古代は輝いていた


2014年 7月刊行 古田武彦・古代史コレクション21

古代は輝いていた III

法隆寺の中の九州王朝

ミネルヴァ書房

古田武彦

始めの数字は、目次です。
はしがきーー復刊にあたって と はじめに は下にあります。

【頁】【目 次】

i はしがきーー復刊にあたって

v はじめに

001 第一部 律令と年号をもった九州王朝

003 第一章 継体と筑紫の君

   いつわりの反乱 記紀の常套手段 北朝の立場に立つ『書紀』 『書紀』の歴史作りと津田史学 磐井の勢力圏 継体のクーデター ささやかな戦果 沈黙の史実

016 第二章 任那日本府

   朝鮮半島南辺の倭地 任那の滅亡 「みなま」という地名 「倶に崩薨」の謎

026 第三章 律令体制の国家

   中国の律令史 日本列島の律令史 朝鮮半島の律令 古律令の痕跡 漢語を用いた成文法 磐井の意図 磐井と継体の間 「裁判の場」の石造物

038 第四章 九州年号

   磐井と年号 年号は実在した 新羅年号と倭国年号 聖武詔報の中の九州年号 禁止された年号 実用の痕跡 飛鳥の九州年号 年号の創始 「九州年号」論争

064 第五章 二つの『風土記』

   県と郡 「一書」の先例 『日本旧記』と『日本世記』 九州王朝の行政単位 国県制の成立 国県制の論争史 「県『風土記』」のすべて 「県『風土記』」の三種類 四方の志 「県『風土記』」の成立はいつか 中国の制度史

087 第六章 筑紫舞と『礼記』

   『礼記』 『続日本紀』の証言 伝承された筑紫舞

 

093 第二部 仏教渡来の複数ルート

095 第一章 九州王朝と仏教

   三世紀の洛陽 高句麗仏教 朝鮮半島の倭軍と仏教 九州王朝への公伝

105 第二章 古墳期の仏像と仏像鏡

   丸隈山古墳の小仏像 仏像鏡 画文帯仏像鏡 扶桑国 『梁書』東夷伝序文と二つの問題 仏教伝来多元説

 

123 第三部 六、七世紀の東アジアと日本列島

125 第一章 空白の世紀

   倭国史書の欠如 彗星歌 二つの滅亡

129 第二章 出現した出雲の金石文

   額田部臣 「臣」の不審 「姓」の多元史観 出雲王朝の姓 天皇家の姓 六角連続文 岡田山一号墳

142 第三章 隋朝の南北統一とイ妥国

   南朝の滅亡 隋朝への遣使 歴代の倭王朝 イ妥国伝の証言 「多利思北孤」の意義 『隋書』の実例 兄弟統治 天子と年号 イ妥国の律令 イ妥国伝の地理 秦王国とは 秦王国の不定性 竹斯国基点 流求国 国交断絶 正確な国家関係 六角連続文の分布

177 第四章 推古朝の対唐外交

   裴世清の帰国 『隋書』と『日本書紀』 「朝貢」の有無 推古朝の遣唐使 十二年のずれ 『隋書』へ認識 元興寺の丈六光銘 裴世清の称号 「宝命」とは唐の高祖の使用語


209 第四部  法隆寺の中の二つの金石文

211 第一章 釈迦三尊の光背銘

   百九十六字の銘文 上宮法皇 聖徳太子か 法興元三十一年 登場しない推古天皇 上宮法皇の正体 止利仏師の謎 焼失した本尊 諸史料の中の上宮法皇 研究史の回顧

250 第二章 薬師仏の光背銘

   薬師仏造像記 用明天皇と大王天皇、太子 崇峻の空白 「推古仏」と「天平仏」か 福山説の問題 東西の金石文


259 第五部 白村江の戦と九州王朝の滅亡

261 第一章 『旧唐書』の証言

    東夷の五国 『旧唐書』倭国伝 白江の戦 倭国の正体 朝貢外交の登場と対等外交 『旧唐書』日本伝 「日本国」の登場

277 第二章 『日本書紀』の側から

    天智紀にみる敗戦記事 筑紫君の捕囚 敗戦後の叙勲

283 第三章 『万葉集』の謎

    歌人の分布 麻続王・軍王とはだれか 「大王」の探究 「東国万葉集」 出雲人の作歌 「倭国万葉集」 『万葉集』の多元史観


299 第六部 権力の交替と郡評制度

301 第一章 那須国造碑をめぐって

   韋提の賜わった称号 旧称の授与者 石碑建立時の日本列島

308 第二章 評制の終結

   郡評論争 新たなる謎、「評から郡へ」 隠蔽された評制 律令制の新視点


319 あとがきに代えて

333 資料 -- 九州年号 丸隈山古墳出土の小仏像

347 文庫版によせて

解説 山田宗睦(朝日新聞社版のみ)

