古代は輝いていたⅠ、Ⅱ、 Ⅲ
『邪馬一国への道標』 へ
『邪馬一国の証明』 へ
『 倭人伝を徹底して読む』 第一章『三国志』以前の倭と倭人 一倭人の出現 へ
海の実験場(序にかえて)『海の古代史』(原書房)
古田武彦
日本人が文献の上にはじめて姿を現わしたとき、それはいつか。
戦前では、もちろん『古事記』『日本書紀』の神代の巻があげられていた。これに対し、戦後の古代史では、お隣の中国の史書『漢書』の一節をあげる。それが慣例だった。
楽浪海中、倭人有り、分れて百余国を為す。歳時を以て来献す、と云う。(地理志、燕地)
これは前漢の武帝(前一四一〜八七)の頃、つまり紀元前二〜一世紀前後の話だ。日本列島では、ときは弥生時代、その頃倭人がようやく「国」を形造り、中国の楽浪郡(今の平壌あたり)に使者を送ってくるようになった ーー大略、このように解説せられてきた,それは本当だろうか。
わたしがこれに疑問をいだいたのは、他でもない。同じ漢代の書『論衡ろんこう』の次の一文に注目したからである。
(1) 周の時、天下太平、越裳えっしょう白雉はくちを献じ、倭人鬯艸ちょうそうを貢す(巻八)
(2) 成王の時、越常えっしょう、雉を献じ、倭人暢草ちょうそうを貢す。(巻十九)
越裳あるいは越常は、今のベトナムの領域に住した種族を指す。これと並んで、倭人が出現している。 しかも、時は周代。それも第二代の天子、成王(前一一一五〜一〇七九)のときだという。紀元前十一世紀のことだ。弥生時代(前三〜後三世紀頃)どころか、縄文時代後期末、ないし晩期初頭のこととなろう。
“こんなもの、信用できない”。従来、こうきめつけられて、頭からソッポを向かれていた。“縄文時代なんかに”、そういう判断だ。
しかし、わたしは思う。縄文時代などと、ひと口に気安くいうけれど、わたしたちはこの壮大な歴史的全時間の実態を本当に知っているのだろうか。すでに安定した知識、それをわたしたちは十分に獲得しているのだろうか。
第一、縄文時代とは、一体どれくらいの長さか。論者によって、必ずしも一定してはいないけれど、わが日本列島最初の土器群、それは世界でもトップレベルの、壮麗な土器文明の開始であった。それが一万二千年ないし一万二千五百年前。だから縄文末(前三世紀頃)まででは、約一万年前後の期間ということになる。少なく見つもる論者でも、数千年間存続したことに、異議はない。彪大(ぼうだい)な時間帯だ。これに比べれば、弥生期の約六百年、古墳期(四世紀〜六世紀前後)の約三百年など、物の数ではない。それ以後の歴史時代さえ、せいぜい千四百年前後なのだから、縄文とは、比較するのもおこがましい短期間にすぎないのである。
あの三世紀の邪馬一国(従来の「邪馬台国」)すら、甲論乙駁がかまびすしいというのに、それよりずっと前の一万年間ものことは、もう分っている、そんな言い草をする人があれば、その人の顔が見たい。そういったら果して不遜(ふそん)だろうか。やはり広大な未知の縄文の海辺に、この時間帯の中の知識をこれからひとつひとつ、すくい上げてみる。そして本当に確実な真理の砂金を、人問の知識の宝庫にしまいこむ。これは歴史という名の真実を探究する旅人のもつべき、最低限のエチケットではないだろうか。
わたしのいいたいのはこうだ。“もう、縄文のことは分っている”といった顔をして、“その、わたしの学識からすれば、こんな『論衡』の記事など、ウソにきまっている”。こういって、一笑に付してきた態度、それは一見学者風でありながら、その実、決して真実の探究者にふさわしくはなかったのではないか。そういうことだ。
たとえば、岩波文庫の『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』〔和田清・石原道博編訳〕の解説には、右の『論衡』の文などをあげ、
「これらを周代の倭人にかんする知見とはかんがえられぬから、まず西歴紀元前後に、中国人の倭にかんするほぼたしかな記事があらわれたとみるべきであろう」
といっている。このような理解が、戦後史学の通説となっていた。
事実、わたし自身もながらくそれを常識としていたのだけれど、それでも脳裏に一片の疑いがあった。そこであの『論衡』の記事の身元を確かめるために、京大の人文科学研究所の図書室を訪れた。ここは世界でも屈指の、漢籍を蔵するところ、わたしにとって、文字通り知識の宝庫であった。
各種の版本を手にして、目をこらしてゆくうち、わたしは緊張した。その文脈は、およそわたしの常識的予想を裏切っていたからである。
「多くの学者が、史実として認めずにきた記事だ。どうせ、異伝・浮説のたぐい、あるいは荒唐無稽な珍説のたぐいとして書かれているのだろう」これが、わたしの中の予想だった。ただ、それにしても、一応、この本全体の中の位置づけを確認しておくのがすじ。そう思って、いわば年来の疑問に駄目押しする、そういった感じの、この日の書見だったのである。
ところが、ちがった。珍説・浮説どころか、『論衡』の著者、王充にとって、これはむしろ、疑うべくもない、基本の歴史知識、そういった形で書かれていたのである。
白雉を食し、鬯草を服するも、凶を除く能あたわず。(巻八)
王充の主張は次のようだった。
“周王朝の天子は、越裳の貢献した白雉を食べ、倭人の貢献した鬯草を服用していた。いずれも、縁起物として、王朝永続の吉運を願ったのである。ところが、その周王朝はどうなったか。諸君(漢代の読者)の知る通り、秦の始皇帝によって最後の命脈を断たれてしまったではないか。すなわち、あのような迷信は根拠がなかった。「凶を除き、吉を招き」王朝万世の繁栄をもたらすような、そんな不可思議の霊験は存在しなかったのである”と。
これは漢代の合理主義である。王充はその立場から、周王朝の迷妄を痛打しているのだ。
中国における思想的系譜としては、有名な孔子の言葉がある。
子は怪力乱神を語らず。
子曰く、未だ人に事つかうる能あたわず、焉いずくんぞ能よく鬼に事えん。
これは、いわば、春秋期の知識人の合理主義だ。人間重視の言葉として、今も光を失っていない名言だけれど、さすがに孔子の場合、周王朝批判論にまでは、鉾先(ほこさき)は及んでいない。あるいは、孔子の思想の時代的制約と言いうるかもしれぬ。
王充は、これを突破した。孔子の合理主義を徹底させ、孔子自身のなしえなかったところ、周王朝自身の朝廷内の慣行を批判し、これを嘲笑したのである。彼はさらに進んで、天子の座のシンボルともいかなえうべき鼎(かなえ)をめぐる迷信まで、仮借なく、追及している。
さて、今の問題。それは「倭人の鬯草貢献」の件についての、王充の扱い方だ。それは決して珍説・浮説の類として紹介されているのではない。逆だ。漢代の知識人にとっての安定した歴史知識、そういった形で扱われている。第一、そうでなければ、周王朝の迷妄を排撃する、この苛烈な批判のその証拠といった形で論ずることなどできはしない。また、読者が納得するはずもないであろう。
