『倭人伝を徹底して読む』(目次) へ
古田武彦
まず、『三国志』成立までに出てくる倭人の例を見てみたいと思います。その中には倭人という言葉ではないけれども、どうもこれは倭人を指しているのではないかと、わたしには思われる例があります。有名な中国の古典である四書五経の中の五経の一つに『礼記らいき』というのがあります。周代に著わされた本です。この中に次のような文章があります。
東方、夷と曰いう。被髪文身、火食せざる者有り。 (巻十二)
つまり東方の民を夷と呼んでいる。彼等はざんばら髪で、体に入れ墨をしている。そして火を通さずにものを食べる。これは魚や獣の類を生で食べるということです。中国人は必ず火を通します。むしろ火を通すのが得意な民族です。ところがわれわれとちがって、火を通さずに食べるのが得意な連中が東の方に住んでいると。考えてみると、日本人は火を通さず生ものを食べるのが非常に得意です。どうも倭人もその一つに入っていたのではないか。呼び名がないので倭人だけとは言えませんが、しかし日本人がその代表的なひとりということは言えると思います。朝鮮半島でも生で食べるケースがあるようですが、日本人ほどは生で食べない。しかも文身(入れ墨)は、倭人の習俗の一つでもあります。韓国も倭人と非常に関係が深いので、夷の中には韓国もふくみえますし、またあとから出てくる東[魚是]人(とうていじん)というのも当然ふくみうる一つですが、この記事は、「倭人をふくみうる記事」と考えてそう大きなあやまりはないのではないかと思います。
[魚是] は、魚偏に是。JIS第4水準ユニコード9BF7
次は『礼記』と並んで有名な『尚書』(『書経』)です。中国で古典と一言でいえば、この『尚書』を指します。これは、堯ぎよう・舜しゆん・禹うから周公にいたる天子と賢明な臣の言動を記した経典で、五経の中でも一番中枢をなす書物です。いわば中国人の学問の指標です。この『尚書』の冒頭にも、倭人らしきものが出てきます。
島夷、皮服す。
「夷」というのは、先にものべたように東方の民族です。野蛮人ともいわれますが、しかし注意しなければならないのは、それは後世のことで、果たして周の時代に、「夷」に野蛮人という意味があったかどうかということです。後世の意識で『尚書』を読むと通じないかもしれない。ともあれ野蛮人であるかないかは別として、「夷」というのは東方の民である。ただ東方の民といってもいろいろあります。朝鮮半島も東方の民です。ところが東方の民の中に島に住むのがいると。そして彼等は皮の服を着ている。皮の服を着ているというイメージも、いまのわれわれから見るとなんたる野蛮人という感じですが、しかしこれも当時の中国人がどんな立派な服装をしていたのかわからないのですから、「皮服=野蛮人」と二十世紀の意識で読むことは危険です。要するにここでは島に住む民の風俗を見て、それを記録しているわけです。そして注釈には、
海曲、之を島と謂いう。島に居るの夷。
こういう注釈がついています。かなり古い注釈です。まただいぶあとの注釈ですが、
(正義)島は是れ、海中の山。 (『尚書』巻六)
大陸から見ればそういう感じになるのでしょう。とはいっても、中国人の住んでいる大陸も、海に囲まれていますから実は島なのです。ただ大きいか、小さいかだけです。それを彼等はまだ自覚していなかった。自分たちの住むところは大陸で、目の前の海に囲まれた中にあるのを島という、というように認識していた。こういう認識は現在でも続いているかもしれません。
このように、彼等は島に住む連中がいるということを書いています。ですから、陳寿が倭人伝に「東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す」と書いてあるのを読んだ『三国志』の読者は、すぐピンと「ああ『尚書』に出てくる『島夷、皮服す』の人々だなあ」と受け取る。陳寿も、読者がそう受け取ることを当然期待して書いているわけです。
これらは非常にわかりやすい例ですが、問題をふくむのは、周公の言葉として出ている次の例です。
海隅かいぐう、日を出いだす。率俾そっぴせざるは罔なし。 (『尚書」巻十六)
率俾というのは、「中国の天子に対して忠実に臣下として服従すること」とされています。周公は周の第一代武王の弟です。武王は、殷(いん)を倒して周王朝を確立してまもなく亡くなります。その残された子どもが第二代の成王です。武王は亡くなるとき、弟の周公に私の子どもを助けてくれるようにと依頼しました。そして周公はその約東を忠実に守って、成王が成人して立派に王となるまで補佐して天下を統治し、しかも周王朝の基礎を築いたといわれています。摂政とか左治天下という言葉も、ここから出てきています。
この周公の言った言葉が、『尚書』の終わりの方に出てくる。つまり長い補佐の政治をしたのちに、非常に満足してもらした言葉として出てくるわけです。
“私のいままでの苦労、苦心の結果、海の彼方にある日の出るところの種族もまた心服するようになり、そこからも周王朝に貢物を持ち礼を尽くして来るようになった。それほどまでにわが周王朝の勢威は盛んになった”という、非常に満足感あふれる言葉です。
ところがこの言葉は、われわれにとって見逃せない言葉です。海といえば東と南とありますが、「日の出るところ」というのは東の海です。そして東の海の中の島に人間が住んでいる。そこで思い出すのは、『尚書』のはじめに「島夷、皮服す」というのが出てきたことです。『尚書』を読む入にとっては、最初のところで前提になる地理的知識、民俗風物誌がすでに頭に入っていたわけです。東の方には島があって、そこには皮の服を着た人たちが住んでいる。そういう種族がいるということを、『尚書』を読む人はまず学習していた。そうして今度は終わりの方へきて、周公がまた言う。当然、『尚書』の読者は「ああ、最初にあった島夷からも貢物を持ってくるようになったんだな」と、受け取るような仕組みになっているわけです。
