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『天皇学事始め』(論創社)
古田武彦、鎌倉孝夫、藤田友治
司会
シンポジウムの性格は、講師の皆さんの顔ぶれを見ていただければおわかりと思いますが、いろいろな考えの方が一つの問題について議論を戦わすパネル・ディスカッショシのようなものではございませんで、天皇について各方面の専門の皆さんにそれぞれの立場からお話を願って、天皇問題を深く考えていこうという内容になっております。
うまく司会、コーディネイトできるかどうかわかりませんが、会場からも、ご意見がいくつか出ていますので、それを集約する形で進めていきたいと思います。皆さんからいただいているご意見を中心にしながら論点を三点ほどに絞りましたので、それについて、先ほどのお話に対するそれぞれの講師の補強も含めて、問題を深めていきたいと思います。
それでは、三点と言いましたけれども、いろいろ多方面からご意見が出ているのですが、第一点としましては、古田先生の報告を踏まえた形で、古代の天皇を中心に考えてみたいと思います。質問の中では江戸時代の問題なども出ているようですので、特に古代を中心においた近代以前の天皇の位置というものについて、少し議論を深めていきたいと考えております。
それから第二点といたしましては、先ほど鎌倉先生から報告していただいた中で、特に最後にご自分でも一番大事な言いたいところだと言われながら時間の関係で端折ってしまったところ、現代の自由主義、新自由主義の問題と天皇との関わりをもう少しつっこんで議論していただきたい、そういうご意見が出ております。そこで、現代の資本主義の支配形態の問題に焦点を当てながら、そこにどうして天皇が必要なのか、そして天皇が必要とすればどのような天皇が必要なのか、そういった点について議論を深めていきたい。
第三点といたしましては、これは教育実践の現場から講師をお招きしたということもありますし、この会場にも教員の皆さんが多数お見えになっていらっしゃいますので特に現代の天皇をめぐる攻防のひとつの焦点ともいうべき教育現場においての天皇との闘い、天皇問題とのかかわりかた、そういった点について考えてみたいと思います。特に先ほど藤田先生の方からは、日の丸問題、君が代問題が中心に出されましたけれども、特に教育者として、子供たちに教育する主体として、反天皇という立場からどのような教育を行なっていけばよいのか、そういった点についての議論を深められればと考えております。
それでは、そういうことで、まず最初に、古田先生から、先ほどのお話を補足しながら、出ている質問にお答えいただく形でお願いいたします。
古田武彦
それでは、午後の部の最初に述べさせていただきます。申させていただきたいことはたくさんありますけれども、時間の関係がありますので、なるべく簡約して申し上げて、また詳しくは別の機会に、というふうに考えております。
午前中に申しました問題に関しまして、おもしろい問題がなおあるということを申しましたが、その一つは『古事記』の序文に関連したものでございます。そこに天武天皇の言葉がのっているわけです。通例「諸家の齎*(もた)る帝紀と本辭と既に正實に違ひ、云々」という言葉があるのですね。『古事記』を読んだ人には忘れられない一節なのですが、これについてもいろいろ議論がされてきた。そのあと稗田阿禮に、「帝皇の日継ひつぎや先代の旧辞」を覚えさせるというような話がありまして、この「帝紀」と「帝皇の日継」とは同じだ、要するに「帝紀」というのは「天皇の系譜」のことだ、というような理解が、現在の多数説になって今日に至っているわけです。
齎*は、齎の略字。ユニコード8CF7。士編に口二つ入れ、下が貝。
古田武彦
最後にもうひとつ、私としての補足は、私の『古代は輝いていた』などをごらんの方はもうご存じなのですが、ただ、今日のテーマに関連するので、その問題もぜひ、というお話が主催者の方からもありましたので用意したわけなのです。端的に申しまして、『日本書紀』の「武烈紀」というところはすごい記事が並んでいます。これも時間の関係で全部読めませんが、ここに書いてあります。
1 (二年秋九月)孕はらめる婦おむなの腹を刳さきて其の胎を観みる。
2 (三年冬十月)人の指の甲つめを解ぬきて暑預いもを掘らしむ。
3 (四年夏四月)人の頭髪を抜き、樹の巓いただきに昇らしむ。樹の本もとを斬り倒し、昇れる者を落死せしむるを快たのしみと為す。
4 (五年夏六月)人をして塘いけの[木威]ひに伏せ入らしむ。外に流れ出ずるを、三刃の矛を持ちて刺し殺すを快と為す。
[木威]は、IS第4水準ユニコード6972
5 (七年春二月)人をして樹に昇らしめ、弓を以て射墜おとして咲わらう。
6 (八年春三月)女をして[身果]形ひたはだにして、平板の上に坐らしめ、馬を牽ひきて前に就つきて遊牝(つるび)せしむ。
女の不浄を観み、沾濕うるえる者は殺す。濕おわざる者は、没して官碑と為す。此を以て楽しみと為す。
此の時に及び、池を穿うがち苑そのを起し、以て禽獣を盛みたしむ。而しこうして田獵をりを好みて、狗いぬを走らしめ馬を試くらぶ。出で入ること時ならず。
大風甚雨ひさめに避らず。衣温あたたかにして百姓の寒きを忘れ、食美うまくして天下の飢えを忘る。
大きに侏儒ひきひと・倡優わざおぎを進めて爛漫みだいがやしき楽を為し、奇偉の戯れを設けて靡々びびの声を縦ほしいままにす。
日夜官人と与ともに酒に沈湎よいしずみ、錦繍にしぎぬいものを以て席しきいとす。綾[糸丸]あやしらきぬを衣きたる者、衆おおし。
[身果]は、JIS第4水準ユニコード8EB6
[糸丸]は、JIS第3水準ユニコード7D08
7(八年冬十二月)天皇、列城なみき宮に崩ず。
ちょっとこれはこういう所に書くのが恥かしいような内容なのです。もしかしたら警察が取り締まりにくるんではないかと思うような内容が書いてあります。要するに武烈天皇というのは、妊婦の腹を割いて喜んで見ておった、あるいは女に馬とセックスめいたことをさせて、その結果を見て殺したり「官碑」にしたりしたとか、ほんとに何というか、見るも無惨な記事が書かれている。こんな悪いやつだ、武烈天皇は、上にもおけない、下にもおけない、人間でないような、悪いやつだ、ということを繰り返し巻き返し書いているわけです。では、なんでこんな事を書かなければならなかったか、というのがキー・ポイントなのです。
ところでご存じのように、中国の夏(か)の終りの桀(けつ)王、殷末糾(ちゅう)王、これはいずれも悪役の天子として中国で書かれているわけです。それで、津田左右吉は、この天皇をとり上げて、中国のまねをして、歴史書というのはこういうものでなければいかんと思って、日本でも「悪いやつ」を作りましょう、ということで中国の模倣をしたにすぎない、これも「造作」である、という形で処理したわけです。端的に言うとこの辺に津田左右吉の問題追及の甘さというものがあると、私は思うのです。