その上、周代(および春秋戦国期)は(短い秦代をはさんで)王充の生きていた漢代から見て、直前といってもいい時代だ。その頃に伝えられていた周代の歴史は、漢代にも前代の知識として、まだ十分に生きている可能性があろう。
こう考えてみると、この件を珍説・浮説の類として、わたしたち後代人が一蹴する、そのような挙がいかに危険であるかがわかるであろう。ただ、未知の、不分明な縄文に関する既成の観念にたよって。 ーーしかしそれが、従来の論者の姿勢だった。
“「倭人の鬯草貢献」記事は、珍説・浮説とは断ぜられない”。わたしははじめてこの認識に到着した。そのあと、さらに進一歩することとなった。それは、王充に関する、次の伝記的史料にふれたときだった。
班固、年十三。王充、之を見、其の背を拊ふして彪ひょうに謂いって曰く、「此の児、必ず漢事を記さん」と。 (呉の謝承の『後漢書』)
王充は後漢の光武帝の建武三年(二七)の生れ。あの『漢書』の著者、班固は建武八年の生れだから、五つ年長だった。共に光武帝の創始した「太学」に学び、二人は相会うたという。王充は揚子江下流の会稽上虞の生れ。班固は黄河中流域の扶風安陵の生れ。出身地こそちがえ、王充は年下の班固の俊秀さを愛していたようである。それをしめすのが、右の逸話だ。
“彼の勉強ぶりから見ると、彼はきっと朝廷(漢王朝)の記録官になれますよ”。そのように、父親の班彪に語った、というのである。何も、大それた話ではない。大変ありそうな、ほほえましい挿話だ(この点、東晋の葛洪の『抱朴子』となると、「此の児、必ず天下の知名と為らん」と書かれ、誇大化のあとが見られる)。
この挿話によって知られる大切なこと、それは次の一点だ。『論衡』と『漢書』との読者は同一である。つまり後漢朝初頭、一世紀中葉、洛陽を中心とするインテリたちなのである。
このことは直ちに次の問題を解決しよう。“『論衡』の「倭人」とは何者か”。それは当然『漢書』にいう、
楽浪海中に倭人有り。・・・・
という「倭人」と同一の倭人だ。この帰結である。
こんなことにふれるのは、他でもない。この『論衡』の倭人について、「これは、日本列島の倭人ではない。江南にいた種族であろう」という、ユニークな論者がいたからである(井上秀雄・江上波夫氏等)。
その立論は、問題の鬯草を鬱うつ金草のことと見なす一説に従った上で、この草の特産地とされる、鬱林郡近くにいたのが、ここにいう倭人、そう見なすのだ。
だが、「鬯草=鬱金草」というのは、一説にすぎず、この草の正体は不明だ。したがって右の論定の基本は、案外に脆弱だったのである。
問題は、一世紀の洛陽の読者(知識階層)の目だ。ここに重要な論証の石がある。それは日本の読者周知の、志賀島の金石文だ。
(建武中元二年=五七、春正月)東夷の倭奴国主、使を遣わして奉献す。(『後漢書』光武帝紀下)
建武中元二年、倭奴国、奉貢朝賀す。・・・・光武、賜うに印綬を以てす。(『後漢書』倭伝)
ここに「朝賀」といっている。“朝廷の儀礼に参加して礼を尽くす”ことだ。つまり洛陽なる、大子の宮殿のもとに参じ、天子への貢献物を奉じているのである。“楽浪郡に到って貢献した”というようなケースでは、朝賀とはいわない。志賀島の金印の授与は、洛陽なる、後漢の光武帝の宮殿の儀場で、衆人の面前で行われたのである。
周辺の夷蛮側にとって、たしかに金印授与は名誉なことであったであろう。だが、同時に光武帝の側にとってもまた、このように遠方の夷蛮たる倭人が、礼を尽くしてきたこと、それを朝野(漢王朝の臣下と領民)の前にP・Rすることが、大きな利益と考えられたこと、それを疑うことはできぬ。
したがって一世紀中葉の、後漢代のインテリたちにとって、「倭人」といえば、“天子から金印を与えられた、あの倭人”。そういうイメージだったはずである。
王充も、班固も「太学」に学んだ。この金印授与の盛儀には、あるいは直接に参加し、あるいは間接に、“最近のニュース”として、これを聞いたことであろう。この点も疑うことができぬ。そしてこの盛儀に参加した、洛陽朝野の人々こそ、『論衡』の、そして『漢書』の読者だったはずなのである。
してみると、王充が、
周の時、天下太平・・・・倭人鬯艸を貢す。
と書き、班固が、
楽浪海中、倭人有り。
と書いたとき、当時の後漢の読者は、いずれも、“ああ、光武帝から金印を授与された、あの倭人だな”、そう受け取ったはずなのである。そして王充も、班固も、そう受け取られることを、百も承知の上で、書いた。こう解するほかはない。もし、そう受け取られたくない、と思ったとしたら、簡単だ。たとえば「江南の倭人」といった書き方をすれば、それですむことなのであるから。以上のように考えてくると、やはり、江南倭人説は無理だったようである。
“『漢書』の倭人も『論衡』の倭人も、志賀島の倭人だった”。わたしはこのような認識をえた。しかし、問題はここにとどまらない。
『漢書』の有名な記事は、果して漢代の記事なのだろうか。もう一度この文章を見つめ直してみよう。
楽浪海中、倭人有り。
ここに「楽浪海中」とある。楽浪郡とは、もちろん漢の四郡の一つだ。前漢の武帝のときとされる。したがって、“これ以下の記事は、漢代の記事”。そのように思いこみやすい。けれども、問題は文尾だ。
歳時を以て来献す、と云う。
この「と云う」という結び。これは一体、何を意味するものだろうか。果して班固は漢代の記事を書くのに、こういった文形を使っているだろうか。
(高祖十年=前一九七、冬十月)淮南王・・・・長沙王、来朝す。
(高祖紀下)(武帝、元狩二年=前一二一、夏)南越、馴象・能言鳥を献ず。(武帝紀)
いずれも、「と云う」はない。当然だ。もし、漢代の記事に「と云う」を付するとすれば、『漢書』の大部分は、漢代の記事だから、全文「と云う」だらけとなってしまう。むろん、『漢書』をめくってみれば一目瞭然のように、そんな気配はない。この一点に注意すれば、先の燕地倭人項の周知の一文を「漢代の記事」と断定することは、到底できなかったはずなのである。
では、いつのことか。この点、実は解決困難なことではない。なぜなら、この一文に到る、直前の文面を見れば、班固の意図は明白だからである。
(イ) 貴む可き哉かな、仁賢の化や。然して東夷の天性柔順、三方の外に異る。
(ロ) 故に孔子、道の行われざるを悼いたみ、設もし海に浮うかばば、九夷に居らんと欲す。以ゆえ有る也(か)夫。
班固は、周初、箕子(後述)が朝鮮半島にあって、周辺の夷蛮に対して、周の天子への礼などを教えたことをのべたのち、右のようにのべているのである。その趣旨は、
“東夷は、他の三方(西戎・南蛮・北狄)とはちがい、天性柔順であり、中国の天子に対して礼を守っている。だからこそ、あの孔子が、当時の中国本土内で中国(周)の天子に対する礼を失っているのを遺憾に思い、いっそ桴いかだに乗って九夷(東夷のこと)の世界へ行こうか、と言ったのは、一体その根拠があるのだろうか”
