古代は輝いていた
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2014年 4月刊行 古田武彦・古代史コレクション19

古代は輝いていたⅠ

『風土記』にいた卑弥呼

ミネルヴァ書房

古田武彦

始めの数字は、目次です。
はしがきーー復刊にあたって と はじめに あとがきに代えて -- わたしの方法論 文庫版によせて は下にあります。

【頁】【目 次】

i はしがきーー復刊にあたって

v はじめに

001 第一部 日本古代史の夜明け

   003 第一章 日本人の始源

      文献にみる倭人の初源 縄文期の日本列島 稲の渡来
      周公の証言 縄文文明の再発見

   029 第二章 日本人はどこへ行ったか

      エストラダ・エバンズ学説 ・考古学界の宿痾 わたしの仮説

 

041 第二部 日本神話の多元性

   043 第一章 国生み神話の謎

      虚構の造作説 天の沼矛

   054 第二章 天国の所在

      「天降る」の意義 「天孫降臨」の意義 「天孫降臨」の神勅と稲

   063 第三章 国ゆずり神話

      「国ゆずり」の深義 筑紫の現地伝承

   068 第四章 「アマテル大神」の原型性

      天照大御神の原産地 対馬の現地伝承 宣長のあやまち
      万人周知の神話 出雲から筑紫へ 神話の伝播

   078 第五章 弥生新作神話の誕生

      造作は弥生にあった 出世神 沖の島
      スサノオの出生地 「三種の神器」の史料批判 大国主神の出身地
      神は死んだ 流された太陽神 不幸な舟 八岐の大蛇

   099 第六章 日本列島各地の神話

      蛇神信仰 果して「竜」か 関東の統一神 もう一つの神話
      フジの神の本源の姿 白山をめぐる世界 出雲の統一神 神魂命
      楯部 大穴持命の登場 越、征伐譚 イザナミの時 出雲と越

 

 121 第三部 隣国の証言

   123 第一章 『三国史記』

      多婆那国と脱解王 瓠公 新羅における倭人の活躍
      啓蒙主義史観を超えて 草創期の新羅

   137 第二章 『三国遺事』

      延烏郎・細烏女 すぐれた史料価値

 

147 第四部 金石文の証言

   149 第一章 志賀島の金印

        正しい解読 印文のルール 三宅説の背景 「例外」の論証

   158 第二章 室見川の銘版

        倭国の金石文 わたしの仮説 残された問題 倭国の文字受容史

 

165 第五部 倭人伝との対面

   167 第一章 倭国前史

        倭人伝の扉 倭国前史論 異面の人 冒頭の暗示
        「古」とはいつか

   175 第二章 里程論

        里程の謎 夷蛮伝の里程 韓地の里程 道里の論証
        『三国志』の里程 『三国志』以外の短里 短里の微差調整
        『周髀算経』の短里 短里の淵源 周朝の短里の廃止 短里の復活
        歴史の皮肉 短里の再廃棄 二つの序文 部分里程と総里程
        周旋問題 さまざまの算出法 水行と陸行

   208 第三章 首都・宮室論

        首都のありか もう一つの卑弥 其の北岸 朴堤上説話の証言
        国名の探究 国名の意義 「ヤマ」の意味 「ヤマ」の物語 宮室

   225 第四章 物証論

        倭人伝の諸物  矛  絹  勾玉  鏡  王仲殊論文をめぐって
        鉄  冢  狗邪韓国の秘密 『三国史記』の証言 伊都国の秘密
        二人の王 あやまられた伊都国王墓 王家の谷の宝器 広矛の問題
        大国主命と金属器

   267 第五章 卑弥呼論

        卑弥呼の秘密 記紀と卑弥呼
        日本側文献に現われた卑弥呼 天照大神の時代 巨大年代
        卑弥呼の実像

 

283 第六部 倭国の鳥轍図 -- その諸問題

   285 第一章 社会構成

        大人と下戸 階層分化 奴碑

   291 第二章 倭国の暦

        二倍年暦 張氏の反論 二倍年暦の下限

303 あとがきに代えて -- わたしの方法論

307 文庫版によせて

317 日本の生きた歴史(十九)

