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邪馬台国論争は終わった=その地点から 古田武彦 『続・邪馬台国のすべて』(朝日新聞社)
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古田武彦
これからお話することは、高いところから講演するという感じではなくて、私の思っていることをみなさんに報告し、あとでご質問なりご意見をいただく、またそれで私も新しく考え始める、という連絡の会にさせていただこうと思って、京都から出てきたわけです。
本日の段取りとしては、前半は、「『邪馬台国』」はなかった」(昭和四十六年・朝日新聞社刊)で書いた中で、特に里程問題。これは私の本を読まれた方にはすでにご承知だ、という内容になりますが、どこからどういうふうに行ったか、その道のりのとり方と解読に焦点をしぼって述べたい。後半は、あの本以後出てきた問題のうち、いくつかを取り上げ、それが「『邪馬台国』はなかった」と、どういう関係になるかをお聞きいただくことにします。
私が邪馬台国問題に入ったのは、「三国志魏志倭人伝」の中に「邪馬台国」ということばは全く出ていないことを知って、これはヘンだぞと思ったのが始まりです。
では「三国志魏志倭人伝」にはどう出ているかというと、「邪馬壹国」とあって、「壹」は現在郵便局などが使っている「壱」と同じだと思う。しかもこれは一つの本にあるだけでなく、南宋の紹興本、紹煕本をはじめ、明朝、清朝に至るまで、すべて「邪馬壹国」であり、中には「邪馬一国」と書いた版本すらある。
それではなぜ「邪馬壹国」が「邪馬台国」になったのか。北畠親房、松下見林、新井白石、本居宣長、以後つぎつぎと「邪馬台国」と読んでいった、その理由あるいは動機ははっきりしている。つまり、倭国の王といえば天皇家にきまっている。近畿大和に相違ない。しかし「邪馬壹」では「ヤマト」とは読めない。「壹」は「臺」の誤りだ。「邪馬臺」なら「ヤマト」と読める、というので、「邪馬壹国」が「邪馬臺(台)国」になってしまったのだ。
新井白石は、最初は近畿大和説だったが、晩年は筑後山門説に変わっている。道程記事から見て、瀬戸内海を越えて近畿にまで来ているとは思えない。「ヤマト」は九州の「山門」ではないか、というわけだ。この場合も、「邪馬壹国」ではなくて、「邪馬台国」と直して当てているのである。
ところが、私はずっと親鸞研究に携わってきましたが、中世の文書を扱う場合に、学者はよく古写本の字を直すクセがある。たとえば「歎異抄」で、蓮如本という一番古い写本にある字を、これはあの字の間違いだろうと、現代のわれわれにわかりやすく直して読んでいた。ところが、最近、親鸞の自筆本あるいは弟子の自筆本がつぎつぎに出てきた。それを見ると、古写本のこの字は間違いだろうといって直していたのが、実は間違いでない、そのままでいいのだ、という例がつぎつぎと出てきたのです。
一例をあげると、「恋」は昔は「戀」というむつかしい字です。「戀とは、イトシイトシトイウココロ」などとシャレたものだ。親鸞の「鸞」は、その「戀」の「心」を「鳥」にかえた字であることはご存じだと思いますが、蓮如本には「巒」とある。これは誤写だといって、学者が「鸞」に直してきた。
ところが、親鸞の直弟子の書いたものに「巒」があり、さらに親鸞直筆のものにさえ「巒」があることがわかってきた。「巒」の書かれた蓮如本は、誤写どころか、それが原型を伝えた古い時代の写本であることが証明される結果になったのだ。
「鸞」は、字画が多くて書きにくい。昔は筆だから、よけいそうだった。だから音が一緒の「巒」を書いていたのだが、後に「親鸞聖人」と本願寺でたてまつられるようになると、めんどくさいから略字にしておけというわけにいかない。そこで「鸞」が必ず使われるようになったといういきさつがわかってきた。これは一例で、他にも類似の例はたくさんある。
以来私は、現代のわれわれの目におかしいから、こうあってほしい、などの理由で、古写本なり古い版本の字を直して読むことはいけないことだ、「原文改訂」をしてはならないと痛感していたのです。
「三国志魏志倭人伝」についても、どの版本にも「邪馬壹国」とあるのを、「ヤマト」と読むのに都合がいいからといって「邪馬台国」とするのはおかしい。
これが私の出発点でした。
では「邪馬壹国」は一体どう読めばいいのか。
結論をいえば、「倭」は昔「ゐ」と発音した。それを「壹 い」であらわしたのだ。この点は、音韻問題をめぐって、「ワ行」の「ゐ」をなぜ「ア行」の「い」と同じに使えるかとか、いろいろ質問はあると思いますが、時間の関係で本日は省略させていただきます。
ただ一言簡単にいうと、われわれが知っている字は、かなり後世に定着した字なのである。倭でも、高句麗でも、百済でも、新羅でも、定着するまでにはいろいろの字が使われていたのだ。だから、定着した現在の字ですべてを判断して、これが正しくて、あとは間違いだという言い方はできない。
ところで「邪馬壹国」とは「邪馬の壹国」であり、特定の固有名詞部分は「邪馬」である。「壹国」の中の「邪馬ヤマ」と呼ばれる地帯だ、ということになる。
「ヤマ」といえば、例の筑後山門ヤマトがある。ほかに、能古島の南、生之松原近辺にも山門がある。地図には下山門とあるが、現地ではただ山門といっている。これはいずれも「ヤマの門」であって、「ヤマ」の玄関が「ヤマ」の北側にも南側にもある、ということではなかろうか。ところで原点になる「ヤマ」だが、太宰府近くの基山のあたりに「山家」「山口」などの地名がある。つまり、基山あたりを中心として「ヤマ」という地帯があり、そこから糸島に抜ける入り口が「山門ヤマト」、肥後ヘ抜ける入り口がまた「山門ヤマト」と言えるのではないか。
ただ、私がこの「山門」にたどりついたのは、従来のやり方とはたいへん違うものであった。つまり、倭国の王は、どんな昔でも、天皇家にきまっている。近畿大和だ、奈良県あるいは大阪府に違いないと、まず最終地点をきめて、それに合うように「魏志」を読みかえるというのがこれまでのやり方である。筑後山門説を言うときの新井白石も、やはり「ヤマト」を前提に置いて、同音の「山門」を探し出したにすぎない。
しかし、終点を先にきめて、都合のいいように読みかえるという方法は、どう考えてもフェアーではない。とにかく「三国志」という本があるのだ。「倭人伝」は二千字ちょっとで、「三国志」のごく一部分にしかすぎない。引用例の宝庫ともいうべき「三国志」によって、宇なり文体なりの使用法のルールを見いだして、そのルールに従って「倭人伝」を読むべきだ。その結果どこへ着こうとこっちの知ったことではないというのが、「魏志」解読の際の私の基本的な考え方であった。
以下、その解読について述べましょう。
まず、道程の部分を読んでみます。
郡より倭に至るには、海岸に循したがって水行し、韓国を歴ふるに、乍たちま 1ち南し、乍ち東し、其の北岸狗邪韓国に至る七千余里。始はじめて一海を度わたる千余里、対海国 2に至る。其その大官を卑狗と曰い、副を卑奴母離ひぬ(の)もり 3 と曰う。居る所絶島、方四百余里なる可し 4。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径みちの如し。千余戸有り。良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴してきす。又南一海を渡る千余里、名づけて瀚海かんかいと曰う。一大国 5に至る。官を亦卑狗と曰い、副を卑奴母離と曰う。方三百里なる可し。竹木叢林多く、三千許ばかりの家有り。差々やや田地有り。田を耕せども猶食するに足らず、亦南北に市糴す。又一海を渡る千余里、末盧国に至る。四千余戸有り。山海に浜そうて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒ふくを捕え、水深浅と無く、皆沈没して之を取る。東南陸行五百里にして、伊都国に到る。官を爾支と曰い、副を泄謨觚・柄渠觚 6と曰う。千余戸家有り。世々王有るも、皆女王国に統属す。郡使の往来常に駐とどまる所なり。東南奴国に至る百里。官を兜*馬觚と曰い、副を卑奴母離と曰う。二万余戸有り。東行不弥国に至る百里。官を多模と曰い、副を卑奴母離と曰う。千余家有り。南、投馬国に至る水行二十日。官を弥弥と曰い、副を弥弥那利と曰う。五万余戸なるべし。南邪馬壹国に至る、女王の都する所。水行十日陸行一月。
