古田武彦
始めの数字は、目次です。【頁】【目 次】
v はじめに
謎の銅鐸社会 銅鐸を知っていた記紀の編者 天智朝の出土記事
記紀説話「造作」説の矛盾 神武東侵のリアリティ
速吸門をめぐって 野蛮な侵入者 盆地内の支配 「天の下」とは
銅鐸出土分布図の示すもの 神武紀の改変
銅鐸鋳型分布図の中心 万博以前・以後 銅鐸を見つめる
『三国志』の「国」 その名は東[魚是]国 「革命の論理」
東[魚是]国の行政機構
東[魚是]の[魚是] は、魚偏に是。JIS第4水準ユニコード9BF7
国家論の再批判 組織の発生 弥生的国家
金属器消滅の謎 八代の欠史問題 神話造作説のアキレス腱
東方十二道の平定 木津川の決戦 建波邇安王の出自
ハツクニシラス天皇 「騎馬民族渡来悦」の検討 同根の二史学
「神武東侵」と契合する諸事物
二つの神々の体系 三輪山伝説 紀の三輪山譚
『万葉集』の中の神話
沙本毘古との戦い 沙本はどこか 奇妙な説話 説話の真相
天皇家説話成立の公理
倭建命伝説 仲衷記の謎 柿本人麿の歌 景行の九州大遠征譚
遠征の原点と王者の名 倭国成立前史 埴輪起源譚
九州における徇葬の痕跡 角力説話 『日本旧記』
神功皇后の虚像と実像 応神の年代
三一六年の衝撃 記載のない記紀 七支刀 同格の二王
神功紀の記事
全容 倭と三国の実情 改竄は行われたのか 王健群論文の証言
新たなる指摘 改竄説の根拠 『三国史記』の史料性格
「其の国境」をめぐって 「守墓人」をめぐって 百済と南海
碑文の大義名分 王志修の烈志
神功紀の挿入記事 ちぐはぐな接ぎ目
古記録のおもかげを残す『書紀』 先行説
安帝の鎖 倭国の貢献物
「司馬曹達」の意味 倭王武の上表文 『三国志』倭人伝の情報源
東夷の論証 「昔」の論証 武の称号
日本側文献にもそれはあった
仁徳と兄弟 女鳥王 兄殺し 纂奪者だけが知っている
応神記と鏡 彼らは文字を知っていた
巨大古墳群 統一支配説の矛盾 埴輪の淵源
吉備建国譚 石人・石馬 好太王陵・武寧王陵との関係
巨大古墳建造の条件 被征服民 生口のこと
「兄弟継承」 神武の相続者たち 墨江中王の反逆 軽太子と衣通王
氏姓の正定 目弱王の仇討ち 平和な雄略記の説話 雄略の行動範囲
いかに読むか 「左治天下」 雄略と「斯鬼宮」
関東にあった「斯鬼宮」 その名はカタシロ大王
記紀説話にない鉄剣 「意冨比[土危]」について その字体
東アジアの中の「大王」 変動する「天下」の範囲 二つの墓室
その他の問題
[土危]は、4579D?
倭王武と雄略 わたしの「王朝」論 鈴の関東王朝
神話に投影された稲作以前 倭武天皇とはだれか
『書紀」の中の日本武尊 蝦夷の俘虜
日本列島全体の歴史から記紀をみる
説話断絶の謎 隠されている成立の秘密 推古までづつく系譜
「造作」説、皇国史観論者の致命傷
叙事詩的な雄略記 本人が登場しない清寧記 顕宗記の主役は仁賢
残虐記事に満ちた武烈紀 桀王と紂王の悪逆
継体の出自 二十年間の空白 継体の招請は真実か
『書紀』選定の目的 前王朝と現王朝の正史
『古事記』偽書説をめぐって 序文偽作説への反論
2014年7月、大学セミナーハウスとリンクしています。
※本書は『日本列島の大王たち -- 古代は輝いていたII』(朝日文庫、一九八八年)を底本とし、「はしがき」と「日本の生きた歴史(二十)」を新たに加えたものである。なお、本文中に出てくる参照ぺージには適宜修正を加えた。
古田武彦・古代史コレクション20
古代は輝いていた II著 者 古 田 武 彦
発 行 者 杉 田 啓 三
印 刷 者 江 戸 宏 介
____________________________________________
発 行 所 株式会社 ミネルヴァ書房
_________________________
@ 古田武彦, 2014 共同印刷工業・兼文堂
ISBN 978-4-623-06667-4
Printed in Japan
一
『古代は輝いていた』という、三冊の通史の題を決めたとき、わたしは知らなかった。日本の古代史に対する探究の道が、これほどの輝かしい「未来」を指ししめしているとは、気付いていなかったのである。
現実は、逆だった。戦前の皇国史観の時代は去り、戦後の津田左右吉風の「造作説」を主流とする時代となっていた。「記・紀」はもとより、日本の歴史を「万世一系」と称した“反動”で、日本の歴史は“軽んぜられ”ていた。高校の教科でも、「必修」ではなく、「選択」だった。
しかし、わたしには「予感」があった。「これは、おかしい」「何かが、狂っている」と、本筋に帰り、歴史の原点に立ち帰ったならば、そのような「学問の方法」に立つならば、本来の「日本の歴史の真相」が輝きはじめるだろう、と。