なぜとなれば、中国の場合、好き好んで悪役を作ったわけではない。夏を滅ぼした殷の湯王が天子の桀王を殺したのがいわゆる革命でありまして、言いかえれば、夏の家来だった湯王がご主人の天子を倒して天下をとったわけです。ということはつまり、それは天人ともに許さざる悪逆の行為だったわけです。そこで、武力で成功して勝ったのですが、その非難をかわすために逆宣伝に出て、夏の最後の天子はこんなひどい天子であったのだというPRを行った。これが、私は、『史記』や『漢書』などに出ている王朝の最後の「悪役の天子」についての真相だろうと思います。
同じく、殷の最後の紂王、これも悪逆の限りをつくしたというふうに書かれているわけです。これも言い換えれば、周の第一代武王がさっきと同じように自分のご主人の、天子紂王を討って権力を握ったという悪逆の行為を美化する、合理化する、武力の支配の後に観念の支配をする、観念で美化をすることが周王朝にとって不可避のテーマになっていたということです。だから、殷の紂王は悪者にされたわけです。実際に紂王が悪者だったかどうかというのは我々にはわからないわけです。
だいたいそうでしょう。天子だの天皇だのというのは、我々が見るのはいいところばっかり、そこしか見せられないわけです。陰でどんな悪いことを、もししたにしても、我々庶民や民衆の目に入るはずないわけです。ところが権力が変わった場合に彼は、表面はあんなに良く言われていたけれど、実はこんな悪いやつだった、という逆PRがなされるわけですね。だからその逆PRはそれぞれ殷王朝、周王朝にとっては、なくてはならないテーマであったわけです。
同じく、日本の場合も、次の継体ですね、これは三国(みくに)など、福井・滋賀県北部から出てきた。それで応神の五世の孫とか六世の孫とか言っているけれど、これはたいへんあやしい。そのへんのところの説明は時間の関係で省略しますので、私の『古代は輝いていた』をお読みいただければわかるのですが、要するにこれは臣下の武将のひとりだった継体が、“不当な権力奪取”を行なったということなのですね。だから、それまでの王朝最末の天皇、武烈を無上の悪者にしなければならなかったわけです。
『日本書紀』が作られた八世紀初頭、皆さんがよく知っておられる元明、元正、つまり天智、天武をすぎて、その子ども、孫というような時代にもなおかつ、あの王朝が「ウソの王朝」だ、それまでの「正しい王朝」を不当に断絶させて自分たちが「天皇」を称した「ニセモノ天皇」、その子孫だ、という評価は、実は近畿その他にあふれていた。あふれていたからこそ、『日本書紀』の中て武烈はこれだけいやらしい悪者だったそれはもう ーー中国なんかの記事に負けませんよ、この書き方は。もっといやらしいと、ーー こういう書き方をされたわけてす。だから偶然、書く人間がそれぞれの人間の歴史観によって、彼の「趣味」で書いたなどというものではないと私は思う。『日本書紀』などというのはそんなものではないですから。王朝公認の書ですから。
ということは要するに、継体以後の、推古や天智や天武を経て、元明、元正に至る二百年前後にわたるその王朝が、「ニセ王朝」であるという非難の中に、彼らは立っていたということです。だから『日本書紀』を作らなければならなかったし、『日本書紀』を作ったひとつの大きなキー・ポイントは、「武烈はこんな悪者であった、だから我々の祖先、継体のやった行為は正当だった」という、その「合理化」にあったわけです。この点を、津田左右吉は見逃して、単に大陸の歴史書をまねして、適当に、歴史書はこんなものでなければいけないということで作ったウソの「修飾」にすぎない、という形の“ごまかし”をやった。だから、「実際の天皇家は清浄無垢でした、きれいでした」ということを言いたいわけですね、津田左右吉は。津田はそういう天皇主義者ですから。だから造作説の裏にあるものは、実は天皇讃美であるわけです。
ところが、私は別に天皇を悪く言ってやろうとか讃美してやろうとかいう気持ちは一切ないのです。ただ、客観的に史料を史料として分析すれば、今のような答えしかないと思う。それ以外の解釈があれば、誰でも聞かせてほしい、こう思うわけでございます。この点を、いわゆる万世一系問題に関連して、歴史上の事実として申し上げさせていただきました。詳しくは私の本でごらん下さい。
古田武彦
次にですね、「埼玉古墳群で発見された、稲荷山古墳の鉄剣文字についてコメントいただければ幸いです」という質問です。これは今日の問題にも関係のあるテーマになります。ほとんど全ての学者は、これを雄略天皇に結びつけた、つまりこの「大王は近畿の王者」であると。ところが「大王」を雄略天皇にした場合には、非常に困ることがおこるわけです。
ひとつは、「左治天下」。あそこに出てくる、通説では「ヲノワケノオミ」 ーー「コノカキノオミ」と私は読むのですがーー 、あの古墳に葬られている主か、いわゆる「左治天下」、“摂政の役を私はしました”という文章があるのですね。ところが、摂政というのは言い換えますと、「大王」にあたる人物が女か子供であるから、叔父さんか何かが代わって政治を行なうことでして、「左治天下」というのはその時に使う東アジアの、中国の、術語なのです。ところが、雄略天皇は女でも子供でもない。むしろ、たいへん悪辣といいますか、どんどん兄さん達を殺して自分が天皇の位についたという事が書かれています。そういう人物ですから、全然ちがうわけです。
そこのところをどう切り抜けたか。例えば井上光貞さんという東大の名誉教授で亡くなられましたが、この方などは、要するに埼玉の人間が大ウソをついた、今でも田舎者はウソをつく、と。だから、実際は大和に連れていかれて、天皇家の門番にされたにすぎないのに、それを「摂政役をした」というような大ウソを書いたのだ、田舎者はそういうようなものだ、こういう解説を堂々としておられるわけですね。しかし、私は、やはりそういう、書いた人間をバカ扱いして切り抜けるのは、正しい方法ではないと思います。
というわけで、これもやはり時間の関係で長くは申せませんが、私の『古代は輝いていた』にも論じてありますので長くは申しませんが、この大王は「関東の大王」である、という結論を私は持っている。しかも、最近の私の研究の進展からいうと、どうも女性なのですね。あの稲荷山古墳のまん中にある墓室が盗掘されておりますが、被葬者は、女性の可能性がある。それで、横にななめにあるのが、例のあの鉄剣が出てきた、「ヲノワケノオミ」か「コノカキノオミ」の墓なのですが、その女性を補佐した人物が、生きている時も補佐したが死んでもこの方と同じ古墳の中に、側に眠りたい、ということで、ちょっとななめに、そばに寄り添うように作られているわけなのです。そういう古墳の状況にも合致するわけなのです。“雄略天皇のことと自分のこと”だけだったら、かんじんのまん中の盗掘された墓の人物のことは全然ノー・タッチということになるわけですね。これはおかしい。おかしいと私はさかんに言っているのですが、全然応答していない。
