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古田武彦
では話を一転させて、倭の五王の問題に入っていきたいと思います。いま問題になっている古墳時代というのは、中国の文献でいいますと、『宋書』中の「倭の五王」で有名な時代であります。倭の五王が、近畿の天皇家であるということは、だいたい定説になっていたわけですね。いまでも私など少数の論者を除いて大勢は、倭の五王は応神、仁徳から雄略までだということになっているわけです。
弥生時代の邪馬壹国論争というのは、もうだいたいヤマが見えてきたといいますか、落ちつくべきところへ落ちついてきているだろうと、私は思っているわけです。「いや、そうじゃない。お前の意見は違う」といって下さる方は、私としては大歓迎ですけれども、私自身は、落ちつくべき場所は見えてきていると思っているのです。これに対して、これからもっとやらなければいけない問題は、倭の五王の問題ではないかと考えています。
私にとって、最近しあわせなことに、喜ぶべき論文があらわれました。といいますのは、『失われた九州王朝』の中で、「倭の五王は九州の王である」と述べた私の議論に対して、正面から批判して下さる論文があらわれた。武田幸男さんの「平西将軍倭隋の解釈 ーー五世紀の倭国政権にふれて」です。(22)
私はこの論文が、去年(昭和五十年)の十月に出たことを知りませんでした。ところが、直木孝次郎(23)さんが、座談会の中で、“古田氏は九州王朝だといっているけれども、最近出た武田氏の論文によってみると、古田氏の意見を批判している。私は武田氏が正しいと思う”と書いて頂いていまして、それで知ったんです。私は最近読んで、非常にうれしく思いました。
といいますのは、倭の五王の問題で批判論文があらわれたこと自身、うれしかったことはもちろんですが、それと同時に、論文の内容が、『宋書』全体の官職名を抜き出して、その表をつくって、それにもとづいて、私に対する批判を行って下さっていたんです。『「邪馬台国」はなかった』でも「『失われた九州王朝』でも、「倭人伝」「倭国伝」を見ただけではだめだ、それを含めた『三国志』や『宋書』の表記全体のルールから、その一部分である「倭人伝」「倭国伝」を解釈すべきだ、という方法を一貫して、私は主張してきたわけです。今回武田さんがその方法で批判して下さっているという点が、私にとっては無上にうれしかったわけです。
これに対する本格的な反論は、論文などでやりたいと思っているわけですけれども、ここでキーポイントを出しておきたいと思います。それは、こういうことをいって批判して下さる方があるが、それについては私自身はこうだと、はっきり論争の形を一般の方々の面前に、出していきたい。こう思っているからです。
武田さんのいっておられるキーポイントは、はっきりしています。『宋書倭国伝』の中で、倭の五王が、何々将軍という称号をもらったり、要求したりしているが、その中で、倭の五王の家来と思われる倭隋たちも、将軍号をもらっている。その将軍号に「平西」というのが先頭にある。(元嘉二年〈四二五〉)珍、又、倭隋等十三人を平西 ・征虜・輔国将軍の号に除正せんことを求む。詔して並びに聴(ゆる)す。)
この「平西」というのは、もちろん中国を原点にした平西ではない。当然倭国の現地における平西である。「西を平らげる」というのだから、倭の五王を近畿の天皇とすると、九州の熊襲などを平らげたと、いうことがわかる。ところが、古田たち ーー井上秀雄さんも私と同じ意見なんですがーー がいっているように、倭の五王が九州の王だとすると、九州の西は海しかないから、「西を平らげる将軍」という称号はナンセンスだ、と。これが緻密な形式をとった論文の、一番根本の論旨になっているわけです。