この「予感」は当った。むしろ「当り過ぎた」と言ってもいい。たとえば、言語学の専門家たちが「日本の言語は、周辺の言語から孤立している」と「公言」していたのは、わずか数年前、十年足らず前までの「通説」だった。しかし、今は一変した。わたしの「日本の生きた歴史」を読む人には、日本語と周辺の言語との「つながり」があまりにも深く、広いものであるのに驚くであろう。
たとえば、「言素論」の“はじまり”は、「死ぬ」の一語だった。古代日本語の基本語だ。同じく、中国語でも「死」は基本語である。孔子の『論語』に「顔淵(顔回)死す。」の句が愛惜をもってくり返されている。
では、日本語の「死ぬ」は、中国語の「死」に対して「ぬ」という接尾語を加えて出来上ったものか。もし、そうであれば、その反対語として「生せいぬ」とか「生しょうぬ」とかいう表現があるはずだ。だが、一切存在しない。反対語は「生きる」だ。「息をする」という、本来の日本語なのである。
二
そこでわたしの「思考法」が進展した。中国語とその文章(漢字)は、確かに偉大な言語体系だ。だが、最初から巨大な体系だったのではなく、周辺の言語から、各種の表現を“取り入れ”て、徐々に「巨大化」していったのではないか。「死」も、その一つ。日本原初語の「死ぬ」を“吸収”して、己が言語体系の一つとしたのではないか。中国の東岸部と日本列島の西岸部は、それこそ「一衣帯水」の間柄だ。同じ“dead”を意味する言葉が「偶然、同じだった」と考えることが無理である以上、右のように考える他はなかったのである。
三
これで一つの「落着」を見たか、と思われた。だが、論理は容赦なく、さらに“恐るべき視野”へと、わたしを押しやったのである。「崩」の問題だ。
「天子死して崩と曰いふ。諸侯、薨と曰ふ。大夫、卒と曰ふ。士、不祿と曰ふ。庶人、死と曰ふ。」(禮記、曲禮下)
右の「崩」もまた、「原初日本語」ではないか、というテーマに、新たに直面させられたのである。「ほうむる」だ。「こうむる」などと類語である。
生の「顔淵死す。」は『論語』だった。さらに、『禮記』にも、日本語と共通の「昧まい」が出現していた。
「魯公に命じて世世周公を祀まつるに天子の礼楽を以てせしむ。(中略)『昧まい』は東夷の楽なり。」(礼記、明堂位、第十四)
四書の一つの『論語』のみではなく、五経の一である『礼記』にも、日本語の「舞」が姿を現わしていたのである。それは前稿(「日本の生きた歴史(十八)」)にも記した。
しかし、今回の問題は「崩」。「天子の死」の表現である。これも、日本語の「ほうむる」と、「共通の言語」ではないか。これはわたしにとっては「大事件」だった。なぜなら、こともあろうに「天子の死」をしめす「崩」まで「日本語」の「ほうむる」と「共通の言語」だとすれば、「大事件」だ。もはや「原初日本語」などという“わく”をはみ出しているのではないか。そういう疑問だった。
四
やがて新たな「落着」を見た。「思考法」が進展したのである。
そのヒントは、日本語では「死ぬ」と「ほうむる」とは、“意味がちがう”ことだった。「死ぬ」は“dead”そのものであるのに対し、「ほうむる」は“死後の礼式”の表現なのである。「ちがう」概念だ。
だが、中国語の礼記の場合、同一内容の“dead”を「身分によって表現し分ける」。そういう「方法」なのである。
本来の人間が、身分によって“いろんな死に方”をするわけではない。ありえないことだ。ただ、厳格な階級社会の秩序に“合わせ”て、「文字を変えて」あてはめてみたのにすぎないのである。
そのさい、「原初日本語」の「死ぬ」を庶民に当て、同じく「原初日本語」の「ほうむる」を「天子に当てた」だけのことなのである。他の「薨」や「没」や「不祿」も、中国周辺の諸言語の“dead”に関連ある言語からの「転用」だ。“当てはめ”なのである。
以上の理解によって、「こと」は解決した。「思考法」が前進し、深化したのである。
けれども、やはり、「こと」は重大だ。看過できない。なぜなら、「天子の死」という「最高位」に「原初日本語」を用い、同じく量的に最多の「庶民」に対しても、「原初日本語」の「死ぬ」を用いている。つまり、質・量ともに、中国語の中で「原初日本語」の占めるポジション、それは「絶大」なのである。諸侯の「薨」もまた、この「死」を基本にした造字である。「天子」の場合の「一般概念」もまた「死」である。果してそれは“dead”、関連の言葉だけの問題だろうか。そんなことは、極めて“ありにくい”ことだ。すなわち、中国語の中で「原初日本語」の占める位置は、恐るべく質量共に重かつ大となっているのではないか。わたしの「思考法」はこのように進展してきた。いわく「論理の導くところへ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも。」死に近き、わたしの辿る道、それはこのように進んできたのである。
「竹林のひとすじの道歩み行く、明日死して悔いずと思いこめたり」