最後にもうひとこと言いますと、あそこに、“その大王が斯鬼宮しきみやにおる時”と書いてある。ところがその斯鬼宮というのが、栃木県の藤岡町、今の稲荷山古墳から直線距離で十キロなのですが、そこに磯城宮という字(あざ)がちゃんとあって、「ここの大前神社というのは昔、磯城宮といった」という、明治十二年の石碑が建っているわけです。こういうことを全然無視して、というか知らずに、いきなり、大和の方の雄略天皇に ーー雄略天皇がいたところは「シキミヤ」とはいわないのてすか、昔はきっと言ったのだろう、というような事でーー 、当てたわけですね。ですから、この関東の古墳の問題も、多元説か一元説か、という点で非常に大事なわけでございます。
もうひとつの質問。「出雲と熊野の関係はどうだろうか」ということです。この例として各神社の火うすの型ですが、現在「もみ手」、いや「キリ」ですね、型をとっているのは出雲・熊野・神魂(かもす)・諏訪の各神杜で、伊勢神宮系の「まいきり型」と完全に違っています。つまり、すって火をおこす儀式が各神社であるのですが、それが今の、伊勢神宮の場合と出雲・熊野の場合とで、スタイルが全然違う、これは何だろうか、と。これは非常に重大な問題をはらむのです。
と言いますのは、こういう火をおこす道具が神杜の重要な祭具であるということは、端的にいうと縄文にさかのぽるわけです。つまり、火をおこすというのは縄文から火をおこしているわけですから、しかも金属器はないのですから、火をおこす道具というのは非常に重要な意味をもっているわけです。ところが、その火をおこすおこし方に流儀がある。つまり文明が違っているわけですね。日本列島の中でも文明圏が違っていて、火をおこすスタイルが違っているわけです。だから縄文から多元的な文明圏に分かれているのです。
ところが縄文からと私が言ったのは、まだ言い足りないのです。実は旧石器時代にもすでに東日本と西日本では、信州のあたりを境にして、はっきり出てくる石器のセットが違っているということか、芹沢長介さんという人の『日本旧石器時代』(岩波新書)という本に ーーこれはいい本でお読みになったらいいと思いますが ーー述ベられております。というのは、旧石器にすでに文明圏が違っているわけです。それは恐らく「文化」が違うというだけではなくて、やはり「政治」も違ったかもしれないですよ。「旧石器の政治」などというと皆さん、「うそっ!」といわれると思いますけれどね、実は旧石器にもすでにそういうスタイルの違ったものがある。それも東日本、西日本の二分ではないですよ。もっと、おそらく探していけばそれぞれの圏が分かれてくると思います。
だから、今まで我々が縄文や旧石器に関して漠然と抱いていた無邪気な、狩猟採集というか、あのイメージは、あれはもう、完全にまちがいですね。いわゆる縄文にもすでに階級があったということが最近確認されてきております。これもひとつだけおもしろい例をあげておきます。お母さんが子供を抱いてそのままの姿で出てきた、というので実に麗しい縄文の姿だと解説していた。ところがその同じ方が最近研究を続けているうちに、間違いだった、その抱えている女は奴隷であった、つまり乳母が殉死をさせられるわけで、世界的な例からみればそういうものだ ーーお母さんと子供が、いつも一緒に死ぬというのは変ですからねーー ということかわかってきましたということを、国学院大学の小林達雄さん(考古学の教授〕が朝日ゼミナールで講演されましたけれども、これは縄文にも奴隷がいたということです。
私は『古代は輝いていた』ですでに予言していたわけですが、「縄文時代に対しても、縄文奴隷という概念を提起したいと思う」と書いたのですが、それがはからずも実証されてきた。“縄文に階級あり、国家あり”という問題が今出てきつつあるわけなのです。そのへんになると、おもしろすぎて、なかなか時間がありませんので、ここでやめさせていただきます。どうも時間超過してすみません。
司会
なかなか興味深いお話がつきないのですけれども・・・・。
それでは少し議論に移っていきたいと思います。ご意見としても出されているのですが、古代の天皇の実像をいったいどのようなものとして理解したらいいのだろうか。我々はどうも近代以後の天皇しか頭にない。古代の天皇については、明治以後の明治政府によって作られた『日本書紀』、『古事記』に対する解釈を通しての理解あるいはそれに反対する、つまり近代明治天皇制国家に反対する立場からの捉え方、いずれにしろ近代天皇制を通して見てしまいがちです。しかし、実際のところ、実証的に見た場合、古代の天皇制国家というのはどのようなものだったのだろうか。
明治以後は天皇中心だということは誰でも知っていますし、それ以前の江戸時代までのかなり長い期間は天皇はいたけれどもあまり実権を持っていなかったということもよくわかっていることなのですが、古代はやはり天皇中心で、古代天皇制国家だったのだという一般的な理解があります。近代以後の天皇制を擁護する人達は、古代がまさに天皇を中心にまとまった社会であったと美化し、いってみれば近代天皇制の模範のような形で、日本列島が天皇を中心に統合されていたかのように言うわけです。
また、近代天皇制を否定する立場の人達も、古代天皇制に対しては、天皇による人民の専制支配という意味で、もちろん否定的な評価ではありますが、事実としてはこれもやはり天皇中心の国家と考えているわけです。しかし、実際のところ、古代天皇制というものが、はたして本当に天皇中心のイデオロギーによって統合されていたような体制だったのかどうなのか。このような疑問との関連では、さきほどからの先生のお話にも出ておりましたが、我々から神のように言われていても、実はその神さん自身が神さんを拝んで夢を見るような話まで出てくるわけなのですから、当時は天皇の神格化などなかったのではないか、また神格をもつようになるのはいつごろからなのか、という質問も出されています。そういう問題も含めて、古代の天皇制とはいったいどういうものだったのかを考えて見たいと思います。