兜*は、兜の異体字。凹の下に儿、JIS第3水準ユニコード5155。
1 従来は乍(あるいは)と読んだ。
2 従来は対馬国のあやまりとした。
3 従来は卑奴母離(ひなもり)と読んだ。
4 従来は可(ばか)りと読んだ。
5 従来は一支国のあやまりとした。
6 セモコ・ヘモコ、その他諸説多し。
すでに諳(そらん)じている方もあると思いますが、郡から倭国までの道程を述べた個所で、この文章をめぐって従来さまざまな解釈がなされてきた。
私のこれに対する解読の要点は四つあります。
第一は、「水行十日陸行一月」である。
従来はこれを、博多湾近辺といわれる不弥国から考えたり、不弥国の次の投馬国から先だと考えたりした。しかし、博多湾から南へ「水行二十日」したうえ、「水行十日陸行一月」もすれば、フィリピン群島どころか、赤道あたりに着いてしまう。
そうではなくて、帯方郡治から邪馬壹国に至る総日程が「水行十日陸行一月」なのだ、と私は考えた。そのポイントになるのは、直前にある「南邪馬壹国に至る、女王の都する所」である。つまり、この文章は「郡より倭に至る」で始まっている。「倭に至る」とは、倭国の国境に至るという意味ではない。国境までなら、狗邪韓国でも国境なわけで、やはり中心部、つまり都に至るの意だ。とすると、「女王の都する所」で終着点に来たわけで、そのあと「水行十日陸行一月」とあるのは、当然全行程を示すと見るべきではなかろうか。これがもし「南邪馬壹国に至る、水行十日陸行一月、女王の都する所」とあれば、話は全く変わってくる。この順序を間違えて書いている人もあるが、実はこれはたいへん重要なところだと私は思う。
これに対して、私の本が出たあと、そういう読み方は不自然だと漏らされたれた学者がある。しかし自然であるとか不自然であるとかいうのは、主観的なことばだと私は思う。本来漢文は、英語やドイツ語に比べて、非常に結合関係のゆるい文章なのだ。特にドイツ語の接続関係は厳密である。ところが漢文は、A、B、Cと続いている文章を、A、B・Cと続けて読むことも、A・Cと続けてBは挿入句として読むこともできる。どちらが自然だ、などと言ってみてもはじまらない。読み方の可能性としては両方あるのだ、という立場に立ったうえで、どちらが前後の脈絡に合うか、矛盾のないすっきりした文章を構成するか、によってきめるべきだと私は思っている。
ところで解読の要点の第二は「島廻めぐり半周読法」である。
ここで注意したいのは、前掲の文のあとにある、倭の地は「周旋するに五千余里」ということばだ。「周旋」とは、「まわりをめぐる」ことであり、現に末盧国から伊都国へは海岸に近い道路沿いにぐるぐるまわって到達している。つまり「周旋」ということばは的確に使われているのだ。
問題なのは対海国(対馬の二つの島のうち、南の島 ーー 下県郡)と一大国(壱岐)で、方四百余里、方三百里とあるこの二つの島については、里数に入れない。舟のどこか一点に立ち寄っただけだろう、という解釈が従来とられてきた。もちろん、漢文が自由な文体であることから、そういう解釈もとれなくはない。しかしそれは、“その二島は周旋しなかった”とすれば、あとすべてつじつまが合う、というときにはじめて成立する解釈なのだ。
私はやはり、倭地を「周旋」すると明記してあるのだから、この二つの島についても当然“周旋した”と考えるべきだと思った。そして実際に計算してみると、全体の里数がピタリと合ったのです。「わかった、わかった」と叫びながら、二階から下ヘドンドンとかけおりていって、家の者を驚かせたことをいまも覚えています。
つまり、記載されている里数を全部たしても一万二千里にならない。倭地だけで五千里にならない。どうしても千三百から千五百里不足する。その不足をめぐって、いろいろな説が出ていたのだが、この二つの島を周旋すれぱ、“四百掛ける二”、と“三百掛ける二”、つまり八百たす六百で千四百里。ピタッと数字が合うではないか。
実はその後わかったことですが、私より先にこのような解読(島廻り読法)をした人がいた。大阪近在在住の津堅房明・房弘という兄弟の方が「邪馬台国への道 -- その地理的考察」というのを昭和四十一年に「歴史地理」(第九十一巻第三・四号)という雑誌に出しておられたのです。その方からお手紙をいただいて、びっくりし、かつ喜んだ私は、その方に来ていただいて、終日楽しく話し合ったことがある。私と同じことを思っている人がいたことがうれしかったのです。(ただ、この方の読解は、全体としては近畿説。)
解読の要点の第三は、「道行き読法」である。
「漢書」「三国志」およびそれ以後の中国の歴史書を見ると、道程表記には一定のルールがある。AからBへ行く場合に、途中のαという地点から東へ行けばどこへ行くとか、βから西へ行くとどこだとか、挿入するわけだ。たとえば私はきょう京都から東海道を東京まで来たのだが、その途中の名古屋で、「ここから南へ行けば伊勢神宮がある」とか、静岡で「この北には富士山がある。その向こうにはブドウで有名な山梨がある」と説明する。そんな感じなのだ。観光バスに乗ると、ガイドさんが「ここを右へ行きますと、有名なXという神社があります」とか、「ここから左へ分岐してゆくと、Yという観光地があります」とか説明してくれる。しかしバスは別に右や左へ行くわけではなく、まっすぐ目的地へ行く。あれと同じです。たまたま近松の心中道行きの文章にこれと似た文体が使われているので、ちょっとシャレて「道行き読法」と呼んでみたのです。そのうち、始発点から終点へ行くおもなところを主線行路、途中で入る脇道への説明の部分を傍線行路と言うことにします。
そこで前掲の文章をもう一度見てみよう。末盧国から伊都国へは「東南陸行五百里にして、伊都国に到る」とあるのに、つぎの奴国へは「東南奴国に至る百里」であって、「東南陸行百里にして奴国に至る」とは書いていない。伊都国から奴国へは傍線行路なのだ。
女王国へ向かう主線行路は、奴国を右に見ながら、伊都国から百里進んで不弥国になる。(「東行不弥国に至る百里。」)
同様に、不弥国から投馬国へは「南、投馬国に至る水行二十日」で、「南、水行二十日して投馬国に至る」ではない。主線行路は不弥国から邪馬壹国へ行くわけで、不弥国から投馬国への方は傍線行路であることがわかる。
このように、傍線行路の場合ははっきり文体が違っている。
ではなぜこの二国を特別扱いにしたのか。ほかにも脇道はあるではないか、と言われるかもしれない。それは、結局戸数が問題なのだ。つまり、女王国の七万戸を最大として、それに迫るのが、二万戸の奴国と五万戸の投馬国だ。これは主線行路からははずれるが、戸数が多い大国だから挿入された。「三国志」「漢書」その他の例からいくと、このように読まねばならないと私は考えます。
第四番目は「最終行程0の論理」。
従来、不弥国からあと、水行二十日、あるいは水行十日陸行一月の類の行程で邪馬台国に至ると考えられていた。しかし、これまで述べた私の考えでいくと、不弥国の次は全く里程はないのだ。不弥国の次はもうズバッと邪馬壹国へ入ってしまう。言いかえれば、不弥国は邪馬壹国に入る「門」である。「ヤマ」の門である。糸島郡に接する博多湾岸の西の端にある「山門」、このあたりが不弥国ではないかと思う。
以上四つの解読をあわせて読むと、邪馬壹国は、基山、朝倉郡を含む博多湾岸及び周辺山地ということになる。