要するに、“中国で東夷、西戎、南蛮、北狄と周辺のことをいったように、夷蛮の国は夷蛮の国なりに、都を中心に東西南北というのは当たり前だ。そういう目で見ると、「平西将軍」という称号をもらったというのは、倭の五王を近畿の王者と考えた場合にのみ理解できる。古田のように九州が都と考えたのでは理解できない”というのが論文全体が持っている論理性です。
それに対して私が思いますには、第一に、武田さんは「征西」と「平西」と混同されたのではないか。「征西将軍」という名称も中国にはあるんですが、この場合には「西を征伐する」ですから、その人物が出発する根拠地といいますか、都は西じゃないわけですね。「征西将軍」といった場合には、武田さんがいったような論法も一応は成り立つかもしれない。
しかし、それ以上に重要な点は、『宋書』の「平西将軍」の用例全部の示す分布実体です。都(建康)から見て西側の諸州の刺吏が、この将軍号を与えられています。例えば、都のすぐ西隣の「南豫州」などもそうです。ですから倭国の場合、太宰府を「都」とすれば、その西隣の糸島郡や唐津に駐在する将軍が「平西将軍」の称号をもっていても何の不思議もないわけです。「平西」とは“西を安定した領域として維持する”という意味なのですから。(この五行分、「しかし」から追記)
それから二番目に、武田さんと私の意見の違いには二つの観点がある、近畿中心主義に立つか、夷蛮称号第一主義に考えるか、という立場の違いです。というのは、有名な文章ですが、『宋書倭国伝』に、倭王武の上表文というのがあります。「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。・・・臣、下愚たりと雖も、・・・臣が亡考済、・・・若し帝徳の覆載を以て・・・」とあります。ここで東の毛人、西の衆夷となっているわけですね。従来は近畿を中心に、東を蝦夷、西を熊襲と読んできたわけです。
ところが、私が『失われた九州王朝』で論じましたのは、倭王武は上表文の中で、自分のことを「臣」と二回もいっている。そして南朝劉宋 ーー現在の南京、当時の建康が都ですがーー そこの天子を「帝」とよんでいる。上表文だから当然です。そうすると、「毛人」とか「衆夷」とかいう言葉は、「帝」を中心にいうべきである。「臣」を中心に夷蛮称号を使用した例はない。従来は『古事記』『日本書紀』をもとにして読んだから、「毛人=蝦夷」「衆夷=熊襲」と理解した。
しかし、「夷」というのは、「東夷伝」といいますように、東が“通り相場”なんです。東西南北を代表して「夷」という用法もありますけれども、「東夷」が一番重点ポイントなんです。だのに、西を衆夷という形で、近畿にいて九州を指すのはおかしい。『古事記』『日本書紀』でも、「蝦夷」というときに「夷」を使いますけれども、東におりますから、用字の用法としては合っているわけです。ところが、西は「衆夷」というのは、それにも合わない。これは東アジア世界の中の中国の用字法に合っていないということになる。
そうすると「帝」を原点に衆夷といっているのは、倭の五王の都の中心領域の住民を「衆夷」とよんでいる。七世紀の『隋書イ妥国伝』においても、「われは夷人」と倭国の天子がいっています。そういうのが古代東アジア共有の見方です。だから、倭国の都の周辺の人間を「衆夷」といっている。「毛人」というのはそのもう一つ東側です。ですから、これは瀬戸内海領域 ーー昔の平剣領域ーー をいっている。そして「衆夷」というのは九州で、「海北」というのは、ずばり朝鮮半島で、ぴったりと当てはまるではないかというわけです。
そういうのが夷蛮称号第一主義です。上表文ですから天子を中心に解読する、それが根本だ。手前勝手にこちら中心に解読してはいけないということです。ところが武田さんは近畿中心主義で、「西を平らげる」というのだから、中国でも天子を中心に東西南北をいうように、夷蛮は夷蛮で自分の都中心に東、西をいうはずだ、というふうに考えられた。だから、夷蛮称号の問題は必ずしも適切でない使用法をしたか、何かちょっと間違ったか、だろうと軽視されたわけです。