そうすると、この東の島の種族が貢物を持ってくるようになったというのには、倭人がふくまれているのではないか。倭人だけとは言えませんが、倭人をふくむ概念がここでしめされているのではないかと考えられます。
では、周公が倭人と接触した形跡はあるのかというと、実はあるのです。それは五経よりも時代は少し後になって、いわゆる後漢最初の光武帝のとき、王充(おうじゅう)が書いた『論衡ろんこう』という本に出てきます。王充は会稽(かいけい)の出身で、洛陽にやって来て光武帝のつくった「太学」に学びました。現在の大学のモデルはここからきています。王充は、その著『論衡』でなかなか鋭い議論を展開しています。それによると、
周の時、天下太平、越裳えっしょう白雉はくちを献じ、倭人鬯草ちょうそうを貢す。 (巻八)
「鬯草」とは何か。今後わたしにとっても追求すべきテーマですが、簡単にいえば香りのいい草、あるいは神に捧げる霊草という概念で、まず大きな狂いはないと思います。わたしの解釈を加えるなら、神酒にひたしたものと考えます。というのは、鬯という言葉が、お酒と関係して使われる例が中国ではありますし、鬯草を「服する」という言い方をするからです。内服薬の服ですから体に入れるわけです。ですから香りのついた神酒、屠蘇(とそ)もその種かもしれませんが、鬯草をひたしたお酒を飲んだのではないかと、いまのところ理解しています。ともかく香りのいい草で、神に捧げる霊草であることは確かでしょう。
次も同じく周の時代です。
成王の時、越常えっしょう、雉きじを献じ、倭人暢ちようを貢す。 (『論衡』第十九)
「暢」という字も、意味は鬯草と同じだといわれています。ここでは、周の第二代成王(前一一一五〜一〇七九)のときであると書かれています。「成王の時」といっても実際の統治者は周公であったわけですから、いいかえれば、成王のときに倭人が周公に献じたということになるわけです。するとこの記事は後漢時代の本の記事ですが、わたしは疑いないものと考えます。というのも先ほどの『尚書』と対応しているからです。倭人がそういう貢物を持ってきたということになると、いまの周公の満足の言葉を単に妄想で周公が言ったり、嘘をしゃべったとは思えない。むしろ実体をもとにして満足の言葉をのべたと考える方が、わたしは筋が通っていると思います。したがって「倭人が成王のときに鬯草を周公のところへ持って来た」という話は、疑えない、記録としての信憑性を持っていると考えています。
そのように考えてゆくと、これは大変な問題をふくむことになります。というのは、「成王の時」とは、紀元前一〇〇〇年頃のことですから、日本でいう縄文時代晩期(紀元前一〇〇〇〜三〇〇年)のはじめの頃の話になってくるからです。これは明らかに従来の「縄文」という概念と衝突してくる。このことについて、ここでは深く立ち入ることができませんが、それをさらに裏付けするとわたしに思われる記事が次です。
魯公に命じて世世、周公を祀まつるに、天子の礼楽を以てせしむ。・・・・昧まいは東夷の楽なり、任にんは南蛮の楽なり。夷蛮の楽を大廟に納め、広魯を天下に言うなり。 (『礼記」巻十四)
周公が亡くなって、成王は非常に悲しみ惜しんだ。彼は、叔父である周公に助けられ、自分の長い王の時代は太平、そして安穏に過ごしたばかりか、周王朝自身がその勢威を広く東アジア一帯に輝かすに至ったからです。そこで成王は、周公の功績を称え、周公の子どもを魯公に任命し、さらには魯公に周公を子々孫々祀ることを命じました。しかもそのときに「天子の礼楽を以てせしむ」と。本来ならば周公は天子ではないわけですが、しかし天子を祀る礼式をもって祀ることを許した。それは周公に対して「あなたは、実際は天子としてよくやって下さった。私は名前だけの天子でした」という感謝の表現でもあるわけです。
では、その天子の礼楽とは何か。いろいろ書いてありますが、その最後に注目すべき記事があります。「昧は東夷の楽なり、任は南蛮の楽なり。東蛮の楽を大廟に納め、広魯を天下に言うなり」と。つまり儀式の最後を「昧」と「任」の音楽でもって行うということです。
そこでのちのちの中国の学者が困っていることは、東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)、北狄(ほくてき)と東西南北が普通であるのに、その中でなぜ東と南だけの音楽をやるのかということです。それで「これは東西南北の音楽をやったのだろうが、四つ書くのは面倒くさいから二つにしたのだろう」などという注釈を付けている学者も出てきます。しかしわたしはこれはあやまりであろうと思います。四つあれば四つ書けばいいわけですし、それが面倒くさければ「四方の楽を以てす」と書けばいいはずです。それを東夷と南蛮しか書いていないというのは、それに意味があるからです。まさに東夷と南蛮が貢物を持って来た。そういう歴史的事実を背景にして、その思い出が、二つの音楽を儀式で用いた所以であったのであろうと思います。したがって『論衡』に出てくる越裳(越常)は、当然ながら南蛮ということになります。倭人というのは当然東夷です。この倭人と越裳の貢献という歴史的事実をバックにして、東夷と南蛮の楽を用いるのを常としたのです。