355 日本の生きた歴史(二十一)

             357 第一 「偽史」批判
             359 第二 再び多賀城碑をめぐって

(朝日新聞社版カバー紹介)
カバー・法隆寺金堂の釈迦三尊像
装偵・多田進、佐藤忠
図版・吉沢家久
写真協力(飛鳥園)、熊谷武二、朝日新聞社出版写真部ほか

1〜9人名・事項・地名索引

     ※本書は『法隆寺の中の九州王朝 -- 古代は輝いていたIII』(朝日文庫、一九八八年)を底本とし、「はしがき」と「日本の生きた歴史(二十一)」を新たに加えたものである。なお、本文中に出てくる参照ぺージには適宜修正を加えた。


古田武彦・古代史コレクション21

古代は輝いていた III
法隆寺の中の九州王朝
________________
2014年 7月20日 初版第1刷発行

著  者   古 田 武 彦
発 行 者   杉 田 啓 三
印 刷 者   江 戸 宏 介
____________________________________________

発 行 所  株式会社 ミネルヴァ書房

_________________________
@ 古田武彦, 2014         共同印刷工業・兼文堂

ISBN 978-4-623-06668-4
Printed in Japan


はしがき -- 復刊にあたって

             一

 本書『古代は輝いていた』全三巻は「真偽批判」のための一書である。「真実の歴史をしめし、偽りの歴史を捨てる」ことに尽きるものだ。
 もちろん、日本の古代史が主たる対象だけれど、ここに一貫した学問の方法は、やがて世界の「従来の歴史観」に激震を与えはじめるであろう。アウグスト・ベエク(べーク)の「認識せられたものの、認識」という方法の実行だからである。
 わたしは青年の日、恩師の村岡典嗣先生からそれを学んだ。古事記・日本書紀などの日本の古典を研究するために、当時流行の「皇国史観」の立場からではなく、ギリシャ・ラテンを研究したベエクの学問を基礎にせよ、との教えだった。「ギリシャ語の単位だけはとるように。」その一語の真意はそこにあったのである。戦時中の昭和十八年(一九四三)だった。
 ギリシャ語自体については、いまだ未熟の一学び手に過ぎないけれど、ベエクのしめした学問の方法は、わたしを「皇国史観」とは別の世界へと導いた。それのみか、敗戦後の日本の古代史観の「王道」あるいは「定説」のような位置に“祭り上げ”られた、いわゆる津田史学、津田左右吉によって展開された「造作史観」に対しても、根本的な「不審の目」を抱かざるをえなくなったのである。

             二

 決定的となったのは、「九州王朝」、この四文字が日本の古代史の中に占めるべき、「歴史軸に対する認識」の有無だった。否、古代史だけではない。明治維新以降の日本の公の教育は「万世一系」とその“延長”として、天皇家を「日本の歴史の象徴」とする、近畿天皇家一元史観によって「独占」されてきた。この一事に対する根本的な「否(ノウ)」の一語がわたしの歴史観の基礎となった。現代の日本、すなわち「現代史」そのものに対する根源の批判とならざるをえなかったのである。

             三

 問題は、簡単だった。
 三国志の場合も、倭国と中国(魏・晋朝)との間の「文字外交」の存在を「無視」してきた。「俾弥呼」と「邪馬壹国」という「自署名」と「自国号」が、古事記・日本書紀とも書かれていない。三国志という三世紀の「同時代史料」のもつ意義を「無視」しつづけて明治以降の「公教育」は行なわれてきていたのである。
 それだけではない。有名な「名文句」「日出ず(づ)る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙つつがなきや。」を、女性の推古天皇や摂政の聖徳太子に当てて、「公教育」そして「公刊の歴史書」が“飾られて”きた。この「名文句」は古事記・日本書紀にはない。中国(唐初)の同時代史料『隋書』にのみ、出現する。その発言者は「多利思北孤(タリシホコ)」、「鷄*弥(キミ)」という妻をもつ男性である。明治以後の「公教育」では男性を女性と同一人とする「非、道理」、否「反、道理」が歴史教育の根本とされてきたのである。学界も同じだった。ここでも「隋書」は右の「名文句」の書かれた、七世紀初頭の「同時代史料」であること、この基本事実が平然と「無視」されてきたのである。
     鷄*:「鷄」の正字で「鳥」のかわりに「隹」。[奚隹] JIS第3水準、ユニコード96DE

