみの神が女であるように、後ろに「み」のつく神は女である。『古事記』の山幸彦の物語に出てくる豊玉毘売の父親の海神は男であるが、これはこの物語に金属の剣や釣り針が出てくることで、男の弥生時代に男神に変化したことが考えられる。が現在も古い海の神は女の神様で、弁天様に変化している。ちなみに山の神といえば女にきまっている。これも女の縄文時代以来の伝統である。
八幡を音読みしてハチハンだが言いづらいのでハチマンと変わったというのはこじつけすぎるだろうか。【幡】も【帆】も漢音は【はん】である。そして実際に北九州には【帆柱】という地区が二箇所ある。
一個所目は、北九州市の【八幡駅】近くの標高六六二メートルの皿倉山には【帆柱ケーブル】がありケーブルのふもとは【帆柱】という地区である。
二個所目は、福岡県京都郡犀川町の南端、【桑の木峠】と鉾立峠に囲まれた祓川の源流に【帆柱】という地区がある。【桑の木峠】と【帆柱】の接点は桑を食べる蚕で作った絹の帆である。
そして船軍の神が女から男に代わるのは女の縄文時代から男の弥生時代へと変わる世の中の自然な流れではないだろうか。卑弥呼は代々続いた男王が行き詰まった末の縄文回顧成功例である。男王に戻った瞬間混乱が続き、卑弥呼の宗女壱与を立てると治まるのは男王が行き詰まっている証拠である。
五、帆柱と馬とおしら様
ところで、みなさんは東北地方の(おしら様)をご存知であろう。あれは男女一対の神様で、男の方は棒の先に馬の頭をつけている。女の方はただの木の棒に布が何枚も厚く刺さっていて、まるで人が貫頭衣を何重にも着ているようだ。女の方は蚕の神様といわれているから、今はどうか知らないが着ている布は元々は絹であろう。
山繭蛾を白髪太郎(しらがたろう)というそうだ。おしら様は(しらが太郎様)からきているのではないだろうか。また広辞苑でひいてみると
「しらがたろう」【白髪太郎】クスサンの幼虫。毛の白い大きな毛虫で、体長約十センチ。クリ・クス・イチョウなど多くの木の葉を食害。幼虫の絹糸腺を取り出して「てぐす」を作る。繭を透俵(すかしだわら)という。しらがだゆう。くりけむし。信濃太郎。
「くすさん」を引くと【樟蚕】ヤママユガ科のガ。大形で、開張一〇〜十二センチで黄褐ないし紫褐色(後略)
「てぐす」を引くと【天蚕糸】「てぐすいと」に同じ。楓蚕(ふうさん)樟蚕(くすさん)の幼虫の体内から絹糸腺を取り、酸に浸し、引き伸ばし乾かして精製した白色透明の糸。多くは釣り糸に用いる。てんさんし。
私が思うに【天蚕】は海人(あま)族の蚕という意味であろう。【蚕】自体に天の字が含まれているので蚕の字が出来たときは絹は海人族の特産品だったはずだ。ちなみに『ぎ志倭人伝』では蚕の旧字で書いてあり、天の字はないが、お日様の日の字が挟まれている。
おしら様の女の方の形態は帆柱と帆をあらわしていたのではないだろうか。船の帆を作るくらいの大量の絹の布は最初は山繭の絹ではないだろうか。野蚕ともいう山繭蛾の幼虫は桑の葉だけではなく、栗の葉も樟の葉もイチョウの葉さえも食べる。大量に使う船の帆を作るのに適している。帆柱という地名が北九州に偏っているのは北九州が絹を門外不出にしていた可能性がある。事実古田先生も言っておられるように弥生の絹は北九州に集中している。
日本には野生の漆もあれば野生の野桑といわれる桑もある。漆は近年考古学会をにぎわしているように中国より古い高度な漆の技術が次々と発掘されている。それと同じく絹も中国の門外不出より古い時代に日本に入ってきていること確実である。卑弥呼の時代になると蚕桑集積し、糸兼*緜(けんめん)を出す。そして倭錦、糸兼*(けん)、綿衣という真綿(絹糸の屑)の綿入れの衣を「魏の国」に献上している。それの示すところ「魏の国」の絹と違っていたということである。南の方からの渡来であろう。もちろん陸伝いではなく、海流に乗って伝わったのであろう。布目順郎は南からの渡来だと多化蚕と言って年に七回も孵化する蚕で陸伝いは無理であろうと書いている。