例えば、古田先生によれば、近畿、大和の天皇が実権を握っていく過程で、自分たちの本家である九州王朝を打倒するわけですが、その九州王朝は果たしてそれで完全に負けてしまったのか、歴史上から消えてなくなったのだろうか。その後も、権力実体はともかくとしても、権威としては、東アジアの中で長い歴史をもち特に中国との関係では一貫して正統性を維持していた九州王朝ですから、かなりの期間持続していたのではなかろうか。簡単に天皇家によって権威まで含めて取って代わられてしまうということにはならないのではないだろうか。そういう意味では天皇の支配が奈良朝として確立したとはいっても、九州王朝なり関東王朝なりの、そういった様々の王朝の統合力もまだかなりの程度に残っていたのではないか、つまり、古代天皇制といっても、全人民的な統合のための権威を天皇が有していたとは、とても言えないのではないか、そういったような疑問が出てくるわけであります。
それで、まずひとつ古田先生にお話願いたいのですが、九州王朝が白村江の戦いでダメージを受けて衰退していったあと近畿天皇家が実権を握っていくということですが、果たして九州王朝はそれで滅んでしまったのか、それとも「九州」という天子にかかわる名前がいまだに残っているわけですから、その後も九州王朝というものが、天皇家が実権を握ったとはいえ、何らかの形で続いていたのか、そういったことについて、もし、具体的に何かあるようでしたらお願いいたします。
古田武彦
古代以降、現代までどうなったのかということについては私にとってはほんとうにまだ未開拓の分野でございますが、しかし、今、司会者の方でおっしゃった問題はその通りだと思いますね。
形の上では、というのですか、七世紀の後半、六六二年の白村江の戦いで九州王朝倭国が決定的な打撃を受けた結果、七世紀のおわりに九州年号といわれるものも断絶しまして、代わって近畿天皇家が大宝元年という連続年号を開始するわけでして、そこで交代したというふうになるわけです。
しかしながら、おっしゃいましたように、単なる年号だけの問題ではないはずですから、その支配の体制とか行政機構とか、そういうものが一朝にしてなくなるはずはないわけですから、それは、『続日本紀』とかそれ以後の文献、まだ私には未開拓の分野なのですが、充分に痕跡は残っているようですね。
たとえば『和名抄』というものに地名が残っておりますが、そこに「余戸あまりこ」という地名があるわけです。地名というのは、行政名で、戸数を勘定していって、はしたが余ると「余戸」と称するわけです。それが、ずっと西日本も山口県あたりまであるのです。ところがなぜか九州だけは余戸がないのです。これは下関の前田博司さんという地名の研究をやっておられる方が私に教えて下さったのですが、たしかにそういう風ですね。ということはつまり、九州にはそれ以前からのいわゆる戸数、行政形態があって、今さら「数え残し」などというみっともないことをする必要がなかった、と見られるわけです。ということで、全国、とくに西日本に多い「余戸」が九州ではゼロと、そういう現象があらわれている。というような一例をとりましても、今、司会者が言われました、天皇制確立以前の古代制の影響はそのあとも、やはり続いていくのではないかという問題があるわけでございます。
それで、なおこういう問題をいちいち挙げていてもきりがありませんから、最も重大な問題をあげさせてもらいます。これは私、かつてこういう所でしゃべったことがない問題なのですが、いわゆる部落、被差別部落の問題でございます。実は、おとなりにいらっしゃる藤田さんが、私が京都にいました時、最初に来られて質問されたのがそのテーマでございました。つまり、関西では天皇陵の近くに部落が非常に多いが、これはいったいどういうことでしょうか、という質問を持ってこられたわけです。私はこれは非常にすばらしいご質問です、ということでお話をしたことを覚えております。
これも、このことだけで、一日のシンポジウムでは足らないわけですけれど、今は、私の関心事を申します。全国の部落の分布図というものを早稲田大学の研究会が作ったものなどがございますが、そういうものを私の方が見ると古墳の分布図とたいへん近似性を描いているわけです。東北・北海道へ行きますと非常に減ってまいりますね。古墳も減ってまいりますし、部落も減ってまいります。ということは、いわゆる被差別部落なるものの淵源は、少なくとも古墳時代にすでにあるのではないか、という問題があらわれてくるわけです。
しかし、高等学校の教師時代に、同和教育などでさんざん聞かされましたのは、“あれは要するに江戸時代の「造作」である、江戸時代に作り上げた架空のものにすぎない、だからあれは消えるべきだ”、こういうことだったわけですね。たしかにそう考えた方が、“もうあんなものは時代遅れですよ”という結論にいくには楽なわけです。
しかし、本当にそうか。私自身のささやかな経験を申させていただきますと、その同和教育の研究大会の第一回の時だったですが、京都でありました。その旅館の同室に、私を含めて三人の高校教師が泊まった。その一人の、山形の先生が悩みを打ち明けられた。というのは、「私の方にはひじょうに困ることがある」と。「何が困るんですか」「部落がない、だから生徒に『部落』と言っても何のことかポカーンとしててわからない」「そりゃあ、結構じゃないですか、部落がないなんてのは悩みどころじゃないじゃないですか」、こう言ったら、「いや、うちの生徒も卒業したら東京へ行ったりして就職する。そこには部落がある。だからその正しい知識を学校教育において知るべきだと思う」とまあ、非常に良心的な話なのですね。「そう思って教えるんだが、全然受けつけてくれない。彼らの生活体験にないから」、こういう話なのです。私はびっくりしました。私はどっちかというと関西、西日本で育ちましたので、そういう別天地があるなどと、それまで思ってもいなかったのです。それで、何でだろう、という疑問からさっきのような問題にだんだん来たわけなのです。
だから、古墳時代にさかのぼる、少なくとも受け皿は、ですよ。“古墳時代のメンバーというか、そのときの家が全部現代の部落だ”などというのは、それは全然間違いです。それは中世、近世いろいろ入れ替わってその時代時代の変容を受けています。これはもう明らかです。そっくり変わっているのではないか、と思うぐらい変わっているのです。しかし、いわゆる部落という「存在」自身は、やはり古墳時代に少なくともさかのぼるのではないか。いや、それだけではない。弥生時代、いわゆる私のいう邪馬一国の時代も「倭人伝」を見れば、明らかに「奴碑」あり、「生口」ありということが書かれていますから、ここまでさかのぼるわけです。さっきの「縄文奴隷」という考え方から、縄文にもさかのぼる可能性があるわけですね。というようなことでございます。
