『倭人伝を徹底して読む』(目次) へ
『ここに古代王朝ありき』 へ
『「邪馬台国」はなかった』 へ
『新・古代学』 第6集 神武古道 へ
闘論神武東征と天孫降臨 へ
『倭人伝を徹底して読む』(ミネルヴァ書房)
2010年12月刊行 古代史コレクション6
古田武彦
さて、今度は日本列島側の文献に出てくる倭について見てみましょう。今まで問題にしてきた倭国というのは、いわば筑紫の倭国です。現地では「チクシ」、文献の一部では「ツクシ」と呼ばれています。いずれもまちがいではなく、両方ありうる名前です。筑紫という字は、このまま読むと「チクシ」であって「ツクシ」という音ではありません。何よりもまず、ズバリ発音を表わして、筑紫と表記したものと思います。意味の問題は、一応別とします。『古事記』では「竺紫」とも書いています。これは要するにどちらが正しいかではなくて、現地側での言い方か近畿側での言い方か、ということだと思います。ちょうど日本とジャパンとどちらが正しいかといっているのと同じことです。
その筑紫の倭国とは別種の倭国が、現われてきます。それが、『古事記』『日本書紀』『万葉集』に現われてくる倭国です。大和のことを「倭」とか「大倭」と書いて「やまと」と読むというのは、『記』『紀』『万葉集』を見ればしばしば出てくることですし、いわゆる奈良県を「倭」といっている時期がきたことは確かです。そういう第二の倭国、「ヤマト倭国」は一体どういう経緯で生まれたのでしょうか。
そこで問題は、『古事記』の邇邇芸命(ににぎのみ)ことです。邇邇芸命は、天照大神が筑紫の日向に遣わした人物で、天照大神の孫だといわれています。その名前を見ると、
(イ) 天邇岐志国邇岐志、天津日高日子番能邇邇芸命
と書かれています。ここで注目すべきは、「天津日高日子」という言葉です。日本列島には各地に「天あま」の付く地名があります。するとここでの港は、「天津」ということになる。たとえば出雲の隠岐島には海士(あま)町という港があります。また九州にも各地にそういう名前がある近畿にもある。そしてまた次の「日高」と言葉もやはり日本列島各地にある地名です。ですからここは二段地名になっていて、つまり「天津の中の日高というところの『日子』=『彦』」ということであろうと思います。「日子」というのは、長官名を表わす言葉です。倭人伝の対海国=対馬、一大国=壱岐、それぞれの長官が卑狗(ひこ)であることは有名です。ですから、やはり狗は「ク」ではなくて「コ」と読むのが正しいのであって、狗邪韓国も本来は、狗邪(こや)韓国と読むべきものだと思います。もともと「日子(毘古)」という言葉の発生地は、対海国と一大国のようです。そしてそれが、長官名としてすでに三世紀には成り立っていました。
さて、そこでなぜこの「ニニギ」がこういう名を名乗ったかということになるのですが、たとえば「天照大神が天津日高日子である」とは書かれていないし、その子どもも天津日高日子とは必ずしもいわれていません。けれども天津日高日子というと、一見偉い人の名称のようなイメージを受ける。にもかかわらず、邇邇芸命は兄弟の弟のほうですし、まだ天照大神がいるのですから決してナンバーワンになれるはずがない。彼は、いわゆる天孫降臨で壱岐・対馬の領域から筑紫へ遣わされてきたにすぎない。本国の天国には兄さんが残っているし、おばあさんの天照も残っているわけです。要するにその段階では、筑紫に遣わされたのは、主流としての直系の子孫ではない、ということになります。
それが、この天津日高日子という言葉が直系を意味するような輝かしい名前になるのは、どうも次の(ロ)の段階であるようです。
(ロ)天津日高日子穂穂手見あまつひたかひこほほでみ命
これは、いわゆる海幸、山幸の山幸に当たる人物です。ところが山幸の場合はもちろん一人でしょうが、穂穂手見命自身はどうも一人ではないのではないかと考えられます。というのは、