思うに、私の論を崩そうと思えば簡単です。といいますのは、中国の歴史書の中で、夷蛮から奉った上表文があちこちに載っていますが、その中で夷蛮が自分を「臣」といい、相手を「帝」とか「陛下」とかいいながら、自分中心に夷蛮称号を上表文 で平気で書いている例があるか。それがあったら、私の論は根本において、こわれるわけです。ところが、それがないということならば、やっぱり私の論は間違っていない。
私のほうが方角の問題について、武田さんを批判すると、中国で天子の都を中心に東西南北をいい、夷蛮の国も夷蛮の国の都を中心に東西南北というふうになっているかどうか。理屈で「そうであろう」とか、「なかろう」とかいってみてもだめで、実例がいつもキーポイントです。そこで調べてみました。
いまの長安から西域に行く途中の、シルクロードの入り口のところに、涼州というところがあるんですが、そこの前涼の王張駿が奉った上表文が『晋書』に載っている。東晋ですから、倭の五王よりちょっと前ですが、「東西隔塞して年載を踰歴す。夙に聖徳を承け、心は本朝に繋る。・・・臣を以て大将軍都督陜西雍秦涼州諸軍事と為し、・・・伏して惟(おもんみ)るに陛下、・・・臣、命を一方に専らにして・・・東西遼曠として声援接せず。遂に桃蟲をして翼を鼓し、四夷誼譁(けんか)ならしむ。・・・願はくは陛下、・・・司空鑒、征西亮等に勅して舟を江丐*に汎べ、首尾倶に至らしめよ」。
江丐*の丐*は、三水編に丐。JIS第4水準ユニコード6C94
ここで「東西」といっているのは、東晋のいまの南京、当時の建康ですが、これを「東」といっているわけです。そして自分のいる涼州を「西」とよんでいる。それで「東西」という用法を使っているわけですね。ですから、中国内部では都を中心に東西南北と、必ずしも、いうわけではないわけですね。
考えてみれば当たり前ですね。地球上で、“ここは東に決まっている”とか、“西に決まっている”というような地点はないわけです。どこを基準にとるか、どういういい方をするかで、どの土地だって、東になったり西になったりするわけですね。だから当然この場合も、涼州にいて、自分のところを「西」と見、都のある建康を「東」と見ているわけですね。上表文でそういう用法をしている。
この中で「四夷誼譁ならしむ」とありますが「四夷」というのは、東夷、西戎、南蛮、北秋を代表していうときに「四夷」といいます。「夷」を代表とするわけですね。この「四夷」は何かというと、当然のことながら、「陛下」とよばれている建康の天子を中心とした、東夷、西戎、南蛮、北秋です。涼州を中心とした東夷、西戎、南蛮、北秋をことさらつくっているわけではない。上表文ですから、昔ながらの「四夷」という表現で書いているわけです。つまり、これと同じようなスタイルで「倭国伝」を読まなければいけない。『古事記』『日本書紀』にこうある、だから、中国史書としては例外でも我慢してもらおうといった類の読み方をしてはならないわけですね。
さらに、『晋書』の「張駿伝」に「駿、又、護羌参軍陳寓、従事徐[九虎](こう)、華馭等を遣わし、京師に至らしむ。征西大将軍亮、上疏して言う。『陳寓等、険を冒し、遠く至る。宜しく銓叙を蒙る可し』と。詔して寓を西平の相に除し、[九虎](こう)等を県令と為す」とあります。「征西大将軍」というのは、建康から西のほうを討伐に行く遠征軍の将という意味ですが、同時に張駿の部下の陳寓を「西平の相に除し」と、つまり「西平の相」という名前を与えたというわけです。この場合は、張駿のいる涼州を「西」といっているわけです。
[九虎]は、JIS第4水準ユニコード8653
涼州から見て、もっと西の彼方のどこかを、平げる宰相などというわけではないわけですね。“涼州自身を安定した領域に保ち、北朝系の支配に入らない”という意味を持った「西平」です。だから「西」自身が「前涼の王の都の領域」を指しているわけですね。こういう実例がちゃんと出ています。ですから、武田さんの論のように、倭の五王を近畿の王者と考えるのはやはり具合が悪いというわけです。
