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西谷正『魏志倭人伝の考古学』をめぐって へ
「丸山雍成『邪馬台国 ーー魏使が歩いた道』をめぐって へ
古田武彦
一
注目すべき批判をえた。
冨谷至(とみたにいたる)氏の一篇「錯誤と漢籍」である。氏は京都大学人文科学研究所教授で、中国法制史を専門とする。京大人文研漢籍セミナー1(京都大学人文科学研究所附属漢字情報研究センター編)として二〇〇八年三月に刊行された『漢籍はおもしろい』(研文出版)に含まれた一篇である。
冨谷氏は次のように回想しておられる。
「すでに四半世紀前のことになるが、この学界の『常識』にたいして敢然と異論を提示した研究が発表された。古田武彦『「邪馬台国」はなかった ーー解読された倭人伝の謎』(朝日新聞社、一九七一年)であり、その衝撃的タイトルからベストセラーとなり、当時大学生であった私も購入して拝読したことよく憶えている。」(五七〜五八頁)
このようにして本篇の「古田批判」がはじめられている。
二
まず、氏は専門の「簡牘」類における「錯簡」の問題を講じられる。その典型的な例として論語をあげ、その「顔淵」篇や「季子」篇の間に不可解な一句の“まぎれこんでいる”と見られる実例をあげられる。すでに朱氏たちの指摘しているテーマであるけれど、氏はこれを後漢末、「簡牘」から紙への移行期に生じた錯文として論じておられる。興味深い。
わたしも、同じ問題にとりくんだ。歎異抄の異本批判の問題だ。蓮如本・永正本等各古写本の一字一句の異同を徹底的に照合し、その異本間の「正誤」問題を精細に表示し、列記し、数値化して追跡したのである。この場合、歎異抄以外の同時代文書、また親鸞自身の自筆文書等の同一字句もまた存在し、これを対照し、検証できたから、条件としては格段に恵まれていた。
これに比すれば、氏のあげられた論語の場合は、あまりにも対照資料が少なく、ために比較の論法も、かなり“大まか”に思えるのも、時代と文献自体の“制限”によるものであるから、氏の責任ではない。
ともあれ、このような研究手法、そしてそのもっている意義はわたしには十二分に理解できる。それはわたしの倭人伝研究の「前提」となった研究経験だったからである。
三
しかしながら、そこから本篇の主題をなす、氏の「古田批判」ははじめられる。
「卑弥呼の国に関しての史料は、有名な『三国志』魏志倭人伝であるが、そこには『邪馬臺国』という国は記されてはおらず、『邪馬壹国』となっている。少なくとも今日我々が目にする『三国志』の版本は、『邪馬壹国』に作っていることは、間違いない。ただ、卑弥呼の国と言えば、大方が『邪馬臺国』であると考え、それに落ち着いているのは、他の史料が『邪馬臺国』に作っているからに他ならない。
いうところの他の史料とは、『後漢書』列傳七五東夷列伝倭、『梁書』巻五四東夷/倭、『北史』巻九四倭、『隋書』巻八一東夷/倭国、『資治通鑑』巻一八一、隋紀煬皇帝大業四年、『通典』邊防一倭、などがあり、それらは、全て『臺』としており、そこから『三国志』魏志東夷伝倭人の条、いわゆる魏志倭人伝の『邪馬壹国』は『邪馬臺国』の誤りと考えられてきたのである。『隋書』東夷伝に、次のように、魏志が『邪馬臺国』と記していると言及していることも、魏志倭人伝の錯誤をいう傍証となっていたのかもしれない。
「倭國、在百済、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居、魏時、譯通中國、三十餘国、皆自称王、夷人不知里数、但計以日、其國境東西五月行、南北三月行、各至於海、其地勢東高西下、都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。」(「邪馬台国はなかった?」五六〜五七頁)
