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古代史の宝庫』(朝日新聞社) 1977年

九州 邪馬壹国の諸問題 1

古田武彦

はじめに

 「九州」という題で、二回にわたって話させて頂きますが、第一回は、いわゆる「邪馬台国」問題についてお話したいと思います。講演綱目を見て頂くとわかりますように、非常にたくさんの項目に分かれています。一つずつとってもたいへんな問題です。それで、まず各問題について端的に結論を申し上げて、それからその結論にいたるまでのキーポイントを申し上げる、という形で進めていきたい。そして肉づけといいますか、それに関連して申し上げたいことがいっぱいあるんですが、それらについては時問が余りましたら、あるいはご質問の中でつけ加えさせて頂くつもりでおりますので、よろしくお願いいたします。
 もう一つ、お断りしておきたいと思いますのは、講演、その他におきまして(論文でもそうですが)特定の学者、論者の名前をあげずに、何となく“こういうむきもあるが私の考えではこうだ”というような婉曲な言い方をするのが、むしろ美風だとされているようですが、きょうは、“この方はこういっておられるが私はこうだ”と、いう形で、ずばりいわせて頂きたいと思うのです。
 私、思いますのに、去年までは「邪馬台国」論争がはなやかで、百花繚乱といいますか、おのおの自分の説をしゃべっていた。それはそれで結構だったと思うのですが、しかし今後は、各自の論をかみ合わせ、ぶっつけ合わせていくことが必要だと思うわけです。そうでないと、後世の人からはなやかな論争だったが、しまりがない、まちまちにいいたいことをいっているだけだったじゃないか、といわれるのではないか。そういわれないためには、かみ合わすべき論点は極力かみ合わせておくことが、後代の人々に対する責任として、必要ではないかと思うのです。