故かれ、日子穂穂手見命は、高千穂の宮に伍佰捌拾歳坐ましき。(『古事記』)
という記事があるからです。穂穂手見命が、五八○年高千穂の宮にいたといっても、ちょっと一人で生きられる年代ではない。『記』『紀』では天皇の寿命がやたら長いので、その真実をあやぶむ声も聞かれますが、しかしよく調べてみると、実はこれがそんなに長くないのです。つまり二〇〇年を超えるような天皇はいない。これを二分の一にすると、大体人間が生きられる範囲の寿命におさまってきます。つまり「二倍年暦」という考え方です。われわれがいう一年が、その時代にとっては二年に当たるのです。というのも「春耕・秋収」というものによって、倭人は、一年を二回に分けているように見える文面が、『魏略』に出てくるからです。そう考えると、天皇の年齢は、いずれも普通の人間が生きることのできる年代におさまってくるのであって、決して『記』『紀』の天皇の寿命はでたらめなものではないということになります。ところが、その目で見ても、この五八〇歳というのは、とうてい一人の人間の生きられる年代ではない。とすると一体これは何であるのか。そこで考えられるのが「襲名」ということです。
わたしは天孫降臨地の解明のために、日向のくしふる山関係の文書、黒田長政が書いたその文書を求めて、手塚誠さんという方のお宅を訪ねたことがありました。そのとき手塚家の系図を見せられてびっくりしたものです。その系図は全部名前が同じなのです。ずっと同じ名前が書かれている。異様な感じを受けました。それで尋ねてみると、「うちでは代々こういう名前になっております」という返事で、明治になってからどうもこれではおかしいので名前を変えることにしたというのです。
これが、いわば「襲名」ということです。考えてみると、日本の社会では、この「襲名」の習慣はいまでもいろいろなところで、いろいろな形で見られます。農村でも商家でもそうした例は残っていますし、歌舞伎などでも「襲名」します。このようなことが、高千穂の宮でも行われていたのではないか、穂穂手見命というのは、実は「襲名」さるべき名称ではなかったかとわたしは考えたのです。そうすると仮に一人が一〇年平均とすると二九代、二〇年平均とすれば一四、五代になるというわけです。だからその間、天津日高日子の名前が名乗られていたことになります。
ところが次に、
(ハ)天津日高日子波限建鵜葺草葺不合なぎさたけるうがやふきあえず命 (『古事記』)
という名前が出てきます。
この人物は、説話によると、(ロ)の穂穂手見命が海の国へ行って、そこで結婚して生まれた子どもという形になっています。そして、彼が神武の父親となるわけですが、穂穂手見命の方はその後、もとの国の筑紫(らしい)へ帰ってしまいます。するとこれは話自身から見ても本流ではない。穂穂手見命にはちゃんとお妃が都にいて、その都から海の国へ出て行って、そこで子どもが出来た。ですから名前からしてもいままでとはちがっています。天津日高日子というのは付いているけれども、その下に「波限建」という言葉が入ってくる。これはいままでにないものです。
「波限建」の「波限」というのも地名の一種だろうと思います。日本列島に「なぎさ」という地名は本当にたくさんあります。いってみれば漁村ごとに「なぎさ」はある。ある一つの漁村で「なぎさ」といえば、あの辺だと決まっているぐらい「なぎさ」というところは数多い。またそれが地名になっているところもかなり多い。だからこれは波限(なぎさ)と呼ばれるところがあって、その波限における「建たける」です。「建」は、名家、武勇の名家ということです(つまり「建部たけるべの長」です)。ですから、この「波限」において「建」と名乗りうる名門はわが家だけだ、という意味が「波限建」です。これが、(ロ)とはちがってきています(「波限」は海岸線のことですから、“日向における海岸防衛の軍事集団の長”の意でしょう)。