      319 第一 「時の位くらい」論
      322 第二 漢音と呉音論
      324 第三 「安倍家文書」の真実 -- 秋田孝季、再論

1〜9 人名・事項・地名索引

   ※本書は『『風土記』にいた卑弥呼 -- 古代は輝いていた I』(朝日文庫、一九八八年)を底本とし、「はしがき」と「日本の生きた歴史(十九)」を新たに加えたものである。なお、本文中に出てくる参照ぺージには適宜修正を加えた


古田武彦・古代史コレクション19

古代は輝いていた I
『風土記』にいた卑弥呼
________________
2014年 4月20日 初版第1刷発行

著  者   古 田 武 彦
発 行 者   杉 田 啓 三
印 刷 者   江 戸 宏 介
____________________________________________

発 行 所  株式会社 ミネルヴァ書房

_________________________
@ 古田武彦, 2014         共同印刷工業・兼文堂

ISBN 978-4-623-06666-7
Printed in Japan


はしがき -- 復刊にあたって

           一

 「虚偽の日本」を捨て、「真実の日本」を描き出す。 ーーこの一事が今回の『古代は輝いていた』(全三巻)執筆の目的だった。その真実の淵源としての古代史論である。正しい歴史をさかのぼらなければ、現代の日本に対する正当な歴史認識など、ありえないからである。
 昭和五十九年(一九八四)に成立した本書を読み返してみると、現在(平成二十五年、二〇十三)に至る、わたしの探究の道筋がクッキリとここに「定置」されていたことに驚く。三十年の軌跡は、運命のようにわたしを導いてきていたのである。
 たとえば、『俾弥呼』(二〇一一)、三国志の魏志倭人伝では「卑弥呼」、しかし彼女が中国(魏朝)に送った「国書(上表文)」では「俾弥呼」と書かれていた。「自署名」である。同じく「邪馬壹国」、わたしの倭人伝研究の原点だった。それはまさに彼女の「国書」の「自署名」のための「自国名」だったのである。“祖先を祭る”ための「太陽信仰に基づく国」をしめす国名、三国志の著者、陳寿はこの倭国の国名を知り、中国の周・漢・魏に失われた「死者に対する礼」を保存し、今(三世紀)に伝えるもの、と讃美していたのである。わたしが昨年の九月に公刊した自伝『真実に悔いなし』に詳述した通りだ。だが、その一見“意外な到着点”は、実はこの三冊のしめしたところ、その向かうべき必然の帰結だったのである。
 従来の「日本の歴史」は、ちがっていた。あるいは「万世一系」、あるいは「その象徴」と称し、「近畿天皇家一元」の虚偽の歴史を「公の歴史」と称してきた。教科書も、テレビ・ラジオ、新聞等の巨大メディアもそろって「虚偽」と“知り”つつ、あたかもそれを「真実」のごとく、“虚示”してきた。「偽装」の二文字こそ、明治以降の日本国家の根本方針だったのである。

           二

 今回の三冊を通読すれば、人々は不思議に思うであろう。たとえば、「倭の五王」。「讃・珍・済・興・武」いずれも彼等の「自署名」だ。ことに「倭王、武」。彼の「国書(上表文)」が堂々と掲載されている。中でも当然「武」とは、彼の「自署名」の記録だ。だが、古事記にも、日本書紀にも、彼に当てられている「雄略天皇」の項にも、その前後にも、一切この「自署名」がない。姿を見せないのである。それなのに、なぜ「雄略天皇=武」なのか。この百三十年もの間、「公教育」において、右の「偽装」が疑われなかったのか。疑わずに、ただ「覚えて」きたのか、後代の読者は、それこそ一大疑問とするであろう。

           三

 まして、「多利思北孤たりしほこ」。「鶏弥きみ」という妻をもつ男性である。有名な「日出ず(づ)る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや。」の「名文句」を、女性の推古天皇に当ててかえりみない。男性の聖徳太子は「摂政」にとどまり、「天子」になったことはない。その「聖徳太子」を「公教育」の記述から“消して”みたところで、「近畿天皇家以外」に、「日出ずる処の天子」を称する人物が存在したこと自身、その「同時代史料」から“消す”わけにはいかない。前ぺージの「名文句」の書かれた『隋書』は、当時(七世紀前半)の隋・唐朝の歴史官僚だった魏徴が、イ妥(たい)国の多利思北孤から送られてきた「国書」を見ながら書いたものだ。しかも、隋朝からイ妥国へ送られた使者たちは、当の多利思北孤に会って会話を交わしている。
 これほどの、確実な第一史料を「無視(シカト)」する「日本の歴史」など、およそ「歴史学」ではない。一片の「小説」に過ぎないのではあるまいか。否、「小説」でも、「ノンフィクション」の“事実を重んずる”作品が次々と出はじめている。それが現在だ。