             四

 いかに、衆を頼んでも無駄だ。有名出版社(たとえば講談社)や有名大学(たとえば東京大学)の名において『日本歴史 第一巻』(大津透著、二〇一三年刊)を“喧伝”させてみても、「天下の公理」は動かせない。「男女同一人」のイデオロギーが通用する時代は去ったのである。
 では、真実の歴史は何か。この問いに答えたのが本書、全三巻である。もちろん、九州王朝自体が刊行した、本来の歴史書(「日本旧記」など)が遣存しているわけではないから、過不足なき「全体像」を描くことは不可能だ。描けば、歴史学ではなく「歴史小説」に堕する他はない。しかし、その本来の道筋、真実の日本の古代史の姿は、まぎれもなく、本書全三巻の中にハッキリとしめされたのである。
 わたしたちは世界の心ある人に対して、本書を呈示できることを誇りとしたい。

             五

 それだけではない。本書において貫かれた学問の方法は、世界の他の国々で流布されている「国家の公の歴史」、また「宗教の公の歴史」に対して、大いなる「異議」を呈出することとなった。すでにあの秋田孝季が明示したように、「国家」や「宗教」の流派の書は「己が権力と己が流派の正当性」を“誇示するため”に、造られたものに過ぎないからである。
 今後の人類の「国家観」や「宗教観」に対して永遠の“批判”を与えるべき、ささやかな萌芽をこの全三巻は内蔵しているのではないか。わたしはひそかに今、それを望みとしているのである。

  平成二十六年四月六日早朝記了
                               古田武彦

 


はじめに

 わたしはかつて竈門(かまど)山の頂上に立った。太宰府の真裏に屹立する山だ。宝満山ともいわれる。
 そこにはじめて立ったとき、わたしは息をのんだ。太宰府はもとより、春日市、福岡市、博多湾岸一帯が一望の下にある。眼前というより眼下にあった。
 そのときわたしは瞬時に了解した。これらの人問の集落、町々は、はじめ「巌下町」として成立したことを。この山は、頂上が叢立する一大巨巌群におおわれている。あたかも壮麗な石の冠のように。
 金属器なき時代の太古人は石を愛した。否、崇拝した。今日から見れば、さしたる威容とも見えぬていの岩や石が、信仰の対象とされた姿が各地に残されている。その太古人がこの一大巌峰を見のがしたはずはない。縄文一万年、人々はこの山を登山の対象としてではなく、崇敬の的として見たことであろう。その痕跡が、山麓の竃門神杜の下宮、そして中腹の中宮(廃址)、頂上の上宮(小祠)であろう。板付の縄文水田も、金印の志賀島も、須玖岡本の王墓も、この巨巌信仰圏の中枢に横たわっていた。九州王朝はこの中から生れ出たのである。
 けれども、岩蔭に静思すれば、このような巨巌峰、奇巌谷の地は、決してここだけではない。むしろ日本列島各地にある、といっていい。そこにはそれぞれの信仰圏が成立し、縄文人の精神生活を豊饒ならしめたことであろう。そして神々はその各地に各様におごそかに生れ出たことであろう。
 日本文明は、多元的な淵源をもつ。決して天皇家というような、単なる一元のもとに発展したのではない。日本文明がその歴史発展の一段階として天皇家という存在を生み出したのであって、天皇家が日本文明を生み出したのではない。
 後代には、自明とされようこの一つの理念を証明するために、この通史は書かれたといっていい。
 この最終巻は、母なる九州王朝と、分岐した子なる近畿の分王朝との相克(そうこく)譚にはじまる。そして七世紀末、九州王朝の終焉(しゅうえん)をもって巻を閉じるであろう。
 山の頂上から見たあの絵巻物のように、日本の真実の古代文明を通視する道を、この本の中の頁々から見出して下さる一人の方があれば、歴史探究の旅をつづけるわたしにとって、これに比べうる幸いはこの世に多くは存在しないであろう。


古代は輝いていた

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