時間がなくなってきましたので、「好太王碑の倭」は論点だけを、指摘させて頂きます。好太王碑については、李進煕(24)さんの改作説と、私は論戦したわけです。“あれはまだはっきりしていない”と思っておられる方も、あるかも知れませんけれども、一番大事な点は、すでにはっきりしているわけです。
といいますのは、好太王碑の中に「倭」という字が九つ出てくるのですが(資料B)、この字については間違いないと、朝鮮民主主義人民共和国の金錫亨さんが、朝日新聞の記者に語っておられる。これは、昭和四十八年八月七日付けの夕刊に出ております。戦後、金さんたちの調査団が、直接碑の場所に行って調べているわけです。そのとき、当然彼らは「倭」という字に注目したと思います。その「倭」という字が、石灰であとでつくって、はめこんだ字ではない。石でつくられた本来の字であると、朝日新聞記者の質問に対して答えておられるわけです。
資料(B)
九つの倭 ーー好太王碑
(1) 倭以辛卯年来。
(2) 百残違誓与倭和通。
(3) 倭人満其国境。
(4) 至新羅城倭満其中。
(5) 官兵方至倭賊退。
(6) (7) ーー城倭満倭潰城ーー。
(8) 倭不軌侵入帯方界。
(9) 倭冠潰敗斬然無熬*。
熬*は、[急攵]の心の代わりにれっか旁。JIS第4水準ユニコード715E
私自身も、朝日新聞大阪本社の学芸部の方に、「いまごろ碑の場所にいってもわからんのじゃないですか」と聞かれたとき、“キーポイントは「倭」の字ですから、あれがつくった字か本当の字かを調べれば、論争のキーポイントは決まりますよ”と答えたことがあったんですが、そのあと何ヵ月かたって、八月七日の金錫亨さんの記事が出まして、問題は非常にはっきりしたのです。
これによって、「倭」という字が石碑に出ていること自体は、はっきりしました。そうするとそのあとは、その「倭」というのは、一体何者かという問題です。これについて三つの説がある。一つは「海賊」だという説です(金錫亨(25)、旗田巍(26)説)。「倭賊」とか「倭冠」とか書いてあるからですね。しかし、私はこれは具合が悪いと思うのです。
といいますのは、百済のことを「百残」と書いているのですが、これを百済自身でなくて、百済の一部分残ったやつだなどといったらおかしいですね。実は『孟子』に「残賊の者」というのが出てくるんです。要するに王道に背いてけしからんやつ、騒ぎを起こすやから、大義名分に反する連中を、「残賊の者」とよんでいるわけですね。「残」も「賊」も「そこなう」という意味です。それをバックに「百残」と書いている。「百済」と書くと「すべてを救済する」みたいないい字ですが、そんなのはもったいない、高句麗に反発するのだから「百残」だというわけです。
それと同じように、倭も「倭国」なんていうのはもったいない、高句麗の朝鮮半島支配に反抗して百済と結んでくるんだから「倭賊」だ。こういっているわけです。つまり、「残賊」という大義名分上の言葉を使っているだけです。内容を見ましても、百済は倭と和通している(百残違誓与倭和通)と書いてありますから、少なくとも両者を対等の扱い方をしています。だから海賊説はおかしいと思います。
そうすると残りは何か。つまり、この「倭」は大和朝廷ーー近畿天皇家か(従来説)九州王朝かと、いう問題になってくるわけです。この場合は好太王碑自身から答えは出てこない。倭の五王は五世紀で、好太王碑がつくられたのは五世紀のはじめですから、倭の五王が九州なら、碑に九回出てくる「倭」も九州王朝です。倭の五王が近畿天皇家であるならば、ここに出てくる「倭」も近畿天皇家である、ということになるわけですね。好太王碑問題はそういう論理的な問題点を核心に含んでいます。いいかえれば、これは倭の五王問題によって根本的に解決される、ということです。