           四

 ハイライトは、今年上梓された「張莉論文」である。
 「『倭』『倭人』について」(『立命館白川靜記念東洋文字文化研究所紀要』第七号、二〇一三年七月発行)は、日本側の「学会」が“知って、知らぬ顔をして”あえて「触れず」にきた、わたしの九州王朝論に対して、悪びれず、くりかえし引文した上で、これに対する「賛意」を正面から述べたものだ。
 「中国人の私より見れば、『邪馬壹國』の卑弥呼から『イ妥國』の多利思北孤を一系統とする『倭國』と神武天皇から推古天皇を経て天智天皇・天武天皇と続く近畿大和勢力の『日本』が、どうしても同じ系統とは思われない。」(五〇ぺージ上段)
 この一文に対して私の学説をあたかも「なかった」かのようにふれずにきた、日本の学会所属の学者、テレビ・ラジオ、大新聞などの巨大メディアの「日本人」は恥ずかしくないのであろうか。「心からのおわび」をもすることなく、「偽装の日本史」をもって、幼い、若い、そして一般の日本人を“だましつづけてきた”こと、この一事を恥じる一片の良心すら持ち合わせていないのであろうか。
 この三冊の本の第一巻(昭和五十九年、一九八四刊)の末尾には、張明澄氏の「寿考論」に対する、わたしの反論が掲載されている。同じ張氏ながら、今回の抜群の張莉論文の出現を見た今年まで、三十年の年月は決して「無駄」に過ぎたのではなかったようである。

  平成二十六年一月二十日
                            古田武彦


  はじめに

 歴史は、思いがけぬとき、転換の扉を開く。今年の夏、わたしはこのことを痛感した
 そのとき、すでに本書を脱稿していた。この三巻で一貫してわたしの説いたところ、それは次の一点だった。“日本の古代を見る従来の目、それは根本からあやまっている”。
 一に、戦前の皇国史観。そのあやまりはいうまでもあるまい。日本の天皇を世界の絶対的中心と見なした。そして熱狂的に日本の古代を神聖化し、神秘化したのだった。
 二に、戦後史学。戦前に生れた津田左右吉の史学、その「造作」史観を根本とした。『古事記』『日本書紀』の神話や説話など、それらはほとんど後代の「造作」、つまり作り物だというのである。六世紀以降の近畿天皇家の史官が机上ででっち上げた物だという主張である。これが定説とされた。
 ところが、奇妙なことがある。一見正反対に見える、戦前史学と戦後史学、その両者は実は共通の土俵に立っていた。それは「天皇家中心の一元史観」 ーーこれだ。
 戦前はいわずもがな。それを否定したはずの戦後史学もまた、この点については同じだった。否、いっそうひどくなったといってもいい。なぜなら、戦前は記紀を金科玉条とした。だから、記紀の記事にないことを、やみくもに天皇家の史実とは見なしにくかった。少なくとも、遠慮があった。
 ところが、戦後史学は、記紀の記載を「造作」とした。すると、そこにあろうがなかろうが、遠慮なく天皇家中心、近畿中心の解釈が徹底化され、横行することとなった。考古学上の出土物も、いつもその目から解釈されてきた。
 そのような戦前・戦後の一元史観を否定する。ここに本書の骨格をなすわたしの史観がある。多元史観だ。出雲王朝・九州王朝・銅鐸王朝・また関東王朝(さらに北海道・東北や沖縄も)など、天皇家に先立つ、または並立した政治・文明圏が、この日本列島に存在していた。天皇家はそれらの中から生(お)い出でた(九州からの)分流王朝にすぎなかったのだ。いいかえれば、“ワン・ノブ・ゼム”(権力者の中の一つ)だったのである。
 わたしは右のような立場に立った。そしてこの道理に立つとき、はじめて中国や朝鮮半島の文献も、縄文文明も、また記紀や『万葉集』まで、的確に真実(リアル)に分析ができたのである。この多元史観という、人問の理性にとって平明な仮説に立つとき、今までの一元史観では解けなかった数多くの矛盾や謎、それらが次々と解けほどけてきた。それはわたし自身の目にも驚異だった。そのような探究の過程と歴史の大きな流れゆきをしめしたもの、それが本書である。
 そしてこの夏、果然、出雲から大量の中細剣が出土した(本巻二六五ぺージ参照)。この出土は、わたしが本書でのべた神話分析、また古代探究の方法論があやまっていなかったことを、実物をもって裏づけてくれた。いわゆる「出雲王朝」の存在だ。
 今わたしは万人の面前に三巻の本書をおき、誇りある真実の古代日本列島への証言としたい。
 わたしは、知己の思わざるすすめをうけ、本年四月以来、東都の大学で教鞭をとることとなった。だが、その講義の最初の日にのべたように、わたしは真実を知ろうとする者、ささやかな永遠の素人だ。だから死に至るまでそのような者として、わたしの探究の道をひとり歩み尽くしたいと思う。