邪馬壹国と邪馬臺国

 まず第一は、題からです。どうしても国名問題です。私が「邪馬台国」問題に入ったのは国名問題からです。つまり『三国志』の「魏志倭人伝」には、「邪馬臺たい国」という名前は全くない。そこには「邪馬壹国」(ヤマイコクと読むと思うのですが、発音の便宜上ヤマイチコクと字音を、発音することとします)しかないということ、これが出発点です。“「臺」と「壹いち」の字が似ているから間違ったのだろう”ということでいいのかと、問題を調べていきますと、意外にも、「そう簡単にこれを直すわけにはいかない。やっぱり『邪馬壹国』といわなければいけない」という答えになってきたわけです。
 これに対するほかの代表的な意見をあげますと、まず、“古田は『紹興本』をもとにして議論している”と松本清張さんは言っておられますが、これは単純な事実問題の問違いです。私が一番信頼できると考えているのは、『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社刊)という本にはっきり書いてあることですが、『紹煕しょうき本』という版本です。
 ところが、もう一つの、より重要な問違いは“「紹興本」なり「紹煕本」なり、古田がこれがいいといっている本だけに「邪馬壹国」とあって、他の版本には「邪馬臺国」とあるんだ、古田はかわった一つの版本をもとにして言っている。それは極論である”ということを書いていらっしゃる方がある。松本清張 (1)さんがあちこちで書いておられるし、ふと私が目にしましたのでは、『まぼろしの邪馬台国』で有名な宮崎康平 (2)さんも、そういう批判を私に対して行っておられます。
 しかし、これは失礼ながら全くの間違いでありまして、『三国志』の版本は、「紹興本」と「紹煕本」以外にもたくさんあります。しかし、どの版本をとりましても、全部「邪馬壹国」です。中には、「壹」を「一」と書いたものも、二、三あります。そういう例外はありましても、「邪馬臺国」と書いてあるものは全くないわけです。「邪馬壹国」と書いてある版本しかない。それをなぜか間違えて、「壹」とあるのは一つだけで、ほかは「邪馬臺国」とあるんだ、というような認識で論じていらっしやる方がいますが、これは明白な事実認識の誤りです。(3)
 次に、私が『「邪馬台国」はなかった』で展開したのは、誤謬(ごびょう)率の検査です。つまり問題の「邪馬壹国」以外に、『三国志』全体に出てくる「壹」と「臺」を調べてみた。ところが意外にも、問違いと認められるものは一個もなかった、という結論を見たわけです。そこで私は、うかつに直してはいかんぞと、思ったわけです。
 もちろん、そういう検査をしなくても、目の前に「邪馬壹国」とあるものを、生半可な理由で、必要な論証なしに“「ヤマト」と読んだら自分の論に都合がいいから”ぐらいのことで、手直しして読むのはよくないと、これは一般論として当然いえることだと思うのです。
 ところが、それだけでなくて、『三国志』全体の中で、「壹」と「臺」が問違いであると認められるものがほかにない。そうなってくると、いよいよもって、著者の陳寿か、その後、代々の写した人が問違えたんだろう、という考え方を安易にとることはできない。やっぱりよほど確かな理由がなければ、「邪馬壹国」とあるのを「邪馬臺国」と手直しして、「ヤマト」と読んで、近畿の大和であるとか、筑後の山門とか、島原の山田であるとか、そういうことをいってはならないと考えたわけです。
 この私の論に対して、間違ってうけとっておられる方がありまして、『三国志』の中で「邪馬壹国」以外の個所で「壹」と「臺」を間違えたものはなかった。だから問題の「邪馬壹国」も誤りではない ーーこのように古田は断定しているが、それはおかしい。たぜなら、百のうち九十九が正しくても一を間違うことがあり得る。古田はその点を見逃している、とこういうふうに議論を展開しておられる方があります。(例えば、大庭脩(4)さん、安本美典(5)さんなど。)
 ところが、私からみると、なぜこんな思い違いをなさるのだろうと、不審にたえないわけです。といいますのは、“後世のわれわれが、原文の手直しをするのは、よほどの理由がなければしてはならない” これはいわば、根本のエチケットだと思うのです。その上、ほかの「壹」と「臺」を調べてみたら、誤りと認識できるものは一つもなかった、だからいよいよもって、そう簡単に直せないぞ、と、いうわけです。