解読の要点一から四までにはないが、もう一つ注意していただきたい点があろ。従来は、現在のソウル近辺にあった帯方郡治を出発して、南ヘストーンと行き、東ヘストーンと行って、狗邪韓国といういまの釜山付近へ行くのだと考えられていた。ところが、「乍たちまち南し、乍ち東し」の「乍ちA、乍ちB」は、実は「史記」以来しばしば出てくる熟語で、AとBが小刻みに繰り返すという場合にのみ使われる。
「乍ち雨し、乍ち晴る」といえば、雨がちょっとぱらついたかと思うと、パッとやみ、やんだかと思うとまたぱらつく、といった状態をあらわす。この用法は、「三国志」のみならず、どの本のどの例を見ても狂いがない。したがって「乍ち南し、乍ち東し」も、そういうものとして読むべきで、ストーンと南へ行き、ストーンと東へ行くという、従米の読み方は誤りである、ということが一つ。
さらに重大なのは、同じ「三国志」の「韓伝」に、韓国は「方四千里」とある。とすると、韓国部分の西辺、南辺、各四千里で、もう八千里になる。帯方郡治から韓国の北西端まで、少なくとも千里以上はある。そうすると、九千里以上になって、“郡から狗邪韓国まで七千余里”というのと合わない。ここが合わないということを、従来だれもあまり問題にしなかった。おそらく、“どうせ陳寿などという昔の人間が書いたものだから、あてにはならない”と思っていたのではないかと思うが、そういう先入観でこれを読むのは、著者・陳寿に対する侮辱だと思う。私はこの点についてもクソまじめに、「乍ち南し、乍ち東し」はことばどおり、南へ行き、東へ行きを韓国内(陸行)で繰り返しながら狗邪韓国へ至るもの、として計算してみた。その計算は私の本、前掲「『邪馬台国』はなかった」に書いておいたが、ピタリ七千余里で、矛盾はない。すなわち、韓国内は陸行をしたことがわかった。
ではなぜそのような陸行をしたのかというと、単に倭国へ行けばいいというのではなくて、その途中の韓国に対するデモンストレーションがあったのではないか。つまり、倭国からは貢物を持ってきた。
それに対して、これだけばく大な褒美を与えにいくのだという、権力による一大コマーシャル、一大パレードという意味があったのだろう。
もちろんこれは先の解読のうえに立つ、あとからの推定で、こういう推定からはじまって読んでいくわけではない。
文字表現そのものに密着して読んでいった結果、ふりかえって“なぜ陸を通ったかといえば、そういう理由が考えられてくる”という程度のことだ。
参照「なぜ「韓国陸行説」が必然なのか」 1近江宮と韓伝 第5章最新の話題について『古代の霧の中から』
以上述べた解読法がやはりほんとうなのだ、ということを裏づける証拠がある。
その一つは、別表“部分と総和”とある点である。ここにある「今、使訳通ずる所、三十国」は、前掲の文章の直前に書かれているもので、倭国は三十国で、その三十国から貢物が来ていると言っているわけだ。その三十国は、はっきりしている。つまり、別表に書いてあるとおり、狗邪韓国、対海国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国で八国。女王の都する邪馬壹国。さらに続いて、「遠絶」で詳しく書けないが、国名だけ書いておくという注釈つきで、二十一の国名がそこに投げ出されるようにして書いてあるのだ。したがって、全部足すと、八と、一と、二十一で、三十になる。
つまり、陳寿という人はかなりきちょうめんな人らしく、まず冒頭に合計三十国だと言い、それに続く文章の中に三十国をきちんとちりばめている。その陳寿が、里数についてはあいまいに書いたとは考えられない。
そこでもう一つの証拠は、実はその里数なのである。つまり、帯方郡治から狗邪韓国まで七千余里と書き、倭の地を周旋するに五千余里と書き、郡より女王国に至る一万二千余里と書いているのだ。三つのうち二つ書いておけばいいのに、陳寿はちゃんと三つとも書いてくれている。これほどきちょうめんな人間が、一万二千余里の一部分、あるいは五千余里の一部分を不正確に書くはずがない。事実、私が先ほど述べたように、島廻り半周読法、道行き読法で読んでいけば、帯方郡治から女王国まではピシャッと一万二千余里になる。倭地部分はピシャッと五千余里になるのだ。
この私の読み方に対して、自然だとか自然でないとかいう、主観的な「自然」論をやればいくらでもできる。それは漢文の自由な文体という性格から来るのだ。問題は、どちらの解読法をとれば全体が矛盾なくすっきりと理解できるかで、きめなければならない。とすれば、てまえみそではないが、やはりこの解読しかない。それが「『邪馬台国』はなかった」に書いた解読方法です。
なお、この問題に関して私が見いだしたものに魏晋朝の短里というのがある。
従来、一万二千余里といえば膨大だ。太平洋上はるかかなたへ行ってしまう。これはどうせでたらめだ。ある学者などは、「魏の使いが恩賞をたくさんせしめるために、実際の六倍ぐらいもの長さの報告書を書いたのだ」とまで言っていた。
ところが、「三国志」全体から里数のルールを調べて、それによって「倭人伝」を読むと、意外なことに、われわれが普通知っている漢代の里数とは全く違う、ほぼその六分の一の実体距離を持つ里数で書かれていることがわかったのだ。それをもとに当てはめていけば、全く誇張はない。恩賞めあての水増し説などとんでもない、ということがわかってきた。
“短里などとは、そんなバカなことがあるか”という論評をされた方があるが、あの本に書いた以後、まぎれもない証拠がさらにつけ加わってきたのだ。
地図「三国志における短里」を見ていただきたい。図中に小さく囲ったところに江東と書いてある。揚子江河口流域の南側を江東と呼ぶが、この江東について「三国志」に「方数千里」とあるのだ。これがもし漢代の里数ならば、一辺が六倍で、平方だから、魏晋朝短里の場合の方数千里の三十六倍という、中国全土にまたがる大きさになってしまう。やはり先ほどの韓国を方四千里と言うのと同じ単位で理解しなければならない。
さて、楚の項羽といえば、みなさんの中にもご存じの方が多いと思う。百戦百勝を続けていた項羽が、垓下の戦いで破れて、揚子江を南に臨むところへ来た。そのときに、亭長(ていちょう)といって、土地(烏う江)の有力者が、「あなたの出てきた楚の国の江東は、中国全体からいえば小さいとはいえ、方千里、つまり千里四方の地域だ。あなたはもう一度帰って再起しなさい」と言った。項羽は、丁重にそのことばを感謝しながら聞き、しかし、「私は帰らない。なぜならば、楚の国を出るとき多くの青年を連れていた私は、いまや一兵も連れていない。すべて死んだ。だのに、将たる私ひとり帰るわけにいかない。私はここで最後の戦いをして死ぬのだ」と答えたという一節がある。貴任感の強い統率者の趣があって、人気のある一節で、漢文の教科書によく出ている。この有名な文章の中に「江東は小なりといえども方千里」とあるのだ。「史記」にも「漢書」にも出てくる。
「三国志」を書いた陳寿の机の上にあった本は何だろうか。タイムマシンを使って、のぞいたとして、まず間違いなくあるのは「史記」「漢書」だと私は思う。その中の項羽の話は、二十世紀のわれわれが知っているぐらいだから、陳寿が知らなかったはずはない。いまの一節などは口ずさんでいたのではなかろうか。その陳寿が、同じ江東について「方数千里」と書いているのだ。これはもう書き違えなどでは、決してあり得ない。これをもってしても、漢代の里数値と魏晋朝のそれとは全く違っていたことがわかると思う。
もう一つおもしろい例が「魏志第十張遼伝」に出てくる。敵を天柱山に攻めて、討伐するという話で、「高峻二十余里」という表現があるわけだ。天柱山は中国各地にいくつもあるが、この場合幸いなことに道程の記載があって、はっきりその場所が指定できる。現在中国で出ている地図にも書いてある有名な山で、海抜一八六〇メートルの、関東でいえば国定忠治の赤城山か谷川岳といったところだ。天柱山、高峻二十余里という語から想像するほど高くはない。