さて、次に有名な文章があります。
楽浪海中、倭人有り、分れて百余国を為す。歳時さいじを以て来り献見すと云う。 (『漢書』地理志、燕地)
これは現在の教科書では、漢代の歴史的事実だと解説しているものが多いようですが、わたしははっきり言って文章の読みちがいだと思います。楽浪というのは、確かに漢代のいわゆる楽浪郡ですが、しかし、この記事は、決して漢代だけの事実として書かれているのではありません。というのも最後に「献見すと云う」と書かれているからです。漢代の人が漢代のことを「 ーーと云う」という表現をとってはいません。ストレートに直接法で書いてあるの普通です。「 ーーと云う」という表現は、この地理志の中で二ヵ所ほど出てきます。そのもう一つが次の文章です。
会稽海外、東[魚是]人とうていじん有り、分れて二十余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う。 (『漢書』地理志、呉地)
[魚是] は、魚偏に是。JIS第4水準ユニコード9BF7
この二例の倭人についていえば、これは『論衡』でいわれていることと同じことを表わしているのではないかということです。というのは、『漢書』を書いた班固(はんこ)と、『論衡』を書いた王充とは全く同時代「太学」に学んだ学生同士で、しかも王充が班固より五つ年上で、王充は班固を非常に可愛がっていたという逸話が残されているからです。ですから、王充が書いた文章の「倭人」と班固が書いた文章の「倭人」とは、同一の倭人と考えざるをえない。王充が言っていること、それと同じ事実を背景にして班固が「 ーーと云う」と、書いたと見る方が先入観なしに、この文章そのものの文脈から見て自然であると思えます。これにもいろいろな論証ができますが、詳しくお知りになりたい方は『邪馬一国への道標』で論じているのでごらん下さい。
こうした記録から見て、わたしはこの事実は疑うことができない史実であると思います。もちろんこれは「貢献」、つまり貢物を持って来たということで、いわゆる「朝見」とは別です。「貢献」と「朝見」は同じようなものに思いますが、「朝」がつくと、“朝廷に持って来る”つまり洛陽に都があれば洛陽に、長安に都があれば長安に来て貢物を献じなければ「朝見」とは言えません。それに対して「貢献」の場合は、原則として出先機関、たとえば東であれば楽浪、のちに楽浪郡が分郡されて帯方郡になったら、帯方に持って来れば貢献になるわけです。そこから先はそこの役人が天子のところへ報告し、送ってくれる。だから貢献の場合は、天子のいる都に行く必要がないわけです。この周代の場合は、の場合は、「朝見」ではなく「貢献」ですから、周の都(鎬京こうけい ーー西安の地)に行ったのではなく、恐らくあとにも出てくる箕子(きし)朝鮮(いまのピョンヤン〔平壌〕あたりを中心にあった)、あるいは箕子が滅ぼされてからは燕(えん 都は北京)に持っていけば、そこから都の地へ送ってくれることになっていたはずです。
もう一つ大事なことは、『漢書』の中に倭人と相並んで、東[魚是]人というのが出てくることです。この東[魚是]人についてもいままで論じたことがありますが、結論を言うと、「[魚是]てい」という字は“魚へん”を取って考えていいであろうと思います。ちょうど高句麗という場合に「麗」と書く場合と“馬へん”を付けて「驪」と書く場合があります。それと同じです。これは、馬が高句麗の特産であるというところから”馬へん“がついて「驪」になったと思われるだけで、別に意味上のちがいはありません。そうすると、この「魚是」も“魚へん”を取って「是てい」と考えることができます。海の中ですから魚を献上したのかもしれません。その場合、「是非」の「是ぜ」と読んでしまうと“よい、悪い”の「よい」という意味ですが、「是てい」と読むと、「端っこ」という意味になります。東[魚是]人は、“東の端っこの人”ということです。
ここで大事なことは、倭人も「東夷」で“東の人”と考えられていることです。倭人のことを知っていて、さらに「東の端っこ」と言っている。これはいいかえれば“倭人の、もう一つ東”ということです。そこに「東[魚是]人」がいるという意味です。倭人が日本列島の中にいるならば、もう一つ、倭人の東側に「東[魚是]人」がいる、というのが当時の中国側の認識であったわけです。しかも倭人の場合、帯方郡とか燕という「北ロード」で中国との関係がとられているのに対し、東[魚是]人の場合は「会稽コース」でとられている。だから「会稽海外」なのです。
では、「海中」と「海外」のちがいは何でしょうか。例を挙げて簡単に言いますと、たとえば、九州の西岸部などは会稽から見て「海中」になります。それがそのもう一つ向こう側になると「海外」になってくる。厳密には言えませんが、中国側から見ればこういう微妙な、感覚的なちがいがあるわけです。ですから、朝鮮半島から見れば九州の北側は「海中」になります。この「海中」と表現できるところよりもう一つ向こう側というときに「海外」の表現が出てくる。この辺のニュアンスも大事なものとして注目すべきだと思います。
この東[魚是]人も先の論理からいうと、周代から中国と関係を持っていたことになり、今後非常に問題になるところだと思います。これも私見としてすでにのべたところですが、わたしはこれに対してこういう考え方を持っています。