直系ではないが、天津日高日子の血を引き、波限建という名家に生まれた鵜葺草葺不合命。この鵜葺草葺不合命という名前についても説話があります。つまり母親が子どもを産むための産屋(うぶや)が出来上がらぬうちに子どもが生まれてしまった、という話です。ある神話学者は、そういう類の話は東南アジアにもよくあるといいますし、わたし自身もそのような解説を昔読んだことがあって、それが頭の中に入っていて、そのイメージでこの名前を覚えていたのですが、しかし最近考え直してみると、この考え方は非常に問題があると思います。というのは『記』『紀』などでよく地名説話というのがたくさん出てきます。ある地名があると、その地名は○○天皇がこういうことをされたからこういう地名がついたとか、○○皇子がこういうことをいわれたからこういう地名がついたというものです。しかしそれはすべてといっていいと思うのですが、実は逆であって、地名の方が先なのです。その先にあった地名に対して天皇家の勢力がそこに及んできた場合、新しい支配者である天皇家のある人物の言葉や行動にかこつけて、その地名のいわれを説明するという、そういう地名説話が誕生した。だから説話の方が新しくて、地名の方が古いわけです。
有名な例を一つ挙げてみましょう。日本武尊の説話で、日本武尊が東征のおり、弟橘媛が海神の怒りをなだめるために海に身を投じたのを悲しみ「あずまはや」と嘆かれた。そこで東の国というようになったと。こうした話があります。考えてみると、日本武尊がいくら偉いといっても、「あずまはや」といった嘆きの言葉だけで、その地名が「あずま」になったなどというのはちょっと考えられない。地名がそんな形で成立するはずがないのです。それまでに地名がなかったのかというと、そんなことはないわけで、当然「あずま」という地名が先にあって、それが天皇家の支配権が関東に及んできたときに、天皇家の有力な一人である日本武尊の説話にかこつけて、すでにあった地名を説明した、ということです。
ちなみに「あずま」に「東」という字を当てたのは、これはまた別の作業です。「あずま」というのは東という意味ではなくて、「吾妻」からきたものです。それに東という字を当てたのは、近畿から見て東に当たっていたからにすぎません。ですから「あずま」というのは東国の地名であって、関東に行けば親鸞などがいた「下妻」などという地名も出てきます。つまり「しも」や「あ」が接頭語で「つま」が接尾語というわけです。「妻」という地帯があって、それが、あるところは「あずま」であり、あるところは「しもづま」である。地名自身の検討からいえば当然そうなってきます。このように説話の方があとであるというのが、地名説話分析の基本のルールであるとわたしは理解しています。これは、地名だけではなくて人名起源説話においても同じことがいえると思います。
ともかくこの場合にも、鵜葺草葺不合命に関する説話の方からこの名前を理解してはならないということがいえます。すると固有名詞は固有名詞として独立して理解すべきであって、人名も説話と切り離して考察すべきです。東南アジアの神話と似ていることも、それは人名(こじつけ)説話の作り方に関する問題であって、本来の人名そのものに関する問題ではないのです。
では、鵜葺草葺不合命というのは、一体どういう意味を持つのでしょうか。わたしは、「うがや、ふきあえず」と読んでいたのですが、よく考えてみると、なんとなく長すぎる。それで切ったらどうなるかと考えてみました。「鵜葺草」で切ると一つの姓(かばね)として成り立ちうる言葉でしょうが、葺不合というのはやや長すぎるし、また「葺不合」の名前の意味がもうひとつピンとこない。それでは、「鵜葺草葺」で切ったらどうなるか。鵜葺草の鵜は接頭語で、鵜葺草(うがや)というのは鵜の羽を葺草(かや)としたものの意味です。そして、鵜葺草葺という家屋の葺き方があり、鵜葺草葺を商売とする職能があった。そう考えると「鵜葺草葺」は「姓」ではないかということに気付きました。