 もちろん、“多くの例のうち、あとが全部合っていても、残りの一つが間違いである”こういうケースもあり得るわけです。しかし、その例外の一つであるというためには、よほど碓かな論証をしなければならない。というのが私の『「邪馬台国」はなかった』で論じていることなんです。簡単には直せないぞという、手触わりは受け止めたけれども、“絶対に「邪馬壹国」でなければならない”とは、まだ考えていたかったわけです。
 では、私がこれは「邪馬壹国」だと、きっぱり考えたのはいつかというと、もう一つ別の問題からです。「壹」と「臺」を調べているうちにわかってきたのですが、『三国志』の中では、「臺」という字は独特な使い方がされている。洛陽の天子の宮殿を「臺」とよんでいるのです。あとになって考えてみれば、「倭人伝」の最後にも、“壹与の使が貢物を持って臺に詣った”と書いてある。その臺は、当然洛陽にある魏の天子の宮殿のことだったわけです。
 としますと、かりに倭国がその都を、「ヤマト」と名乗っていたとしましても、それを中国側が漢字にあらわす場合のことを考えてみましょう。「ト」の音に当たる漢字はたくさんある。辞書を見て頂ければわかりますように、「ダイ」「タイ」だけでも七百四十一個もあります。(諸橋轍次著・大漢和辞典)その中で平仄(ひょうそく)など、厳密に音が同じものをとっても、十や十五じゃないですね。それだけ同音の字があるのに、なんで天子の宮殿を指す、その至高の言葉をわざわざ使うはずがありましょう。
 ことに彼らは、夷蛮の国名や王名をあらわすのに「卑字」を使っています。卑弥呼の「卑」、邪馬壹国の「邪」もそうです。動物でも、馬や牛が使われています。こういうのは中国人が尊ぶ動物ではない。竜や鳳とは違うわけです。こういう類の字が夷蛮関係の表音にはふさわしいと、考えられたわけです。これは古代中国人独特の、今風にいえば“民族差別”です。“中国人だけがまともな人間”であって、まわりの連中は獣や虫に類するようなものだというわけです。東夷、西戎、南蛮、北狄といいますけれども、獣偏や虫偏がついている。そういうふうに見ていたわけですね。
 だから、その夷蛮にふさわしい宇をたくさん使っていたわけです。私はそれを「卑字の大海」と表現しました。ですから、いくら「ト」をあらわすからといって、最高に尊い文宇であらわすといったことはあり得ない。とすると、やっぱり「邪馬臺国」と直すことはできない。そう結論したわけです。この論理関係を、私は『「邪馬台国」はなかった』に、はっきり書いたつもりなんですけれども、これを問違えて“確率的な議論だけで、古田は断定的な結論を出している” こういうふうに受けとめている方が、いまだにあるようです。
 実は去年、この問題について、さらに明確な結論が出ました。というのは、『隋書経籍志二』の中に、「魏臺雑訪議」という書名が出ています。高堂隆という人が書いた本です。高堂隆というのは、卑弥呼がはじめて中国に使いを送ったころ、つまり魏の明帝の時代の人です。その明帝が頼りとした老臣、いわば大久保彦左衛門的な人物です。
 しかも、その文章の一部分が、『蜀志』の裴松之の註に出ています。「臣松之、案ずるに、魏臺、物故の義を訪う。高堂隆答えて曰(いわ)く・・・」と、つまり魏臺という人が「物故」という言葉の意味を問うたわけですね。いまでもときどき使いますが、人が死ぬことを「物故」といいます。高堂隆がそれに答えたというわけです。
 これから見ますと、「魏臺」というのは明らかにです。つまり魏の明帝です。要するに魏の天子のことを「魏臺」とよんでいるのです。例えば「殿」とか「殿下」とかいいますね。もちろんその人は実名を持っているのですけれども、実名をよぶのはおそれ多いということで、「その人の住んでいる御殿」という言い方で「殿」といい、御殿を直接いうのもおそれ多いということで、「殿下」というわけです。そこで「殿」とか「殿下」というのが、御殿に住んでいる当の主人公を指すわけです。あの用法ですね。魏の洛陽の宮殿たる臺に住んでいる主人公、つまり天子自身を、「魏臺」あるいは「臺」とよんでいた、という史料です。
 つまり、洛陽にあった魏の朝廷の中で、臺といえば天子その人を指す言葉であった。魏晋朝の史官が、「ヤマト」なら「ヤマト」の「ト」を表記するさい、たくさんの漢字を持っているのに、そのほかは差しおいて、この「臺」という至高の文字をわざわざ使うというのは、どうしてもあり得ないと、確信を持ったのです。この点について、“いや、そうではない。こういうふうに使っている例もあるんだ”という反論をしないままで、「邪馬台(臺)国」といい続けることは許されない。去年、この点を一層確信したわけです。