最後に非常に面白い問題を申し上げて、終わらせて頂きます。だいたい地名というのはいつできたか、いつ言いはじめられたか、わからないのがふつうですね。ところが、地名の中には非常に重大なものもあります。例えば私がいま住んでいる向日市と、お隣りの長岡京市と両方にまたがって「長岡京」がありました。 ーー“あれは幻だ”と長らくいわれてきたのですが、実はあった。最近発掘が次々と行われて、遺構が出てきたという話は、皆さんもご存知だと思います。
私などはあとから住んだ者ですが、地元の人間にとって非常に興味深い事件であったわけです。「大極殿」という字(あざ)が、昔からあった。“なぜ「大極殿」というんですかと聞いたら、なんか知らんけど、とにかくそういうんだ”というわけですね。ところが、今度発掘してみたら、まさに「大極殿」がほぼ「大極殿」の場所だったわけですね。地名もばかにならないといいますか、土地の人は理由は知らないけれども、なんせ口でいい伝えてきた。
九州にも同じような問題があるんです。太宰府の奥で「大裏だいり」(「内裏跡」)や「紫宸(しん)殿」という田畑の字(あざ)があると、知り合いの青年(27)が教えてくれたのですが、これなんかも案外・・・ということになるかもしれませんね。
そこで、いま私が問題にしますのは、倭王武の上表文に、「竊(ひそ)かに自ら開府儀同三司を仮し、其の余は咸(みな)仮授して、以て忠節を勧む」という一節が最後に出てきます。が、「開府」というのは、「何々府」という「府」を開く権限を天子から与えられているものです。「儀同三司」というのは、「儀式は三司に同じ」ということで、儀礼上「三司」とイコールの位置を認める、というわけですね。その「三司」というのは何か、というのが問題なわけです。
岩波文庫本(和田清・石原道博編訳)の註を見ますと、三司(=三公)というのは、「太尉、司空、司徒」だと書いてあります。これが、従来大事な問題に気づかずにきた一つの理由ではないかと、このごろ思っているのです。なぜかといいますと、「三司」が「太尉、司空、司徒」だというのは間違いではない。ただし時代が違う。これは漢代の話なんです。ここの問題は、五世紀の『宋書』の宋において「三司」がなんであったかです。
『宋書』には、「百官志」「地理志」「礼儀志」とか、「何々志」というのがあって、ありがたいんです。『三国志』はそれがないからつらいのです。 『宋書』の「百官志」の先頭に「三司」に当たるのがちゃんと書いてあります。「太宰(たいさい)一人。・・・太傅(たいふ)一人。・・・太保(たいほ)一人」と載っているわけです。「三司」というのは、天子の下のベストスリーを三司もしくは三公といいます。いいかえれば、臣下の中で一番偉いのが三司なんです。だから倭王武は“中国の天子と対等であるとは申しません。私は「臣下」です。しかし「ただの臣下」ではありません。一番偉い臣下である三司と対等のものだと、自分で思っています”と、そういうことを倭王武はいっているわけですね。
それでは『宋書』で最高の「三司」は何かというと、先に挙げたように、「太宰、太傅、太保」の三つの役目です。この三つが「府」を開いたらどういう名前になるでしよう。「太宰府」もしくは「太傅府」もしくは「太保府」になるわけです。つまり、日本列島で倭王武がいた「倭国の都」は、「太宰府」とよばれているか、「太傅府」とよばれているか、「太保府」とよばれているか、そのいずれかのわけです。三つ可能性はありますけれども、理屈からいえば最初の分です。なぜなら臣下の中でも自分は一番上位の臣下だと誇示しているんですから“三司の中でも一番上位の「太宰」に相当するものと、自分で思っている。これを承認してほしい”と、こういっているわけですね。だから倭王武の都は「太宰府」とよばれていなければならない。