ところでこの二十余里だが、これを二十四里として、短里で計算すると、一八〇〇メートルになる。そのあたりの海抜を五〇〜六〇メートルと見れば、一八五〇〜六〇メートルで、驚くほどピタッと合う。これが漢代の長里なら、この六倍で、ヒマラヤより高い山になってしまう。この天柱山は、昔から中国人に親しまれている山で、この高さを間違うとは考えられない。つまりここに書かれた「二十余里」の里単位は、漢代のほぼ六分の一であるに相違ない。
これらの例から、「倭人伝」にある一万二千余里は決して誇張でないことがおわかりいただけると思う。漢代のほぼ六分の一の単位の短里というものがまぎれもなく存在したのだ。この点からも、古典の内容をかってに読みかえる従来の態度は根本的に改められなければならないと思う。
ただ、この短里は文字どおり短命に終わったようだ。つまり、西紀三一六年の西晋滅亡とともに廃され、以後、四世紀の東晋には長里に復している。しかし、それが一定の時期に歴然と存在したということは、「三国志」以外の文献からも言える。特に、朝鮮半島や日本列島では、三一六年以後も短里が使われていた形跡があって、興味深い。
朝鮮半島の例では、白村江の戦の三年前につくられた「翰苑かんえん」という本が太宰府天満宮にある。その中に、新羅の土地の古老から聞いた話が採集してある。何の話かというと、任那の国はあったのかという話である。最近、任那などはなかったのだという議論をする人もあるが、この本によると、新羅の古老の言として、「任那は新羅の南、七、八百里のところにあったが、新羅に併合された」と書いてある。この七、八百里を、かりに漢代の里単位あるいはそれとほぼ似た唐代の里単位で考えると、とんでもないことになる。新羅の都、慶州の南七、八百里なら、九州を飛び越して海のかなたに落っこちてしまう。やはりこれは短里で言われたと見なければならないわけだ。
日本列島の例では、「日本書紀」の崇神紀、崇神六十五年の項に「任那は筑紫国を去る二千余里」とある。「三国志」では三千余里になるが、それは釜山から対馬、壱岐、唐津湾と回ってくるからで、釜山から博多湾まで直線距離で計れば、二千余里としてふしぎはない。いずれにしても、この二千余里が長里だとは到底考えられない。やはり短里が使われているのです。
この間テレビで、太平洋のある島で現在行われている葬式を見た。その行列は、なんと英国のビクトリア王朝時代の服装や礼儀にのっとって進んでいくではないか。英国の本国ではすでにやっていないやり方を、かつて英国の植民地であったという、その島では、いまだにやっているのだ。それと共通性があるのかもしれないが、東アジアの文明の中心地である中国ではすでに消滅した短里を、周辺地域の朝鮮半島や日本ではその後もなお使っていた形跡があることは、たいへんおもしろいと思う。
前半の話はこの辺にして、いよいよ後半の話に入りたいと思います。
まず、考古学的な問題に少しだけ触れておきます。
時間の関係で簡単にしか言えないが、私の主張する博多湾岸とその周辺説は遺跡の面からも言えるのか、ということです。ところが、実は心強いことに、この地域は遺跡の宝庫なのだ。二大青銅器圏とよくいわれるが、銅矛、銅戈が一番よく出るのは、須玖遺跡を中心とする博多湾沿岸とその周辺なのである。もちろんこれには基山、朝倉郡まで含めてよい。これらの地域は同時に、人口に関係すると思われる甕棺(かめかん)がおびただしく出土する地帯でもある。いまでも、畑を掘ったら出てきた、裏のガケを修理したら出てきた。あんなもの、いちいちかかわりあってたら始末におえん。みんなこわしますワと、土地のお百姓さんなどはさりげなく言っている。私などはそんな話を聞くとヅーッとするのだが、とにかくそれぐらい続々と出てくる。甕棺出土が日本列島第一であるということは、人口が稠密であったという証明になる。
一方、糸島郡からは、原田大六さんが見つけて収蔵しておられる日本最大の鏡をはじめ、大陸製および日本製のみごとな鏡が出てくる。鏡の発掘量は最大である。
もちろん、糸島郡からも甕棺や銅矛や銅戈が出、博多湾岸から鏡類が出ることも多いが、中心的にいえば、いま言ったように、鏡は糸島、甕棺や銅矛類は博多湾岸ということになるわけです。
ここで私が思うに、銅矛、銅戈というのは、武器をバックに持った祭祀用具だ。甕棺は人口を示している。それらを多く出土する博多湾岸地帯は、人口が多く、軍事力のすぐれた地域に違いない。人口と軍事の中心、それは政治の中心以外のものではあり得ない。それに対して鏡は、女性の化粧道具であったかどうかはしらないが、少なくとも武器ではない。全くの祭祀用具であり、鏡が多い糸島は、聖なる土地、ホーリー・エリア(holy area)だったのではなかろうか。
その場合注意すべきは、だれにとって聖地なのかということである。糸島にとって糸島が聖地だというのは、全くナンセンスで、意味がない。やはり、人口と軍事力の中心、つまり政治力の中心である博多湾岸とその周辺にあった政権にとって、糸島が聖地だったと考えられる。
「三国志」でも、伊都国は特記されている。たとえば、「三国志」の中で王の存在が書かれているのは三国だけである。一つは、従来「クナ国」と読んでいたもので、私は「コウヌ国」と読むのだが、岡山近辺を中心とする瀬戸内海領域の王国と考えられる「狗奴国」。これは後に卑弥呼と敵対するような、ちょっと異質の国である。それに対して、卑弥呼の統治領域内で王を名乗っているのは、邪馬壹国の女王と伊都国の王なのである。
二万戸の奴国にも、五万戸の投馬国にも、王はいない。官と副官という、直接統治という形で書かれていて、独立した王の存在は認められていないのだ。そういう王のいない地帯に軍事力と人口の中心があったという考え方自身が、私はおかしいと思う。従来の方(学者や研究家)は、実際は王がいたのだが書いてないのだとかいうふうに、都合の悪いところは「原文改定」しておられるようだが、そういう考え方は私には納得できない。
それはとにかく、「三国志」を私が解読した限りでは、王は狗奴国と邪馬壹国と伊都国にしかいない。しかも伊都国の王は隣接した邪馬壹国に「統属」している。
この「統属」問題も、最近調べておもしろい結果を得た。簡単に結果だけいうと、「統属」とは、“血筋で属している”ということです。
「『邪馬台国』はなかった」や「失われた九州王朝」では、ただ“統治下に属している”と解釈して書いたが、実はそれは不足であった。なんとなれば、統治下に属しているというだけなら、女王国を除く二十九国すべて「統属」と書かなければいけない。しかるに伊都国しか書いてない。ということは、ほかの二十八国とは違った統轄のされ方だったと考えられる。実は「統属」というのは「漢書」に同類の例があって、“血筋がつながって属している”という場合に使われている。「三国志」は「漢書」を“教科書”として書いたものである以上、当然その意味をうけて使っているに違いない。つまり、伊都国は他の二十八国と違って、古くから“血縁をもって”邪馬壹国に属している。すなわち、この二国は「三十国統合の原点」みたいな性格を持っている。こういうことが、「三国志」の文面を正確に読めばわかってくるわけです。
しかもそれが、遺跡の面から見てもピタリと一致している。この点、申し上げたいことはたくさんあるが、時間がないので割愛させていただく。
次は、博多湾岸及びその周辺山地というばく然たる表現をもっと突きつめるとどうなるかという問題です。
本を書いたときのありていな心理を言うと、次ぺージの地図を見ていただきたい。生之松原とある。そのあたりにある山門(地図では下山門)が不弥国。「南邪馬壹国に至る」を文字どおりとれば、そのすぐ南に、室見川流域に都地というのがある。これは「トジ」と読む。こんな変わった字があるし、位置的にいってもこの辺かなとひそかに思ったのだが、遺跡の面からいくと、やはり須玖遺跡近辺が中心だ。基山、朝倉につながる、筑紫郡(御笠郡)あたりがどうも中心のように児える。都地近辺だとは決定できない、ということで、広がりを持った表現にしたわけである。