そして上海近くに今でも真綿にしかならない多化蚕を栽培している。と書く。卑弥呼の献上絹にかとりぎぬのけんと真綿の綿入れ衣のめん衣がある。糸兼*緜を出すとあるのは、丈夫な糸兼*と弱い緜との二種の絹を生産していたのであろう。倭錦は二色(にしき)以上の糸で模様織りをしたもので、糸兼*でも、緜でも作った。正倉院展で何回か見た模様織りの施*(あしぎぬ)は悪し絹という名の通り、明らかに短い糸を紬にしたもので弱そうな生地だった。倭国には多化蚕の弱い糸の系統と、野蚕の山繭蛾の強い糸の系統と二種が『魏志倭人伝』から読み取れる。年に七回も繭が出来れば惜しげなく真綿の綿入れが出来る。
糸兼*緜(けんめん)の糸兼*は、糸編に兼。
施*は、方編の代わりに糸。
私自身は布目順郎氏の著書で始めて多化蚕を知ったが、信じられなかった。しかし二〇〇三年九月二〇日(土曜日)付けの朝日新聞の記事に「日本のカイコ インドで活躍──丈夫で長い生糸 好評─JICA指導─飼育研究十二年余実る」という文字が躍っていた。ここに「インドの在来種は年5回前後、孵化する「多化性」と呼ばれる。これに対し、日本や中国のカイコは年2回孵化する「二化性」で、その繭から作られる生糸の方が丈夫で長く、高品質。このため、サリーなど絹織物の縦糸に年5千トンの生糸を中国から輸入していた。」とあり、また「二化蚕は熱帯のインドでは飼育が難しい」とある。結局多化蚕は短い糸にしかならず、人造絹の長い糸をわざわざ短く切って造るスフのように、紡いで糸にするのだが、なをかつ弱いので縦糸に外国産を使うのだ。
おしら様の男の方の形態は見たとおり馬である。この馬は韓国から入ってきた大形の鉄製の馬の冑を着ける見栄えの良い古墳時代の馬ではないのはもちろんである。北九州の卑弥呼の邪馬壱国には馬はいないと倭人伝に書かれている。馬のいない邪馬壱国の漢字になぜ馬の字があるのか理解できないし、卑弥呼の時代に馬の死骸は多く発掘されている事も事実である。
古田説では北九州と出雲が栄える前に栄えていたのは南九州である。その栄えた文化を担った人々は火山の大爆発で滅亡した。生き残った人々は海流に乗り東に去った。新東晃一氏と町田洋氏の研究に基づいて、船で故郷を逃げ出した人々が居たと結論づけた。
一、P─13と呼ばれる桜島起源の火山灰の下の九五〇〇年前の定住生活の鹿児島県国分市の上野原遺跡。縄文時代草創期。
二、約一二〇〇〇年前鹿児島県西之表市奥ノ仁田遺跡。隆帯文土器・磨製石斧磨製石鏃。縄文時代草創期。
三、一二〇〇〇年前の鹿児島県加世田市栫ノ原の隆帯文土器片や磨製石斧(両刃・片刃・丸ノミ)縄文時代草創期。丸ノミ型磨製石斧の使い道は海洋型丸木船を作るためである。
なぜこんな事を言い出したかというと、南九州の旧石器や縄文時代には門外不出の小型の馬がいたのではないかという仮説を立てるためである。事実、現代の宮崎県の南端、都井岬には(野生馬)がいる。野生馬といっても、半野生馬で、地域の人々は崖でお産をしたせいで転がり落ちた赤ちゃん馬を親馬のところへ持っていったりする。これは取り残された馬であろう。そこは日本最古の完璧な玉の璧が出土した串間の近くである。この門外不出の輸送にも役に立つ小型の農耕馬を連れて東北や北海道に海流に乗って移住したのではないかというのが仮説である。それが東北のガンジョであったり、北海道のどさん子であったりしたらどうであろうか。
海の運び屋が帆を張った速い船で、陸の運び屋が馬であろう。いまでも何馬力というではないか。船は速くないと荷を奪う手こぎの海賊船に襲われる。速ければ海賊から逃げられる。それがおしら様として一対になって祭られている。理にかなっていると思う。縄文時代以来の北九州の門外不出の絹の帆と南九州の門外不出の馬が東北で一緒に祭られている。おもしろいではないか。南九州の西都原古墳群で発掘された大型埴輪の船に帆柱がなかったことは先に書いた。古墳時代になっても南九州ではおおっぴらには帆柱は造れなかったのであろうか。