平成二十六年一月二十一日記了 古田武彦
『古事記』は日本古代史上に生れた誇るべき一大叙事詩である。青年の日より、わたしはその一神話・一説話に酔いしれてきた。
たとえば邇邇芸(ににぎの)命が筑紫のクシフル峯(だけ)に降り立ったときの朗々たる四行詩(第一巻参照)、たとえば沙本毘売(さほひめ)が悲運の中に滅びゆく一大落城譚、たとえば、弟橘比売(おとたちばなひめ)が東国の走水の海に投身するにさいして倭建(やまとたける)への愛を歌った至情の詩。
いずれも単なる知識にあらず、おそらく人間形成の基本をなす心情の領域において、わたしの心の底に沁み通ってきていたのである。これらを知らずに一生を終った人あれば、わたしはその人を不幸と思う。 ーー青年の日の傲慢さから、そのようにさえ思ったことがあった。
けれども、そのときのわたしは思い見さえしなかった。これが一編の作りごとでなく、史実のひとふしであったとは。それも瑣末の史実ではない。大きな歴史の流れの巨大な転換点、または重要な屈折点のさ中から生み出された物語であろうとは。
思えば、それは当然かもしれぬ。なぜなら人問の叙事詩とは、本来そういうものであろうから。それは現代のSF作家が、パイプをくゆらしながら書斎の中から生み出す、そのような作品とは異なっていた。武力による理不尽な支配、定められたような非業の生涯、偶然の神の祝福を受けた挫折後の一大勝利。そういったおよそ計算できぬ非条理な事件の連続の中から生れた人々の深い歎きや喜び。それらこそ、人間の歴史の中に叙事詩が生み出された真の背景だったのである。
その事実をまがうかたもなくわたしたちに証明してみせた人、それがあのシュリーマンだった。三女神とパリスとリンゴの話。トロヤ落城の日の木馬の詭計(きけい)。オデッセーの長期にわたった海上の流浪と不思議な数々の遭遇譚。それらはあまりにも面白すぎたため、ながらく史実を背景とするものとは信ぜられなかった。古代ギリシャの現実の歴史の中から生み出された真実(リアル)な物語ではない。物知りと学者たちはそう言ってきたのだ。
だが、ちがった。まさにそれらの物語は真実な背景をもっていた。そのことを一素人たるシュリーマンの発掘が見事に証明したのであった。
わが国では、シュリーマン以前の学がいまだに支配的だ。むしろ戦後四十年、猖獗(しょうけつ)を極めてきたとさえいえよう。『古事記』の神話はもちろん、説話をも「造作」と見なし、作りごとと見なす、いわゆる啓蒙主義史観である。そのような立場から作られた、従来のすべての古代通史。それに本書は正面から反対する。挑戦の手袋を投げたのである。
それは、あまりにも不遜のしわざといえよう。
願わくは、先行の賢人たちよ、末輩の失礼と冒険を恕(ゆる)されんことを。そしてわたしのあやまちを指弾されんことを。なぜなら、これが、先輩に対する、わたしのつたなき御恩報じ、その唯一の道だったからである。
一九八五年二月
一九八四年三月末、わたしは奈良県内の「天皇陵」古墳を一巡した。第一代神武より第九代開化に至る陵墓である。
今までも第十代崇神以降の「天皇陵」古墳については、何回か歴訪していた。第二〜九代については、あまり接したことがなかった。四月から、住み馴れた関西の地を去るにあたり、これらの陵墓の姿を確認しておきたいと思ったのである。
わたしには、一つの探究課題があった。それは、これらの御陵の真実性(リアリティ)の問題だ。問題のポイントを個条書きしてみよう。
その一。本巻で論証したように、第二〜九代の、いわゆる欠史時代の問題は、戦前の皇国史観の立場からも、また戦後の津田左右吉流「造作」史観の立場からも、解明困難なテーマである。いわば両者共有のアキレス腱だ。
これに対してわたしの立場、新たな実証主義の史料批判の立場からは、平明に解明可能だった。大和盆地内の一豪族として、きわめて適切な姿、それが第二〜九代の間の「欠史」状況だったのである。
“第一〜九代は、外来の一侵入豪族として真実リアルだ” ーーこれが帰結だった。
その二、記紀のしめす第二〜九代の陵墓の分布状況は、大和盆地内に跼蹐(きょくせき)している。しかも、その 大半は大和盆地西南部の橿原、御所方面に集中している。その中で、第七代の孝霊が王寺町(北葛城郡)、第九代の開化が奈良市へと御陵所在地の進出(北上)を見ていることが注日される。
前者(孝霊陵)は、大和川が大和盆地から大阪湾岸(河内)へと出る枢要の地に当っている。また後者(開化陵)は大和盆地内勢力としての天皇家がようやく大和盆地北端までを安定した領域として確保した、その政治状況をまざまざとしめしているのではあるまいか。
要するに、第一〜九代の陵墓は、大和盆地を出ていないのだ。この分布事実は、わたしの分析した記紀(ことに『古事記』)の説話内実と、まことによく相対応しているのである。