魏晋(西晋)朝の短里

 私は“邪馬壹国は博多湾岸を中心とする領域である”と主張したわけですけれども、これについての反論はあまりにも少なかったようです。ことに、私が思いますのは、この問題の論争点を煮詰める上で、その出発点になるのは、「里数問題」だと思います。
 帯方郡治(ソウル近辺)から女王国まで一万二千余里と書いてあります。ところが、漢代の里数値(一里=約四百三十五メートル)で見ますと、女王国は赤道の彼方へ行ってしまう。そこで“これはとんでもない誇張だ。恩賞目当てにうそを書いたのだろう”といったことを、白鳥庫吉その他の人たちが、いってきたわけです。
 しかし、それが誇張かどうかを確めるためには、『三国志』全体の里数値を抜き出して調べてみなければ何ともいえない。私はそう考えたわけです。そこで抜き出して調べてみた結果、『魏志韓伝』に、「韓地は方四千里なる可し」と書いてある。それから『呉志十五』に、「武陵から五谿へは二千里に垂(なんな)んとす」と書いてある。五谿というのは現在も残っている名所です。
 これから見ると、一里はほぼ七十五メートルに当たります。つまり「魏晋朝の短里」で書かれていることがわかってきたのです。そうすると、一万二千里といっても、赤道の向こうまで行く必要はないわけで、九州の博多湾岸で全然おかしくないということになってきました。
 さらに、『「邪馬台国」はなかった』以後に見つかった史料があります。私の四冊目の本で『邪馬壹国の論理』(朝日新聞社刊)をお読み頂いた方は、ご存じだと思うのですが、天柱山という山が、揚子江の中流域の北岸にあります。幸い高さがわかっています。千八百六十メートル。それが『魏志十七』に「高峻二十余里」とあります。これを漢の長里で計算しますと一万メートルを越える。つまりヒマラヤをはるかに越える超高山になってしまうのです。ところが、一里=七十五メートルで計算しますと、ぴたっとこの高さに合うわけです。(二十余里は、二十三〜四里)
 もう一つ印象的な例が『史記項羽本紀』あるいは『漢書項籍伝』にあります。揚子江の下流域南岸を「江東」といいますが、そこを「方千里」と書いている。有名な項羽が垓下の戦いに敗れて、ここへ逃れて来たときの問答に出てくるわけです。高等学校の漢文の本にも出てくる有名な文句ですが、江東の広さを「地方千里」といっているのです。
 ところが、『三国志』(呉志九)の中では、同じ江東を「地方数千里」といっている。「数千里」というのは、約五、六千里です。『三国志』の著者は洛陽のインテリですから、彼らは『史記』『漢書』を読んでいる。彼らの歴史知識といえば『史記』『漢書』ですね。しかも項羽のこの場面は、名場面ですから知らない人はいない。陳寿も、もちろん知っているわけです。「地方千里」云々(うんぬん)という名文句を知っていながら、あえて「地方数千里」と書いているわけです。このことは、『史記』『漢書』を支配する里数と、『三国志』を支配する里数は違っているという、はっきりした証拠です。
 この点については、山尾幸久(6)さんが、“倭国だけが誇張した里数だと、白鳥庫吉(7)などが従来いっていたけれども、それは修正すべきだ。烏桓、鮮卑、東夷の夷蛮伝全体に誇張した里数が書かれてあるのだ”と論じられた。ところが、この天柱山や江東は夷蛮の地ではない。中国の本土内でも同じ「短里」で書いてある、ということが分かってきました。