中国では南船北馬で、九州では縄文時代において北船南馬なのである。ここにおいて、野生馬の都井岬のすぐ近くの串間でまさしく完璧な中国から渡来の大きな玉壁の出土したことにご注目あれ。旧石器縄文早期において南九州が栄えていたのなら大きな玉壁を中国からもらったことは、弥生時代に倭国北九州が金印をもらったことがおかしくないのと同じくらい不思議でないと私は思う。この玉壁は大きさは立派だが、色がこげ茶色なのが気になる。どの程度の位なのであろうか。
余談だが最近、山繭蛾の繭から絹糸を作り最高級婦人服地にするのが脚光を浴びているが、「糸にクセがあってふぞろいなので、和服にはなかなか使えません」と「丹後加工糸」の有吉富雄さんは語る。その辺が山繭がうち捨てられた理由であろう。「丹後加工糸」ではその辺を研究して縒り方を工夫してタオルに織っているそうで十二年前から山繭タオルを作り続けている。私も大枚四千五百円をはたいて、東京板橋の「亀の子束子西尾商店」で買ってきた。
おしら様は「しらがたろう様」の事であろう。そしてその形状は船の帆と帆柱をあらわしていると確信する。女の方のおしら様の大量の布は船の帆にするほどの大量の絹を誇っているのだ。そして馬の方は男中心の時代になってから、陸の輸送を司るものとして、あとから添えられたのであろう。
六、八幡造の謎とまとめ
【八幡造り】とは社殿の作り方で、神社本殿形式の一つ。切り妻造り・平入りの社殿を二つ前後に並べ、つないだもの。宇佐八幡宮本殿の形式。この形式は何をあらわしているのだろう。前から見ると、後ろの本殿はまったく見えない。後ろに祭られた神は前に祭られた神にかくされている事をあらわしている。
私自身は宇佐八幡宮へ行ったとき、あまりの周りの狭さに圧倒され、写真も全体が写せずに全体像を把握できなかった。しかし広辞苑の絵が正面と側面の二図があったために判明したのだ。ここにコピーして載せる(九頁)。こうなれば事は簡単だ。神社の言い伝えがなんであれ、後ろの本殿に祭られているのは比祥大神(ひめおおがみ)である。縄文の女神である。そして前の本殿に祭られているのは男の八幡の神(やはたのかみ)弥生のヤハタの男神である。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)が祭られたのは、神仏習合の始まった奈良時代ではなく仏教をこよなく愛した九州王朝の多利思北孤であろう。なにしろ隋の皇帝を海西の菩薩天子と呼んでいる。ヤハタの神を八幡大菩薩にしたのは多利思北孤であろう。
神仏分離は明治政府の方針で新しい。応神天皇や神功皇后や武内宿禰は付け足しである。なぜか。本殿が二つなら二つの神を祭っているし、本殿が三つなら三つの神を祭っている。当たり前のことである。本殿が一つなら一つの神しか祭っていない。だから吉備津神社の吉備津造りは比翼入り母屋の屋根であるので、最終的には吉備津彦の命のみ祭っている。なぜ正面から見て上の小さな入り母屋が二つ並んで大屋根に乗っかっているのだろう。吉備津彦と同じだけの勢力のある神を同時に祭っていたということをあらわしている。それは吉備津姫である。
【八幡造り】のあらわすところ、絹から帆に代わりそして船軍(ふないくさ)の神に代わっていくとき、女の神様より男の神様が望まれた。比祥大神を隠し八幡の男神をその前面に持ってきた。ここまでは縄文時代から弥生時代である。それを八幡大菩薩にしたのは九州王朝の多利思北孤である。
それからONライン(九州王朝<Old>から近畿王朝<New>への交代の画期腺)を過ぎて記紀ができた。記紀以外の古い書物は全部焚書にした結果、記紀に合わせて、もとは女の神様なので隠しても隠しとうせぬ以上、記紀最古の准女帝神功皇后をまつらねばならない。そこから必然的に八幡の神は応神になり、男の船軍の神が子どもではと武内宿禰も出てきた。あとは各地に八幡宮が勧請されるに連れて、付属の神・仏・人が多くなり本質がぼやけていった。このような過程が想像されるのである。(二〇〇四年一月二〇日記)
補記、オオガとオオミワどちらが古い