ここで倭人といわれているのは、いわゆる博多湾岸を中心にした銅矛(どうほこ)・銅戈(どうか)・銅剣圏の人たちのことです。それに対して銅鐸(どうたく)圏、淵源は九州ないし出雲あたりから出ているようですけれども、近畿を中心とする文明圏の人々、これが東[魚是]人ではないかとわたしは考えています。というのも、銅矛・銅戈・銅剣が中国の銅文明の影響で出来たことはまちがいない。銅鐸もやはり中国の銅器文明の影響下に出来たことが疑いない。いずれも中国の影響を受けている。そのとき、影響を受けるのに“中国側が全然知らずに、日本側が、勝手に、一方的に影響を受けた”というケースも考えられないわけではないけれども、一つの文明と他の文明との接触ということを考えると、中国側が全然知らないうちに日本だけが影響を受けたというのはちょっと奇妙であって、やはり中国側も認識していたと考える方が自然です。したがって西側の銅矛圏を倭人に当て、東側の銅鐸圏を東[魚是]人に当てる。これが一番自然な当て方ではないだろうかと思います。関東や東北などの文明圏もあったとは思いますが、しかしこれらの地は、まだ中国側の認識には入っていなかったことでしょう。この辺の問題で、さらに興味をお持ちの方は『邪馬壹国の論理』(復刊 ミネルヴァ書房、二〇一〇年)で論じていますのでごらん下さい。
倭人が銅矛・銅戈・銅剣圏だという問題は、またあとで再確認したいと思います。
いままでの話の中でも何度か出てきましたが、倭人が中国と接触する上での仲介者、重要な仲立ちの存在があったことも忘れるわけにはいきません。それが一つは箕子であり、一つは燕(えん)です。
箕子というのは、殷の最後の王、紂王(ちゅうおう)に仕えた人物です。紂王は若さにまかせて暴虐だったとされていますが、実際はこれは、あてにはなりません。滅ぼされた王は、いつも次の王朝のイメージをよくするために悪者扱いされています。ですからこれが歴史的事実だというわけにはいきませんが、『史記』などはそのように伝えています。宰相であった箕子が何度諌めても若き天子は聞いてくれない。のみならず箕子と仲がよく、賢臣だった比干(ひかん)が紂王を諌めたところ、逆に比干を殺し、聖人の胸には七竅(しちきょう)があるというが、それを見てやるといって胸を切り割いて見た。そこで箕子はこれはもうだめだと絶望して東へ去っていった。そして、いまのピョンヤン(平壌)のあたりに新天地を建設した、というようなことが書かれています。
その後、殷の臣下で、一豪族であった武王が反乱を起こし、紂王の正規軍と戦って勝ち、殷王朝は滅亡、代わって周王朝が確立した。そこで箕子は中国へ帰り、周の第二代の成王に会いに出向いた。その途中、黄河の流域のかつての殷の都のそばを通ると、そこは見る影もなかった。殷墟になり禾黍(かしょ いねときび)が生い茂っているだけだった。箕子は、それを非常に傷み悲しんで詩をつくった。それが「麦秀之詩」です。
麦秀でて漸漸ぜんぜんたり 禾黍油油ゆうゆうたり
彼かの狡僮こうどうよ 我と好よからざりき (『史記』宋微子世家、第八)
このあと箕子は周の都(長安近辺)へ行き、自分が新しい天地(朝鮮)へ行って周辺の民を教化し、彼等に中国の天子に対する礼節を教えたことを告げた、というのです。
このことは、やはり歴史的事実と考えるべきだとわたしは思っています。というのは、箕子は架空だという話が、明治・大正の啓蒙主義史観の白鳥庫吉(しらとりくらきち 東洋史学、東大教授)を中心にしていわれてきました。庫吉は夏・殷のみならず、周までもが架空だ、つくりものに過ぎないと主張しました。それを受けてさらに津田左右吉(つだそうきち)が、そうした考え方を今度は日本の古代史に適用して『古事記』『日本書紀』の神話や説話は架空である、歴史的事実ではないという、有名な議論を大正から昭和にかけて発表していったのです。
ところが、昭和のはじめの殷墟の発掘で、これがくつがえされます。庫吉が架空説をとったのは、春秋以前の話は、戦国時代あたりにつくられた、という目見当だったようです。もちろん漢代になってつくられたものも多いと。ところが周の「前半(春秋以前)」どころか、それより前の殷墟が発掘された。そしてそれがまさに『史記』で語られている、その場所から出てきたわけです。ですから、やはり殷が存在したことは、疑いの余地がなくなってしまった。それで、現在は殷(後半)を架空だという人はいなくなっています。
にもかかわらず、「箕子は架空だ」という人はまだいる。しかしわたしはおかしいと思うのです。なぜなら殷が「架空」なら、箕子だけ「実在」というわけにはいかない。当然。箕子も「架空」でなければならない。しかし逆に、『史記』に書かれている場所の地下から殷墟が出てきた。その殷墟に箕子が通りかかって詩をつくっている。それにもかかわらず「箕子だけが架空だ」というのでは、今度は逆に「架空の証明」をしなければならないわけです。それなのに、「箕子についてまだ実在の証明がない」などというのでは、これは方法論上、本末転倒です。わたしはやはり、箕子も実在であると考えています。
しかし、最近朝鮮半島側の(北も南もふくめて)民族主義的な学者たちは、「箕子架空説」を唱えているようです。というのは、楽浪や帯方は、朝鮮民族が築いたものであって、それを中国入が「箕子」などという架空な名前を当てふっているに過ぎない、という民族主義的な立場をとっているからです。そういう考えが非常に根強い。しかしそういうナショナリズムで、歴史的事実は消したり、つくったりすることのできるものではなく、箕子の実在は、中国の古い文献、さらに殷墟の実在からしても、やはり史実と考えなければならない。こういう歴史上の実証の問題と民族主義の問題とは、別個に、それぞれの本領が矛盾しない形で考えなければならないと思います。事実を無理しても消さなければ保てないようなナショナリズムが、もしあるとすれば、それは健全なナショナリズムではないことを、われわれはすでに敗戦前に身をもって経験したはずです。