このような分布事実の意味するところは何か。それは次の一事だ。“これらの陵墓記載は、後代の造作にあらず、真実リアルなのではないか”。
以上が、わたしのいだいた疑いだった。したがって戦前史学とも、戦後史学とも異なる、わたし自身の新たな立場からの検証が必要となったのである。
もとより、このような重大問題が、単に一連の今回の歴訪によって解決するはずはない。そう思っていた。それにはちがいないけれど、「百聞は一見に如しかず」のことわざ通り、意外な発見に会うこととなった。
それは、右の第二〜八代の七陵墓が、いずれも古墳ではないことだった。ただ正面から見れば、例の「天皇陵」特有の形式をもつ一定の石の鳥居や石垣があり、一見、あの仁徳陵古墳や応神陵古墳と同類の古墳かと錯覚しよう。しかし、四囲から精細に観察すれば、いずれも古墳とは似ても似つかぬ姿をもっていたのである。
あるいは山角(やまかど)の一隅を囲んだにすぎぬもの、あるいは土山(つちやま)風の小土塊にすぎぬものなど、いってみれば、数人で何日かあれば築きうる、あるいは囲みうるていのもののようであった。ハッキリいって、すこぶる貧弱なのである(ただ、第一代神武のケースのみは、後代聖域化された場所が広大すぎて、その真の実体をうかがうことが困難であった)。
しかし、実はこの貧弱さが貴重だ。なぜなら、もし第二〜八代が実在とすれば、ときは弥生時代。古墳など、到底ありうるはずがないのである。
またもし、これらの陵墓が、四世紀以降に造作されたとしよう。ときは、当然古墳時代。しかも、大古墳から巨大古墳への建造ラッシュのさ中、もしくはそれ以後だ。だのに己が祖先の陵墓だけを、これほど貧弱に、果して“作りなす”だろうか。考えられない。
このことは、明治以降の天皇家が、実体は貧弱な、第二〜八代の陵墓すら、他の大古墳・巨大古墳の場合と同じ、重々しい鳥居や石垣を造築して、一見荘厳風に見せかけようとしていることからも、よく理解できよう。
同様に、四世紀以降の古代天皇家がこれを造作したとしたら、必ずや四〜五世紀の「大王陵」古墳に負けぬ規模で新作したであろう。しかし、事実はこれに反する。その実体はいちじるしく貧弱なのである。
ふたたび言う。この貧弱さこそ貴重だ。まさに弥生期の大和盆地内の一豪族にすぎなかった、その史実に対応しているのではないか。わたしはそのような感触を得たのである。
また、第九代の開化。これだけは、一見前方後円墳風なものとして遠望できるけれども、その前方部など、異常に低く、通例の前方後円墳とは、必ずしも比肩しえぬ相貌をもつもののようである(この点、同行の西博孝氏から御示唆をいただいた)。
以上は、わたしたちの瞥見(べっけん)にすぎぬ。考古学者の学術的調査には、及びもつかぬものだ。だが、その印象はわたしには貴重だった。この第二〜九代の陵墓の真実性(リアリティ)を、一段と感ぜさせられることとなったからである。
第一〜九代の場合、たとえ発掘などともなわずとも、考古学専門家の丹念な、囲いの内側の表面調査によってでも、以上のわたしの得た感触の当否はたやすく検せられるであろう。わたしはそれが公的に行われることを切望したい。
(従来も、若干の報告は存在するけれども、公的な学術的報告書などはもちろんない。)
以上のささやかな歴訪経験によってわたしたちが改めて当面すべきテーマは何か、それは当然ながら、各代の「天皇陵」古墳に対する学術的発掘調査という課題である。
先の第二〜九代について、わたしは通説に反し、その真実性(リアリティ)を想到するに至った。それは、たとえば第三代安寧の陵墓について、
御陵は畝火山の美富登みほとに在り。(『古事記』安寧記)
とある、その表記にも現われている。「美富登」について、岩波古典文学大系本は次のように記している。「ミホトは御陰。畝火山を人体に譬え、ちょうど陰部にあたるあたりというのである」と。『日本書紀』でも、
畝傍山南御陰井上陵
と記して、同じ表現がとられている。
“女性の陰部”をしめす言葉で表現されたこの素朴、稚拙な表現、これが果して後代、天皇家が強大な近畿中枢の権力者へと成長したあと、ことさらに採用される表現だろうか。わたしには、津田左右吉のしめした千言万語の造作説をも、一気に笑い飛ばす力、そのような原初的エネルギーを、この「美富登」の一語はもっているように見えるのである。
『日本書紀』がこの「御陰」につづけて、「井上」といっているのは、文字通り“井戸のほとり”の意味であろう。
第三代安寧の遺体は、畝傍山の南の凹地(くぼち)にひっそりと埋められた。それは井戸のそばに当っていた。そういう描写なのである。
今の安寧陵は、山腹のかなり広い領域が囲まれているけれど、その実際は、その中の一隅、もしくはその外の一隅のささやかな凹地が、この大和盆地西南隅の一豪族にとってふさわしき埋葬地だったのではあるまいか。