右から先述の、
「すでに四半世紀前のことになるが、」
の一文へとつづいているのである。そして先の引文の直後に、
「古田氏は、『三国志』全文の『臺』と『壹』を徹底的に調査し、そこから『臺』と『壹』は、三世紀前から一二世紀にかけての字体の歴史の上から混同される可能性はなく、『三国志』においては『臺』と書くべき所を『壹』と誤記している例は検出されない、つまり『誤謬率0ゼロ」(『「邪馬台国」はなかった」五〇頁)という結論に達したのである。」(五八頁)
と論述されている。
ここで氏は「伝写の誤謬」の実例として、「景初二年」問題をとりあげられた。
四
この問題は、周知のテーマだ。すでに「敵祭」(本号)でも論じたところであるが、氏の挙論も、その範囲を全く出ていない。松本氏と「同断」なのである。
(一)景初二年
「また、年代の景初二年か三年の違いに関して言えば、これも二年でママ三年でも、わずか一年の差ではあるが、この一年の差で卑弥呼がどうして魏と外交関係を持とうとしたのか、その派遣の意味が全く異なってくるのである。」(六〇頁)
「先に述べたように、景初二年段階では、邪馬台国と魏の間、遼東半島一帯は公孫淵の支配下にあった。魏が公孫淵を征討したのが、景初二年八月のことだが、それに先立つ二年六月だと言うことになれば、遼東半島がいまだ制圧されないときに、公孫淵政権の頭越しに魏と通交しようとしたということになる。見方によれば、卑弥呼は魏にエールを送るために、また魏に恩を売るためにあえてこの微妙な時期に使者を派遣したとも考えられる。また、卑弥呼は、正確に事柄の経緯と結果をつかんでおり、勝利をおさめることがママ魏と見越していたともいえるが、そういった中国の微妙な政治情勢をどうして知る事ができたのだろうか。」(六〇〜六一頁)
いわゆる「戦中遣使」問題だ。
(二)景初三年
「一方、かりに景初三年であるならば、平和となってからの魏への使節であり、これはつまるところ、魏に対する服従・朝貢の意味が強くなろう。景初二年と三年とでは、親魏倭王の意味が異なってくるのである。」(六一頁)
これに対して氏は、
「ところで、私には、邪馬臺国と邪馬壹国どちらが正しいのか、また卑弥呼が使者を送ったのが景初二年なのか三年なのか、それを決める確実な根拠をここでは準備できない。ただ、しかし、やはり古田武彦氏の論証は、その論証の方法にいささか問題があると言わざるをえないだろう。」(六一〜六二頁)
と、いささか“及び腰”の筆致であるけれど、最初のわたしの本(五〇頁)を「誤謬率0ゼロ」問題に関連して引用されたあと、次のように述べられた。
「ところで、魏志倭人伝には、実は今ひとつ見過ごすことのできない伝写の誤謬が生じている。それは卑弥呼が魏と外交関係を結んだ年代に関してである。」(五八頁)
と「前おき」しておられるから、この「景初二年」を「景初三年」の「伝写の誤謬」と解しておられること、確実である。
五
わたしは氏の「論断」に接して、不可思議の観を覚えた。なぜなら、氏もまた松本さんと同じく、この「戦中遣使」問題に関してあげた「五つの問い」を全く無視しておられるからである。
重複を恐れず、左に簡記しよう。
第一、倭国側が「周知」のはずの“帯方郡から洛陽のルート”をなぜ今回は帯方郡の「吏」を案内役として“つけた”のか。
第二、倭国側の奉献物が「男生口四人、女生口六人、斑布二匹二丈」と“過少”なのは、なぜか。
第三、逆に、魏側の下賜品が“過大”である。両者のアン・バランスが異常である。
第四、「景初二年十二月」に魏の天子(明帝)から詔勅が卑弥呼に対して出された。しかるに、「実行」された形跡がない。なぜか。