「天皇家に姓はない」ということを、わたしはこれまで何回も聞いたことがあります。もっとも文献にそういうことを書いたものはないのですが。それで天皇家というのは、大したものだと思っていたのですが、しかし考えてみるとこれはおかしい。たとえばのちの『隋書』イ妥(たい)国伝の「日出ずる処の天子」の条に、「天」(阿毎あま(め) )と姓 が出てくるし、しかも不思議なことに『記』『紀』の神話世界でも天照はじめ天という姓がたくさんある。それが神武以降になると天がなくなってしまうのです。神話の世界はいわゆる「神武東征」(正しくは「神武東侵」)の「出立以前」ですから、地理的にいえば九州になるわけです。九州にいるときには「天」を名乗る神様がやたらに出てくるのに、神武が九州を離れて大和へ入ったあとは、「天」と名乗る天皇はいなくなり、ずっと後七、八世紀にまたちょっと出てくる程度です。こうしてみると天皇に「姓」があるかないかということは分析の結果いかんの問題であって、あらかじめ「天皇家に姓はないのだ」というのが疑うべからざる大原則であるかにいいなすのは、おかしい話です。さて、ともあれこの場合は、「鵜葺草葺」が「姓」で、「不合あえず」が「名」ではないかとわたしは考えました。
姓で一番多いのは地名です。住んでいるところの地名を姓にする。ただ地名を名乗るといってもこれは大変なもので、そこに住んでいればその地名を名乗れるというものではありません。やはりそこに勢力を持っていて、支配していないと名乗れないわけです。ですから地名を名乗れるのは豪族に多い。次いで多いのは、職掌です。
そうしてみると「鵜葺草葺」というのはどうも地名ではなく、職掌ではないかと考えられます。「鵜葺草葺」は特定の家屋の葺き方で、字面からすると何か貧相な農家を思い浮かべますが、恐らく当時においては立派な家だったのでしょう。神聖な家屋や首長クラスの住んでいる家屋などの「かや」を鵜葺草(鵜の羽のかや)と呼び、そういう鵜葺草を葺くのに、一つの専門家として「鵜葺草葺」という職掌が成立していた。姓の例は、この段階ではなかなかわからないのですが、ずっと後の『記』『紀』その他でみると、たとえば鞍作止利(くらつくりのとり)が挙げられます。彼は有名な仏師で、この場合も鞍作が姓で、止利が名であったとみられます。そしてこの姓は、鞍部というものに属していたのでしょう。首長が馬に乗って活躍するためにも鞍は必要なもので、その鞍を作る人々を「鞍作り」と呼び、恐らく鞍部の中の中心的存在だったと思われます。それで「鞍作り」を姓にした。しかしだからといって、止利自身が生涯鞍を作っていたかどうかは疑問です。恐らく止利自身は、仏像を作っていたのでしょう。もちろん鞍を作るノウハウぐらいは先祖から聞いて知っているかもしれませんが、彼自身は仏像をつくることが主だと考えていたのではないかと思われます。にもかかわらず、姓は先祖伝来の「鞍作」です。これは、職掌が姓になっている典型的な例です。
「鵜葺草葺」もこれに当てはめてみると「鞍」に当たるのが「鵜葺草」で、「作」(つくり)に当たるのが「葺」(ふき)ということになります。「鞍作」というのは古墳時代のものでしょうが、もっと古い段階では、馬よりもむしろこういう家をつくるという職掌の方が理解しやすいと思います。一方、名前の方は、名前そのものの意味はそれをつけたお父さんにでも聞かないとわからないもので、その本人でさえもわからないものですが、この場合の「不合」は、“ピッタリしない”“合わない”という意味のようです。この「合わない」というのには、二種類あります。不肖の息子という場合は、息子の方が親よりよくないわけですが、いわゆるトンビがタカを生んだというような場合は、子どもの方が親に似ずいいわけです。親が子の名前をつける場合、不肖の息子としての名をつける親はいないでしょうから、恐らく俺にふさわしくないほど立派な息子だということで不合と名付けたのではないだろうかと思います。鵜葺草葺に似合わぬ素晴らしい息子だと。そういう解釈をするとこの名前が理解できるのです。
