高天が原の神々の考察 -- 記紀の神々の出自を探るiii(会報58号)
大年神(大戸主)はオホアナムチである 神世7代の神々 中編 大戸之道(2)(会報63号)
ホトノヂは大戸日別国の祖神
(神世7代の神々 中編 大戸之道(1) )
記紀の神々の出自を探るVの (1)
大阪市 西井健一郎 記紀の神々の出自を同書の中に探る試みを続けている。今回から神世7代男女神の内、記では第3番目の男神オホトノヂを取り上げる。この神自身の情報は少ないが、その名にあるオホトについては数多くの記載がある。例えば、大戸日別神や大年神である。これら関連する情報を含め、この神とその周辺の考察を数回に分けて続ける。
なお、古事記は岩波文庫30-001-1「古事記」〔以後、文庫本(記)と略記〕に、日本書紀は同30-004-1〜4「日本書紀(一)〜(四)」〔以後、文庫本(紀)と略記〕に依拠する。
1.オホトノヂとオホトノベ
オホトノヂの神は、記が意富斗能地神と書くから、大戸之道尊と書く書紀も同じ読みを振る。これらは同じ神とされる(以後、紀の大戸之道を主用)。しかし、対の女神の名称は記紀で違う。記の大斗乃辧神は、「オホ・ト・の・ヂ」の女性形の「オホ・ト・の・ベ」である。紀は大苫邊尊と書き、「亦曰く大戸摩彦尊」などと付記がある。だから、こちらは「オホ・トマ・ベ」という別神の可能性がある。
オホトノヂ・オホトノベの神について、文庫本(記)の注は、「(この)ニ神は居所の神格化か」と書く。また、文庫本(紀)の補注は概略、「ヂは男性を表し、ベは女性を表す。?。オホトのオホは大の意。トは従来、所とか殿の意などとされた。ところがこのトは戸と書かれ、記では斗の仮名で書かれている。これらは上代音韻で甲音に属する。ト甲音を持つ単語としては、瀬戸・門(ト)・喉(ノミト)など。トには男女を象徴する器官の意味もある。オホトノヂ・オホトノベとは大きいトを持つ男女の意になる。」という。そうだろうか。
2.オホトとは大戸、古古代の国名である
大戸之道の神名を「オホト」と「ヂ」にわけて、その出自を探索してみよう。私見では、この神名のオホト「大戸」は地名である。それは大戸日別神がいた大戸日別国に由来する。神世7代の最後の組がイザナキ・イザナミ。この二人が「既に國を生み竟えて、更に神を生む」(記)4番目の神が「大戸日別神」である。
大戸日別とは、古古代(上古代以前)の国名である。先稿でも、邇藝速日命(にぎはやひ 記)の速日とは、例えば“筑紫国謂白日別” (記)とあるような古国名の一つであるとした。同様に、この大戸日別も今は消えた国名である。ただし、国といっても今の郡程度の広さであろう。上古代の国の広さについて、「昔は郡を国といっていることが多い。常陸の国の風土記には、ニヒバリ(新治)ノクニ、マカベ(真壁)ノクニ、ツクハ(筑波)ノクニ、・・・などといっている」との風土記の逸文があるという(吉野裕訳「風土記」平凡社ライブラリー)。ただ、考察を進めると、大戸の国は現在の山陰地方に匹敵する広領域を指す呼称にも見える。また、大戸は「オウベ」と呼んだ可能性がある。それらは、後続稿で述べる。
3.「ヂ」は、「烏膩」か、「耳」か
一方、ヂは天孫降臨(紀)に出る塩土老翁の“老翁、此云烏膩(老翁、此れをば烏膩(おぢ)と云ふ)”のオヂの短縮形と思われる。とすれば、大戸之道とは大戸日別国の老翁である。
ヂは、可美葦牙彦舅(うましあしかびひこぢ)の舅と同じ敬称であろう。その原型は「カミ・イのクイ・日子・老翁」で、イのクモ(葦(い)の首長→葦雲→出雲?)の祖神である。と、同じヂの位を持つ大戸之道も、元は同時期の大戸の国の始祖神と考えられる。大戸日別神は、大戸之道の後輩になる。
別途、耳もジと読む。この「耳」には、「耳孫(じそん)」という熟語があり、「先祖のことをただ耳で聞くだけで、縁の遠いずっと末の子孫。自分から八代目にあたる孫のこと」〔学研刊「漢字源」〕とある。類推すると、大戸之道は大戸国の遠い開祖として、大戸の耳(じ)と呼ばれたか。そのジがヂに変わったのかも。