   一九八四年十一月


あとがきに代えて -- わたしの方法論

 本書で論じたところ、それはすべて、わたしの古代史探究の帰結である。それは当然だ。だが、同時にそれは、一個の学問的仮説であるということができよう。
 たとえば、卑弥呼がもらったという金印が現われ、卑弥呼の墓の所在やその数々の物証の内実が明らかとなった、というわけではない。だから、その意味では、わたしの邪馬国、博多湾岸説も、最終の結着点に至ったとはいえないであろう。
 もちろん、本論でものべたように、学問的には、一個の金印の発見より、物証たるべき、数多くの出土物群の分布の方がより意義がある、そのようにもいいえよう。
 しかしながら、卑弥呼時点の明確な金石文(たとえば右の金印のごとき)の出土があったとしたら、一挙に問題の確実性がえられるのは当然だ。
 この点、わたしは本書の全体に対して、これを一個の学問的仮説と称することにおいて、何等の躊躇も感じないのである。
 それゆえにこそ、研究者という名の各仮説提起者が、感情的対立や個人的攻撃などの泥沼に空しく埋没することなく、常に正々堂々と胸襟を開いて、各仮説の問題点を論争し合うこと、それが何よりも必要とされるのだ。
 まして、縄文時代。本書でわたしの論じたところ、それは従来の縄文学にとって全く予期せざるところであるかもしれぬ。たとえば、縄文人が、たとえ後期末ないし晩期初頭(B・C一〇〇〇年前後)とはいえ、周王朝「貢献」というような政治行為を行うことなど、およそ信じがたかったところであろう。それは当然である。
 しかし、『論衡』という文献に対する史料批判の結果は、これが容易に疑惑しがたい史料性格をしめすことが検出された。少なくとも、『漢書』の「楽浪海中・・・・」の倭人記事のみを是とし、他方これを非とする、従来の文献処理の方法は、いかにも恣意的だったのである。
 その上、周代の書たる『尚書』中の、周公の言(「海隅、日を出だす・・・・」)もまた、これを裏書きしていた。さらに、『礼記』中の成王の言(周公の死にさいして。「昧」と「任」の舞楽)もまた、右の『論衡』の「倭人と越裳」の貢献記事を背景とせずしては、理解しえないものだったのである。
 したがって、いかなる先入観にもわずらわされず、ひたすら厳格に、客観的に文献を処理する限りは、このように解するほかはない。 ーーこれがわたしの立場だ。
 そしてこれをもって、一個の学問的仮説と見なすこと、これもまた、先述の問題と同じである。
 本書では、周知の倭人貢献をもって、「日本人が文献に現われた始源」として扱ったのであるけれども、さらにより古い時代に関して、若干の徴候の見出されたことを、率直に追記しておきたい。
 それは、『後漢書』の東夷列伝序文の記事だ。そこでは、
 (一) 堯が家来の義仲を嵎夷のところに遣わし、そこに宅(お)らしめた。そこは「日の出づるところ」(暘谷)であろう(『尚書』にも所出)。