「太宰府」という名前は、私たちはあまりにもよく知っていたけれども、それはいつごろ、だれがつけたかと、いうことについてはわからなかったのです。『日本書紀』に出てくるけれども、いつから太宰府を置いた、という記事はないんです。いきなり出てきます。(〈天智十年十一月〉対馬国司、使を筑紫大宰府に遣わして言う・・・)。
それと「太宰府」という言葉の論理性が大事なわけですね。といいますのは、「太宰府」というのが、近畿の天皇家に対するものであるならば、それは何を意味するかというと、近畿天皇家があの場所に総理大臣を置いたということになる。「太宰」というのは、「太宰相」と同じ系列の言葉ですからね。ですから、総理大臣をあそこに置いたということが、裏付けになっていなければならない。そんな事実があるか。全くないですね。ずっとのちに、菅原道真が太宰府に左遷されますが、あれは非常に悪い、陥れられた役目ですね。総理大臣ではない。
あるいは、博多の王者が“私は近畿天皇家の総理大臣であると称する、それを認めろ”といったという事実があるか。ないわけですね。それに対して“「太宰府」の原点が中国にある”と見た場合は、全然問題がないわけです。(28) 考えてみますと、現在は、京都府とか大阪府とか、私たちは平気で「府」を使っていますけれども、いずれもメイド・イン・ジャパンの「府」です。ところが東アジアの古代世界に存在する「府」といえば、中国の天子を原点にしたものと考えるのが筋道です。いいかえれば、原則は、“中国の天子を原点にする何々府”のはずです。しかし時代があとになると、それぞれの「夷蛮」の国で“メイド・イン・何々国”ができてくる可能性があるわけです。
ですから、論理進行の順序としては、まず「中国の天子を原点とする府」として考えてみて、そう考えたのではどうしてもだめだという場合に、はじめて“あるいはメイド・イン・何々国”ではなかろうかとして見ていくのが、東アジア古代世界という規模の中で考える場合には、自然な考え方ではないでしょうか。私にはそう思われます。そうしますと「太宰府」というのは、まさに「中国の天子を原点とする太宰の府である」ということになってきます。
では、“東アジア古代世界に、メイド・イン・ジャパンの「府」はないのか”というと、あるわけですね。「任那日本府」がそうです。“これはメイド・イン・ジャパンの「府」である”ということを、「日本府」という言い方でいっているのです。東アジアで「府」というと、中国原点に決まってますから、ただ「府」といったのではおかしい。そこで「日本府」といったわけです。こういうふうにして問題がはじめて解けてくるわけです。これも、皆があまりにも知りすぎていて、かえって気がつかなかった問題だと思います。
もっと知りすぎていて気がつかなかった間題は、「九州」です。「九州」という言葉は小学生でもみんな知っている。ところが、これは大変な言葉なんです。といいますのは、資料Cに例をあげておきましたけれども、中国では、「九州」というのは特定の政治用語なのです。「禹が九州を統治した」という言葉にはじまって、代々『史記』『漢書』『三国志』そのあとにいたるまで、「九州」というのは「天下」を意味する言葉だったのです。
資料(C)
a 九州、同を攸む。(書経、禹貢)
b 凡そ九州、千七百七十三国。(礼記、王制)
c 天に九野有り、地に九州有り。(呂覧、有始)
d 天皇・地皇・人皇、九人兄弟、分れて九州と為す。天下に長たり。(春秋保乾図)
e 禹の九州を序する、是なり。(史記[馬芻]衍伝)
f 今、魏、九州に跨帯す。(蜀志十四)
[馬芻]衍の[馬芻]は、JIS第4水準ユニコード9A36