それで特に、天皇家がいわゆる“勝ち残り戦”によって統一していったでしょう。だから天皇陵と被差別部落とはたいへん深いかかわりを地理的に持っているという、藤田さんの、関西の現地の方ならではのご観察は、非常に鋭かったわけです。ところがそういうことを、いわゆる現在の解放教育、同和教育では言わないわけですね。しかし“こういった方が楽で、都合が良い。部落差別はやめましょうという話にうまくいける”というだけの理論は、私はほんとうは強くないと思います。本当に強いのは、やはり、歴史の真実に根ざした理論です。
もう一言だけ申しますと、あの、今までの解放教育の理論は、“悪いのは徳川様ですよ”という理論なのです。“天皇家は悪くございませんよ”と。そうでしょう。江戸時代に統治上の必要で「作った」というのですから。つまり江戸時代の統治責任者は徳川さんです。天皇家ではないですよ。“悪いのは徳川さんです”、これはいい理論ですね。明治以後ではたいへん歓迎されて生きのびやすい理論ですよ。
しかしそれでいいのか。実は、「悪い」のが、というのはおかしいが、その原因はやはり「天皇様」にあるのではないか。「限りなく神聖なるものが存在する時、限りなく卑しいものもまた存在する」というのは、たいへん筋の通った話なのではないか。それを一(いち)徳川様に収斂(しゅうれん)させた知恵は、「知恵」としては認めるけれども、それは「うまい知恵」ではあっても、歴史の真実に根ざした知恵ではないのではないか。というような問題、あまりにも重要な問題をあまりにも短い時間で申させていただきましたが、こういう重大な例をとりましても、やはり「古代というのは、現代に生きている」ということを私は言いたかったわけでございます。
十分なお答えにはならなかったと思うのですが、非常に重大な、この問題を抜きにして、私はほんとうは日本の歴史の理解はできないと思うのですが、そういう問題提起として言わせていただきました。
司会
またまた、大変なお話が出てきましたが、その点は少しおきまして、先ほどの問題点なのですが、八世紀の時点で九州王朝に代わって近畿天皇家が実権を握った後、九州での支配体制を確立するにあたって、実態はすでに弱いものになったとはいえ、従来の九州王朝の権威に対して近畿朝廷が自らの正統性を新しい権威として主張していく必要性が、その後の相当長い時期にわたってあったと考えてよろしいのでしょうか。
古田武彦
おっしゃる通りです。その点、私は九州については充分ではございませんが、最近実は関東について非常に重要な発見をしました。今年の天皇誕生日のころ、群馬・栃木の旅に参加したのですが、その時、群馬県の高崎市の近くにある多胡碑 ーーこれは有名なもので私も何回も見ていたのですがーー それを見学中に、ここにも来ておられますが ーー高田さんーー 女性の方ですが、「この横の所に字がありますよ」といわれました。正面に対して向かって左側の所に字があると。「ちょっとありますよ、これはあとから書き足した字でしょうね、誰かいたずらで書いた字でしょうね」とおっしゃいました。「どれどれ」、とわたしが見ると、たしかに田んぼの「田」とも理由の「由」とも見える字がのぞいている。それでなお、「ちょっと待って下さい」、といって裏の第三面を見、それから向かって右側の第四面を見ました。そこに明らかに「年」という字が、はっきり、じつにしっかりした書体で残っていたわけです。
ということは、そんなにいたずらをしっかりした字で書こうということはありませんので、これはどうも、いたずら書きではない。そこでなおくわしく藤田さんをはじめ、三、四十人の目で見ますと、結論としてどうもこれは後から削られたものなのですよ、ということになってきた。その証拠は、二面、三面、四面がいずれも全部剥落しているわけです。今まで我々が知っている一面だけが全然何の剥落もないわけです。そういう形跡があるというのは、自然状態では考えにくい。人工で削ったら当然ありうるわけですね。
では、なぜ削ったのか。その理由を残っている第一面が暗示しているわけです。残っている第一面は大和朝廷が「羊」という人、羊大夫という人に多胡郡というものを新設して与えたという内容の記事なのです。ところが、碑のところから、皆で乗ってきたバスのとまっていたところまで帰る途中に考えてみると、その第一面の文章はおかしいのです。そこには「羊に給す」あるいは「羊に給う」と書いてある。「羊」というのは肩書きも何もないわけです。しかし多胡郡の長官になる人間なら当然、肩書きがいろいろあってしかるべきなのです。ところが全然、これが書かれていない。ということは、これが、いわゆる羊大夫の自署名「私にいただきました」という「私」のことを「羊」と表現していると考えざるをえないわけですが、その「私」は何者かというのが、実は二面、三面、四面にあったはずだ、奥書きみたいにしてね。
つまり、高崎の近辺ですから、あのへんのどこどこの生まれ、どこどこを支配して、祖先はどういう偉い人だった、というようなことを書いた肩書きがあったはずなのです。それは恐らく、天皇家ではなくて、「毛野の君」 ーー『旧唐書』「倭国日本伝」で「東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なり」とされて、近畿の「日本」ではないとされている、その「毛人の国」を支配している毛野の君ーー から代々こういう肩書きをもらっている、という話が書いてあったはずなのです、そのお膝元ですから。ところが、そこが削られた。
ということであの史料は、誰もが一面だけで喜んで使っていたのですが、実はそれが示す最も重大な局面を全然知らずに使っていたわけです。毛野の君が近畿天皇家と対抗して、争った話が『日本書紀』の「安閑紀」に残っていますが、その「毛野の君時代の話」は削り取られているわけです。あんなによく知り抜いた金石文がああいう秘密をもっていた。おそらく、九州の場合も、その目で見ていくと、その類のものが出てくるのではないか、こういうふうに思っております。
司会
そうしますと、近畿天皇家は自己の正統性を主張するために『日本書紀』を編纂し、そのイデオロギーを強制していったということですが、実際のところ、九州王朝が滅び、『日本書紀』が編纂されたのが八世紀で、九世紀には藤原氏の実権が確立するわけですから、その意味では普通イメージされているような『日本書紀』のイデオロギーでもって全国的に統合されていたような古代天皇制なるものが、はたしてあったのかどうかが非常に疑問に思われるわけです。つまり、日本の古代社会には、天皇制イデオロギー、『日本書紀』のイデオロギーで統合されていた社会などなかったのではないか、そもそも“古代天皇制社会”なるものが、まったくの虚像なのではないか、そのようにも思うわけですが、いかがでしょうか。
古田