第五、右の詔勅の「実行」は、翌々年(正始元年)、逆に魏側が帯方郡の使者を倭国へ派遣する、という形で行われている。いわば、果されなかった約束の、手厚い実行、いわば「改行」だ。ーーなぜか。
このような「五つの問い」を発し、これは「景初三年の戦後遣使」では解けず、原文通りの「景初二年の戦中遣使」なら解ける、と詳細に論じたのである。
特にその焦点は、魏の明帝の急死問題だ。明帝は、右の「景初二年十二月」に急病を発し、翌月の「景初三年正月」には死亡した。斉王が位を継いだ。
従って右の第四と第五の、一見不可解な「ズレ」も、「景初二年」なら解ける。しかし「景初三年十二月」だったら、すでに「斉王の時代」であるから、第四と第五の「ズレ」問題は解くことができない。
これが、わたしの力説点だった。しかし、松本さん同様、氏もこの点には全く「論及」さえしておられない。不可解である。せっかくわたしの本の「五〇頁」を引用しながら、「II 戦中の死者」と題する「一二三頁から一三六頁」の立論に一顧もはらわれず、反論すらしないこと、果して厳密なる「学者」として許されることなのであろうか。
松本さんの場合、わたしはこれを「晩年の超・多忙」にもとづくミス、しかしハッキリ言えば、往年の松本さんに似ぬ「堕落」と断じさせていただいたのであるが、氏の場合はわたしには全く理解できないのである。
六
今のわたしは、往年の自己ではない。この問題の真相を、一段と深く知ることのできる立場に立っている。要約しよう。
(A) 倭国側の使者(次使)の「都市牛利」は、松浦水軍のリーダーである。玄海灘はもちろん、「往来の困難」は、韓半島西岸部(東シナ海)の「海上交通」についても、季節による潮流の干満の差、一日での時間差等の知識は、少なくとも倭人中、抜群のベテラン集団である。
(B) 魏朝は「洛陽」という「大陸中心部を拠点とする」陸上国家であり、必ずしも「海路」を得意とする国家ではなかった。
(C) 魏朝が遼東半島の公孫淵と戦う場合、公孫淵は「背後」に広大な沃野を擁していた。ために、魏軍がこれを攻撃しても、容易にこれを「捕捉」しがたい。あたかも、モスコーを攻めたナポレオンやヒトラーの「悩み」と共通している。
しかし、戦略上、一大転換があった。魏軍が海上を東進して韓半島(北部)に至り、そこから北上して公孫淵を討ち、彼の「首」をえたのである。この「渡航作戦」の成功が決定的だった。しかも、これが遅れれば、逆に魏は「公孫淵側と呉側の挟撃」を受ける立場だから、三国の制覇は、いずれに決着するとも、不思議はなかった、
この立場から見ると、「魏の渡航作戦」の成功は、魏が天下を制するために、決定的な作戦行動であった。
(D) 右の作戦行動のために、倭国側の松浦水軍の「加担」は、魏側にとって「望外の収穫」だったのではないか。その目で見れば、「相手(倭国)側と、段違い」の賜与物も、あえて不思議ではないのである。 右の「加担」とは、海上航路に関する豊富な海上知識の提供である。
(E) さらに倭国の使者(正使)難升米が、中国の中央部(河南省)などに淵源をもつ、さらに周礼(礼記)に記載された「名家」の出身であるとすれば、倭国が魏側に立ったこと、その歴史と知識に関する「交流の歴史」も、思い半ばを過ぐるものがあろう。
右は、いずれも「断定」できるものではない。ないけれど、原文通りの「景初二年六月」とした場合、そのような理解への“豊かな道”が開けているのである。
わたしの基本の立場は次のようだ。
「(所与の)原文を訂正することは、よい。しかし、それには厳密な反証が必要不可欠である。」
氏の論述からは、わたしには到底「厳密な反証」など、見出すことができない。あらかじめ、わたしの「五つの問い」を“切り捨てて”おられるからである。
七