そういう箕子というのが、倭人が中国文明に接する上で非常に重要なキーポイントになっています。これが第一です。第二のポイントは、燕です。要点だけ言いますと、殷の終わり頃(紀元前一〇〇〇年頃)からずっと周代にかけて、箕子朝鮮がピョンヤン近辺を中心につづいていました。ところが周の終わり頃になって衛氏朝鮮にとってかわられる。その経緯については次のようです。
燕の豪族であった衛氏が、燕を追われて箕子朝鮮にやってきます。すると、そのときの箕子朝鮮の王が衛氏を亡命者としてかくまってやった。ところが逆に、衛氏は自分をかくまってくれた箕子朝鮮を倒して、自分が権力をにぎってしまったのです。これは衛氏の方から言わせればまた別の言い方をするかもしれませんが、そのように書かれています。それでは、そのとき箕子朝鮮の側はどうなったかというと、海を越えて韓国へ入ったといわれています。韓国のどこだと書かれていないのですが、地理的にいえば朝鮮半島の西岸部を南下したでしょうから、恐らくいまの朝鮮半島の西岸部の南半、のちの百済あたりだろうと考えられます。わたしは、そこを箕子韓国と名づけました。そしてこの「箕子韓国」が、倭人に非常に大きな影響を与えたのではないかと思われます。というのは、時期が秦の始皇帝(前二四六〜二一〇)の二世胡亥(こがい 前二〇九〜二〇七)、三世嬰(えい 前二〇七)の頃です。つまり紀元前三世紀のはじまりの頃です。ということは、日本では長かりし縄文時代が終わって弥生時代がはじまった頃です。当然そこには大陸文明の影響があったことが考えられます。ちょうどそのとき関係深い「箕子朝鮮」がぐっと近いところ、半島の南半部へ来ている。とすれば、その影響を倭人側が受けるのは必至で、そういう意味でわたしは「箕子韓国」いうものを深く注目すべきだと、前々から考えていました。
そうした影響を受けた「箕子韓国」が南に出来、北には衛氏朝鮮が出来る。衛氏は燕の系列ですから衛氏朝鮮に倭人が接触すると、それは同時に燕に接触する方法でもあったはずです。それ以前、箕子朝鮮の場合でも、箕子朝鮮は周王朝の一国ではなく、朝鮮で自分の独自の領域を広げていました。周の一代武王はこれを「臣」としなかったのです。「是ここに於て武王、乃すなわち箕子を朝鮮に封ず。而して臣とせざるなり」と。普通は「封」じたら「臣」にするわけですが、「封」じたけれども「臣」扱いにはしなかった。殷のすぐれた宰相であった箕子を非常に尊んで、家来扱いにはしなかった、ということです。ということは倭人は、確かに箕子朝鮮を通じて中国に貢献したかもしれないけれども、直接的には周の「臣」である燕を通じて中国の天子に服属したことになります。だから中国側が表現する場合、「倭は燕に服属している」という表現になります。それが、次の文章です。
蓋国がいこくは鉅燕きょえんの南、倭の北に在り。倭は燕に属す。 (『山海経』海内北経)
『山海経せんがいきよう』というのは、周の戦国時代に出来たといわれる地理書です。これは、倭がはっきり「倭」という形で出てくる最初の文献だといわれています。蓋国というのは、大きくいってピョンヤン近辺のようです。『三国志』に蓋馬大山(がいばたいさん)という言葉が出てきますが、この蓋馬大山というのは、朝鮮半島の北半部で、南北につらなる山脈の中の山を指しているようです。この「蓋」という言葉は朝鮮半島の北半部近辺でよく使われているみたいです。また中国の東北地方(旧満州)の近辺にも「蓋」のついた地名があるそうです。けれどもここでの「蓋国」というのは、「鉅燕の南、倭の北に在り」であって、燕の中の鉅というところの南に当たっている。と同時に倭の北に当たっている。ですからこれによると倭は、どうも日本列島だけではなくて、朝鮮半島の南半部にも及んでいたような感じがします。
これは『三国志』において、倭人伝のみならず、韓伝でもくりかえし説かれていることです。要するに倭人の領域が、朝鮮半島の南岸部およびかなり奥地まで入った南半部に及んでいるということです。それが、『山海経』にも出てくる。そしてその最後に「倭は燕に属す」と。まさに中国から見て一番東夷に近い諸国の一つが燕であって、倭はその燕に服属する、周辺の種族の一つであったのです。
では、倭人がいる場所を示すものに何があるでしょうか。『後漢書』の倭伝に出てくる文章があります。
建武中元二年、倭奴国、貢を奉って朝賀す。使人、自ら大夫たいふを称す。倭国之極南界なり。光武賜うに印綬いんじゅを以てす。 (『後漢書』倭伝)
これをなぜ引用したかというと、倭人伝の
旧もと百余国。漢の時朝見する者有り、今、使訳通ずる所、三十国。
これと対照してもらうためです。つまり「漢の時朝見する者有り」というのが何であるかは倭人伝の中には書かれていない。倭人伝は『三国志』ですから、いわゆる魏・呉・蜀の三国時代のことは書いていますが、漢のことは書いていないのです。そこではじめに「漢のときに朝見したことがあるということはみな知っているでしょう、あの倭人ですよ」というのをまずチラッと出しておく。そして詳しいことは、あとで出来た『後漢書』でわかるわけです。それが、有名な「後漢の光武帝が金印を与えた」という記事なのです。そこにははっきり「朝賀」と書いてあります。倭人伝では「朝見」ですが、「朝見」も「朝賀」も意味は同じで、天子の都に使が行って天子に会い、貢物を差し出すことです。このときにもらった印綬が、志賀島から出てきた金印であることは有名な話です。