 (二) 夏の後半(夏后少康以後)に、夷人を来賓として招き、その舞楽を演じてもらった。

 (三) 夏の末期や殷の後半などに、諸夷が中国本土に侵入し、さまざまの経緯の末、淮わい・岱たいの間に定着するに至った。

といった情報が盛(も)られている。もとより、従来の中国古代史学、もしくは東アジア古代学にとっては、全く信憑性のおかれていない記事であろう。なぜなら、“当初は「夷」とは、中国本土内部(東岸部方面等)の諸部族の称であり、後来、中国人の地理的視野の拡大によって、朝鮮半島や日本列島などの種族を「東夷」と呼ぶに至った”というのが、現在の通説のようであるから。その見地からは(もしこれを范曄の意図 ーーこれは、倭伝をふくむ東夷列伝の序であるーー の通り、海外の東夷との歴史的交渉の伝承と見なすならば)これは笑うべき虚妄の記事と見えよう。
 しかし、わたしには、この記事にもまた、一笑に付しがたいものが感ぜられる、とのみ、今はのべておこう。
 わたしがこの『後漢書』の東夷伝序文のもつ問題性を指摘した(朝日カルチャー「倭人伝を徹底して読む」第一回、一九八四・四・二一・大阪)あと、鳥浜貝塚(福井県三方郡三方町鳥浜)で、縄文前期(五五〇〇年前)の地層からの赤漆塗りのくしの出土が報ぜられた。それは、従来の漆の歴史を一気に三千年もさかのぼらせるものだという。
 またヒョウタン(西アフリカ産)などの外来植物が、大陸から運ばれた(森川昌和・福井県立若狭歴史民族資料館副館長)という推定もなされているようである。
 さらに、中国社会科学考古研究所の安志敏・副所長によると、日本の縄文遺跡から出土する直径五センチメートルほどの硬玉製装身具(けつ状耳飾り)と同型のものが七千年前の農耕遺跡である河母渡遺跡(浙江省)で発見された。安副所長は朝鮮半島を経由しない日中の交流ルートの存在を推定しておられるという(『日本経済新聞』昭和五十九年五月十四日)。以上のような諸発見には、いまだ安定していないものがあるかもしれず、またさらに新たな局面の諸発見も、今後に期待されよう。

 ともあれ、わたしたちのとるべき立場、それは、文献の暗示するところに対しても、これを一笑に付することなく、将来の研究のために、これを留意(take note)しておくこと。 ーーこれではあるまいか。
 啓蒙主義史観に立って、上古の所伝を一笑に付すること、それが学問的と信ぜられていた時代は、確かにあった。明治以来、現今までがそうであった、とも見なしえよう。
 けれども、今後は、もっと慎重な姿勢で、これらの上古の所伝や、上古の資料に対すべきときが近づいているのではあるまいか。
 勇敢に仮説を立て、慎重に留意する。 ーーこれが新たな学問研究者の指標となるべきではあるまいか。これがわたしの立場である。



文庫版によせて

       一

 かつてこの通史の執筆にさいし、決心した。「すべてを書き切ろう。」と。そうした。何一つ残っていなかった。昭和五十九年二月中旬のことであった。
 その年の四月、奇しき運命の変転に遭うて、東京に移った。爾来、四年になんなんとし、ふと四方を望み見て驚く。新課題・新発見の、未知の扉が各所に開放されてわたしの探究の旅を待っているではないのか。知らず、あと何歳の生命(いのち)、願わくは幾十歳か、新たな探究への戦いの日々に恵まれんことを
 幸いに本書が文庫版化されるにさいし、近年、見出した新たなテーマ、未見のポイントについて、その主なものの若干を、以下簡記させていただいた。