このように問い、それに対する回答、それが、わたしたち周知の倭人の記事だったのである。つまり、“孔子がそう言ったのも、もっともだ。なぜなら、楽浪郡の海中には(昔から)倭人がいて、歳時(きまった周期)によって貢献してきている、といわれているからである”と。
そういう回答だった。
では、その「昔」とはいつか。当然、周代、それも「孔子以前から」でなければならぬ。つまり周代の前半期だ。それでなければ、孔子の発言に対する回答にはならないのである。
ここに至って、人は知るであろう。班固がここでいっているのは、あの、「太学」の先輩、王充がいっていることと、同一事件だったのだ。そう、あの、
周の時、天下太平、・・・・倭人鬯艸を貢す。
このことをいっていたのである。
このように解析してみると、先にあげた岩波文庫の解説のように、“『論衡』は周代、つまり日本の縄文期のことだから信用できぬ。これに対し、『漢書』は、漢代、つまり弥生期のことだから信用できる”といった理解が、厳密な史料批判上、とんでもない誤解であったことが明らかとなろう。
「史料の分析からは、その通りかもしれぬ。しかし、史実がそうだったかどうか、疑わしい」
そのようにいう人もあるかもしれぬ。わたしもそうだった。史料そのものの解析からは「倭人の周代貢献」の事実を疑うことはむずかしい。しかし、縄文後期末という時代に、倭人がすでにそのような「貢献」という名の政治行為をしていたとは。本当に信じることができるか。そう自問すると、こわかった。自己の史料分析の帰結、それを自分が肯定するのが、こわかったのである。たった一人、孤独の中で探究の原野を歩む。いつ足下にポッカリと大きな落し穴があって落下するかもしれぬ。否、すでにとんでもない迷路をさまようているのかもしれぬ。そのような恐怖がわたしを襲うていた。
一九七八年、わたしが『邪馬一国への道標』(講談社刊のち角川文庫所収)ではじめてこの問題をいったん書き切ったとき、状況はそのようだった。
けれども、その後、重要な、考古学上の発見が相ついだのである。
その第一は、一九七七年十月に報ぜられた。長野県の諏訪・阿久遺跡だ。中央自動車道建設の調査で発見された。したがって実在する遺跡の一部分にすぎぬにもかかわらず、その住居跡の密集度は驚異的だった。文字通り、一面に軒を接してつづいていた感じなのである。それだけではない。柱穴とおぼしきものをもつ住居跡がその中に点々と介在している。またある住居跡には巨大な黒曜石塊、ある住居跡には小さな黒曜石片と、なかなか多種多様なのである。
わたしはこれを「縄文都市」と呼んだ。今まで知られていた散在した縄文住居跡に比べて、抜群の富裕度をもつ。この都市の住民が相互の密接な連絡と組織をもっていたこと、すなわち一定の政治生活をいとなんでいたこと、それは疑うべくもない。しかも、これは出土する諸磯(もろいそ)式土器のしめすように、縄文前期前半のことであった。
わたしは、この新しい出土例を『邪馬一国への道標』に附載し、縄文期に関する認識の、今後格段に深化すべきことを予告したのであった。
右は日本列島中央部、和田峠出土の黒曜石を背景とした中枢縄文都市の出現だった。これに対し、次いで九州北岸の中部、博多湾岸で発掘されて人々を驚かしたもの、それは縄文水田の出現だった。
従来は“稲作は弥生時代にはじまる”。これが通念だった。この観念が人々の常識をしばっていた。“だから、縄文期の倭人貢献などありえない”。そう、条件反射的に反応していたのである。
ところが、縄文期にも水田があったのだ。それは縄文晩期末とされた。板付遺跡だ。縄文人の足跡もついていた。一九七八年五月前後の発見である。
この板付の縄文水田に対して、放射線炭素年代測定法で検査した自然科学者がある。高知大学・花粉学の中村純氏、北九州大学・生物学の畑中健一氏等である。その報告によると、二千九百年前(前九三〇年頃)の遺跡であるという。また稲の花粉分析からも、同類の結果がえられたとされている。
そしてもっとも肝要の一点、それはこの板付遺跡こそ、博多湾をはさんで、あの志賀島と相対する地だ、という点だ。
志賀島の倭人といっても、志賀島は狭い地域であるから、要するに博多湾岸の倭人、つまり板付遺跡を背景とした稲作伝統をもつ倭人なのである。日本列島最古の水田地帯と、瞠目すべきこの金印出土、この両地帯の一致は果して偶然であろうか。
また日本列島の稲作が中国大陸からの伝播による、ということは、疑いえぬところだ。とすると、この縄文水田の出現に先立って「縄文倭人の貢献」の伝えられていること、これもまた偶然であろうか。少なくとも軽々にこれを疑うことは許されぬ。これが人間の理性の自然な判断ではないであろうか。
一九八一年八月頃、菜畑遺跡(唐津)が発見された。板付よりさらに古い縄文水田だ。
菜畑→板付
この方向は、
釜山→対馬→壱岐→唐津→博多
という、『三国志」の倭人伝にもしるされた、朝鮮半島から九州北岸へのメイン・ルート上に位置している。すなわち、この縄文水田が、大陸から半島へ、半島から九州へ、という伝播経路を通ってきていることを示唆しているようである。
それは、わたしたちに、あの『漢書』の一節を思いおこさせる。倭人項の直前だ。
殷の道衰え、箕子、去りて朝鮮に之ゆく。其の民に教うるに、礼義・田蚕・織作を以てす。(燕地)
箕子が朝鮮の民に教えたのは、礼義、つまり中国(周)の天子への礼だけではなかった。田蚕・織作の道をも教えたというのである。そしてこの直後、例の孔子の“海に浮かんで、九夷におもむく”話となり、そして有名な倭人項に帰着するのだ。
してみると、「田」つまり水田耕作の方法も、このルート、平壌あたり(箕子の故地か)からの伝播ではないか、そのような可能性も、必ずしも無視できないのである。
この点、一方の「蚕」と「織作」についても、同じ博多湾岸に弥生中期を中心として、撩乱(りょうらん)たる開花を見せているのが注目される。その「蚕」のたねは、洛陽・楽浪系だという(布目順郎氏)。時期は、今のところ、縄文より、ややおくれる弥生前期末以降だけれど、ルートは、同じ方向性をしめしているのだ。
ここで、「稲の渡来」をめぐる、有名な論争についてのべてみよう。
日本列島の稲は、ジャポニカと呼ばれる。それが中国の江南の稲と共通している。したがって、
江南→日本列島
という、稲の渡来ルートは、現今の人類学者の中では、ほとんど定説化しているといってよいかもしれぬ(佐々木高明編『日本農耕文化の源流』参照)。
これに対し、考古学者の中では、なお朝鮮半島の北〜中部(楽浪郡・帯方郡方面)からの南下コースに強い関心をしめす人々も絶えないようである(たとえば岡崎敬氏)。農耕用具(石器・鉄器等)が、
朝鮮半島→九州