この不合命には子どもが四人います。五瀬命(いつせのみこと ゴカセノ命と呼ぶ方がいいように思われます。日向にゴカセというところがあります)、稲氷(いなひ)命、御毛沼(みけぬ)命、若御毛沼命(わかみけぬ =豊御毛沼とよみけぬ命)の四人です。そして若御毛沼が神武に当たります。ところがここに出ているのはみな名前です。五瀬にしても稲氷にしても、これが姓ではありえない。当然名前です。名であればその上に姓があったのではないか。「父親と息子の姓は変わらない」という原則からいうと、これは「鵜葺草葺、五瀬」であり、「鵜葺草葺、稲氷」であり、「鵜葺草葺、御毛沼」であり、「鵜葺草葺、若御毛沼」となるわけです。
ついでながら神武のことを豊御毛沼命とも言っているところから見ると、御毛沼というのは、豊とよ国、大分県の地名ではないかと考えられます。のちに神武が東へ向かって出立していくさい、まず豊国宇佐の宇佐津彦のところへ行って援助を求めていますし、その地はまた彼の母方の出身地と関係があるようです。
ともあれこのように分析してみると、ここには「鵜葺草葺」という姓が成立していることがわかります。ところが、神武が大和へ入ったあと「鵜葺草葺」を名乗った形跡はない。本来、「鵜葺草葺」は神聖な誇るべき職掌でした。それが、「不合」という名前を付けるようになったこと自体からしても、すでに「鵜葺草葺」という職掌の社会的ポジションがだんだん下落してきていたのでしょう。そういう「鵜葺草葺」一家としての九州における生活を一擲して新しく東へ、近畿への征服者になろうどしたのが、この兄弟であったとわたしは理解しています。
そして、近畿へ入った神武は、その後「神倭伊波礼毘古かむやまといわれひこ命」と名乗りました。神倭の「神」は当然ながら後世の尊称ですが、「倭伊波礼」はこれも二段地名で倭の中の伊波礼、そして「毘古」は長官です。これも自称であるか、あるいは筑紫の王朝から承認を受けたのかわかりませんけれども、とにかく大和盆地の中の伊波礼にいる毘古であると名乗りました。もはや「天津日高日子」でもないし、波限建でもない、いわんや「鵜葺草葺」でもない。私は大和の伊波礼において毘古を名乗るものである、というのが神武の初名乗りであったと思われます。
ところがその名乗りをみると、伊波礼毘古の方は「いはれ」と表音で書いてあるのに対して、「やまと」という字が「倭」と書かれています。これは一体どうしたわけか。ここでわたしは、非常に奇妙な質問を自分自身に投げかけてみました。それは「神武は文字を知っていたか」という問いです。これに対する答えは、「倭という字は知っていた」です。文字全部を知っていたとはとてもわたしには思えないのですが、かといって文字を全然知らなかったかというと、そうも思われない。少なくとも倭という字は知っていたであろうと。というのも、神武を実在と考えた場合に、わたしはその時期を二世紀の後半前後と考えています。それはちょうど近畿で銅鐸が消滅する時期で、また当然ながら志賀島の金印よりあとのことになります。志賀島の金印は、五七年(建武中元二年)ですから一世紀半ばです。この金印の文字には、イベんはありませんが、同じ意味の委という字がありました(当時はヰと発音したかと思いますが、一応便宜的にわたしはワと発音しておきます)。もちろんこの金印をもらった王者はそれを秘密にしていたのではなく、当然少なくとも九州各地の豪族には十分見せたはずです。中国の天子の「お墨付き」をもらったのは私だといって。ですから少なくとも九州の豪族は、中国がわれわれのことを「倭」と呼んでいるということを知っていたはずです。