以上の考察のしめすように、第二代〜九代の陵墓といっても、その一つ一つがそれぞれの天皇の葬地にピタリ当てはまっているという保証など、どこにもない。ことに今の陵墓区画は、江戸時代以前からの伝承や記載(『陵墓要覧』など)を参考としながら、明治以降の知識で決定したものだ。否、それより優先したもの、それはなるべく壮大なものに見せたい、という明治政府のイデオロギーだったのではあるまいか。それゆえにこそ、わたしは先に見た貧弱さに注目したのである。明治政府当局が、精一杯重々しく見せようとしても、なおかつ、その土地のあたりに、あの程度のささやかなものしか、発見できなかったことをしめしているからである。
この問題を反転させてみよう。第十代、崇神以降の場合、状況は一変する。それぞれの場所に、いずれも大古墳・巨大古墳が実在するのである。
この場合も、個々の古墳が、現在その名を冠せられている当の天皇個人に、果して当っているかどうか。それは一切不明だ(この点、たとえば森浩一氏が年来強調されている通りである)。
しかし、より鮮明な事実、それは記紀の記載する、第十代以降の陵墓群の分布が、まさに近畿における大古墳群の分布と一致している、もしくは矛盾しない、という一点だ。わたしたち日本人には、あまりにも当り前すぎるこの事実の意味するところ、それは何か。やはり“第十代以降も、記紀の陵墓記載はおおむね真実リアルなのではないか”ということ、この示唆である。
もちろん有名な継体陵古墳(大阪府茨木市)の例のように、隣接した古墳(今城塚古墳、大阪府高槻市)とあやまられたのではないか、といった間題は当然あろう。先にのべた二つの要因、一に、明治段階の考古学的知識の未発達、二に、明治政府の政治上の欲求、これによってあやまられたケースは、他にも幾多存在しえよう。しかしそれは、いわば明治人の責任であって、紀記自体の責任ではない。そして右のような、明治期における、多分に(そしてかなりは止むをえぬ)杜撰(ずさん)さにもかかわらず、全体としての 陵墓記載の真実性(リアリティ)、それをわたしは大略の分布上の一致からしても、疑うことができぬのである。そしてこのような考察は、必然的にわたしたちをして、あの肝心の一点へとまたもや探究の目を向けさせることとなろう。“天皇陵の学術的発掘調査、それはやはりなされねはならぬ” ーーこの一点だ。
最近、わたしは久しぶりで親鸞文書の研究にとりくむ日々があった(茨城県稲田の西念寺本の『親鸞門侶交名もんりょこうみょう』等)。その中で息をつめて中世文書の文書様式を精細に観察し、繰り返し撮影する。そういった興奮と醍醐味を満喫しえたのであった(一九八四年五月)。
それが終ってみて感じたこと、それは寺側の若い住職夫妻の協力であった。明治の火災に焼け残った貴重な寺宝を、惜しみなく長時間研究探査させて下さったのである。従来真宗学界で疑問視ないし無視されていた、この貴重な文書の名誉回復となる可能性をもつ調査だったけれど、調査結果いかんでは、逆の烙印も押されかねない。そういう探究に対して快く場所と時間を提供して下さったのである。
それは三十年前、わたしが親鸞研究に取り組んだ頃とは、かなり大きな変化だったように思われる。明治以降の、否、江戸時代以来の寺宝秘蔵主義、非公開主義の時代とは、大きな変化がおとずれているようである。敗戦後、成長した新しい世代の人々が寺の責任者となった、これはその一つの現われであろう。これと同じような経験は、神社でもあった(たとえば福岡県の宮地嶽神社など)。
このような、時代の流れともいうべきものに、立ってふりかえると、今問題の天皇陵古墳のみが「旧き権威主義」「秘密主義」「非公開主義」の暗闇の中に立ちおくれ、時代からとり残されているのに気づく。
無論、宮内庁の中の人々(職員。国家公務員)は別だ。わたしが、接触した書陵部の方々は皆真面目で親切だった。それだけではない。「自分も学術発掘調査すべきだと思う」という、意思(個人としての意見)を決然とのべて下さった方(部の責任者)すらあったのである。
けれども、“では、国民の中の誰がどのように発議し、どこに申し入れればよいのか”“誰がそれを、責任をもって受理し、審議し、回答するのか”となると、ハッキリしない。憲法や六法全書をひっくりかえしてみても、どこにもその点は明示されていないのではあるまいか。
一時、国会で論議されたことがあったけれど、立ち消えてしまった。では、その学問的必要がなくなったのか。そう問われれば、もちろん、ハッキリ否だ。日本列島をめぐる中国や朝鮮半島での発掘報告(馬王堆や武寧王陵など)がすすむごとに、天皇陵古墳の未発掘だけがいよいよクッキリと、その東アジアにおける時代おくれの姿を露呈させてきているのである。