の伝播をしめしている以上、このルートヘの関心を、考古学者が失わないこと、それはむしろ当然である。たとえ江南と日本列島との間に、農耕用具が共通していたとしても、なお、右の“朝鮮半島→九州”の用具伝播を「否定」することはむずかしいであろう。
このように、一方では、“江南→九州”のルート(ジャポニカ)、他方では、“朝鮮半島→九州”のルート(農耕器具)と、それぞれ有力な「伝播」の証跡を有している。この“矛盾”はいかに解くべきだろうか。
この両者が矛盾に見えるのは、なぜか。それは、当時の中国をバラバラの地域(平壌や江南など)に分割して考え、一個の“統一”的な政治・文化世界として見ようとしないからである(もちろん、ここで、統一というのは、のちの秦王朝のような、直接的な統一ではない。周王朝を中心とする文化交流および人的交流の存在を指す)。
箕子の当時、それは周王朝の初期であった。すなわち、当然のことながら、平壌も、江南も、周王朝の政治・文明圏の一端に位置していたのである。
たとえば平壌。箕子が殷の遺民と共にここに来(きた)ったとき、その人々の出身地は、あるいは安陽(殷墟)の地)であり、あるいは江南であり、あるいは鎬京(長安の地)であったであろう。彼等は黄河流域における稲の知識をもっていた。同時に江南の水稲、すなわちジャポニカ(後代の命名)の知識ももっていたのである。
彼等が朝鮮半島の民に「田」を教えるとき、それは黄河流域などにおける稲作の知識であったであろう。なぜなら、朝鮮半島北・中部は、黄河流域と天候・地勢において多く合致していたからである。
これに反し、南方海上の島、九州は全く天候・地勢上の条件を異にしていた。むしろ、中国では江南のそれと共通していた。したがって彼等は「田」を教えるに、江南風の水田と水稲、すなわちジャポニカのことを語ったことであろう。それを求めるべく、江南に向うべきことを指示したかもしれぬ。そしてそのさいにも重要なこと、それはその倭人が「周朝貢献」を行ったという一点であったと思われる。なぜなら、江南もまた周王朝の影響下にあったからである。
このように、縄文晩期の倭人が学んだのは、ひっきょう周田であったこと、この一事から目をそらさなければ、先の矛盾は、表面の現象にすぎず、そこには真の矛盾は存在しないこと、その肝要の一点が判明するのではあるまいか。
もっとも、わたしは日本列島への稲の渡来について、これを周代以降として、限定しようとするものではない。
否、すでに殷代、さらには先殷期、つまり夏代に、「稲」ことに米粒が伝わっていたとしても、不思議はない、と考える。いわば「殷米」や「夏米」の渡来だ。
後代の倭人伝に、
夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て蚊竜の害を避く。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤こうを捕え、文身し、亦以て大魚・水禽を厭はらう。後稍ゝややと以て飾りと為す。
とあり、夏の遺風が倭人に及んだ可能性について言及している。会稽と倭(九州か)という、中国海(渤海から東シナ海まで。わたしの命名)をはさんだ同じ「文身圏」なのであるから、「夏米」や「殷米」の渡来があったとしても、きわめて自然なことなのである(中国側に、この時期すでに稲作の行われていた点については、学術誌『文物』等にくりかえし報告されている)。
けれども、「水田」となれば別だ。米粒の一塊とはわけがちがう。技術、それも、当時の文明の精華の伝来だ。「水田」を持って帰るわけにはいかない。かなりの技術者の渡来すら、必至であろう。
(これに対し、楽浪郡などの中国人集団が渡来し、定住して、あの菜畑水田や板付水田を創始した、と考えるのは、むずかしい。なぜなら、そのさいは九州北岸に「楽浪文化」が発生し、中国人や朝鮮半島人の生活土器が主を占める、そういう形になっていなければならぬ。当然中国風の文字記録なども、堂々と開始するはずだ。要するに、中国人風の生活遣跡が、少なくとも九州北岸の主流となっていなければならぬ。しかし、それはない。それゆえ“若干の技術者の渡来、受け入れ皿はやはり、倭人たちの社会”、そのように理解せねばならぬであろう。)
そのさい、必要な大前提、それが「倭人の貢献」だ。中国(や朝鮮半島)の技術者たちは、慈善心あふれる博愛主義者ではなかった。日本列島の各地へ縄文水田の法を伝授してまわったわけではない。倭人側から礼を尽くして「貢献」してきたあと、はじめて「田つくり」の法を授与するときがきた。 ーーこのように考えるのが、自然のすじではあるまいか。
わたしのこのような仮説、それを裏づけるものこそ、周初貢献倭人の出身地(金印の志賀島)と縄文水田(菜畑・板付)の地帯との一致、これである。
わたしたちは、ながらく「稲の伝来」として、問題を扱うのに馴れてきていた。しかし、縄文晩期に関しては、わたしたちはこれを「周田の伝播」としてとらえねばならぬであろう。
『論衡』や『漢書』周初(前十一世紀)は漢代の本だった。その成立は後漢の初(一世紀)だ。これに対し、周初(前十一世紀)の記録とされる『尚書』の中にもまた、倭人の姿はその片影を見せている。
海隅かいぐう、日を出いだす。率俾そっぴせざるは罔なし。(巻十六)
これは周公の言葉だ。周公とは、周王朝の第一代武王(前一一三四〜一一一六)の弟である。武王は死にのぞみ、周公に遺児の後見を託した。遺児とは、第二代の成王である。周公は兄の負託(ふたく)にこたえ、少年天子の後見役として周王朝の基礎をきずき、同時に後来の中国文明の原型(ウル・タイプ)ともいうべき中枢文化を開花させた。この周公の成王補佐の業は「摂政」とか「左治天下」という名で呼ばれている。史上に著名な「周公の治ち」とは、周王朝第二代成王の時期を指すのである。
その周公の言葉として、右の一節が出現する。「率俾」というのは、“天下に臣服する”という意味の熟語である(諸橋『大漢和辞典』)。すなわち“夷蛮が貢献の使者を送ってきた”ことをしめしている。したがって右の一文は次の意味だ。
“東の海の彼方の一隅に日の出るところがある。そこに住む夷蛮の地から、貢献の使者がやってきた(そんな遠方まで、およそ貢献しないものはいなくなった)。”
周公の治がはるか東方海上の夷蛮の地まで、その徳化を与えた、それを誇っているのである。
この「日出づる、海隅の地の夷蛮」とは、何者か。そうだ、すでに読者の予想される通り、倭人のことだ。なぜなら、この『尚書』の冒頭には、次のように書かれている。
島夷皮服
海曲、之を島と謂いう。島に居るの夷。
(正義)島は是れ、海中の山。(巻六)
「夷」というのは東方の民族だ。その中に、島を住居とする人々がある、といっているのだ。彼等は、獣の皮を身につけている、という。これがわが日本列島の民、つまり倭人を指している可能性は大きい。朝鮮半島に住む人々では、「島夷」とはいえない。済州島や長山群島(遼東半島の東)の人々のこととすれば、この『尚書』冒頭の、巨視的な地理描写からすれば、あまりにもミニチュアにすぎよう。少なくとも、倭人が「島夷」という表現に当ること、それは確実である。