       二

 第一、佐渡島。わたしには、年来この島が不審だった。本書の「国生み神話」の項でのべたように、日本書紀に六個、古事記に一個、計七個の大八洲国の「候補地」が並べられている。その中にこの島の名は必ず入っている。だのに、この島をめぐる神名・神話など、一切出現しない。瀬戸内海内の二段地名(豊の安岐津、伊予の二名、吉備の児島等)と異り、ここは記・紀神話の主舞台、対馬海流上出色の島。島名が出てくるのは自然だけれど、その中味がない。からっぽだ。だから不審だった。
 果してこの島は、神もいない、神話もない、そんな“空からっぽ”の島なのだろうか。そこに島がある。それだけは目についても、古代からの伝統に恵まれぬ、いわば「土」だけが海上に浮んでいる。そんな島なのだろうか。人の目を引き出したのは、江戸時代、幕府が黄金ラッシュの対象としたから。それ以外は、ただ流人の島だったのだろうか。
 しかしわたしには、もう一つの想念があった。「いや、ちがう。ここは神聖な、宝の島だった。遠き悠遠の古えより、そうだった。ちょうど、筑紫にとっての沖の島、出雲にとっての隠岐島がそうだったように。前者は、いわゆる『海の正倉院』、後者は黒曜石の宝庫として、それぞれ両地域にとって、繁栄のキイ(鍵)をしめしていた。然り、古代の越の国にとっては、この島は同じ位置を占めていたのではないか。記・紀神話がそれにふれないのは、この島が、別の神話・文明圏に属していたからではないか。」この仮説だった。
 昨年(昭和六十二年)の十月と十一月、二回にわたってこの島を訪れた。この島に詳しい松尾計一氏の御先導だった。わたしはそこに見た。この島の古代における輝かしい繁栄のあとを。或は長者ケ平遺跡出土の、あふれるような縄文遺物群(小木考古資料館)。それは対岸の、新潟本土なる弥彦神社を指呼の間に見はるかす、絶佳の高地にあった。或は国中(くんなか)平野の弥生の玉造遺跡群、当時はかなり入りこんでいたらしい海岸部をめぐって、今見出されているだけでも十何か所かの、各種の玉製品の製作跡が、群をなして存在している。まるで「臨海工業地帯」のように。この島の人々が使うには、あまりに膨大な量だから、製品は舟で越の国本土へと運ばれたのであろう。この島で出土する、瑪瑙(めのう)・赤玉石・碧玉・水晶・紫水晶・黒曜石と、あまりにもカラフルな、玉類や鏃等の製品。考古資料は、同時に美術資料だ(佐渡資料館及び新設の新穂資料館)。わたしはもはや、この島が、古代、神聖な宝の島であったこと、もし越の国で記・紀が作られたならば、この島が“神々と神話の原点”として語られたであろうこと、それを疑うことができなくなったのである。

       三

 右のテーマは、わたしの内部では、すでに「国引き神話」の探究の中から、胚胎し、強く醗酵しはじめていた。
 すでに『古代史を疑う』(駸々堂刊)などでのべた通り、わたしはこの神話に対する、従来の理解にあき足らなかった。国引きとして、第一と第四(越)は異論がないものの、第二、第三の「北門」を日本海岸(島根県北岸)や隠岐島とするのでは、いずれも古代の出雲内部だから、「タコの足喰い」(北岸)もしくは「心臓喰い」(隠岐)の観をまぬかれなかったからである。そこで“清水の舞台から飛びおりる”思いで、しかし実証的にはきわめて平明な方法(出雲以外、出雲から北方、の二原則による。)によって、これをウラジオストックを中心とする地帯に求めた。第二が北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の東岸部、第三がソ連の沿海州である。すなわち、この神話は古代(弥生期以前)の出雲の漁民にとっての「世界」を舞台とした、壮大な神話だったのである、と。
 ところが、この「世界」とは、日本海岸の西半分だ。第四の「高志の都都の三崎」が能登半島(珠洲か)と比定されている点からいえば、ことにそうだ。では、東半分は。 ーー別の神話。文明圏だからだ。この答が、先の「佐渡の空白」問題へと、あらためてわたしの目を向けさせることとなったのである。その行手は ーー吉だった。

     四

 第二は、「邪馬(山)」の発見。三国志では邪馬臺国に非ず、邪馬壹国だ。これがわたしの古代史世界に歩を印した、最初のテーマだった。だが、後漢書では邪馬臺国が是、これがわたしの立場である。
 両者に共通する「邪馬」、これが真の中心国名だ。邪馬壹は、狗邪(こや)韓国や不耐穢*(ふたいわい)また[門/虫]越(びんえつ)のように、「当該地名プラス大領域名」の形。「壹」は、「倭」に代えて(壹与が国書で)用いたもの。異音ながら、“中国の天子に二心なく忠節”の表意を重んじた、倭国側の造字。 ーーこれがわたしの見解だった。
     穢* (わい) は、禾編の代わりに三水偏。JIS第3水準ユニコード6FCF
     [門/虫](びん)川の[門/虫]は、門の中に虫。JIS第三水準ユニコード95A9