これも、いまやはっきりしてきた。というのは、これは中国人の書いたものであるから、当然のことながらものの考え方が中国的になっているのです。
中国では、洛陽、長安はもとより、町というのはみな城壁で囲まれている。したがって、中国で「町へ入った」といえば、そこで話はストップする。その町の中のどこに天子の宮殿があろうとかまわない。それはその町まちの政治状況なり歴史なり地理的状況なりによるわけで、中央にあるかもしれないし、南寄りの日当たりのいいところにあるかもしれない。それは自由だ。要するに邪馬壹国の一角に入ったところで筆をとめる。 ーーそういう考えのもとで書いていることがわかってきた。
とすると、「倭人伝」についてもそういう見方で読まねばならない。つまり、不弥国という、博多湾西岸にたどり着いた。ここで入ったわけである。そこを入り口にして、かなたに邪馬壹国が広がっている。その中のどこに卑弥呼の宮殿があるかは、入ればわかるわけだから、この巨視的な道のりの記事では論じていない。そういう表記として理解しなければいけないというわけだ。
そう考えれば、不弥国の真南の都地とバカ正直に考える必要はないので、要するに博多湾岸を主体とした領域の中のいずれかのところに中心があったということになってくる。都地にもあるいは離宮ぐらいはあったかもしれないし、須玖、その北の高宮、南へ行って白木原、太宰府近辺の都府楼跡、塔原、基山、基山町、朝倉郡に至る、筑紫と呼ばれる、その原点をなしたこの地域が、卑弥呼の国の中心地である。この点は現在の私にははっきりしてきている、ということを申し上げておきたい。
一言つけ加えると、朝倉郡あたりは同一領域の中と考えるのが当然だ。筑後山門から北上させて朝倉郡まで持ってきている人もあるが、その場合、邪馬壹国の中心領域の一端に達したことに結果としてはなる。私はそう考えるわけです。
次に、時間的に邪馬壹国のその前とその後は一体何なのか。これは私の第二の本である「失われた九州王朝」(昭和四十八年・朝日新聞社刊)に書いてあるが、その内容を今詳しく述べる時間はないし、全体としては必要もない。ただ、本日の論議に必要な、最低限のところを簡単に触れてみたいと思います。まず前といえば、志資島の金印である。これを従来は「漢の委わの奴なの国王」と、“こまぎれ三段読法”で読んできた。
ところが、私が中国の印を集めて ーー別に実物を集めたわけではない、そんな金は全くないので、ーー 写真化された、あるいは版本化された印を大学の図書館等でつぎつぎ調べていったわけです。この場合も私の方法は一手しかない。ある一つの印を読む場合、現在われわれの手に入り得る印すべての中から解読のルールをつかまえて、そのルールによって読む。バカの一つ覚えみたいに、その一手しかないわけです。それでやってみると、容易に一つのルールが見つかった。それは、中国の出した印はすべて、「AのBの印」という、“二段読法”しかないという事実である。
これは考えてみればあたりまえのことで、また非常に意昧のあることだ。つまり、中国が印を与える場合、与える側の中国の国名と、与えられる側の国名と、この二つを直結しているところに意味があるわけだ。その中間に媒介者の国を入れたのでは、印を与えるという意味がなくなる。事実、その印をもらった人物が実はだれだれの家来であったとしても、そんなことは関係ない。そういう現地における主従関係以上に重大なものは、印によって、「おまえは中国の漢の国に臣属した。だからこの印を与える」ということを強烈に宣言しているということである。もらったほうも、「私は昔、この辺のだれかれとややこしい関係があったが、いまや漢に直結した印をもらってるんだ」というところに意味があった。そう考えれば、二段読法というのはあたりまえの、あたりまえである。
「漢委奴国王」を「漢の委の奴の国王」と読む、従米の“こまぎれ三段読法”は、印のルールからはずれている。当然のことながら「漢の委奴ゐどの国王」と、二段国名で読まなければいけない。
同じ世紀の例に、新の王莽が匈奴に与えた印がある。それもやはり「新の匈奴の単干ぜんうの章」と、二段国名で書いている。
漢から見た「委奴」というのは、小さな一つの国ではない。大体金印というものは、中国国内でも、周辺の夷蛮と呼ばれた地域でも、めったに出てこない。槇*(てん)王の印などというのが出たが、非常に珍しいわけだ。要するに、夷蛮の中で、一つの領域の数多くの同種族を統合し統轄している、その地域の王者に与えるのが金印なのだ。だから、どうしても二段国名でなければおかしいわけである。
槇*(てん)は、木編の代わりに三水編に眞。JIS第3水準ユニコード6EC7
このようなことは、中国の印を調べればすぐわかるのにもかかわらず、従来なぜ問違って読んできたのだろうか。
これは一世紀半ばであるから、その時期に倭人を統合した王者に与えたことになる。「漢書」に「倭人百余国」とあるから、百余国を統合した王者である。その一世紀半ばから卑弥呼の三世紀まで、わずか百五十年。しかも、「三国志」によれば、卑弥呼は決して第一代の王者ではない。男王の時代を経て卑弥呼に至ったと書いてある。そうすると、百五十年前に金印をもらった倭人統合の王者、イコール、卑弥呼の王朝。つまり卑弥呼の何代か前の王が金印をもらったと理解するほかない。
そうするとどうなるか。従来、卑弥呼の国を、一説では近畿大和、一説では筑後山門といっていた。近畿大和だとすると、なぜそんな遠い志賀島に金印を埋めたのか。これは解きがたい難問である。使者が捨てたとか、流されたとか、珍妙な説も出たが、どうもそれは苦しい。筑後山門の場合は、近畿大和に比べればまだましだが、それでもおかしい。なぜかというと、筑後山門といえば、笠紫の最南端である。それがなぜ、都の近くに埋めないで、筑後山門から見れば辺域に当たる志賀島に埋めたのか。どうもおかしいわけです。
それに対して、三宅米吉さんが読んだように「漢の委の奴の国王」と読めば、従米奴国は博多だといわれている。 ーー実際は、奴国に王はいないがーー 奴国がもらったんだと解釈すれば、地理的にピタッと合う。それで満足して、“中国の印のルールに合わない読み方だ”という点は、見て見ぬふりをした。「短里」を見て見ぬふりをしたと同じように。その結果、「漢の委の奴の国王」とみんな読んできたということだろうと私は思う。
私の解釈からいけば、金印をもらったのは委奴ゐどの国王である。それは、その地域だけでなく、倭人百余国の王者である。倭人百余国とは、銅剣、銅矛、銅戈圏といわれる淡路島以西で、中心は筑紫だ。とすれば、中心の筑紫に出てこなければいけない。甕棺、銅矛、銅戈を多量に出土する筑紫に出てくるはずだ。まさにそのとおり、その博多湾の湾頭に出てきたわけである。銅剣、銅矛、銅戈圏の「目」に当たるところに金印があった。これでこそ、てまえみそではないが、すべてが実に自然に理解できるわけだ。
この問題は、「倭の五王」という問題から見れば、なおいっそうよく理解できます。
倭の五王については、本書に藤間生大さんのお話が掲載されているので、深く立ち入ることはしない。私の論証に必要な限り、やむを得ず、ごく簡潔に言わせていただくと、従来倭の五王は近畿の天皇家だといわれてきた。応神、仁徳から雄略に至る天皇がそれぞれ当たるのだ、これは自明の公理だ、といわれてきたが、この考え方は結局、とることができないという結論に私は述した。
その論証はわたしの「失われた九州王朝」を見ていただくとして、ここではポイントをなす問題だけあげることにする。
倭王武は、自分のことを「臣」と二回にわたって呼んでいる。「臣、吉田茂」なんて、言った人があるが、ああいう調子です。ではだれの臣かというと、当然、建康(現在の南京)に都を置いていた南朝劉宋の天子(順帝)の臣である。ところで、「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、海北を平らぐること九十五国」という有名な文句がある。従来はこれを、近畿の天皇家を、原点にして読んできた。東、毛人というのは蝦夷だ。西、衆夷というのは熊襲だ。海北というのは、ちょっと西だが、朝鮮半島だ。こう読んでいた。