 ところが、今度は“『三国志』全体が誇張した里数で書いてあるのだろう”という議論をする人が出てきました。藤沢偉作氏の『邪馬台国は沈まず』(潮出版社刊)という本です。ところが、それも打ち破るべき証拠が出てきました。
 ご承知のように、「倭人伝」には「卑弥呼以て死す。大いに冢(ちょう)を作る。径百余歩」と書いてあります。ところで、「三百歩=一里」です。ところが、『三国志』の「蜀志」の諸葛亮伝の中に、有名な諸葛亮(孔明)の死ぬときの話が出ています。孔明が「山に因りて墳を為し、冢は棺を容(い)るるに足る」と遺言したというのです。
 つまり、「私が死んでも墳をつくるな」というわけですね。「墳」というのは、「応神陵」古墳とか、「仁徳陵」古墳のように、平地の上に人工で巨大な土を盛り上げたものですね。たいへんな事業です。ところが孔明は“いまは非常時だからそういう墳はつくるな。そのかわり出来合いの山(定軍山)を「墳」に見立てろ”というわけです。“見立てる”だけなら、金は一文もいらないわけです。“出来合いの山を墳と見なし、その一郭に「冢つか」をつくってほしい、それもでっかい冢はいらない、棺が入る程度の大きさでいい”とこう遺言したのです。だから孔明の墓はそういうふうにした、と書かれているわけです。
 私は、『三国志』の中の「壹」や「臺」、を調べたり、里数値を調べたりしているときに、「墳」と「冢」との両語が使い分けられている、ということ感じていました。普通、天子とか大豪族が死ぬと「墳」をつくる。ところが、「冢」というのはどうもそれとは違う概念の字であるようだと思っていました。それがここで、はっきりコントラストが出てきたわけです。つまり山のようなのが「墳」、棺が入る程度の小さな塚、ほんの小さい盛土程度のものが「冢」です。
 そこで卑弥呼の「冢」は「径百余歩」と書いてある。これを漢の長里で計算しますと、百歩は約百五十メートル。百余歩(百三十歩〜百四十歩)は、約百七十メートル〜二百メートルになります。ですから、従来のように、『三国志』も漢の長里で書かれているものとした場合には、卑弥呼の墓は二百メートル弱の大古墳であるということになります。
 ところで、陳寿はこの文章を書いたとき、どのぐらいの大きさのものを頭に描いていたのでしようか。もし二百メートル弱の大きさのものを頭に描いたのであれば、必ず「大いに墳を作る」と書かなければいけない。ところが、里数が魏晋朝の短里であるならば、百歩が二十五メートルですから、百余歩といえば約三十メートル〜三十五メートルになるわけです。ほぼ三十メートル強の大きさです。これでは「墳」とはちょっといいにくい。しかし、「冢」としたら、大きいわけです。だから、「大いに冢を作る」となっているのです。
 このように考えますと、陳寿の頭にあった里数値は、長里ではなくて短里であるということが、はっきりいえるわけです。従って、『三国志』全体が誇張で書いてあるんだ、ということもいえないことになるわけです。もし誇張で書いたのならば、「大いに墳を作る」と書かなければ、誇張にはならない。「冢を作る」と書いてあるからには、誇張ではないわけです。結局「短歩」と「短里」であるということになります。
 要するに“『三国志』は短里で一貫している”これが結論です。それは『「邪馬台国」はなかった』を読んでよくわかっていると、おっしゃるかもしれませんが、卑弥呼の国がどこにあったかを探究する場合、行路記事を解読する上で、このことが決定的に重要だということに、去年の夏前後に気がつきました。