その上、『尚書』と同時代の書、『礼記』には、次の描写がある。
東方、夷と曰いう。被髪文身、火食せざる者有り。(巻十二)
「文身」が倭人の習俗であったことについては、すでにふれた。夏代に遡りうる習俗のようであった周代も、当然「文身の倭人」だったことであろう。
もう一つ、興味深い描写、それは「火食せざる」風習“つまり生なまで魚などを食べた”という習俗の描写だ。海洋民族たる、わが日本列島の民が、魚にせよ、野菜にせよ、「生なま」で食するを好むこと、固知のところ。もちろん、時代によって料理法に変遷はあろうけれど、この風習が、この島の気候・風土に根ざすものである限り、三千年昔から行われていたこと、それを疑うことはむずかしい。
以上の諸徴証から見ると、『尚書』や『礼記』の中に現われる「島夷」の民が、わが倭人であること、それは人間の自然な判断力に依拠する限り、当然の帰結だ。あえて疑うことはできないのである。
このような、周人の世界認識からすると、『尚書』の中枢部において、この書の中で最人のスターともいうべき周公、彼の語った言葉の意味は明らかであろう ーー「倭人の周朝貢献」この事件を、誇りやかにここで語っていたのであった。
周公を喜ばしめたこの貢献、それを導いた人こそ、すでにふれた、あの箕子であった。
彼は殷朝の宰相であった。が、糾王の暴虐にあいそをつかし、ついに朝鮮(平壌あたりか)に逃れて、そこに建国した、という。いわゆる「箕子朝鮮」がこれである。
殷朝を斃して天子の座についた、周朝の第一代、武王は、殷の名宰相だった箕子に敬意をはらった。そこでこれを「臣」として扱わなかった、という。
けれども、箕子は、第二代の天子、成王のとき、みずから鎬京(長安のあたり)なる周都をたずね、臣礼をとった。そのさい、周辺の夷蛮に「中国の天子への礼」を教えたこと、その「成功」を報行した、というのである。すでにのべたところだ。
ここに、倭人と周都との間のルートが成立したのを知る。もちろん、倭人は直接、周都に到ったのではない。「朝献」とは、いまだしるされていない。直接には、「箕子朝鮮」に至った。それを箕子は、周都に取次いだのであろう。例の鬯草も、箕子たちによってもたらされたという、その可能性が強いであろう。
世に「箕子朝鮮」を否定する論者がある。『史記』や『漢書』に明記されたこの人物と、その業績を架空視するのだ。白鳥庫吉がヨーロッパで「イリヤッド・オデッセー架空説」という、近代啓蒙史学を学んで、わが国に帰朝し、この手法を東洋史に適用して、夏・殷・周(前半)架空論を唱道した。その余塵がいまだに残るところ、それがわが国の「箕子朝鮮架空論」である。さらに、朝鮮半島では、かえって戦後、別の理由(ナショナリズム等)で、「箕子朝鮮架空論」が増幅されているかに見える。
しかし、シュリーマンの発掘によって、「イリヤッド・オデッセー架空説」の非は実証された。ヨーロッパの伝統ある古典学者たちは、これに対してながく頑強な拒否をつづけたにもかかわらず、近代啓蒙史学の非は、ついに明証されるに至った(『盗まれた神話』第二章及び、第十章参照)。
アジア世界でも、そうだ。昭和初年の殷嘘の発掘によって、「殷王朝架空説」はけし飛んだ。先殷期(夏王朝)の遺跡すら、徐々に姿を現わしつつある。
まして箕子の場合、その殷末に当る上、彼が周都に上るさい、そのほとりを通過して、その廃墟を悼(いた)んだという殷墟。その当の場所に、当の遺跡が鮮烈にも、その当時の姿を現わした。すなわち、箕子の説話の地理関係は真実(リアル)だった。それなのに、箕子だけを、依然架空視するとは。成心、つまり先入観も極まれり、というべきではないか。
たとえば、「イリヤッド・オデッセー説話」の地理関係(トロヤの位置)だけは真実(リアル)だが、登場人物(パリスやヘレネたち)はすべて架空、そんな言い草が通るだろうか。もし、そう言いたい人があれば、その人たちの側にこそ、今度は「架空証明」の厳格な樹立が要求せられる番だ。それなしに(自分の立場の都合で)、「箕子架空」を主張しつづけることは許されない。
さて、ここで再び確認しておこう。『漢書』の、
楽浪海中、倭人有り。・・・・と云う。
の一節は、右のような『尚書』『礼記』の記事を背景に成立していた。それは、自明のことだ。なぜなら、班固も、『漢書』の読者も、共に「共通の知識の土俵」は、『尚書』や『礼記』にあったからである。
右の一節を読んだ漢代の読者は、誰しも、先記の『尚書』や『礼記』の記事、「日出づる島夷の周朝貢献」の記事を思い浮かべたことであろう。著者(班固)も、それを期待したのである。してみれば、これを「周朝以来の貢献」を想起させる一節と、わたしがとるべきは必然だ。
しかるに、現代の日本古代史では、この『漢書』の倭人項を、『尚書』や『礼記』から切りはなし、あたかも「漢代の記事」であるかのように、見なし、書き、使用してきたのであった。その非を、ここに明記させていただきたいと思う。
考えてみれば、これは不思議ではなかった。なぜなら日本列島の縄文文明、それは約一万二千年前から発生した。それは人類の土器文明の輝かしい草創期だった。
最近は大陸(中国の豹子興や桂林甑皮岩・外蒙古のキャフタ等)でも、約一万年前の土器の発見が伝えられはじめているようであるけれども、それでもなお、この日本列島が、地球上屈指の土器文明草創の地であることに変りはない(芹沢長介『日本旧石器時代』参照)。
そして何より確実な事実、それは周文明圏にとって、もとより自己の土器文明とは別途の発達ながら、縄文時代の前期・中期に至る日本列島は、輝かしき土器先進文明地帯だったことだ。“たかが土器”と軽侮することなかれ。金属器等の発達した後代人たるわたしたちには、“金属器なき時代”における「土器」のもつ、卓抜した意義について、正当な評価の目が失われやすい。それは、人類による加工業の開始であった。他の動物にとって「魔法」のような、人類固有の文明の樹立であった。
何十万年にもわたる「土器発明以前」の迷妄期ののち、「土器の発明」後、わずかに一万有余年、アッというまに、現代文明の壮麗さを築くに至った。そのように評しても、決して不当ではあるまい。人類史の事実に真実(リアル)に即しているのである。
このように考察してくると、殷・周文明人が、日本列島縄文文明人のことを、全く認識していなかったとすれば、それこそ奇異だ。認識していて、当り前だ。その当り前のことが、先の「島夷」に関する記述なのである。中国において時代はすでに金属器(青銅器)時代だった。
わたしは疑う。班固は、『漢書』の倭人項に先立ち、“東夷は柔順であって、三方と異っている”とのべた。「柔順」というのは、ただ先天的な性格だろうか。民族的特性だろうか。非ず。はるか古(いにしえ)より交流の永い歴史を経てきた、その反映。それがこの「柔順」という一語の、歴史的背景として存在したのではなかったであろうか。