ところがおかしいのは、西、衆夷というが、「東夷伝」ということばでもわかるように、中国の用字法では、都の東にいるのが「夷」である。「蝦夷」という場合も、やはり東にいるから「夷」が使ってある。それをなぜ西を衆夷と呼ぶのか。東の毛人もふしぎで、中国の用字法では、「毛民国」などのように、東夷からさらに東あるいは北に当たる、もっと奥地の夷蛮のことを「毛」という。だのにこれは、東夷を抜きにして、いきなり毛人になっている。おかしい。これが私の不審の始まりだったのです。
ところが、南朝劉宋の建康(今の南京)を原点にして読むと、なんのふしぎもない。東西はもちろん日本列島の中で東西をいっているわけだが、衆夷の「夷」は大義名分のことばだから、それは建康(南京)を原点として東夷の地域である九州である。さらにその東、瀬戸内海領域の西半分が毛人である。西半分というのは、国の数から見て、九州が六十六国とすると、五十五国だから、瀬戸内海全部はいかない。半分強。つまり淡路島以西ということだ。そして海北であるが、「古事記」「日本書紀」はいずれも朝鮮半島のことを「海西」と表現している。文字どおり、近畿から見れば、朝鮮半島の南端は真西になる。これが筑紫から見ればどうなるか。当然「海北」となり、そのうえ「毛」も「夷」も中国の用字法にピタッと合ってくる。しかもこの漢文は実に名文で、いまの点以外を見ても、中国の用字法を完全に踏襲し抜いた行き届いた文章である。その点からも、いま言ったような、“中国の用字法に従った理解”をしなければいけないわけです。
こう見てくると、一世紀の金印が志賀島から出てきた。つまり一世紀において、倭人百余国の中心は博多湾岸であった。五世紀の倭の五王は筑紫の王者だ。朝倉から筑後のほうに少し移っていったようではあるが、しかしなお博多湾岸から朝倉は中心領域たる地位を失ってはいない。となると、当然その中間の三世紀の邪馬壹国は筑紫だ。筑紫郡、朝倉那を中心とする、筑紫だという、やはり同一の結論に到達せざるを得ない。
さて、そうなると、戦後史学の基本的立場はちょっと問題になってくる。はっきりいえば、くずれてきたのではなかろうか。
津田左右吉以来、応神前と以後に分けるのが、戦後史学の出発点であり、シンボルマークであった。なぜそうなったのかというと、「古事記」「日本書紀」の史料としての信憑性について、外国史料と合うところは信用し、合わないところは信用しない。こういう方法をとって再検証したのが井上光貞さんその他の業績であるが、その際一番ポイントになったのは、倭の五王と高句麗好太王碑である。その結果、倭の五王はだいたい応神から仁徳、雄略までに合う。好太王碑文に出てくる倭は、当然のことながら近畿天皇家だろう。四世紀末には近畿天皇家は朝鮮半島まで出兵するのだから、まず九州まで統一していたであろう。西は九州まで統一していたのなら、東も関東あたりまで統一して、ほぼ日本列島を統一していたのであろう。こういう認定に立って、少なくとも応神もしくは仁徳以後の系譜は信用できるということであったのだ。
ところが、いま私が言ったように、倭の五王は近畿天皇家ではないんだとなると、この論証は全くこわれてしまう。高句麗好太王碑の倭も、当然近畿天皇家ではない。九州王朝だということになるわけです。
このことは何を意味するか。
端的にいえば、「古事記」「日本書紀」の応神以前と以後は、実は同質の史料だということである。どちらも信用できるのか、どちらも信用できないのかはしらない。とにかく前も後も一緒なのだ。夏の夜の幽霊ではないが、ノッペラボウなのだ。
では、そのノッペラボウの一体どれがどう信用できるのか。戦後史学の出発点から考え直さねばならない、というのが私の現在の立場である。
中国や朝鮮半島の史料でいう倭が、近畿の天皇家ではない、実は九州王朝だとなれば、当然のことながら、外国史料と近畿天皇家の系譜と比べてもダメである。では何と比べるかというと、「古事記」「日本書紀」には九州に何があったと書いてあるか、が問題になる。それは熊襲しかない。近畿の天皇家が統一上の最大の敵とした、あの熊襲以外にそれに当たる存在は見当たらない。
この熊襲がどこにいたかは、まさに定説中の定説になっている。本居宣長、津田左右吉、戦後史学、みなピタッと一致している。熊襲は南九州だ、と。これに異を唱える人はだれもいない。
他の面では口ぐちに異説をはく人びとが、ここでは全く一致した考えになっているのはなぜかというと、理由は一つなのだ。古事記の、国生み神話で、「次に筑紫嶋を生む。此の嶋も亦、身一つにして面おも四つ有り。 ーー筑紫国、豊国、肥国、熊曾国。」とある。つまり、九州を四つに分けて、筑紫国、豊国、肥国、熊曾国とあげてある。これなら、どう見ても、熊襲は南九州だ。この一枚の地図を元に、これの出ている「古事記」はもちろん、出ていない「日本書紀」も、熊襲は南九州としてずうっと読んできたというわけだ。
ところが、私が思うに、熊襲に相対する概念は蝦夷であるが、実は“蝦夷が移動する”という有名な命題がある。喜田貞吉さんなどが論じたのだが、蝦夷がどこにいるか、国名や説話によって見ていくと、どうも東へ移動しているというのだ。これは考えてみればあたりまえのことで、蝦夷とは「天皇の未征服民」という概念であるから、天皇の占領地が東へ拡大していけば、それに伴って“蝦夷が東へ移る”というわけだ。これと同じことが熊襲にもあるのではないか。つまり、一貫して一つの場所にいたのではなく、時代によって指定する“位置が変わった”のではなかろうか。「古事記」「日本書紀」には三つの熊襲説話がある。この場合、いつ、どこで国生み神話がつくられたかが問題になる。まさか「国生み時代」につくられたのではあるまい。もし三つの説話の前につくられていたのなら、あとの話は全部それで読んでいいわけだ。途中でつくられたのなら、そのあとはそれで読んでもいいが、それ以前は読んではいけない。もし三つの説話よりあとにつくられたものなら、熊襲説話は全部この地図で読んではいけないことになる。以上の論理・関係は、耳で聞いただけではおわかりにならないかもしれないが、図に書いてみればおわかりになると思います。
繰り返していうと、この地図がいつつくられたかで、この地図を使ってこの説話を読んでいいかどうかがきまるのだ。ましてこの地図が近畿天皇家以外の場所でつくられたとすれば、どの説話もこれで読むわけにはいかない。とにかく身元不明、作成時期不明の地図なのだ。それを元に読んでいったところに問題があるのではないか。そこで身元不明の地図は横へよけておいて、説話自身の語る熊襲の位置を探ってみようと私は考えたわけです。
仲哀の死
A (仲哀)天皇、筑紫の詞志比かしひの宮に坐まし、将まさに熊襲国を撃たんとせし時、天皇御琴を控ひきて・・・・故かれ、未だ幾ほとんど久しからずして、御琴の音を聞かず。即ち火を挙げて見れば、厩に崩じ訖おはんぬ。(古事記、仲哀記)
B (仲哀)天皇忽ち痛身有りて明日崩ず、(日本書紀、仲哀、本文)
C 一に云う「天皇親みずから熊襲を伐ち、賊の矢に中あたりて崩ずるなり。」と。(日本書紀、仲哀紀「一云」)
まず時期のあとのほうから見ていこう。
仲哀・神功の遠征では、唯一の地名が出てくる。それは橿日宮(かしひのみや 詞志比宮 -- 現、香椎宮)である。博多湾岸東端の橿日宮に陣を張った。そこで仲哀天皇が没したというのである。
その死に方が二通り書いてある。別欄(四七ページ)の「仲哀の死」というところを見ていただきたい。Aの「古事記」とBの「日本書紀」本文とは大体似ている。「古事記」の方は、神功が神がかりしている途中に、仲哀が琴を控(ひ)いている。フッと見ると、亡くなっていた。なにか神秘的な、神がかり死とも自然死とも言える感じである。Bの「日本書紀」本文は、「天皇忽ち、痛身有りて明日崩ず」とあって、病死のように感じられる。