“学術的発掘が、死者の尊厳を汚す”。今、誰がそんなことを信じよう。それなら、明治以来、年々破壊されつづけてきた、弥生墓や古墳群、それらの中の死者に対して何と申し開きができよう。まして今、何も「天皇陵」古墳を破壊して町や住宅にせよ、などという提案が出されているわけではない。逆だ。丁重に学術専門家が発掘し、調査報告し、後代に保存することだ。それすら死者への冒涜とするなら、その思想的立場は何か。「天は人の上に人を作らず」どころか、「死者の上に死者を作る」封建の精神ではあるまいか。
真の天皇家尊崇者は、尊崇と似て非なる「権威主義」から手を放つべきである。そうでなければ、宮内庁の最高責任者たちのミス・リードが、敗戦後の日本の歴史学と精神状況の未発達と混迷の原因の一つとなった、必ずやそのように後代の歴史家に批判されることであろう。敗戦の渦中へと日本の運命をミス・リードした戦前の元勲や元老たちを嘲笑(わら)うことはできぬ。
「精神状況」と、今わたしが言ったのは、他でもない。学術発掘後の古墳が無惨にも荒れた姿のまま放置されている実景を、わたしはあまりにも各地で見すぎているからである。中には、石室内に雨水・泥水がたまりっぱなしの古墳さえあった(たとえば岡山県の千足古墳)。
一方の「天皇陵」古墳の発掘拒絶主義と、他方のこの公乱の惨状、これを見て、後代の心ある人々はわたしたちの時代を何と評するであろうか。
あの那須国造碑の主(韋提)の墓を求めて、上侍塚・下侍塚を発掘した水戸光圀。その魂塊のこもった、堂々たる墓前祭の弔文を読むとき、果してこのような江戸の人士とわたしたちの時代といずれが人間の心をもっていたか、いずれが真に文化的か、後代の人々の判定の声がわたしにはありありと聞えてくるような気がする。その弔文にいわく、
下野那須郡湯津上村に大墓有り。何人の墓なるかを知らざるなり。其の制度たるや。是れ侯伯連帥の墓なり。
是の歳元禄壬申みづのえさるの春、儒臣良峰宗淳に命じて塋域えいゐきを啓発せしむ。若し誌石有りて其の名氏を知らば、則ち碑を建て文を勒ろくして不朽に伝へむと欲するなり。
借しい哉かな、唯折れたる刀破れたる鏡の有るのみにして銘誌有るなし。是に於いてエイ*蔵えいぞうして旧による。新たに封を加へ、四周を築き、松を栽うゑて其の崩壊を防ぐと云ふ。
前権中納言 従三位
源朝臣光圀識す
エイ*蔵(えいぞう)の エイ*は、JIS第3水準ユニコード761E
心あらば、宮内庁長官室の壁一面に、この一文を表示していただきたいと思う。
(この間題について、古田『ここに古代王朝ありき』第四部第一章、参照。)
文庫版によせて
一
当巻の冒頭は、銅鐸国家の問題だ。近畿(大阪府茨木市東奈良遺跡等)を中心として、弥生時代に実在した文明圏である。この魅力的な古代文明をおおっていた“とばり”も、徐々に開かれはじめたようである。
先ず、相継ぐ九州(福岡・佐賀・大分の各県)からの小型銅鐸の鋳型や実物の出土、次いで出雲(神庭西谷の荒神谷)からの小型銅鐸群(六個、各デザインを異にする。筑紫矛を共伴)の出土があった。のちに瀬戸内沿岸・近畿・東海へと拡大した銅鐸文明圏も、その発祥はやはり、「筑紫〜出雲」の間にあったのではないか、そういう可能性が見えてきたのである。
ともあれ、銅鐸の存在すら一切伝えぬ『古事記』『日本書紀』という史書。この明白な事実がしめすように、日本列島の歴史が「近畿天皇家一元主義」のイデオロギー史観からは決して解明できぬこと、この一事はもはや誰人の目にもおおいがたくなってきたのではあるまいか。
二
昨年(昭和六十二年)十月、栃木県宇都宮市の聖山公園跡遺跡の報道があった。縄文前期中葉の遺跡だ。長方形の木造建築が群立し、従来の「縄文の常識」を破る形姿をもつ。信州八ヶ岳山麓の縄文都市、阿久遺跡(縄文前期前半及び後半)とは、また別容の異彩を放つ。後者が和田峠の黒曜石を背景にした繁栄であるのに対し、これは北方の高原山の黒曜石を背景にした、製造と交易の一大センターである。
それに墓地があった。第一グループは、[王夬]状耳飾りをもつ。隣の第二グループは、管玉。さらに隣の第三グループは、石さじ。少しはなれて第四グループは、副葬品なし。明らかに、縄文における「身分階層の存在」をしめしていた。わたしが当巻で“縄文期に身分・階級あり”と書いたとき、清水の舞台を飛び降りるような緊張があった。しかしもうその必要がなくなったようである(聖山公園跡遺跡は現在根小谷台ねこやだい遺跡と呼ばれている)。
石[王夬](せっけつ)の[王夬]は、王編に夬。JIS第三水準、ユニコード73A6
三
この遺跡を訪れたとき、予想外の重大な発見に遭遇した、一方が木造建築群や墓地群に囲まれた広場、それが製造・交易の場であるが、開かれた一方は川に面している。河川交通の要津に当っているのだ。その川は思川、やがて姿川と名を変えて利根川に注ぐ。その交流点、それが藤岡町(栃木県)なのである。市教委の方から、無造作に「(利根川への流入点は)藤岡町ですよ」というお答えを聞いたときの、わたしの驚愕(きょうがく)。当巻をお読みの方なら、お察しいただけるであろう。そうだ。「大前神社、其の先、磯城宮と号す」その地である。