ところが、実は建武中元二年というのは、例の『論衡』を書いた王充が洛陽の「太学」で学んでいた時期でもありました。後漢の光武帝が洛陽に創立した「太学」です。そしてまた同時に『漢書』の班固も同じ「太学」に学んでいた。ただその頃班固は、洛陽の北、洛陽からそれほど離れていない田舎へ葬式で帰っていたようですが、ともあれ大ざっぱにいって王充とともに「太学」に学ぶ、学生の時期に相当していました。ということは、二人は倭人が光武帝から金印を授けられる儀式を見た、あるいは見た人の話を聞いたはずです。とすると『漢書』で班固が書いた「楽浪海中、倭人有り」の表現は、「この間洛陽へ来て金印をもらって帰ったあの倭人は、楽浪海中にいます。みなもよく知っている、周の成王以来貢献を続けてきている、といわれる倭人です」というような意味になる。だから漢代だけの話では決してないのです。読む方も、最近のニュースとして、金印をもらったのを目の前に見ているわけですから「ああ、あの倭人は楽浪海中にいるのか」と思って読む。また王充の『論衡』を読んだら「ああ、最近金印をもらった倭人は、昔鬯草を献じた倭人なんですね」と、思い出しながら読む仕掛けになっているし、著者もそう読まれることを予想して書いているわけです。『論衡』の倭人を、たとえば「江南の倭人」であろうとする説がありますけれども、わたしはいまのような文献の論理を推し進めていく限り、それは無理であろうと思います。やはり楽浪海中の倭人、鬯草を献じた倭人は志賀島の倭人、あるいは筑紫の倭人と理解するのが、文献分析からして正しいであろうと思っています。
そうなると、博多湾岸を中心にした銅矛・銅戈・銅剣圏が、倭人の本拠であり、その中心が志賀島の金印の出てきた筑紫ということにも連なっていきます。そしてその筑紫の倭人の女王が卑弥呼。わたしは「ヒミカ」と発音するのですが、「彼女がどこにいるかということは、千古の謎であり、将来ともわからないであろう」とする考古学者もいるようですが、実はいまのようにたぐってくると、もうすぐそこにわたしには見えてきているように思われるのです。
わたしは、いままで倭人伝を考える場合に、『後漢書』の倭伝によることは危険である、『三国志』の倭人伝の方が基本であると考えてきました。というのは、時代は後漢の方が先で、三国(魏・呉・蜀)の方があとですが、本が出来たのは逆で、『三国志』の方が先だからです。つまり『三国志』は、三世紀に成立した同時代史書であるのに対して、『後漢書』の方は、五世紀になって成立した後代史書で、百五十年も遅れて出来ています。だからいわゆる倭伝について見ると、倭人伝を下敷きにしているものが多い。倭人伝を班固一流の巧みな文章で要約したものが多いのです。だから歴史事実を考える上では、『三国志』の倭人伝の方を基本に考えるべきであるという立場をとってきました。では、『後漢書』が全部信用できないのかというと、そうではありません。たとえば、先の金印に関する記事でも後漢の光武帝が金印を授けた、という記事がまさに事実であることは、志賀島の金印出土によって証明されているわけです。そうすると『三国志』のまる写し、要約ではなくて、後漢時代あるいはそれ以前から伝わっていた資料によって書いている、ということにも当然なってきます。
そこで、東夷列伝をあらためて見ていくと、ここでなかなか容易でないテーマがいくつも出てきました。
昔、堯、義仲ぎちゅうに命じ、嵎夷ぐういに宅おらしむ。暘谷ようこくと曰う。蓋けだし日の出ずる所なり。
夏后氏太康たいこう、徳を失い、夷人始めて畔そむく。少康より已後、世に王化に服す。遂に王門に賓せられ、其の楽舞を献ず。
桀、暴虐を為し、諸夷内侵す。殷湯、革命し、伐ちて之を定む。仲丁(殷第八代)に至り、藍夷らんい、冠こうを作なす。是より或は服し、或は畔くこと三百余年。武乙(ぶいつ 殷第二十五代)、衰敝すいへいし、東夷寝*盛しんせいし、遂に分れて淮わい・岱たいに遷うつり、漸く中土に居す。
武王の紂を滅ぼすに及び、粛慎しゅくしん来りて石弩*せきど・[木苦]矢こしを献ず。管・蔡、周に畔き、乃すなわち夷狄を招誘す。周公之を征し、遂に東夷を定む。
(『後漢書』東夷列伝序)
寝*は、爿偏の代わりに三水偏。JIS第4水準ユニコード5BD6
石弩*(せきど)の異体字。弓の代わりに石。
こういう記事があります。何を言っているのかわかりにくいですが、まず第一に出てくる問題は、「昔、堯、義仲に命じ、嵎夷に宅らしむ。暘谷と曰う。蓋し日の出ずる所なり」という文章です。これは『尚書』(『書経』)にもとづくものです。堯は、堯・舜・禹という有名な三人の聖天子の最初の天子ですが、この堯が、家来の義仲を嵎夷に派遣した。嵎夷というのは、元来は「日の出ずる所」の地名だといわれています。この文章でもそういう感じですが、しかしもっと立ち入って言えば、そこに住む種族を嵎夷というのが本来であって、そこから土地をも嵎夷と読むようになってきたというべきです。それはともかくとして、種族も、場所も両方の呼び方であるようです。そしてそこは「暘谷」と呼ばれ、日の出るところといわれているらしい。