私は大神比義を中野幡能氏の著書でオオガのヒギと訓んでいたので山内氏の前掲論文のオオミワヒギと言うのはあれっという思いがあった。
宇佐八幡宮の神官大神氏はオオガ氏とオオミワ氏とどちらが古い呼び名なのであろうか。あの辺に詳しい福永晋三氏に電話で確認すると「現在オオガ氏 昔はオオミワ氏」とのこと。それについて面白いことを教えてくれた。
「甘木市の西北に三輪町があり、そこの大己貴神社はオンガ様と呼ばれている。近くに遠賀川があるのでオンガ様は遠賀様ではないか。それはオオガが変化したものではないか」という。また、「久留米市の近くの瀬高町、例のこうやの宮のある瀬高町の字名に(大神)と書いてオオガと読むところがある」という。
大神と書いてオオガミと読めるのでおおがみの語尾を省略した物が オオガなのはわかる。そして音便してオンガになるのもわかり易い。しかし大神がオオミワとなるには大三輪神社=大神神社で摩り替わるしかない。三輪町のおんが様はオオガ様が変化したものであろう。
私はオオミワ氏よりオオガ氏の方が古いと思う。宇佐神宮に祭られている比祥大神・ひめオオガミの略がオオガなのであろう。ひょっとすると大神比義は比祥大神の末裔なのではないか。
ところでこの項を教えてもらった福永氏に名前を出してよいかとの電話をしたときに「奈多八幡の本殿が広辞苑そのままの二の字型の配列でしたよ」と教えてくれた。「えっ宇佐八幡もそうじゃないの」広辞苑に出ていた八幡造りの絵を教えたのは私ですが、宇佐八幡宮本殿の形式という説明を鵜呑みにしてしまったのだ。「宇佐八幡は一宮、二宮、三宮の横並びですよ」と教えてもらって私も思い出した。が、みれんたらしく、「あれは拝殿で奥に本殿があるのかと思った」というと福永氏が「航空写真を見たけど奥にはなにもなかった」という。自分の目より広辞苑を信じた私がいけない。「奈多八幡には宇佐八幡に納められた宝物が、大方納められていて、宇佐八幡には宝物はあまり無い」という。そうだった私も宇佐八幡宮の宝物館を見て思ったのだった。「なんで神主さんの装束とかボロボロの布ばかりしかないのか」と。
それからもう一つ思い出した。中野幡能の著書によると行幸会では「宇佐八幡に新しいコモ枕が納められ朝廷から祭神に対するすべての装束その他、祭神が使用する諸道具が納められると古い神体装束等のすべては国東半島の摂社八幡宮を巡幸して、奈多八幡宮に納めてしまう」しかし宝物の最後の納まるところではない。「国東の奈多八幡宮に納められている古い神体は、豊与海峡を渡って四国伊予八幡浜市(愛媛県)の谷野山八幡宮(大清水八幡宮ともいう)に納める。谷野山八幡宮の古い神体は伊予三机というところから海(瀬戸内海)に流す」だった。私は現代の愛媛県分県地図で八幡浜市の谷野山八幡宮を探したが、八幡浜市も三机港もあったが、矢野山八幡宮は記載されてなかった。今現在は地図にも載っていないのである。海に流していないので、流れが止まって奈多八幡に宝が納められたまま留まっているのだ。私はそのように解釈した。(二〇〇四年三月一日記)
《参考文献》
『古代国東半島の謎ー宇佐神道と国東仏教』中野幡能。新人物往来社昭和五十年十二月十五日3刷
行幸会とはー二八頁
八幡神の登場ー五八頁
◎『絹の東伝ー衣料の源流と変遷』布目順郎。小学館一九八八年五月一〇日
◎『NHKスペシャル「日本人はるかな旅」第二巻巨大噴火に消えた黒潮の民』日本放送出版協会平成十三年九月三十日
貝文土器の時代─新東晃─一四四頁から一六〇頁まで
歴史を変えた火山の大噴火─町田洋─一六一頁から一八四頁まで
◎『発掘された日本列島』文化庁編─九七年新発見考古速報─朝日新聞社
栫(かこい)ノ原遺跡─十二頁鹿児島県加世田市奥ノ仁田遺跡─十四頁鹿児島県西之表市
◎『発掘された日本列島』文化庁編─九八年新発見考古速報─朝日新聞社
上野原遺跡─十二頁鹿児島県国分市
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