わたしが、この藤岡町に到達したのは、もっぱら埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣金象眼銘文に対する解読からだった。雄略天皇の宮殿は、「シキ宮」などではない(紀・記)。その上、遠い、「ヤマトのシキ」などより、近い関東に「シキ」がある。直線距離二十キロ、その藤岡町に「磯城宮」があった。字地名に残されている上、明治の建碑にそれが明白にしるされていたのである。多くの雄略説論者は、かたくなにこの事実に対し、「見ざる・聞かざる・言わざる」の姿勢に徹している。この日本国の学界。教育界には、それが許されているようである。
ところが、わたしにも分らなかった。「なぜ、藤岡町に『大王の宮殿』などがあったのか」との問いだ。もちろん、上毛・下毛の中の一要地だったにちがいないけれど、そこまで、でとまっていた。
しかし今は、判明した。当藤岡町は、黒曜石の高原山と利根川とを結ぶ一大交点だったのである。関東平野とは、巨視的に見れば、利根川の大流域だ。その関東を睥睨(へいげい)する「大王」の拠点として、それは絶好の地の利に立っていた、それがこの「磯城宮」だったのである。“古代は沈黙せず”のたとえのごとく、いかに「大和中心主義」に背く事実を見まいとしても、相継ぐ地下からの出土とその証言がこれを許さぬ、そういう時がはじまったようである。
四
今年に入って、また重要な出土があった。稲荷台一号墳(千葉県市原市)山上鉄剣に銀(金内蔵)象眼銘文が発見されたのだ。例によって例のごとく、「〈表〉王賜・・・・敬(ウ冠に点 )。〈裏〉(此)(廷)・・・・。」の片言隻語を、「大和政権」に結び付ける報道が氾濫(はんらん)したけれど、学問的に厳正な研究者なら、「このような断片的な文字からは、確たることは何も言えません」、そのように先ず、言い放つべきではなかろうか。
しかしながら、この古墳の形状・墓室のあり方から見ると、埼王稲荷山古墳の場合と輿味深い共通点がある。共に二つの墓室(主室と副室)があり、いわば「主従型古墳」の形姿だ。副室の被葬者は、生前、主人(主室の被葬者)の右腕となって補佐した。“死後も、おそばに”という精神、その表現だ。“Partner even to the Grave”(死に至るパートナー)といえよう。「P・G型古墳」と呼びたい。今回は主室から、埼玉稲荷山古墳では副室から、それぞれ銀(金内蔵)象眼と金象眼の銘文鉄剣が出たのである。
埼玉の方の銘文中の「大王」を“雄略天皇”と見なす多数説の場合、“死後まで慕った主室の被葬名を無視する”という、致命的な矛盾をいだいていること、当巻にのべた通りだ。
これに反し、この「大王」が、わたしの論証したように、「関東の大王」であるとすれば、当然、今回の「王賜」の「王」も、関東内部の「王」である可能性を無視するわけにいかない。何しろ、市原の豪族たる被葬者にとって、ただ「王」といえば、その当地の“直上”の権力者、それを指す、と考えはじめるのが、自然な思惟の進行状況のはずだからである(市原の養老川流域にも、すでに四、五世紀に、長径約百メートル前後の前方後円墳が少なくない)。
ここでもわたしたちは、「大和中心」の色眼鏡をいったんはずして、静かに考えてゆかねばならぬであろう。五世紀に成立した『後漢書』(倭伝)には、その地の文に、
(三十許国)国、皆王を称し、世世統を伝う。其の大倭王は邪馬臺国に居す。
とある。筑紫(「邪馬臺国」は、五世紀の国名。中心は「邪馬」の地。三世紀の邪馬壹国と同じ。)に存在した「大倭王」のもと、三十許国の国々があり、その各々に「王」がいた。そのように明記されているのだ。これは「地の文」だから、五世紀の日本列島(西部)の状況だ(もし、これを後漢当時の状況と見たとすれば、すでに一世紀以来、「王の群立」)状況があったこととなろう。まして五世紀には、というわけだ)。
この史料事実から見ても、今回の「王賜・・・・」の「王」に対し、いきなり“この「王」は、倭の五王の中の誰か”などと議論しはじめるのが、いかに飛躍した見地かが知られるであろう。倭の五王について記した宋書も、この後漢書も、共に同じ、五世紀成立の史書なのであるから。
当巻にのべている通り、五世紀の倭国の、王、すなわち「大倭王」は、筑紫の王者を指していた。その配下の国々もまた、各々「王」を称していたのである。九州とその周辺、西日本の状況である。近畿・東海・関東・東北・北海道、また沖縄等にも、各々「大王」がいて当然。お隣りの朝鮮半島にも、高句麗・百済・新羅・駕洛(からく)国と、各々「大王」がいた(『三国史記』『三国遺事』)。それなのに、日本列島だけ、“「大王」といえば、近畿天皇家一つ”というのでは、何としても、東アジア全体の状勢と一致しなさすぎるのだ。