 一方の邪馬臺は、「邪馬における臺(高地、宮殿)。」の意。「ヤマト」の表音ではない。五世紀(後漢書成立期)には、すでにこの種の表記は、東アジア各地にあった。
 問題はこの「邪馬」。それはどこか。何年の課題だった。それが解けたのが、去年の二月「邪馬壹国から九州王朝へ」というシンポジウム(同名書として、新泉社刊行)で博多に行ったとき、春日市の春日神社へ行き、宮司の星野昌徳さんから熊野神社関係の文書を見せていただいた(同神社宮司を兼務)。須玖岡本の王墓のドルメンが置かれているので著名の神社だが、一に弥生考古出土遺物の最密集地(志賀島から朝倉に至る、弥生のゴールデン・ベルトの中枢地)に位置すること。二に須玖岡本の王墓(中国絹と倭国絹を共存させている日本列島唯一の弥生墓〈甕棺みかかん〉を“下目”に見下す丘陵部に当っていること、この二点から、わたしのかねて注目していた神社だった。ごく最近、約三〇〇メートル北方から、これも今のところ日本列島唯一の、弥生期の鏡の鋳型(及び他の二種類の鋳型片と銅[金宰]どうし)が、小さな倉庫の建て替え跡から出土していた。ところが、その神社関係文書には、

  筑紫郡春日村大字須玖岡本山七八一

という、同神社の住所がくりかえし出てくる。「須玖岡本山」とは何か。これは、

  春日村、須玖(大字)・岡本(中字)・(小字)

ではないか。この点、後日(同年五月)朝闇(あさくら)神社の絵馬(筑紫舞)保存の問題で朝倉に向った途次、筑紫野市の法務局で確認したところ、あやまりはなかった。他にも、「須玖岡本」や「須玖岡本辻」などの字名があった。
 もとよりこの「山」という地名が、三世紀にさかのぼって存在した、という保証はない。しかし、“山だらけ”の日本列島各地に「山」のついた地名は数多い。縄文・弥生にも山はあったのだから、これらを“新規の命名”ときめつけるわけにはいかないのである。
 当然ながら、「大和」にしても、「山門」にしても、三世紀にさかのぼる“保証”など、全くない。ないけれど、一つの徴証とされている。目印とされてきた。それと同じだ。
 ともあれ、わたしの立場はこうだった。先ず、最終目的地たる「ヤマト」(邪馬台)と読めそうな地名を採り、あるいは「改定」した上、大和や山門に当てる。その上で、そこへの行き道として“都合の悪い”方向や距離に“手直し”を加える。 ーーこのやり方を非とした。
 代って、そんなことに一切かまわず、ひたすら三国志全体の表記法に従って倭人伝を読んだ。その里程を“誇張”に非ず、真なるものとした。部分里程の合計は、総里程になることを信じた。その結果、わたし自身の思わくなどふっ飛ばして、博多湾岸と周辺山地に「到着」せざるをえなかったのである。 ーーこれがわたしの方法だった。
 そのあと、考古学的出土物分布への探究の道を歩みはじめるにつけ、ここがまさに、日本列島最大の弥生遺物最密集地であったのを知った。しかも、先の鏡の鋳型や小型銅鐸の鋳型や璧や王莽の貨布の出土などで、その頻出はとどまることを知らぬ勢いである(一つ、笑止なことがある。これらの出土をいつも「奴国の出土」として伝えつづけている人々が“少くない”ことだ。倭人伝第三位の「奴国」がこれなら、第一位の「邪馬壹国」や第二位の「投馬国」は、この弥生のゴールデン・ベルトをはるかに上廻る、質量の出土量でなければならぬ。しかし、全日本列島中、そのような個所はどこにも存在しないのである。人問の健全な常識に背を向けつづけるニュース、そのこわさを、もう人々は忘れ去ったのであろうか)。
 そして今年、わたしはその最密集地の真只中、その丘陵地に「山」の地名を見たのである。もちろん、これをもって「断定」することは禁物だ。だが、方法論上、もっとも筋の通った場所に、新たにもっとも有力な候補地を見た。わたしはそのように考えている。心を躍らせている。その当否は考古学的発掘が、いつの日かさししめすことであろう(この問題については、『よみがえる卑弥呼』〈駸々堂刊〉参照)。