そして神武も、その九州の豪族の端くれであり、しかも筑紫からの血を引いていると称する豪族の端くれであった。当然、彼も中国がわれわれの国を、その場合九州ですが、「倭」と呼んでいることを知っていたと思います。
ここでちょっと横道になりますが、倭という字は本来は「ヰ」としか発音できない字です。これはわたしの一つのアイデアにすぎませんが、福岡県糸島郡前原町に有名な井原遺跡というのがあります。この場合、原は地形を示す接尾語で、固有名詞部分は井だけです。もちろんこの井はワヰウヱヲの「ヰ」です。さらに博多のベッドタウン春日市の近くに井尻というところがあります。これも井が固有名詞部分で、尻は地形的に端っこになるという尻です。そうしたことから、どうも糸島郡から博多にかけて井という地名が存在したのではないだろうかと思われます。そしてその「井」が「倭」と表現されたのではないか。ただこれは、それ以上の証拠というのがなかなか難しくてありませんが、「ヰ」という地名自身は、日本側のものだとわたしは思います。そしてこの倭がのちにワという発音に変わっていく。いつ変わったかはっきりいえませんが、少なくとも七世紀末〜八世紀の頃にはワに変わっています。
さて、こうなると「倭伊波礼毘古」という言葉の意味は、非常に重要になってきます。要するに自分は「倭から来た伊波礼の毘古だ」となる。そして「毘古」とは、倭国の制度の「毘古」であり、しかも「やまと」という三字音で書かずに「倭」の字をあてていることは、大義名分として、「私は東[魚是]人ではないぞ」ということもふくんでいることになります。弥生時代の倭国は、いわゆる九州を中心に存在し、『漢書』に記される東[魚是]人は近畿などの銅鐸圏の人間であったとわたしは考えていますから、弥生時代の近畿人はいわば東[魚是]人の系列となるわけですが、神武は自分が東[魚是]人であると名乗った形跡はなく、むしろ倭人であると名乗っています。つまり「私は近畿に来ているけれども東[魚是]人ではない、倭国から来た毘古である」というのが「倭伊波礼毘古」の表現の、真の意味であろうと思うのです。
このように、やまとの伊波礼毘古と倭の伊波礼毘古は成り立ちがちがう言葉ですが、それが同一人物を指すことは確かで、そこに倭=やまとという言い方が、後世天皇家において定着していった由縁があるのではないかと思います。
だから本来、この「倭」は“九州からの分流”、“分家”をしめす言葉であって、彼等の底流には、「私は九州からの分流であるぞ」という誇りがあったはずです。そしてその後、天皇家では倭をやまとと呼ぶようになった。ですから、やまとというのは第二次の倭の呼び名であって、本来は「分流としての倭」であったのです。ところが、それがだんだん強大な権力を日本列島の中心部で獲得していくにつれて、「倭の本流である」という意識に変わっていったとわたしは考えています。
(その後、この考えをさらにすすめ、「神武〜開化」の九代の天皇名中の「倭」「大倭」は、「チクシ」を意味する、と理解するに至っています。)
大国主説話/天孫降臨の真相/山田のかかし/大物主説話か?/宣長の誤謬/筑紫の青垣/倭の多元化
部民一元論に反対する/神麻績部と神人部/浜名湖の倭
『記』『紀』の相違/大橘と弟橘/日本武尊は天皇ではない/倭王武の常陸巡行/筑紫と常陸の関係
出雲経由越行き/官位の暴落/「姓」本来の性格/混在する倭
大和盆地の若頭/倭よりの使者/倭人伝の「大倭」なり/初期天皇家は筑紫の分家
『倭人伝を徹底して読む』(目次) へ
『盗まれた神話』 へ
古田武彦著作集 へ
ホームページ へ
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。