相手の立論の「重要部分」を“切り捨てない”こと、この学問上不可欠のルールを氏は肝心の「壹」と「臺」と問題ですら、守られることがない。
わたしは「III 隠滅の背景」で詳細に論じている。
「『壹と臺』の探索の中で、思いがけない発見があった。
“「邪馬臺国」という表記は『三国志』に関するかぎり絶対に存在しえない ーーそういう証拠が見つかったのである。」(七四頁)
その論旨は次のようだ。
(1) 「臺」は本来「盛土・高地」の意味だった。
(2) 漢代には「宮殿」の意味の用法がふえる。
(3) 後漢末期、魏の拠点(業*)では「三臺」が建設され、シンボル化した。
業*は、業に阜編 JIS第3水準ユニコード90E1
(4) ために「魏朝」になると、「臺」は「天子の宮殿及び天子直属の中央政庁」の意に用いられた。
(5) 倭人伝末尾の壱与貢献記事で、「因って臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大勾珠二枚、異文雑錦二十匹を貢す。」というのは、「天子の宮殿」の意味で「臺」が使われている例だ。
(6) だから、もしかりに「ヤマト」という「原音」だったとしても、これを魏側(西晋)の史官、陳寿がこれを「邪馬臺国」と表記することは、絶対にありえない。
これがわたしの論旨だったのである。このわたしの論旨は、さらに「補強」された。
〈その一〉陳寿にとっての先行史書(魏書、〈三国志、魏志鮮卑伝、裴注〉)の「闕機」を陳寿は「厥機」と“書き変え”ている。“天子の宮殿”を意味する「闕」字を“避けて”いるのである。
〈その二〉魏の明帝の師表であった高堂隆は、明帝その人のことをくりかえし「魏臺」と呼んでいる(「魏臺雑訪議」)。
以上を要するに、わたしの立論の「論理性」は次のようだ。
「誤謬性0ゼロ」問題からも、原文(紹煕本及び紹興本)の「臺」を「壹」と「改定」することには、よほど慎重でなければならぬ。
(β) 右の用例検索中、「発見」した、「魏朝における、『臺』の特殊用法」のテーマから、少なくとも三国志においては「邪馬臺国」の表記は、絶対にありえないことが判明するに至った。
右のような、わたしの明晰な記述に対し、氏はあえて重要な、(β)部分を“切り捨て”、わたしが(α)部分だけから「論断」したかに“よそおって”おられる。アンフェアだ。
氏がたとえ「錯誤」論定へと先を急がれたとしても、否、急がれれば急がれるほど、批判相手の論理性を“正確に把握する”こと、これは学問上の基本なのではあるまいか。
八
氏自身がおちいられた、重要な錯誤がある。先の一文につ、づき、次のように論じられた。
「すでに述べたように、古田氏の考証は、現行本『三国志』それは ーー宋版(紹煕本、紹興本)を基にするーー をもって進められる。宋版『三国志』には、『臺』と『壹』の混同・錯誤は、認められない。『臺』と『壹』の字形は似ていない。したがって、両者の間には間違いは生じるはずがないという。しかし、実際には『後漢書』か『三国志』どちらかに誤りが生じていることは、否定できない。」(六二頁)
氏は、このあとも「字形」問題に頁を費やしておられる。うれしいことだ。わたしも、親鸞研究では、この「字形」問題に朝夕没頭してきたから、氏の提議するところ、それは大いに有益だ。だが、ここでも氏による「わたし(古田)の側の論理性」把握は“的はずれ”である。なぜなら、わたしにとって「壹」と「臺」の、各種の「字形」確認は、この問題を扱う場合の研究上の「入口」にすぎない。そこで「よく似ている」と見えようと、「あまり似ていない」と見えようと、いずれも研究者の主観に属する。その一点から「断定」できるものではない。それは百も承知の上で、わたしはまず「字形」調査に乗り出したのである。いわば研究者としての「つつしみ」あるいは「身だしなみ」ともいうべきものだ。