 

水行十日陸行一月

 井上光貞さんが書評(8)で“古田の読み方は成り立ちにくい”といわれました。といいますのは、例の「水行十日陸行一月」について私以前の論者は、皆これを伊都国もしくは不弥国からあとに当たる行程だと考えたわけです。東へ行くにしても、南へ行くにしても、ともかく、それよりあとという点においては疑いをもたなかったのです。
 ところが私は、「女王の都する所、水行十日陸行一月」とあるから、これは「総日程」だと考えました。つまり帯方郡治から女王国までの総日程です。これに対して井上さんは“そういう読み方は漢文として無理である”と批評されたわけです。
 ところが、実は「水行十日陸行一月」を、九州北岸よりあとと見るか、前と見るかという問題は、例の里単位問題で解けてくるのです。帯方郡治から女王国まで、総日程は一万二千里とあります、その細目は、帯方郡治から狗邪韓国までが七千余里、そこから海を千里、千里、千里と渡って一万里。そこから伊都国までが五百里、それから奴国、不弥国までが百里、百里。こう考えますと、帯方郡治から不弥国まで一万七百里ですから、一万二千里から一万七百里を引くと、千三百里が残るわけです。これが榎説(9)以前の立揚です。
 これに対して榎説の場合は、伊都国中心の放射式読み方をするわけです。つまり末廬国までが一万里、そこから伊都国までが五百里。その一万五百里を全体から引けば、その残るところは千五百里です。ですからいずれにしても、千三百里ないし千五百里が最後の“余り”だ、というのが、私以前の従来説の考え方なんです。
 とすると間題は、陳寿の目にこの“余り”の距離はどのくらいの日数として映じていたのだろうか、というのが、いまのキーポイントです。漢代、唐代の長里では、「一日五十里」というのが建前です。榎さんもそれを使って計算されました。ところが短里になりますと、ほぼその六倍ですから、「一日三百里」ということになります。もちろん実体はかわらないわけです。
 一日三百里という短里の頭で、千三百里〜千五百里を考えると、何日分になるでしょうか。当然「四〜五日分の距離」になるわけです。というのは私が「なる」というだけではない。陳寿の目に、そう見えていたはずなんです。陳寿は短里を使っていたわけですから。その同じ陳寿が、それからあとを「水行十日陸行一月」などと書けるでしょうか。まともな頭をもっている限り、書けるけずはない。
 しかも、『三国志』は、一気呵成(かせい)に書いたメモなどではないわけです。陳寿が一生かかって書き上げたものであると同時に、西晋の朝廷が採用して正史にしたものですから、たくさんの人間の目を通っているものです。そうすると、そんなばかげた矛盾のままになっているなどということは、全くあり得ないわけです。もし投馬国までの水行二十日をいれますと、水行二十日プラス水行十日プラス陸行一月で、最長では二月になる。榎説でも陸行一月になるわけですね。陳寿の目には四〜五日にしか見えていないことを、そういうふうに書けるはずがないわけです。
 里数問題を古田がそんなにくどくいうなら、それだけは認めよう、という論者があらわれたとしても、実は、この問題はそれだけではすまないことになります。『三国志』全体が短里で書かれているということを認めたとたん、私以前の従来説のような、「水行十日陸行一月」を、伊都国なり不弥国からあとの、日程だという読み方が、全部こわれてくるわけです。それに対して、総日程だとしますと、矛盾は存在しないわけです。そこに「島廻り読法」「道行き読法」という、私が『「邪馬台国」はなかった』で導入した考え方をいれますと、ぴたっと数字が合ってくるのですが、ここでは省略します。要は、里数問題というのは、いわば物理的な問題ですから、論者の主観でどうにでもなる、歴史観によってかわる、といった問題ではないわけですね。
 この即物的な問題をどうしても煮詰めたければならない。私はそう思うんです。そして煮詰めれば、実証的な基礎に立つ以上は、『三国志』は短里によっている、と認めざるを得ないと思います。それを認めると、従来のようた読解の仕方は全部こわれてくる。どうしても「水行十日陸行一月」は総日程と見なければならない。これが、だめ押しするようた形ですけれども、私が確認した論理なんです。ですから、井上さんのような従来の論者が、私の漢文の文脈の読み方がおかしいといわれるなら、この実質から目をそらさずに反論して頂かないと、学問上の客観性をもつ反論にはならないんじゃないか、と失礼ながら思っています。

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〔注〕=本文中の参考手引き
(1) 『週刊読売』「論争座談会」一九七五、七月五日号。『清張通史I 、邪馬台国』など。
(2) 昭和五一年、博多で講演。全広連報所載。
(3) 先記(1)(2)のほか、鳥越憲三郎『大いなる邪馬台国』講談社刊
(4) 『親魏倭王』学生社刊
(5) “「邪馬壹国」か「邪馬臺国」か”(『東アジアの古代文化』9号、一九七六夏)
(6) 「魏志倭人伝の史料批判」(『立命館文学』第二六〇号、一九六七・二)、『魏志倭人伝』講談社新書
(7 )「卑弥呼問題の解決」(『オリエンタリカ』一・二、昭和二十三年八月、昭和二十四年十一月)
(8) 『日本経済新聞』、昭和四十六年十二月十九日、書評
(9) 榎一雄『邪馬台国』至文堂


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