環中国海、土器文明圏の成立 ーーこの仮説を、わたしは未来の探究者の、その眼前に呈しておきたいと思う。
ここでわたしは、縄文という時代に関する、わたしのイメージを語っておきたい。むろんそれは、すでにのべたように、縄文の大海の岸辺の一粒の砂金にすぎない。すぎないけれど、わたしに「これが本当だ」と思われた砂金の粒、わたしの縄文という時代に対する、物の見方について語り、後来の探究者の参考に供したい。
すでにのべた和田峠、そこは本州屈指の黒曜石の産地だった。そこから出た黒曜石が、関東や東海地方で発見されることは、よく知られている。最近は近畿地方(大和)でも、見出されたという。石鏃などの製品としてだ。これは大変な距離だ。汽車も飛行機もない時代、この距離のもつ重さは、わたしたちの距離感覚からは、想像にあまるものがあろう。
では、その重さを超えて、彼等縄文人は、いかにして往来したのか。当然、たとえば関東から、一縄文人が掘りに出かけ、掘り出してもち帰る。そういったわけにはいかない。当時、黒曜石は貴重品だった。たとえば、現代の金やダイヤモンドのように。だから(たとえ隣の山梨県からでも)のこのこと和田峠へ掘りにゆき、もって帰る。そういうわけにはいかなかったであろう。では、どうしたか。 ーー当然、「交換」、この二字だ。
では、何と交換するか。たとえば、海産物。貝や魚。あの加曽利貝塚(千葉県)を見れば、馬蹄形をなして、巨大な貝殼が堆積している。代々の堆積層が見えている。これは決して「個人」の仕業ではない。「集団」の作業場だ。わたしにはそのように見えた。このおびただしい貝殼の中身、つまり貝肉は、誰が食べたのか。それを貝殻から剥ぎ取った、その当人か。わたしには、必ずしも、そうとは限らなかったように思われる。干した貝肉が絶好の保存食料であることは当然だ。また塩水にひたせば、塩分摂取のための食料となろう。それらは、時として、信州なる和田峠のほとり、阿久遺跡などへ運ばれたものも、あったのではあるまいか。
このような交換の、相互の主体は何か。やはり個人ではなく、集団だったのではないであろうか。
「交換」は、原則として、集団と集団の間の行為である。つまり、両集団は経済行為をなす経済集団なのである。では、経済行為だけか。保存食料を作り蓄える作業、そのためには人々の「統合」と、作業の「集中」が必要だ。そして何よりも、それらの全過程を遂行すべき、集団の意思が必要だ。とすれば、その集団は人間の組織化、つまり、一定の「政治行為」を本質的にふくんでいることとならざるをえない。すなわち、必然的に、それは政治集団なのである。
とすれば、A・B・C・Dと隣接する、各政治集団が生産物交換のための、あるいはその前提をなす交渉、つまり各種の折衝が必要とされるとき、それは、一種の外交行為というべきではあるまいか。
このように論究してくると、疑問の声を出す人もあろう。
“わたしは聞いている。「縄文に国家なし。国家は弥生から」と。今のような話とは、矛盾するではないか”と。
これに答えよう。問題は定義だ。「弥生的政治集団」に対して、はじめて「国家」の名を与えるものとする。このような定義に立つとき、“縄文に国家なし”の答えがえられること、それは自明だ。もし、“近代型政治集団”をもって「国家」の定義とすれば、、明治時代以前の日本に国家なし。“国家は明治から”という帰結に至ることもまた、必然なのである。
あらかじめ、一つの単語に、先験的に“定義”を与え、その定義で、連続する歴史事象の連なりを、一挙に切る。 ーーこういうやり方は、確かに痛快だ。しかし反面、そのサーチライトの光がきつすきて、逆の側、暗部がまるで見えなくなってしまう。そういう犠牲に、わたしたちは盲目であってはならないのではあるまいか。
縄文には、縄文型の政治集団があり、弥生には弥生型の政治集団がある。同じく、古墳期には、古墳期型の政治集団がある。当り前すぎる話だが、このような定義から、それぞれの特質を考える。このような方法こそ妥当だ。
そして事実から見ると、和田峠近辺の集団は、関東や東海や近畿の集団と、直接ないし間接に関係をもっていた。このことは、当然それらの地域の中間地域の諸集団との交渉をふくめ、かなり多種多様の関係の消長があったのではあるまいか。ただ、考古学的出土物としても、金属物などがなく、文献記録もほとんどないため、後代のわたしたちにとって、なかなか把握困難の状況にある。これが実熊なのではあるまいか。しかし、その具体的な状況はなかなか把握しにくいにもかかわらず、かなり遠距離間の交渉の存在したこと自体は、疑うことができないのである。
日本列島の本州の中央部では、すでに縄文前期(前四〇〇〇〜三〇〇〇年)において、右のような長距離交渉が行われていた。それから二千年もあとの縄文後期末、九州北岸の倭人が朝鮮半島北半の平壌と交渉をもつ、それが果して異常なことだろうか(C14による、縄文年代の変転と上昇については、別記する)。
この倭人は、のちにも詳しくのべるように、九州北岸の対岸である朝鮮半島南岸部をもまた、生活領域または活動領域としていたようである。九州側の腰岳出土の黒曜石は、釜山近辺からも、石鏃等の製品として出土しているのだ。朝鮮海峡の両岸が同一の生活圏ないし文明圏に属していたことは疑いようはない。
ことに、志賀島の倭人たちは、漁民集団、つまり海洋民族だったから、このような生活圏の分布は、きわめて自然だった。
さて、釜山から平壌まで、それは和田峠から関東南辺、あるいは近畿大和までと、どっちが遠いだろう。あるいは到達困難だろう。それは、簡単には答えられないことだ。
その上、釜山から平壌までの道は、陸上だけではない。水路もある。海洋集団には、陸上より海上の方がより“楽な道”であること、いうまでもない。その上、海上の道は、陸上と異り、中間集団との接触なしに到達できる。釜山や博多は、水という道をへだてて、平壌と“隣接”しているのだ。
このように考えてみると、わたしたちは「倭人の周朝貢献」が、何一つ意外性のない、平常のことであるのに気づくだろう。わたしたちは、縄文人をみくびってはならぬ。彼等は、わたしたち後代人の「規定」する以上に、自由で活発で、長途の旅をいとわなかったのではないだろうか。わたしたちは彼等に対して、豊饒な未知の中に、今たたずんでいるのである。
わたしたちは、縄文世界の一端をかいま見た。そして彼等の、自由な驚くべき活躍について、その香りをかぎはじめた。まだわたしたちの認識は、あまりにも若い。
そのような中で、わたしは一つの報知を聞いた。それは太平洋の向う側から来た。その情報をめぐって、わたしの知りえたところを、以下に略述しよう。それは、縄文世界について、わたしたちが今まで夢にも思い見なかった光景である。