この話自体わたしはいままで知らないことはなかったのですが、これは事実としてありえない、伝説だというイメージをもっていたわけです。しかし本当にこれがありえないことかどうか、ということは問題です。むしろ逆に今では、あっても別に不思議なことではないという感じがしてきました。といっても、従来の学説では、堯・舜・禹が架空というのは決まりで、それを実在と扱ったら学問上笑われます。けれどもそれはそれとして、これを実在の話とした場合、時代はいつ頃になるか。周は先に言いましたように紀元前一〇〇〇年から三〇〇年頃までで、日本でいえば縄文晩期です。そして殷は、日本でいう縄文後期、紀元前二〇〇〇年から一〇〇〇年の中のことです。殷の長さ自体がまだわかっていないので、そう細かくは言えませんが、大体縄文後期の後半ぐらいと思います。その殷の前は夏ですが、夏もいままでは架空だったのが、最近夏の遺跡が出てきたというニュースが報道され、夏もかなり実在的になってきました。ヨーロッパやアメリカの考古学の本ではすでに実在になっていて、夏という言葉は使っていませんが、先殷期、プレ・アンヤン(安陽)期ということで載っています。すると堯・舜・禹の時期は、日本では縄文中期ということになります。
ところで縄文中期というと、日本列島では縄文時代の一番華やかな時期です。関東・東北をはじめ各地から大型の土器がおびただしく出てきています。土器文明が盛りほこった爛熟期だったのです。しかもこれは地球の中でも珍しい出来事なのです。まだ地球の中ではそういう土器文明が至るところにあるという感じではありませんでした。ですから非常に注目すべき土器文明であることはまちがいない。一番早いのは一万二千年前、紀元前一万年前後です。それこそ世界中のどこにもない。中国や朝鮮半島、蒙古などに若干似たようなのがあると最近いわれ出していますけれども、質量ともに日本列島は圧倒的です(最近では約一万四千年前。神奈川県大和市上野かみの遺跡の無文土器)。
そうした爛熟期に達した縄文中期の文化を持つ日本のお隣りの中国では、まさに夏・殷・周文明が堯・舜・禹の登場によって揺藍(ようらん)期を迎えていました。いまから文明を築こうとして燃えはじめている、好奇心に充ち満ちている時期です。ですからそういう日本の情報は当然中国の方へも流れていき、「そんなものをつくっている国はどんな国だ」と、中国がこれに関心を持つのは当たり前です。関心を持たない方がむしろ不自然で、持って別に不思議はない。しかもそんなに遠くではない。だからそういう意味では、堯が自分の信頼する人物を東の土器文明の発達している国へ派遣しても全く不思議ではありません。
ただ、その場合の関係は、後世とはちがいます。卑弥呼の時代の金属器文明においては、中国が先輩で、日本は模倣者ですから、完全に主人と家来という関係を結んで恥じない、むしろ喜びとした感じでした。ところがこの場合は、中国では銅器文明がこれからはじまるというときです。中国にも土器文明はあったでしょうが、日本ではそれに勝る先進文明で、その爛熟期にあった。当然、中国側が日本の文明を学んでも不思議ではなかったのです。このことは、史実とは無関係の「伝説」にすぎず、勝手に誰かがそんな話をつくったのだろう、といういわゆる啓蒙主義史観で通されてきました。しかし本当にそうなのでしょうか。わたしは、新たな疑問を抱いてきたのです。
そのことと関係があるかないかわかりませんが、山梨県と長野県の境あたりに井戸尻というところがあります。そこから出土した縄文中期の土器の文様は、殷・周の銅器のそれとよく似ているのです。文様だけなら偶然の一致ということもあるのですが、それ以外にも井戸尻から三本指の神様が出ており、殷・周の銅器にもなんと三本指の神様めいたデザインが出てくる。無関係な偶然の一致とは考えられない。これは三本指の神々を信仰する文明が東アジア、あるいは東南アジアに存在していて、それが一方では井戸尻に現われ、他方で殷・周の銅器に現われているわけです。それがどう具体的に連絡を持ったかどうかまだわかりませんが、時期からいえば井戸尻の縄文中期の土器の方が殷・周の銅器よりかなり早い。もしストレートに関係をつければ矢印は井戸尻から中国大陸へ向かうわけです。
しかし縄文土器の影響で殷・周の文化が出来たなどとは、誰も“冒険”すぎていわないのですが、ただそういう非常に酷似したデザインが両者に存在し、いま知られているものに関しては、時期的には縄文中期の土器の方がだいぶ早いということまでは言えます。このことは、あまりにも大きな間題すぎて、とても断定はできません。しかし、そういう問題もあるということを、片方に置いておくことです。つまりこの『後漢書』の文章は、「架空」といちがいに決めつけることのできる記事ではない。ただ中国側でそういう記録をしている。その古くからの伝承と記録にしたがって『後漢書』は書かれたのだ、ということをわれわれは認識し、今後の参考として慎重に「保留」しておく必要があると思います。
「夏后氏太康、徳を失い、夷人始めて畔そむく。少康より已後、世に王化に服す。遂に王門に賓せられ、其の楽舞を献ず」。夷人が夏の「王門に賓せられ」というのですから、単なる家来という感じではなくて、お客さん扱いです。後世のような、「中国の天子の家来」「夷蛮」「野蛮人」というのとは少し表現がちがう。その点も注意したいところです。そしてその夷人が、音楽、舞踊を献じたという。夷人というのは、はじめに嵎夷とあった、「日出ずるところの夷人」らしい。とすると、これは夏の時代、つまり縄文中期から縄文後期前半の時期に夷人、恐らくは「日出ずるところの嵎夷」の夷人がやって来て音楽や舞踊を見せてくれたということです。本当に縄文時代にそんなことがあったのか、と言いたいところですが、これも最近では言えなくなってしまった。