それと全く違うのがCの「日本書紀」異文で、「一に云う『天皇親みずから熊襲を伐ち、賊の矢に中あたりて崩ずるなり。』と。」これは完全な戦死である。天皇が戦死するのだから、まさに敗死に近い。
一体どちらが本来の説話なのだろうか。
わたしは、「古事記」「日本書紀」に立ち向かうとき、説明を要しない二つの公理があると考えました。第一は、「大義名分のフィルター」がかかっていること。つまり、天皇家は永遠の昔から日本列島の王者だ。万世一系、永遠の中心なのだ。これはもう、歴史的事実がどうのこうの言わせない、理屈抜きの根本命題なのだということ。第二は、「利害のフィルタ」。もともとの伝承を、天皇家の後世の史官が「改作」するとすれば、天皇家に有利に改作することはあっても、、不利に書きかえることはあり得ないというわけだ。この二つのフィルターがかかっていることを承知のうえで記紀を読まねばならない。そう思ったわけです。
では、この場合どうなるか。「自然死」あるいは「病死」を、「敗死」と改作するであろうか。私は、「利害のフィルター」から見ても、そんなことはないと思う。逆はあり得る。本米は“賊の矢にあたって死んだ”という伝承であったが、それでは天皇としてぐあい悪いというので、「自然死」か「病死」のように書き改めた、という場合は十分考えられる。
もっとも、理屈っぽくいえば、両方矛盾しないのかもしれない。たとえば、“賊の矢に毒がぬってあった。それがあたって、その場では死ななかったが、あるときからだが痛んできて、翌日死んだ。あるいは琴を控いていてそのとき死んだ”と、考えられなくもない。
そこまで理届っぽくつじつまをあわせなくても、とにかく「賊の矢にあたって死んだ」のは隠しようもない事実あるいは本来の伝承だった、と私は判断したわけです。つまり、仲哀の軍は熊襲と接近戦をしていたのだ。では、南九州の熊襲と橿日宮の仲哀とどうやって接近戦ができるのか。さっきの地図にとらわれていては、この問題は解答が出てこない。ところが、説話を読んでそれ自体から判断すれば、この熊襲は博多湾岸に割拠していたと見なすほかない。とすると、接近戦をしていたということも、現実性リアリティーを持ってくる。
つぎに、このとき神功が神がかりした話は有名である。そして、海の向こうに新羅という国がある、と言うのである。これをほっておいて熊襲を攻めてもダメだというわけだ。仲哀はそれを信用せずに、海岸へ出て、そんな国ないじゃないかと言ったという。この逸話はたいへんおもしろい問題をふくんでいるが、話を発展させる時間がないので、おくとして、とにかくそのように書いてある。この神功の口ぶりから推察すると、どうも新羅が熊襲を応援していたように思える。では、新羅は一体どうやって南九州の熊襲を「応援」したのであろうか。有明海の西側を海上輸送したのか。どうもピンとこない。これがもし博多湾岸の熊襲だとすれば、まさに西側には、伊都国(糸島)、末盧国(唐津)、一大国(壱岐)、対海国(対馬)、狗邪韓国(釜山)へと続く、昔からの大陸へ向かう幹線行路がある。そこからどんどん応援物資などが来るわけだ。そうすると、“いくら (東から)攻めても落ちない。バックに新羅があるから”という感じの説話は、にわかに現実性リアリティーを持ってくるではないか。
説話というものは、本来現実性リアリティーを持っていなければウソだとわたしは思う。それがなければ、語り継がれる資格もない。それを間遠(まどお)な、わけのわからぬ話にしてしまったのは、熊襲は南九州だという先入観を持って読んでいたからではなかろうか。説話自身の示すところをそのまま読めば、この熊襲は博多湾岸にがんばっていたのだ、ということがはっきりわかってくる。
次は、倭建の説話です。これは、正確にいえば、熊襲暗殺説話と言えそうな内容である。乙女に化けた倭建が、熊襲を刺し殺す。そのときに熊襲が「西の方に吾二人を除き、建たけく強き人無し。然るに大倭おおやまと国において、吾二人に益まして建き男は坐ましけり。是を以て御名を献ぜん。今より以後、応まさに倭建やまとたける御子と称すべし」(「古事記」景行記)と遺言したという。
ここで問題は、すでに吉井巌氏が言っておられる、「名を与える」という行為である。記紀を通じて、「名」は“上位者が下位者に与える”ことにきまっている。それがルールなのだ。天皇家から見て「上位者」でないはずの熊襲が名前を与えているのはどういうわけか。おかしい。これはどうも史実ではないのだ。津田左右吉の言うように、後代の造作だろう。こう書いておられる。(吉井巌著「天皇の系譜と神話」)
私は、この吉井さんの本を読んで、前半には全く同感であった。しかし、後半は納得できない。おかしいから後世の造作だろうと言われるが、後世の天皇家の史官がなぜ“天皇家を「下位者」に置いた”ような話をつくるのか。こう考えると、どうもその結論では落ち着かないと思うのである、前半は正しいのに、後半でなぜ間違われたのであろうか。私は、「大義名分のフィルター」、つまり“天皇家は永遠の昔からの中心者である”という前提で読んでおられるからではないかと思う。
そのフィルターを取りはずすとどうなるか。“名前を与える”というのは、授号権といって、大義名分の所有者だけが持つ権利である。それを持っていたのが熊襲である。天皇家は、あえて言うが、「地方の豪族」だったのだ。“熊襲が上位者で、天皇家は下位者である”。それがこの説話の客観的な背景だと言わざるを得ない。
それに対して、天皇家はどう言いたいのか。「それは、かつてはそうだったのだが、この事件以後、天皇家が大義名分の権限を持つようになったのだ。なぜなら、熊付建が死ぬときこう言ったのだから」と、こういうことなのではなかろうか。
しかし、私が思うに、暗殺によって一つの権力は決して滅びない。これは自明の理である。だから、暗殺によって大義名分が移動したというのは、客観的事実としては間違いで、熊襲は依然として大義名分の中心として存在しつつけた。しかし、天皇家は主観的に“そう言いたい”んだ。 ーーこれが第一点。
第二点は、「吾二人」とあるが、これは兄弟である。つまり兄弟統治をしておった。きようは説明できなかったが、「失われた九州王朝」を読んでいただけばわかるように、九州王朝の特徴として、兄弟統治、姉弟統治がクローズアップされる。熊襲もやはりそうであったということである。
こうなると、熊襲という国は、三点において九州王朝と合致する。第一は、博多湾岸を中心拠点にする。第二は、大義名分、授号権を持っている。第三は、兄弟統治をしている。いずれも九州王朝の性格に合致しているのです。熊襲はまさに九州王朝であり、当時の日本列島の大義名分・授号権の所有者である。天皇家は、客観的にいえば、はなはだ有力ではあったにせよ、その出時の「一豪族」であった。これが私の結論です。
以上、邪馬壹国の論証を各方面から試みたわけですが、あとわずかの時間を使って、比較的最近見いだした一つのおもしろい問題をつけ加えておきたい。詳しくは「歴史と人物」(昭和四十九年九月号)に「銅鐸人の発見」と題して書いたわたしの一文を見ていただきたい。
従来、「漢書」に「倭人百余国」の記事があるのは有名であった。「楽浪海中に倭人有り。分れて百余国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う」。おそらくみなさんも一度は読まれたであろう、有名な一節です。これが「漢書地理志」の「燕地」に出て<る。燕というのは、中国の東北から遼東半島にかけての地域である。その燕に倭は属しておったから、「燕地」に出てくる。
ところが、「呉地」にも出てくる。これには、「会稽海外に東[魚是 てい]人有り。分れて三十余国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。」とある。全く同じスタイルである。