     五

 なお、邪馬壹国の女王卑弥呼に関して新しい発見があった。彼女が日本の文献では、筑紫風土記の甕依(みかより)姫に相当する、この同定は本書で最初にのべたところ(この通史の原型となった、大阪の朝日カルチャーセンター「みんなに語るわたしの古代史」連続二年講座で初述。昭和五十六〜七年)。だが、わたしには遠慮があった。「少なくとも卑弥呼と同類の性格をもつ、同時代の女王」(本書) ーーこの表現が、端的にわたしの心緒を表現していよう。ところが、決定的な進一歩があった。
 右の筑紫風土記に、重大な「原文改定」が行われていたのである。「今(原文)」と、「令(改定)」、たった一字だけれど、あの「壹」と「臺」の改定と同様、及ぼした効果は甚大だった。原文へと“もどした”途端、甕依姫の真実(リアル)な行為と背景が生き生きと復活し、それは倭人伝の伝える卑弥呼の姿と驚くほどの一致を見せていたのである(現行の岩波古典文学大系本『風土記』による。同じく現行の東洋文庫本も同じ。かえって「絶版」となった、岩波文庫本、角川文庫本の方が原型をとどめている)。
 もはや「遠慮」は必要がなくなったようである。
 同じく、風土記の問題として、出雲風土記に重大な「原文改定」が行われ、これは江戸時代の荷田春満(かだのあずままろ)以降、すべての校定者が従ってきていた。そのため、日本の古代史に関する、多元的真実が(天皇家)一元史観へと“書き改め”られ、国語学者も、歴史学者も、これに気づかずにきていたのである。

     六

 最後のテーマ、それは「江南と日本列島の交流」の問題だ。すでに「稲の渡来」などで注目されていたルートであるけれど、河姆渡遺跡(杭州湾南岸。浙江省余姚よよう市)から多くの石[王夬](せっけつ [王夬]状耳飾り)が出土したことで、様相は一大進展を見せることとなった。
      石[王夬](せっけつ)の[王夬]は、王編に夬。JIS第三水準、ユニコード73A6

 昨夏、現地に訪れ、遺跡と出土遺物を熟視した結果、わたしは“日本列島から、中国海をはさんで、江南に及ぶ”石[王夬]文明圏の実在を疑うことができなくなった。このテーマのもつ波及効果は絶大だ。たとえば、
 (一) 縄文早期末から後期前半まで(前四七〇〇〜前一五〇〇)の間、大半の時期(そのはじめ三分の二は、中国大陸側(江南近辺以外)に同類の出土物がなく、日本列島側にはほとんど全土近く分布している。これを果して「江南から日本列島へ」の伝播という矢印で、合理的に解説できるのか、という問題。

 (二) 中国の新石器時代の土器分布は、江南周辺(仙人洞〈江西省〉前六八〇〇、河姆渡〈浙江省〉前四七〇〇前後)が最古であり、黄河流域や揚子江中・上流域はおくれる。東北地方・広州地方はさらにおくれている(上海博物館、新石器時代図による)。その最古の江南周辺領域の東方には、わが日本列島が横たわっている。前一万年の土器が軒並みの縄文列島だ(現在の最古は、神奈川県大和市の無文土器。前一万二千年前後)。とすれば、「土器の流れ」の矢印はどちらへ向くか。先入観なき人には、自明であろう。

 (三) 右の石[王夬]文明圏の存在は、日本列島と江南との間の海、中国海が、当時の“航行の場”であったことを証明している。「意図ある航行」だ。縄文人の航海は、沿岸航行には限らなかったのである。
   とすれば、そのような縄文の舟が黒潮に乗じたとしよう。その行先は、海流の論理の導くところ、北太平洋海流からカリフォルニア海流へ、やがてエクアドル沖で、北上してきたフンボルト大寒流に出会うのである。
   エバンズ夫妻の縄文文明伝播説やわたしの「裸国・黒歯国」説を“笑って”きた日本の考古学者たちにも、笑い切れぬ季節がようやく到来したようである。

 (四) 同じく、先の「国引き神話」。弥生以前の「出雲〜ウラジオストック」間の古代航行を疑問視する論者もいるようだが、右のような「江南〜日本列島(九州)」間の伝播・交流の事実に、あるいは不案内だったのではあるまいか。新しい認識は、不断にわたしたちの眼前に開かれている。

 日本列島の歴史を、日本列島内に限定して語ることはできない。 ーーこの自明の真理はやがて二十一世紀の日本人にとって常識となることであろう。
 そのために、本書が役立つことをひそかに祈りつつ、この文庫版の運命を見守りたい。

   一九八八年三月八日 記
                           古田武彦


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