そのとおりだと思います。今の私の資料でも示しましたように、天皇という言葉が現われてくるのは七世紀前半の推古朝でございます。それ以前に九州王朝側で天皇という言葉を使っていたという痕跡がございます。だから近畿の天皇家が、西は九州から東は関東あたりまで支配圏を伸ばしてきたのは、八世紀のはじめ以後で、古代というのをどう使うかによりますけれど、七世紀以前も古代と考えるならば、そこでは「天皇家の統一支配」ということは考えられない、というのが結論でございます。
もう一点、現物証拠を一つだけあげておきますと、福岡県の海の上に沖の島という島がございますが、ここでたいへんな宝物がぞくぞく出てきて、国宝になっているわけです。例えばその中で、一番印象的なものに、金の龍があります。金で作った龍 ーー私は、座席の横につけた龍頭ではないかと思うのですが、さおの上につけたという考え方もありますけれど、とにかく、それーー が出てきたわけです。ところが、金の龍というのは、いうまでもなく天子のシンボルなのですね、東アジア世界では。だからそれをつけた人間は天子を名乗っていたはずなのです。ところがそれに対して、従来の歴史学者は“天皇家が奉納したものだろう”という解釈をするわけです。しかし、正倉院にはそんなものは全然ない。正倉院からは金の龍など出てこないわけです。自分の持ち物までなくして奉納した、ということになるわけですね。
ところが、沖の島の対岸である宗像の方に宮地嶽古墳という、日本最大のせん道をもつ古墳があるのですが、そこの中からやはり金の龍の冠がでてきているわけです。すると、すぐ対岸で金の龍の冠ですから、沖の島の金の龍はそれと一致すると、自然に考えるのがふつうなのです。ところが従来の学者は、天皇家が奉納したものだろうと、あくまで大和朝廷のものとして理解しようとするわけです。井上光貞さんの最後の論文がそれでございます。ということで、現物証拠の方でも、七世紀のおわりまでのところでは、あそこに「天子あり」「九州に天子あり」ということを示しているわけでございます。ということで、司会者のおっしゃる通りでございます。
司会
少し視点を変えたいと思います。今、天皇問題について体制の側から、中曽根のブレーンとして動員されているのか、自分がやりたくてやっているのかよく分りませんが、新京都学派といわれている上山春平とか梅原猛とかの本来ストレートに右翼天皇主義者という人たちではない哲学者のような方たちが、新日本学といったものをもって登場しているようです。
その中で言われている主張が、中には神がかり的なことを言うこともあるようですが、基調としては、日本人の心は縄文にあるが、その縄文以来の重層的に重なりあってきた歴史の中で、古代において天皇の下に統合されたことに非常な意義をもたせる、それ以前においては中国からももちろん入ってきただろうし、朝鮮からも来ただろうし、いろいろなところからいろいろな人たちが来て、支配関係も当然変わっているのだというわけです。ですから、もう少し進めると、先生の実証されているように、たしかに日本列島の中にも多元的にいろいろあったかも分らない、しかしながら、最後に天皇の下に統合されたことは事実なのだ、そのことが重要なのだ、というようなことを強調しているようにも思えるわけです。
そういった観点というのは、従来のいわゆる皇国史観の神から始まった万世一系という、単純な構図ではない。もともと日本列島の中に土着的に生きてきた縄文の魂 ーー彼らは縄魂というようですか、この縄文の魂ーー が、その上に様々なものを吸収して最後にそれが天皇家という形で統合されていったのだ、その心は、現代の日本人の中にも生き続けているのだ、と。そして、自分自身の人生においての危機だとか、契機だとか、あるいは国家の危機だとか、そういった時になるといつもは忘れているけれどもふっとそういう心がのぞいてくるのだ、というようなことを実際言っているようなのですが、これはやはり新しい天皇美化論と言っていいと思います。
これに対しても、おそらく実証的なことで議論することになれば、先ほどからの古田先生のような形で反論していけばひとつひとつ論破できることだろうとは思うのですけれども、問題は、先ほどからのお話のように五世紀、六世紀などは論外だし、七世紀でもまだだめだし、八世紀になってやっと大和朝廷の支配が確立するという事実を前提とした上で、しかし、八世紀以後になると、基本的に天皇の下に統合されて、そのあとは権力者は代わっても、天皇はなくならずに今日まで続いてきているという、こちらの事実の方を強調してくるときにどう対応すべきかということではないかと思うのです。ですから、彼らに対しては、どうしても、なぜ、実際の権力関係としては天皇自身の実権がなくなっていくにもかかわらず、なお天皇自体はなくならなかったのか、という間題を詰めなければならない。
そこで、質問にも出ているのですが江戸幕府においても、形式的な制度としては、官位官職に律令制をそのまま使っていたそうですが、なぜ実態としてはすでに存在しない律令制が、形式としては明治に至るまで続いていたのか、ということになると思います。つまり、なぜ天皇を支配の頂点に置かなければならなかったのか、たとえば藤原氏が実権を握った時にどうして藤原氏が日本の国王を名乗らずに、形式としては天皇を補佐する立場で実権を握るということになっていったのか、かなりむずかしい問題だとは思いますが、ご意見を伺えましたら・・・・。
古田武彦
非常に大事な問題なのですが、そしてまた、いろいろ検討しなければならない問題を含んでいると思うのですが、私は、最も簡明率直に考えてみたいと思うのです。
と言いますのは、日本の歴史が縄文どころか、旧石器をバックにしている、旧石器日本列島、縄文日本列島をバックにしている。これは当然だと思うのです。縄文に限定する必要はないわけですね。言い換えますと、旧石器を入れると何十万年、あるいは何百万年かもしれませんが、それに縄文だけにしても一万年の歴史を持っているわけです。それに比べますと、いわゆる八世紀以後わずか千二百年、何十万年対千二百年の話を、今しておられるわけです。
その千二百年の間も天皇家というのはいろいろそのあり方は単一ではございませんでした。それも簡単にいいましたら、各時代の豪族なり権力争奪者達が天皇の存在を必要とした。必要としたから存在したのだ。彼らにとって、ある言い方をすれば、利用価値があったから存在しえたのだ、ということだろうと思うのです。そして、その利用価値がほぼなくなりかけていたのが、明治以後また価値が出てきた、ということなのですね。
しかしそれを全部ひっくるめましてもわずか千二百年でありまして、私のような歴史をやっている者から見れば、上限がある、ということが大事なのです。上限、つまり無限のかなたから、縄文からスーと出てきたのではなくて、人間としては我々と同じように縄文以前からつながっていると思うのですが、しかし権力者としては上限がある。ということは上限があって歴史の中に登場したものには下限もある、と考えるのが、これはあたり前ですよね。上限はあるが下限はない、などというのはちょっと私には考えにくいのですが。私の頭では、「上限があれば下限あり」というのが当然だと思うのです。