第3は、大国の戸(門=海峡)の司、つまり後述の水戸神の祖神だった、との推測もできる。どちらにせよ、大戸之道の本体は、大戸国の祖神であったと思われる。なぜ、神世7代に組み入れられたかは後述する。
4.戸のつく神々
大戸の国名を二段に分けると「オホ」の「ト」、つまり大国が支配する戸国との意味になる。「漢の倭奴国王」の印が下賜された時代と相違があるかもしれないが、2段国名を知らなかったわけでもあるまい。「戸」が地名であれば、名に「戸」のつく神々もその地となんらかの関連がある。記紀の神代の巻には、戸がつく神は大戸之道やその亦名を除いても多い。
その記載順に、イザナミの神生みでの大戸日別神・水戸神(速秋津日子)(記)、級長(しな)戸辺(紀)。大山津見と野椎との子、天と国の闇戸(くらど)神・大戸惑子(おほとまとひこ)と惑女(記)。カグツチの屍体に成る淤縢(おど)山津見・戸山津見(記)。黄泉関連の岐神(衝立船戸神)・黄泉戸大神(記)。岐(ふなと)神の亦名の来名戸(くなと)の祖神(さへのかみ 紀)。大年神とその系図に載る大香山戸臣(おほかがやまとのおみ)・奥津比売の亦名の大戸(おほべ)比売・香山戸臣・羽山戸(記)、である。これらの神の多くは、大戸日別の国とかかわりがある。ない神は、級長戸辺と、大戸惑子と大戸惑女であり、後者はトマ関連で大苫辺尊とともに別稿で考察する。
5.黄泉戸大神=岐神は戸の国の祖神か
その「戸」とは何だろう。戸とは「進入を防ぐもの」ではあるが開閉ができ、出入りをコントロールできる機能を持つ。その点、一方的に侵入を拒否する塀や壁と異なる。記紀に、その戸の役目を果たした神が載る。イザナキが黄泉の国から逃げ帰る場面で、追跡を絶つために「黄泉比良坂(よもつひらさか)に引き塞(さ)へて、その石を中に置きて、各對ひ立ちて、事戸を度す時、・・・」とあり、続いて「また云はく、・・・、その黄泉の坂に塞(さや)りし石は、道反(ちがへし)之大神と號け、また塞ります黄泉戸(よみど)大神とも謂ふ。」(記)とある。黄泉戸大神はイザナキは入れ、イザナミを入れなかったのだ。
記は、この石を指して黄泉戸大神という。しかし、黄泉戸とは九州と本土とをへだてる同海峡を指しており、その大神は関門海峡を支配していた実在の「黄(おう =大 おほ)の戸の神」をモデルにしたのではないだろうか。つまり、イザナミが山陰地方の女首長でイザナキが九州方面の男首長とする時、逃げるイザナキを渡し、追うイザナミ軍の追撃を阻んだのが関門海峡であり、その地の神だった。
6.岐神は水戸神の祖
紀にも類似の記事があるが、その岐神(来名戸の祖神)は海峡の神に近似する。紀の第9一書は、「時に伊奘諾尊、乃ちその杖を投げて曰はく、『此より以還(このかた)、雷敢えて来まじ』とのたまふ。是を岐神(ふなとのかみ)と謂う。此、本の号は来名戸(くなと)の祖神と曰す。」と書く。
この岐神を、文庫本・紀の補注は「道祖神」といい、「岐神は、邪悪なものが部落の中に入って来るな、来(ク)忽(ナ)と禁止する意味によってクナドという」と記す。それは後世、神名を転用したものである。クナドとは、「キュウナの門」が短縮した呼び名で、速の「吸名門」のことである。クナトの祖神と書くその神の原像は、「吸名門の祖先神」である。つまり、速の吸名門の水戸神の祖先神になる。
速の吸名門は潮が速く、イザナキが禊を仕損なった場所である。そこは、大祓祝詞の速開つひめ(古田先生著『まぼろしの祝詞誕生』)が坐した地、水戸神の速秋津神が支配した領域である。私見では、関門海峡こそがその地である。この神世とされる古古代には、九州と山陰とを隔て、日本海と瀬戸内海とを繋ぐ関門海峡を「水の戸」と見立てていたのだ。
速秋津は更に後世、豊秋津と記されているから豊前側にあった。そして、後続稿で述べるが、海峡の両側に広がっていた速日の国だが分割され、下関側がオウ(甕)速日となる。とすると、大戸之道は「甕の(支配する)門の司(じ)」で、水戸神の祖先かも。だが、司(被支配層の役人)では神にはなれない。