一九六五年、南米のエクアドルの考古学者、エミリオ・エストラダ氏とアメリカの人類学・考古学者、エバンズ夫妻による重要な報告が出された。南米エクアドルのバルディビア遺跡から、日本の縄文土器と酷似した土器群が発掘されたというのである。しかもそれは、わが日本列島の縄文中期、九州の有明海沿岸部の土器群と共通する文様をもっているという。
博士夫妻は、次の諸点に注意をうながしている。
第一に、その相似点は一ポイントや二ポイントではなく、各種のタイプの複合した共通性をもっている。つまりこれを偶然の一致と見なすことはできない。
第二に、日本列島には縄文中期に至るまで何千年もの、長い土器文明の伝統がある。いいかえれば縄文中期の土器群は、その、気の遠くなるような長年月の土器技術の蓄積の結果である。しかるに、南米エクアドルの場合、そのような伝統が見出せない。突如、バルディビアの土器文明が開始しているように見える。日本列島で何千年もかかってなしとげた文明を、それとは全く無関係に、全く別の人間たちが突如開始できるはずはない。
第三に、日本列島から南米エクアドルまで、地球上屈指の大暖流が貫流している。いわゆる黒潮、北太平洋海流、カリフォルニア海流などがこれである。したがって日本の縄文人たちの舟が海流にのってこの地に辿り着くことは、十分に可能性がある、と。
そして結論する。
これらの諸点をすべて考えあわせるとき、“縄文 ーー バルディビアの類似”に対する、もっとも簡明な説明は、一つだ。 ーーすなわち、縄文からバルディビアヘの“派生”である。
(エバンズ「縄文とバルディビアとの関係」古田訳著『倭人も太平洋を渡った』創世記刊、八幡書店復刊)
このように、博士夫妻の研究は、結論の大胆さとはうってかわり、きわめて周到にして徴密な検討と検証の上に構築されている。
さて目を転じてこの問題を、海という現場で考えてみよう。
まず、水の問題。
海水はありあまるほどあるけれど、それだけでは生きてゆけない。この点、すでに有名なハイエルダールの実験がある。コン・チキ号の実験だ。
ひょうたんに水を入れ、いかだの下にくくりつける。そうすると、水は熱帯でも腐蝕せず、三カ月の航海に役立った、という。また魚の臓腑の中に水分がふくまれており、これは塩水ではないから、渇をいやすことができる、という。
ところが、この点、黒潮北太平洋 ーー カリフォルニア海流のコースをひとりで、しかも手作りのヨットで単独航海(世界一周)した青年、青木洋さんによると、問題はさらに簡単だった。一週間から十日くらいごとにスコールが襲来する。だからそれをためるかめか竹づつの類さえもっていれば、O・Kだというのである。ただ季節は、春先から秋半ばくらいまでの間に限る、とのことであった。
このような航海の基本知識、わたしたち現代人には不足している海のノウ・ハウについても、縄文人たちは、わたしたちよりずっと詳しかったのではないだろうか。
次に食料の問題。
この点、ハイエルダールにとっても、一つの実験ポイントだったようである。ところが、これも案ずるより産むがやすし、だった。魚は簡単な道具(釣針と糸)で容易に釣れた。そして大洋の魚は沿海の魚よりずっと大らかで釣りやすいことを発見した、という。この点、青木さんも全く同じ体験をされた。南半球も北半球も、この点、変りはないようである。
その結果、ハイエルダールは印象的なフレーズを記している。
「わたしたちには、餓えることは不可能であった」
と。
といって、現代のわたしたちがあまり手軽に遠洋航海に出ることができるわけではない。何しろ、現代は海が各国の領海によって政治的に分断され、事実上、昔日の海ではないのであるから。
けれども古代人はちがう。まして縄文人には現代の国籍などなかった。魚を追って沖に出て、もしあやまって黒潮に乗ったとしたら、もうそのあとは海のもくずと消えるか、彼方の大陸へと大海流の導きのままに辿りつくか、二つに一つの運命が待ちかまえていたのである。
けれども、エバンズ博士夫妻の壮大な提起に対して日本の学界の姿勢は冷たかった。むしろ“意地悪かった”といってもいい。たとえば、岩波の日本歴史講座、また小学館の『日本の歴史』(もちろん教科書も)などを見てみよう。
そこには、このエバンズ説はとりあげられていない。いや、説ではなく、エバンズ博士夫妻が、現地のエストラダ氏と共に行った大発掘そのものさえ全く紹介されていないのである。
これは不可解なことだ。なぜなら縄文土器とよく似た大量の土器群が出土していること自身は、まぎれもない事実だ。ただそれが日本列島の縄文土器と何等かの関係があるかないか、そこから意見が分れる。それだけのことだ。
だが、考えてみよう。もし両者の間に全く関係がなかったとしたら、それはそれでこれほど興味深い現象はない。
なぜなら、地球上の二地域で、全く無関係に大略、相似形の文明が発生した。これは人間の文明というものを研究する上で、まさに黙視しがたい、否、刮目(かつもく)に値することだ。
かりに他の例をとって考えてみよう。太平洋上のある孤島で、突如あのエーゲ海のクレタ島文明とソックリの文明が花開いていた、としたら。“そんなもの、直接の関係があるはずはないから”といって、西欧のギリシャ研究家たちは黙っているだろうか。必ずその現地へ調査団をくりかえし派遣して、その関係の有無を調べよう。そして全く別々の発生だったとしても、その文明史上にもつ意義を徹底的に追究するだろう。
ところが、日本の考古学界は、エクアドルヘ現地調査団も発掘調査隊も派遣せず、またこれに対する賛否の学術論文さえほとんど発表せず、ただ冷笑をもって報いているだけなのである。
(さらに日本でその発掘物の全面的な出土展を行う企画も、残念ながら、成立寸前で、実現せずにきているようである。)
この状況を見るときに、わたしは思い出さざるをえないことがある。それは、明石の西海岸における明石原人の骨の発見に対し、当時の学界をおおうた冷笑である。
ために発見者、直良信夫氏は傷つき、その人生の運命を大きく狂わせられたという(高橋徹『明石原人の発見』朝日新聞社刊)。
ところが、敗戦後、相沢忠洋氏による、有名な「岩宿の発見」などがあり、旧石器時代に関する研究が格段に進展してみると、直良氏の発見は再検討される必要が出てきたようである。実は、最初直良氏より実骨(骨)を送られた東京帝国大学助教授の松村瞭氏自身、それが本物ではないかと思いながら、学界内部あるいは大学内部の確執や大家、恩師の示唆によって、その旨を公表できなかったというのである(同右)。
その後、この「明石原人」を“縄文以降の骨”と見なす見解が発表された(遠藤万里・馬場悠男氏)ようであるけれども(一九八二年十一月二日、朝日新聞夕刊)、そのような見解と論争が、実物の焼失してしまわぬ前に、真剣に出され、詳密に調査され、討議されていたら、 ーーそう願うのは、果してわたしのような者の素人判断だろうか。日本の学界が貴重なチャンスを逸したことは、疑いようもない。