それは地球上のあらゆる王家もそうだった。また、中国などでは、私は感嘆するのですが、『三国志』などを見ると、天子自身がそれを言っているのです。「国家は有限である」と。「だから、立派な古墳を作るな。国として滅びざる国はない、墓として暴かれざる墓はない」と。すごい哲学ですね。天子本人が書いたのではないでしょうけれどね。お附きの学者が書いたのだと思うのですけれど、それにしても詔勅としてそういうものが出るというのは、私はやはり中国の歴史の経験の古さを語ると思います。権力者自身がそのくらいの自覚をもっていれば、そう権力を絶対化することもしにくいかもしれませんが。
「しかし、日本の場合は特別だ、無限だ」。わが国の国民の中にはそう思っている人もいるのではないかという気がするのですけれど、これはかなり頭が「おかしく」なっているのではないか、「酔っばらって」いる。歴史の中に「上限」をもって誕生するものは、「下限」をもって終わる。それは、わずか千年か、わずか五千年か、わずか一万年か、知りませんけれどね。わずかの役割を終えたら滅んでいくというのが、これはもうあたり前のことで、そのことはとりたてて言うほどの事ではないわけです。その中には千年続いたのもあれば、五百年のもあるし、二千年のもあるでしょうね。地球の上でこれは、目くそか鼻くそですよ、こんな違いは。それで、何でこちらが「目くそ」になり、こちらは「鼻くそ」になったかというのは、その社会のそれぞれが要求した、あるいは利用価値があった、権力者が要求した、あるいは権力者連合が要求したとか、社会構造が要求したとかね、それぞれの意味がある場合に生き永らえるので、もし意味がなければ消えていくわけです。この道理に私は全人類のどんな権力とて例外があろうとは思わない。また、日本の天皇だけは、それの例外である、とは思わない。その長さも人がいうほど長いとは思わない。何十万年の中の千二百年といえば短いですねえ。ということだから、各論はそれぞれ、各時代に関して当然考えるべきでしょうけれど、巨視的な、人間としての冷静な視点は、今私が言ったところ以外にないのではなかろうか、と常々考えております。どうも失礼しました。
司会
明解なご意見をいただきました。彼らは縄文からの長い歴史を天皇の下に統合して、それから千数百年がどうのこうのと強調するわけですが、今の先生のお話から分りますように、千数百年といえども、縄文の古さから比べたらほんの点にしかすぎない。それどころか、彼らは縄文の心が危機の時にふっと出てくる、それも天皇に統合された縄文の心として出てくるなどとしたり顔で言っているようです。
ところが、先生の実証によりますと、明治の天皇制が確立する直前までは、なんと縄文以来の巨石信仰が、それも天皇とは全く関係のない形で生き続けていたそうでございます。それが明治の新政府の弾圧によって壊された。まさに縄文の心は“ふっと出てくる”のではなくて、天皇と関係のないところでは日本列島の至るところで脈々と生きていた。そしてその縄文の心を破壊したのがほかでもない天皇主義であった。彼らの主張とはまったく反対に、これがいつわらざる日本の歴史の真実であったといってよいのでしょうか。
古田武彦
今のご質問は、わたしの本に出ていることで、読んだことのない方には、お聞きになって何のことかおわかりにならないと思いますので、簡単に申させていただきますと、実は出雲に、立石という部落がありまして、そこに「たていわさん」というのがあるのです。要するに、大きな石です。宍道湖の西北に大船山というのがある。この裏側、大きな石が三層につながっていて、まさに巨石信仰の聖地という感じのところなのです。
ところが、そこへ行って驚きましたのは、そこに、建物の礎みたいなのがいっぱい残っているわけです。聞いてみますと、江戸末期まではそこの部落の人たちが巨石信仰という形で毎年お祭をやっていた。ところが明治政府がこれを弾圧したのですね。そしてその社殿も全部壊してしまった、のみならずその囲りの御神木を全部、切り払って材木問屋に売り払ってしまった。なぜそんなことをやったかといったら、石を拝むなどというのは淫祀邪教だからだというのです。明治政府では平田神道 ーー本居宣長の弟子、没後の門人といわれる平田篤胤、ちょっとこれは狂信的な神学者でしたかね、彼の若いお弟子さんーー の青年達が教部省を握ったわけです。そして、伊勢皇大神宮のあの系列が正しい神道だ、石を拝むなどというのは淫祀邪教だ、とそういう弾圧をやったのです。そのあと、そこで二軒残った家が、こそこそと秘かに敗戦までお祭りを続けていた。だから、その二軒がなくなったら絶滅していたのですね。
それが幸いに敗戦になって、下の方の部落が連合して、支えるお祭りの母体ができた。そういう事実を知りました。はじめ私は、「廃仏毀釈」といいますからね、仏教は弾圧されたが、神道は、神々は、優遇されたと思っていた、明治以後のことですが。それがちがうのです。神々の中で平田神道、伊勢の系列の神道は大事にされたが、それに合わないのはよけいひどく弾圧された、ということを知りました。
最後にひとつ。私は「君が代」というのは、実は巨石神仰をバックにする歌である、ということに気がつきました。「君が代は」、これは本来は「我が君は」と言いまして、“自分の恋人”あるいは“この村の長者のうち”という意味に使われたものなのですが、「我が君は、千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」という、その「さざれ石」というのは“細かい石”ではなくて、おそらく“神聖な石”という意味だろうと思うのですが、それが巌になって苔がむす。これは「永遠に石は続く」という信仰に立っているのですね。つまり巨石の永遠性というものに対する信仰がバックにあって、それに対して人間は有限である、恋人でも有限である、また村の長者も有限である。だから「君が代」と改定した、その天皇制も有限である。私がさっき言った通りです。
「上限」のあるものは有限である。“その有限である天皇制があの無限な、永遠なる石のように願わくば続きますように”という内容なのですね。だから、あの「君が代」は、完全に石への信仰をバックに歌われた歌なのですよ。だのに、あの「我が君は」を、「君が代は」に変えて国歌にしようとした、当の明治政府は、「石を拝むのは淫祀邪教」だといって弾圧しているのですから、全然、自分が作った「君が代」を自分で理解していないわけです。いわば“錯乱状態”なのですね。無理ないですよ。平田篤胤のように狂信的な神学者に結集した若い、一段と狂信的な青年たちが、明治の教部省の一番の権力を握ったのですからね。「視野狭窄」も、まあ無理ないわけです。