だから、関東に「大王」あり、そのもとに「主」がいても、何の不思議もないのである(七世紀になっても、岩屋古墳〈千葉県印旛郡〉のような、巨大古墳 ーー当時の近畿の推古陵などと、ほぼ同規模。ーー の存在することを見れば、東京湾岸、一帯を支配する“南関東の大王”の存在もまた、その、可能性を無視しがたい)。
五
五世紀の倭国の中心(首都圏)は筑紫にあった。この命題を証明する、重要な論証が見出された。『三国史記』『三国遺事』に現われる、朴堤上説話である。
ときは、新羅の訥祇王(四一七〜四五七)の時代。即位直後、朴堤上が起用され、高句麗とは交渉で、倭国に対しては“トリック”で、いずれも人質の王子をとりかえした、著名の説話だ。
倭国の場合、倭都は海に面し、深夜、人質の王子を乗せた脱出舟は、夜明けの海霧に助けられて首尾よく、新羅の領海に入りえた、というのだ。“半日足らず”の時間、それで脱出の成否は決せられた、というのである。
大阪湾からでは、こうはいかない。長い瀬戸内海航路、狭い関門海峡がある。これに対し、博多湾岸の場合、北を流れる東鮮暖流(対馬海流の分岐。釜山沖から慶州〈新羅の都〉へ向う)に乗ずるまでの時間、それが追いかける倭兵船につかまるかどうかの、岐路をなす、勝負の時間なのだ。『三国史記』『三国遺事』の語る通りなのである。
こうしてみると、ここでも「倭の五王=近畿天皇家」説に固執する、従来説の論者は、朝鮮半島側では誰知らぬ者はないほどの、この説話のもつ論理性、いわば「海流の論理」の前で“ほおかむり”をつづけるほかないであろう。 ーー東アジアの人々の面前で。
その上、前巻でものべたように、同じ『三国史記』『三国遺事』の冒頭部にある、新羅の脱解王説話でも、そこに現われる「倭国」の中心は博多湾岸だった。脱解王の即位年が、後漢の建武中元二年(五七)、すなわち志賀島の金印授与の年だから、あまりにも自然な帰結だ。
ところが、問題の朴堤上説話。これは「倭都からの脱出譚」だ。だのに、右の脱解王説話以来、「倭都の変動」を一切記していない。すなわち、「一世紀と五世紀の倭都は同一」という筆法なのである。
これほど明白な史料証拠、立証根拠を前にしながら、なお従来説をあたかも「定説」のごとく固持しつづけるとしたら、その論者たちは後世の人々から、「なぜ」と、深い不審の目を向けられることであろう。
六
当巻の主要テーマの一つ、それは高句麗好太王碑の問題だった。昭和四十七年五月に出された「改竄論争」、それにようやく結着のときが来た。
三年前(昭和六十年)、三月と八月、二回にわたって現地を訪れた。中国吉林省集安だ。長年の「開放」交渉が実り、念願の現碑に直面できたのである(この間の交渉経過については、藤田友治氏著『好太王碑論争の解明』新泉社刊、参照)。
その結果、判明した。やはり現碑に「倭」字が石灰字ではなく、本来の石面に存在したのだ。現在、確認できたのは八字(王健群氏によれば、十一字)。となれば、「渡海破」の「改竄」など、ナンセンス。なぜなら、歴史上の事実として肝要なのは、“朝鮮半島の中枢部で、高句麗軍と倭軍との激突があったか、なかったか”、この一点だ。この一点が「倭」字群の存在によって確認された以上、“明治の参謀本部が、それにあき足りず、「渡海破」近辺を「改竄」したなど”という発想は、何といっても無意味としかいいようがないからである。
一つの論争は終った。新たな論争がはじまっている。“この「倭」とは何者か”、この問題だ。この答は、先の朴堤上問題のさししめすところ、明瞭だ。なぜなら朴堤上が人質王子返還の交渉のために、高句麗の都を訪れたのは四一七年。好太王碑建碑(四一四)の一二年後。当時の首都は集安である。高句麗王は建碑者たる長寿王(四一三〜四九一)。
とすれば、朴堤上説話における「海流の論理」のしめすところ、五世紀当時の「倭都」は博多湾岸をふくむ筑紫にあった。ここが倭国の中心であった。この論理を無視せざる限り、好太王碑に頒出する「倭」は、すなわち「筑紫に首都をもつ倭国」、これ以外にないのである。
近来、好太王碑をめぐるシンポジウムやテレビ番組がしぱしば実施、あるいは放映された。そこでは、“「倭」とは何か。大和政権中心か、それとも海賊か”といった形で、間題がとりあげられる。ここでも、わたしの「倭都は博多湾岸をふくむ筑紫」説は、あたかも“存在しない”かのように扱われている。“ほおかむり”だ。論争対象と“しない”のだ。
だが、そのような“姑息”な姿勢、それはいつまでつづきうるものであろうか。静かに見守りたいと思う。これは、一好太王碑の問題ではない。従来の「日本古代通史」の立場、すなわち近畿天皇家一元主義が是か、それとも、当三巻のしめす立場、すなわち多元主義の立場からの「通史」が是か、それを決すべき、不可避の厳粛な里程標となるものだからである。
一九八八年四月五日記
古田武彦
編著『天皇陵を発掘せよ』 第二章 天皇陵の史料批判 古田武彦