このような、わが国の人類学・考古学界の宿痾ともいうべき体質が、ここにも同じく、姿を現わしているのではなかろうか。
たとえば、若い魂を育てるべき教科書において、太平洋の彼方の地で、注目すべき発掘があったこと、これに対して現地およびアメリカの学者から、これは日本の縄文土器文明の派生である、という興味深い説が提示されていること、日本側の学者の反対説もあること、それを紹介することがなぜなされてはならないのであろうか。
そしてエバンズ夫妻のおびただしい著書や報告書に掲載されている、バルディビア土器と縄文土器の対比写真を掲載したら、どれほど日本の若い魂は、未知への好奇心と独創への意欲にゆすぶられることであろうか。それこそ教科書の本務であろう。
そして一九八一年百十九日、エバンズ氏は永眠された。終生熱望されつづけた、日本の学界の応答を得られぬまま日本の学界は再びとりかえしのつかぬチャンスを失ったようである。
ここでエストラダ・エバンズ説に対する、わたし自身の考えをのべさせていただきたい。
わたしは幸いにも一九八一年の七〜八月、エバンス夫人(ベティ・J・メガーズ夫人)の案内によって、現地のバルディビア遺跡を訪れ、問題のバルディビア土器の実際にふれることができた。さらにエクアドル第二の都市、グアヤキルにある太平洋銀行博物館でエクアドルにおける考古学的出土物の見事な展示群にふれることができた。それは時代別・地域別に集約された、体系的かつ周密な展示であった(すでに、テレビ西日本の一行と共に中央銀行博物館をも訪れていた)。
その結果、エバンズ博士夫妻が力説しておられた一点、つまり縄文中期前後と類似の出土土器が突如出土する実情を再確認させられると共に、それ以後の発展、すなわち日本列島側の縄文後期後半から晩期にかけての土器群に相当するものが存在しないとを再確認した。それだけではない。再び突如、全く異質の様態の土器群(マチャリーラ・チョレーラ・ガンガーラ文明)にとって代られている、という実状況をつぶさに観察できた。こにはおそらく征服などによる文明様相の激変があったように思われた。そして新しい文明は、後のインカ文明へとほぼ連続してゆくものであり、以前とは全く別の性格の文明であることもまた確認できたのである(太平洋銀行博物館自体は、日本の縄文土器との関連の有無の問題に対しては、全く無関係、いわば中立の立場に立つ展示であった)。
このような状況から見ると、わたしもまたエストラダ氏とエバンズ夫妻の提起せられた仮説を、大筋において結局承認せざるをえないことを感じたのである。
けれども、他の注目すべき問題がある。それは、バルディビア遺跡からおびただしく出土する土偶である。それもまた、のちのマチャリーラ・チョレーラ・ガンガーラ文明の土偶とは、全く人相がちがっており、わたしたち日本人にはきわめて親しみやすい顔をしている。しているけれども、日本側の、九州有明海沿岸部の縄文中期とそれ以前の遺跡からはこのような土偶が出土しないのである。この点、かなり豊富な土偶文明をもつ、日本列島の中部地方やそれ以東の縄文文明とは、九州の縄文文明はその文明の質を異にしているのである。
わたしは、この事実は重大であると考える。なぜなら土偶とは、当時の子供の玩具として作られたものではない。むしろその文明の核心をなすものだ。おそらく宗教的儀礼の中枢を占めていたものと思われる。
その土偶の有無という問題は、文明の質を分つ問題だ。ということは、本来、有明縄文人とバルディビア人とは、別の文明の上に立っている、という、根本命題をさししめしているのではあるまいか。
では、エバンズ夫妻たちの指摘される、特定の時期における、特定の領域についての、複合した文様の酷似という、この疑いえぬ事実は、どのように理解されるべきだろうか。
わたしは考える。これこそ、有明海沿岸縄文人の渡来によってもたらされた、文明の伝播の問題であろう、と。つまりそのような伝播をうけ入れる、その受け皿としての古代文明、岩偶や土偶を核心にもいにしえつ文明がすでに現地エクアドルに存在した。その中にわが日本列島ではるか古(いにしえ)より発展しつづけてきていた縄文文明の花粉が、縄文の舟という名の蜜蜂に運ばれた。そして現地で、ある点では相似し、他の点では相異した性格をもつ、新たな文明の華を結実させたのである、と。
ともあれ、このようなわたしの仮説が、未来の若い研究者たちによって実地で精密に再検証されることを、わたしは期待したい。たとえそれが肯定されようと、空しく否定されるに至ろうとも。
(なおエバンズ説に対する批判論文として、西藤清秀氏の「バルディビア土器の再検討」〈『関西大学考古学研究室開設参拾周年記念、考古学論叢』昭和五十八年三月刊、所収〉がある。これに対する再吟味は、機を改めてしるさせていただくこととする。)
太古、海の狩人は魚を追った。魚を追ってあるいは我を忘れ、あるいは風が変って、思わず黒潮の流れに乗った。大暖流は流れに流れつづけ、とどまることを知らなかった。黒潮、北太平洋海流、カリフォルニア海流と、人間のつけた名前だけ変っていった。だが、流れそのものは変らなかった。
ところどころで分岐しては、寒流に合い、小さな交流の場をもった。日本列島の周辺にも、そのようなところに中。小の漁場があるいは生れ、あるいは消えていった。だが、中枢の大暖流はいつも変らず、ひたむきに同じルートを突きすすんでいった。
そしてあるところで、南の彼方から押し寄せてくる冷たい大きな流れと出合った。フンボルト大寒流。南極の方面から北上しつづけてきた流れであった。
出合ったところ、そこは南米の北西海岸、のちにエクアドルと呼ばれる国ができたところ、その沖合いは大暖流と大寒流との集合の領域。ガラパゴス島、太古さながらの動物たちの生息しつづけている岩塊があった。島は二十世紀まで変らず、生きながらえてきていた。
そこは天然の漁場であった。地球上屈指の大漁場であった。もちろん当初は漂流という偶然の神のいたずらだったであろうけれとも、太古の角の狩人たちは、ここに漂着して驚喜したであろう。これが縄文人「大航海」の最深の秘密である。その地球的背景である。
では、その大暖流の名は。一貫した、地球上屈指の大暖流をいいあらわす名は。
わたしはこう呼びたい。
ーー「太平洋大暖流」
と。
(なお、わたしがこのテーマに直面したのは、倭人伝の「裸国・黒歯国」問題からだった。その方角・日程記事によって、これを南米大陸西岸北半部に求めたところ、故米田保氏がエバンズ説の存在を。示唆して下さったのであった。今回、現地エクアドルで検証したところ、バルディビア土偶は裸であり、それにつづくチョレーラ土偶は黒歯・彫題〈ペインテッド・フェイス〉の風俗をしめしていた。古田『多元的古代の成立』上、駸々堂刊参照。)
『倭人伝を徹底して読む』 第一章『三国志』以前の倭と倭人 一倭人の出現 へ
海の実験場(序にかえて)『海の古代史』(原書房)