私は『三国志』を読んでいて気がついたんですが、漢末・魏ににもかかわらず、現在は十四州に分かれている、これはおかしい。“天下は「九州」とよばれる。だから九つの州に直すべきだ”という一派と、“そうはいっても、それは実際上むずかしい”と、反対する一派とが対立しています。選挙区と一緒で、ふやすのはいいけれども、減らすのはむずかしいというわけでしょうか。“従来通りで、まあいいじゃないか。九州というのは「天下」の代名詞にすぎんのだから”というのが現実派なわけですね。私が『三国志』を読んでいると、「九州」というのが次々出てくるので、はじめは不思議だったんですが、わかってみればそういうことだったのです。
つまり「九州」というのは、中国の歴史書では、代々「天下」を意味する言葉でした。しかも大事なことは、「九州」の中心には「天子」がいる。それを原点にしての「天下」という意味である。だから問題は、もし近畿天皇家が「九州」という名前を使うとしたら、日本列島全体を「九州」とよばなければいけない。つまり、メイド・イン・ジャパンの「九州」しかも近畿中心の「ミニチュア九州」ですから、日本列島全体を「九州」とよばなければおかしい。ところがそうじゃない。
四国の場合とは違うんです。四国は四つ国があるから四国です。これは、はっきりしている。だから「九国」というならまだいい。豊前とか豊後とか、「前」があったりなかったりするので、数合わせしたような感じですけれども、それでも「九国」とよぶのならいいけれども、「九州」というのはおかしい。
ぼくのようなものを知らない人間は、『三国志』を見ていて、なんで「九州」が出てくるんだろうと思ったんですが、古代東アジア世界の中に住むインテリだったら、彼らの教養は『史記』『漢書』などの中国の古典ですから、それに絶えず出てくる「九州」を知らないでは、インテリとはいえないわけです。だから「九州」と名をつけてみたら、偶然同じだった、などということはあり得ない。「九州」とつけた人間は、そこを「天下」と考えていた。つまりその中に「天子」がいた。さっきの太宰府の「大裏」などの名称もそのなごりかもしれませんね。
あるいは、私の『邪馬壹国の論理』に書いてありますけれども、太宰府のそばに基山城というのがあって、北帝門、仏谷門、萩原門という名の門の礎石が残っています。萩原門というのは、萩原村へ行く門だから、これはわかる。仏谷門というのは、基山は比叡山みたいに、峰々谷々にたくさんの仏寺、仏塔が建っていて、現在も礎石は残っていますけれども、そこにつながっているから「仏谷門」というわけです。
一番わからないのは「北帝門」ですね。「北」は、中国の用法で天子の座です。だから「北帝門」というと「天子の門」というわけです。現地の人に聞いても、なんでそういうのかはわからない。ともあれ、「北帝門」というのだと。近畿天皇家をまねたのだろうかと考えてみると、近畿には、「北帝門」などという門はないのですね。大阪にも奈良にも京都にもない。だから近畿をまねてつけたのではない。そうしてみますと“そこに天子を誇称する人物がいた”ということを意味しているのです。“九州の原点に天子がいる” ーーあの「日出づる処の天子」と自称した天子ですね(古田『失われた九州王朝』朝日新聞社刊参照)。このへんは七世紀の問題になりますけれども、今回はここでストップして、終わらせて頂きます。(51・10・8)
〔注〕=本文中の参考手引き
(22) 『朝鮮学報』第七十七輯、昭和五十年十月
(23) 「対談、倭国の大乱をめぐって」『東アジアの古代文化』九号、一九七六夏
(24) 『広開土王陵碑の研究』吉川弘文館刊
(25) 『古代朝日関係史 ーー大和政権と任那』勤草書房
(26) “『三国史記』新羅本紀の「倭」”『日本のなかの朝鮮文化』一九七三、一九号
(27) 篠原俊次氏。資料は吉田東伍『大日本地名辞書』冨山房、大野誠『大宰府歴史散歩』創元社(大阪)
(28) これに準ずる問題として「吉備の大宰」(天武八年三月)があります。これも「中国の天子 → 筑紫(自称) → 吉備(第二次自称)」ではないか、という問題が新たに現れるわけです。
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