しかるに氏は、わたしについて、
「したがって両者の間には間違いを生じるはずがない」と書き、いかにもわたしがこの「字形」問題から、問題を“断定”したかのように言われる。これは「学者」というより、「小説家」の手法に近い。失礼ながらわたしにはそのように感ぜられた。
それは、よしとしよう。各自の判断の「自由」だからだ。だが、決定的な、氏のミスは最後の一句にあった。
九
わたしの本の題は『「邪馬台国」はなかった』である。この題を朝日新聞社側から提示されたとき、わたしは驚いた。提出した原稿は『邪馬壹国』だけだったからである。
あとで考えてみると、ジャーナリズムをにぎわしていた「大化改新はなかった」といった“せりふ”が参考とされたのかもしれないが、わたしに告げられたときは「すでに決めたから、承知してもらいたい。」そういった雰囲気だった。わたしは必死で抵抗した。
「三国志は、邪馬壹国ですが、後漢書はまちがいなく邪馬臺国なのです。」
「いわゆる、三国志の邪馬壹国の話ですから、『』を邪馬台国にかぶせてください。」
その意志が認められて「邪馬台国」となったのだ。あとになってみると、この「抵抗」は重要だった。
この本の中では、三国志の陳寿を「是」とし、後漢書の范曄を「非」、もしくは「?」とするムードが強いけれど、これは范曄にとって、ある点では「冤罪」だった。その後、何回となく、書いたり、講演で話したりしたことだけれど、やはり「後漢書の邪馬臺国」は正しかったのである。
(甲) 南、邪馬壹国に至る、女王の都する所、・・・七万余戸なる可し。(三国志)
(乙) 国、皆王を称し、世世統を伝う。その大倭王は、邪馬臺国に居る。(後漢書)
右の(甲)は「七万余戸」の「都」全体の名称だ。これに対し、右の(乙)は「大倭王」という「一名」の居所なのである。現代で言えば、東京都は(甲)に当る。宮城(旧・江戸城)の方が(乙)なのである。両者、文脈がちがい、指すところも、全く別個なのである。
今でも「わたしは東京都に住んでいる。」というのを「わたしは宮城に住んでいる。」と言いかえて、許されるはずがない。(甲)と(乙)とは、全く別概念なのであるから。
一回言えば、一回聞けば、明白だ。二度と言う必要はない。しかし、江戸時代の松下見林以来、「ヤマト」と“訓よむ”ことに急であったから、
「文脈をかえりみる余裕がなかった。」
のだった。そして氏は、今もなお「同軌」を奔っておられるようである。
氏は他に、「景初三年鏡」問題についても、ふれておられる。これはわたしの『「邪馬台国」はなかった』でも、すでにふれているが、さらにこの問題は進展した。『ここに古代王朝ありき』や「三角縁神獣鏡の史料批判」(『新・古代学』第五集、新泉社刊)等において詳論したけれども、もちろん氏の「考察対象」には入っていない。
提案する。ある良き日、京都大学の人文科学研究所の一室をお借りして、これらの問題に関する「対談」もしくは「会議」を行うことを。もちろん、公開である。
氏も、わたしも、同じ京都近傍に住む身だ。当研究所は「漢籍」を求めてわたしも久しく通い馴れたところ、おそらく氏が京都大学の学生になられる前から、絶えずお世話になってきた。
このような「純、学問上の論議」のためなら、何日つづいても、否、何週間つづいても、当研究所の創立者の方々は「本旨」とされ、「快」とされるのではあるまいか。費用は、一切不必要だ。
ただ一つ、条件がある。それはわたしのいのちのある限り、だ。その日がいつ来るか、特にわたしには全く保証がない。しかし、論語に言う。「朝に道を聞かば。」と。その貴重な各時代の各版本も、当研究所には豊富に蔵されているのであるから。
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