7.「大戸の国が穴門国になった」の仮説
この下関側に残る戸のつく地名が、山口県の旧国名、穴門国である。合理的論証のできない地名比定をするべきではないが、穴門国こそ元大戸日別国の地と見る。仲哀天皇の宮を穴門豊浦(とゆら)宮と書くが、古古代は戸の国の港で戸浦(とうら)ではなかったか。
またこのような仮説も立つ。大穴牟遅(おほあなむち 記)は天照大御神が派遣した建御雷神と天鳥船神に国譲りを承知し、大国主として出雲へ引退し祭られる。これは、オホとアナを支配していた大穴牟遅が、アナを譲り、大国主だけに格下げになった事件である。大国主とは、その死亡時にその位にいたことを示す。後続稿で詳述するが、オホアナムチと大国主と別の称号であり、前者が上位にある。
このオホアナムチが支配地全てを譲った訳ではないことは、風土記に載る。要約すると、出雲風土記・意宇郡の母理の郷の条に「大神大穴持命が『私が領有している国は皇御孫命にお譲りしよう。ただ、八雲立つ出雲の国は、私が鎮座する国として、青山を垣して廻らし玉珍(れいこん)を置いてお守りしよう。』と詔された。だから、文理という」とある。中身の真偽はさだかではないが、出雲は自分に残したからこその伝承だ。アナとは譲った部分である。その部分に勝速日(速日を征服した)の忍穂耳が降臨するわけだから、速日の国がアナにあたるといえる。その速日は関門海峡周域であるから、速の戸がアナの戸に、そして穴門に変わっていった、としてもおかしくはない。
先のイザナミ時代の速秋津も、支配者の替わった天照の時代には「思兼神の妹万幡‘豊秋津’媛命をもって、・・・」(紀)と書かれている。また、穴と窟とは異音同義だそうだ(学研刊:漢字源)。天の石窟をもアナ国のうちか。
8.大戸之道は甕瓮(おうべ)の道(ぢ)
では、なぜオホトノヂが神世7代の男女神の一人にあげられたか。大戸がオウベと読むことから、らしい。大年神の系図(記)の中に「また、天知迦流美豆比売を娶(めと)して生める子は、奥津日子神。次に奥津比売命、亦の名は大戸(おほべ)比売神。こは諸人のもち拝く竈(かまど)神ぞ」とある。依拠した文庫本(記)は,竈ことヘッツイに引かれたのか、この大戸比売にはオホベと振る。
大戸(おうべ)とは、神戸(かんべ)のように大国主のご料地とも考えた。だが、比売は竈の神とされているから、その祖大戸之道もやはり竈の神ではなかったか。ただし、土器を焼くかまの。そこから類推するに、オホはオウ(甕・瓮)であり、もともとその地はミカ(甕)またはミカベ(甕部)と呼ばれていた。その地名に、甕の字が当てはめられて甕部(おうべ)と読まれるようになった、との見方ができる。
甕が地名であつた痕跡は神名に残る。甕速日(みかはやひ)や武甕槌神(たけいかづち)もそうだし、大国主の系図(記)には速甕(はやみか)の多気佐波夜遅奴美(たけさはやぢぬみ)という速日と甕の両国を束ねる敬称を持つ神も載せられている。大戸之道が「甕部(おうべ)の老翁(ぢ)」で、甕づくりの神様として神世7代の内に組み込まれたとすると、他の神々の組み込み理由も推測できる。つまり、それらの神々は火で物を作るときの神である。
ウヒヂニ・スヒヂニも先稿で述べたように土器燒結の神である。また、イザナキ・イザナミはカグツチの金属精錬加工技術を引き継ぐ神でもある。ツノクヒ・イククイやオモダル・カシコネがどのような火の使い方の神かは不詳だが、これらの神々はそれぞれ当時としては最先端工業技術の火使いの神々だったのでは。
(大戸之道 (1) 終)
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これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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