「歳時を以て来り献見す」という記事は、「漢書地理志」の全体でこの二つしかない。だから、資料として扱う場合、倭人のところだけ抜き出すのは危険なのであって、二つをワンペアにして論じなければ、客観的な資料の扱いとは言えない、と私は思うのだ。
ではこの「東[魚是]人」とは一体どんな存在か。
まず第一のヒントは、倭人の「楽浪海中」に対して、「会稽海外」にとある、「海中」と「海外」の概念である。
たとえていえば、朝鮮半島に相対している九州北岸などは、楽浪郡のすぐ前の海にあるわけだから、「楽浪海中」と言って当然である。かりにフィリピン群島が楽浪郡の統治下になったとすれば、「楽浪海外」になる。それに対して、台湾、沖縄、九州西岸などは、東シナ海を陥てて会稽郡に相対しているから、「会稽海中」であって、「会稽海外」とはならない。もしかりにフィリビン群島が会稽郡治下にあれば、「会稽海外」である。
しかしながらこの場合、東[魚是 てい]人はフィリッピン群島の人びとではあり付ない。「東 ーー」となっているのに、あんな南ではぐあい悪い。結局、九州の東にある、いわゆる本州以外にはないと言えるわけです。
もう一つ、東[魚是]人ということばから考えてみると、「魚是」から「魚ヘン」を取った「是」という字は、「シ」とか「ゼ」と読む場合、“これ”あるいは“よろしい”という意味になる。同じ宇を「テイ」と読むと、全く違ってくるわけで、“はしっこ”という意味を持ってくる。しかも「春秋左氏伝」によると、「魯国の方言」だと書いてある。
「魚ヘン」はなぜついているか。これは割合簡単だ。一番いい例が高句麗である。三世紀の「三国志」では「麗」と書いてあるが、五世紀の「宋書」では「驪」と書いて、「高句驪 こうくり」と読ませている。なぜかといえば、「宋書」の高句驪の項目を見ればわかる。高句麗に対して宋(南朝劉宋)は馬を要求している。
それに対して八百頭の馬が高句麗から「献上」された。だから、馬がたくさん出てくるところ、というので、「馬ヘン」をつけて書いている、というわけだ。
それなら東[魚是]人は“魚を献上した”のか、ということになるが、そこまで言わなくても、“東の、海の中の島の連中だ”というイメージは、この「魚ヘン」をつけるということにあらわれている。つまり、これは「東の海のはしっこの人びと」という意味を持った字面なのである。倭人というのも、“東の海の島の人びと”だ。その倭人より、もっと東のはしっこにいる連中が東[魚是]人である。こういう地理的関係になるうえ、先ほど言ったように、この二つは“ワンペアとして”考えなければならない。
そこで、倭人が“筑紫を中心とする淡路島以西の百余国”(銅剣・銅矛・銅戈圏)だとすれば、そのもっと東は何か、といえば、当然「銅鐸圏」だ、と考えるほかない。
しかも、「後漢書」の「倭伝」に同じような文章がある。
ところが「三国志」では全く東[魚是]人が姿を消している。しかしここで注意すべきは、東[魚是]人は呉には朝貢していたかもしれない、ということだ。というのは、三国の中の魏と陳寿のいた西晋との問は、「禅譲」で、ただ天子がかわっただけで、国はそっくりそのまま連続している。ところが呉と西晋との間は、禅譲ではない。呉を討伐して西晋に併合したわけだ。したがって、「呉の朝廷文書」は安全に西晋に受け継がれている、とは決して言えない。だから、そこに書いてあることはウソではないと思うが、逆に、“そこに書いてないから、史実もなかった”という論理は使えない。
これは大事な問題である。よく「四世紀のナゾ」というが、その大きな根拠は、その時代の「晋書」に倭の記事が出てこないということである。しかし、「晋書」というのは、ずっとあとの唐代にできたものなのだ。だから、「晋書」に書いてあることは史実であろうが、「晋書」にないからといってその種の史実はなかった、と言うのは飛躍で、史料扱いの厳正さを欠くものだと思う。それゆえ、“「東晋」には倭国の入貢がなかった。だから、そのときおそらく倭国には政治的大変動があったのだろう”という類の議論は、史料批判と実証性を重んずる限り、私はとるべきではないと思っています。
同じ問題は六世紀についても言える。六世紀の「陳書」とか「梁書」とかいう場合は、ずっとあとの唐代、しかも南朝が滅ぼされたあとで、できている。だから、そこに記事がないからといって、“その種の史実はない”という判定のうえに立って、六世紀はどうだ、こうだ、という議論をするのは、やはり危険です。
同時代史料と、あとからつくられた史料、特に記述対象の時代と執筆時点との間に権力の断絶がある場合、それぞれ史料性格による史料扱いの区別がなければならないと思います。
それと同じ立場からいえば、同じ「三国志」の中でも、「呉志」「蜀志」の場合は、そこに書いてないからその史実がなかった、とは言えないわけです。ただはっきりしていることは、西晋になってからはなかったと言えます。(陳寿がふれていないから。)西晋になったのが二百八十年。後漢の終わりが二百二十年。だから、二百二十年と二百八十年の問において、東[魚是]人は中国の史書から姿を消した、ということだけははっきりと言えるわけです。
銅鐸も、始まりは諸説あるが、終わりはかなり意見が一致していて、三世紀の初めか半ばすぎで姿を消している、というのが大方の見方である。
そうすると、東[魚是]人は、中国史書のしめす存在領域においても、これを「銅鐸圏」と見なければならない、地理的位置を示している。同時に消滅時期も、精密と言っていいぐらい一致している。したがって、やはり“東[魚是]人は銅鐸人だ”と見なければならない。
これを裏づける史料が「翰苑」(大宰府天満宮蔵)にも出て来た。が、この点は今日は時間がないので割愛させていただきます。(この点、興味のある方は、「歴史と人物」一九七四年九月号所載のわたしの論文「銅鐸人の発見」をご参照ください。)
最後に、新しい問題点を一言つけ加えさせていただきたい。
それは、東[魚是]人ということばについて一つ疑問がある。確かに“東のはしっこの海の島の人”という意味には違いない。しかし、なぜこんなむずかしい字を使ったのか。「はしっこ」なら、「辺」「尽」「極」、その他たくさんある。その知られた字を避けて、「魯国の方言」という、極限された地域で使われていることばをなぜ使ったのか。そこには何か特別の理由があったのではないかという点です。
ところで、「[革是][革婁]ていろう氏」というものがある。これは、中国の官吏の役目の一つで、“四方の夷蛮が献上する音楽をつかさどる”官だ。さらに、“夷蛮の音楽の歌詞を訳す”のを「[革是]訳ていやく」という。つまり「革是」というのは「四方の夷蛮の音楽」に関係することがわかったのです。
[魚是]は、魚編に是。JIS第4水準ユニコード9BF7
[革是]は、革編に是。JIS第3水準ユニコード97AE
[革婁]は、革編に婁。
とすると、ここで使われている東[魚是]人というのも、この「[革是][革婁]ていろう氏」や「[革是]訳ていやく」に関係があるのではないか。言いかえれば、東[魚是]人は、“彼ら独特の楽器を持ち、彼ら独特の音楽を献上した”のではないか。「魚」も献上したであろうが、「音楽」も献上したのではないか。そこで「神聖な音楽」とその銅鐸との関連がここに浮かんでくるのではないかと思う。
まあ、この話は今日はここで終わって、かすかな銅鐸の響きを今晩夢にでもごらんになれば非常にありがたいと思います。
(49・8・16)
〈補記〉魏晋朝の短里問題に興味のある方は、次の愚稿をご参照ください。「魏晋(西晋)朝短里の史料批判 -- 山尾幸久氏の反論に答える」(古代学研究73・一九七四・九月)
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邪馬台国論争は終わった=その地点から 古田武彦 へ
ミネルヴァ日本評伝選 『俾弥呼ひみか』(目次と関連書籍) へ
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