しかし、先ほどの藤田さんの「日の丸」についての御発表は、ちょっとわたしには賛成できません。なぜなら、あの「日の丸」の場合は、あれ自身としては何を意味するか、といえば、当然太陽のシンボルです。それが直ちに、「一定のイデオロギー」の表現とはいえません。しかし「君が代」の場合は、今言ったような内容性を持っている。それを肯定するか、否定するか、あるいは第三の立場をとるか、ということは、やはり戦後社会という現代にとって重要な、新しい問題になるだろうと、わたしはこういうふうに思っております。
藤田友治 (略)
司会
ありがとうございました。会場からもいくつかご意見が出ております。日の丸、君が代のように、今、上からかけられてきているものもあるけれども、すでに子供達が ーーこれは大阪でもそうなのではないかと思うのですがーー 例えば建国記念日だとか、天皇誕生日は休みになるものだ、というように、何のためらいもなく受け入れているものも多い。むしろ、そういう、今、あえて敵の側が攻勢をかけなくても定着しているものに対して、逆にこちら側から同盟登校なりを通して攻撃をかける必要があるのではないだろうか、こういったご意見がでています。なお、具体的な紹介として、これは大阪と言っても東大阪のようですけれども、意岐部東小学校というところで、もう七年間位、天皇誕生日に同盟登校を続けているという成果もあるそうですが、藤田先生にもそういう闘いも含めて今後ともご期待するという意見です。
それではもう時間になってしまいましたので、特にここでぜひこれだけはひとつ、講師の方にお聞きしたいというような点がございましたら、会場の方から受けていきたいと思いますが、いかがでしょうか。
よろしいでしょうか。
講師の皆さん、何かございましたら・・・。
古田武彦
私の方からひとつ。実は、司会者のお話にもあったのですが、なんでこう長く続いているのだろうというような疑問 ーーこれは司会者の疑問というよりも一般の疑問を紹介されたわけですが、ーー たしかに、とくに活動家というような人にはあるのてすね。反対しても犬の遠吠えで全然なくなりそうにない、というようなあせる気分だと思うのです。しかし私が考えるには、あせっているのはやはり権力者だと思うのです。権力者は常にあせっていると思うのです。
なぜかというと、自分がそのへんに見る国民と大差がないどころか全く変わらない人間だということが分るわけです、ご本人には。悩ましいことも考えるし、いやらしいことも考える。そういう人間だというのは誰に言われなくても分っているわけです。にもかかわらず、全然違う待遇を受けて、生まれてからいい服を着たり宮殿に住んだりするでしょ。これでいいのかな、ほんとうに、というような、人間であれば必ずそういう疑問を持ちあわせると思いますよ。だから、あせったあげく、長続きしようと思えば、なるべく今のように新しい時代や諸階層の要望に答えるような工夫をしなければいけないわけですね。だから象徴天皇制というのは“ひと工夫”だと思うのですよ。それで、ここでちょっと生き延びたわけですよ。しかしこれで、本当に大丈夫かな、とまたあせっているわけです。
だから、こちらの方は別にあせる必要はないので、私にあしたから天皇になってくれなどという人はいないでしょうからね。別にあせって考える必要は全くないのです。庶民で、一人間で、ずうっと生き通せる自信があるわけですから。だからこちらは全然あせる必要はないわけでありまして、やはり、権力者の側がもし生きのびたいと思うなら、一所懸命あせってもらわないといけないわけです。筋道は、私はそういうことだろうと思う。だからいわゆる運動家といわれる人たちが、なぜだろう、なぜこんなに長く続いたのだろうと、犬の遠吠えというような、そういうあせりを感じるのは、まさにこれは逆立ちした思考方式にとらわれているのではないか、というふうに思うわけです。これも蛇足、つけたしですが。
司会
それでは、きょうの集約に移らせていただきます。三人の先生の報告をふまえて天皇問題を考えてきたわけですが、とくにきょう参加して下さった皆さん方が、これから職場や地域に帰って、天皇問題にどうかかわるべきかという点に関してはかなり整理されてきたのではないかと思います。先ほど藤田先生が報告して下さいましたように子供たちの世界はもとより、自分たちの職場や地域で、どれだけ人間的な連帯を作りあげていくことができるのか、その中で、従来の権威に頼ることのない新しい自分たちの自主的な精神的支柱、これをいかに獲得することができるのか、この点が天皇との対抗の基軸であるといってよいのではないか、そういう結論になるのではないかと思うわけです。
最後に、これはおそらく古田古代史学のファンの皆さんもあまりふれることのないものではないかと思うのですが、古田先生が一九六四年、もう二十年以上も前に書かれた論文、「近代法の論理と宗教の運命 ーー“信教の自由”の批判的考察」(金沢大学暁烏賞受賞論文) これがあの古田先生の論文かなという思いがする題名なのですけれどもーー これの最後の部分に非常に興味深い結論が書かれていますので、これを紹介して本日の集約にかえたいと思います。
宗教批判を行なうにあたっては、「歴史的な宗教の遺産を徹底的な批判を通して継承しようとする立場」が必要であると言われて、次のように述べられています。
ここでは「もはや宗教批判はおわった」のではなく、「今から真の宗教批判がはじまる」のです。そして、その、科学的に批判され分析された結果抽出された真理が各人の内面に「のがれるところなき真理」として沈着し、現実との、社会的諸連関との化合をはじめるのです。それは、従来の歴史的宗教のような意味では「宗教」とは呼べませんが、「内面の生きた思想」、「生の根拠」として「実践的倫理」を形成することにおいては歴史的宗教にまさる力を有するはずです。
そういう人間達の倫理は、歪められた資本主義的現実の真只中から形づくられて、真直ぐに未来の社会へ向い、それを獲得しようとする強靱な倫理となるでしょう。それはあかあかと輝く太陽のもと、大地にしっかり立つ人間の生きた倫理です。
私たちが、宗教に対して科学的な批判を加え、宗教に代わる、自立した人間としての主体的な新しい倫理、実践倫理を今日の資本主義の現実の真っ只中で作りあげていくこと、そのことによってはじめて、私たちの社会は天皇なるものの克服へ向かうことができるのではないか、これを本日の集約として終わらせていただきます。
どうも長時間ありがとうございました。(司会 渡辺好庸)
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