というのは、最近能登半島の真脇遺跡から土製仮面が出土したからです。ここには有名な御陣乗太鼓があります。御陣乗太鼓というのは、奇怪な面をかぶって太鼓を打ち鳴らします。あの面もいままでは中国などから伝わったものであろうとされていたのですが、それが同じ土地で、縄文後期初頭の層から土製の仮面が出土した。しかもそれは儀式のときに使われたものであろう、という。すると当然儀式は音楽付き、舞踊付きだったにちがいない。少なくとも能登半島では縄文後期初頭に仮面を使った音楽、舞踊が行われていたことになるのです。こうしたものが、すでに日本本列島内にあったとすれば、これはとりもなおず、日出ずるところの島から、お客さんとしてやって来て音楽・舞踊を献じたということと時代的に符合します。もちろんこれが事実であるという断定は、とてもできないけれども、やはり「保留」措置を講じておくべき話であると思っています。
桀(けつ)は夏王朝の最後の君主です。暴虐で酒色にふける典型的な暴君で、殷の湯王の革命で殺されます。そして夏王朝にかわって湯王の殷王朝が生まれました。このとき「藷夷内侵す」、つまり東側の夷人が、中国本土内部に侵入して来たと。そしていろいろ経過はあったけれども、殷の終わり頃には中国本土内部に定着するようになったというのです。淮(わい)・岱(たい)というのは、黄河と揚子江の間で海岸に近いところです。そしてその後、周公が管・蔡をやっつけ、それによって東夷は安定した関係を周と持つようになっていった。そこで鬯草を献じたりするようなことが可能になったのだという経緯です。
この東夷というのは、わたしが大学などで習った知識では、中国本土内部の話・中国の東海部近く、黄河の河口とか揚子江の河口、またはその間の部族のことであって、それが後になって東方の倭人なども東夷というように拡大したのだと記憶してきました。しかしこれをよく読んでみるとどうもそうではない。むしろ逆で、外の島々の夷や、朝鮮半島の夷、それらの東夷が西へ進み、中国本土に入って来てそこで定着するようになったというのです。そうした倭人をふくむような東夷である証拠は、次の文章にも出ています。
秦、六国を并あわせ、其の淮わい・泗夷しい、皆散じて民戸為たり。陳渉ちんしょう、兵を起し、天下崩潰ほうかいす。燕人、衛満、地を朝鮮に避け、因りて其の国に王たり。百有余歳、武帝、之を滅し、是に於て東夷、始めて上京に通ず。
つまり燕人が、箕子を滅ぼして衛氏朝鮮になり、その衛氏朝鮮が、百有余年続いていた。ところが前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼしてしまった。そこで東夷ははじめて、上京(漢の都)に通ずるようになったと。するとこの東夷は、中国本土内部の東夷ではないことになります。朝鮮半島か日本列島の東夷であってこそこの文章は成り立つのです。もし東夷というのが、淮・岱の、黄河の下流域と揚子江の下流域の間のところであるとしたら、衛氏朝鮮がどうして関係あるのかとなってきて意味が通じなくなってきます。やはりここで「東夷」といっているのは、「海外の東夷」であって、それも文章のはじめは、「日出ずるところ」の東夷から話がはじまっているわけです。
王莽、位を纂つぎ、貊はく人、辺を冠す。建武の初め、復また来りて朝貢す。
時に遼東の太守、祭[月彡]さいゆうの威、北方に聾しようし(おそれる)、声せい、海表に行わる。是ここに於おいて穢*・貊・倭・韓、万里朝献す。
祭[月彡](さいゆう)の[月彡]は、JIS第4水準ユニコード809C
これは、後漢の光武帝の、いわゆる志賀島の金印の記事を指すものです。倭伝に出てくる金印の話。それを予告したのが、東夷列伝の序文のこの文章ということになります。
故に章・和已後、使聘しへい流通す。 (『後漢書』 東夷列伝序)
東夷の国々と流通するようになった、その経緯です。
考えてみれば、これは東夷列伝です。そして東の朝鮮半島なり、日本列島にいた東夷が、中国大陸に侵入してそこに定着したという。それを記録好きの中国人が、よその話ではなくて、自分のところへ入ってきた話を記録しているのですから、これを簡単に嘘だとか、「妄想を書いた」とかいうのは、かなり言いにくい話です。
戦後の一つの病気といえば言いすぎですが、よそから日本列島へ入って来ることは非常に歓迎するということがあります。たとえば、中国本土なり朝鮮半島と日本列島で共通の遺物が出てきたとします。するとこれはどこどこから日本列島へ入ったのだと、学者はためらわずに言う。しかし考えてみれば、手続きとして一つ抜けているのではないかと思うのです。つまり共通だということはあくまで共通だということであって、次に矢印がどちらに向くかを証明しなければならない、ということです。矢印は日本列島に入ってくるだけでなく、逆に日本列島から朝鮮半島へというものもあってもいいわけだし、日本列島から中国本土へというものもあってもいいわけです。ところが戦後の流行で、矢印の方向を証明するという第二段階目を省略してしまい、共通だというと向こうから来たのだと、ためらわず言ってしまっている。これはおかしいことです。『後漢書』にあらわされた事柄も、人間だけが中国へ入り、それにともなう文化が入っていかないということはありえないわけですから、そうした伝承をもとに書いているとすれば、東夷の国々の文明が、中国文明に入って、中国文明の基軸をなした、という事実は当然考えられるわけです。わたしにはそんな感じがします。
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