2004年2月5日

古田史学会報

60号

1、神代と人代の相似形
 西村秀己

2、『旧・新唐書』の
日本国記事について
厚味洋五郎

3、「九州年号」真偽論の系譜
新井白石の理解をめぐって
古賀達也

4、如意宝珠
 大原和司

書評
中国から見た日本の古代

5、オホトノヂは
大戸日別国の祖神
会報62号と同一
西井健一郎

6、二倍年暦の世界7
アイヌの二倍年暦
古賀達也

7、連載小説「彩神」第十話
若草の賦(3)
深津栄美

8、「二倍年暦」
に関する一考察
 澤井良介
古代戸籍の二倍年暦
 肥沼孝治

9、古田史学・虎の巻
年頭のご挨拶
十周年記念行事にご協力を
事務局だより

 

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『旧・新唐書』の日本国記事について

千葉県印旛村 厚味洋五郎

はじめに

 標記について、不思議な説が流布している。他の説を一切聞かない、疑うべからざる定説と言っても過言ではない説である。
 “日本国・倭国の併合・非併合関係が『旧・新唐書』で逆になっている”ということである。“『旧唐書』では日本国が倭国を併合したと書かれている”が“『新唐書』では日本国が倭国に併合されたと書かれている”と。
 私もそう思っていた。そう書かれているのであろうとである。その不思議な記述を確認しようと。確認した。しかし、どうしたことか、私にはそう読めない。これが本小論の動機である


『旧・新唐書』の記述

『旧唐書』
 日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。或日、倭国自悪其名不雅、改為 日本。或云、日本旧小国、併倭国之地。
『新唐書』
 咸享元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、悪倭名、更号日本。使者自言、国近日所出、以為名。或云、日本乃小国、為倭所并、故冒其号。


定説は虚説

 『旧唐書』の「日本旧小国、併倭国之地」はよい。“小国であった日本国が倭国の地を併合した”である。異論もないし、これ以外に読みようもないであろう。
 問題は『新唐書』の「日本乃小国、為倭所并、故冒其号。」の「為倭所并」であろう。これが、果たして“倭(国)に併合された”と読み得るのかということである。この部分のみを読めば、そうも読めるということであろう。“倭ノ為ニ并サルル所トナリ”或いは“倭ノ并セル所トナリ”である。
 しかし、この文章は「日本乃小国、為倭所并、故冒其号。」で有意なのである。そう読んだとすれば、“日本国は小国であったが、倭国に併合され、それで、倭国(「其」)の称号(「日本」)を奪って日本と名乗った”ということになる。“併合された国が、その併合した国の称号を奪って日本と名乗った”というのである。意味を成さないであろう。
 この部分は、“倭(国)を併合し”である。直接的な読みとしては、“倭を并セル所ト為シ”或いは“倭所ヲ并セ為シ”であろう。くどいが、『旧・新唐書』の「為」は全て日本国自身の行為として使われている。この文章は、“日本国は小国であったが、倭国を併合し、それで、倭国(「其」)の称号(「日本」)を奪って日本と名乗った”というのである。何の変哲もない。
 若し、定説の如く読むのであれば、この部分は「日本乃小国、為倭所并、故倭冒其号。」或いは「日本乃小国、倭為日本所并、故冒其号。」となるであろう。“日本国は小国で、倭国に併合され、倭国がその称号を奪って日本と名乗った”或いは“日本国は小国で、倭国が日本国を併合し、その称号を奪って日本と名乗った”である。
“日本国が倭国を併合した”ことは『旧・新唐書』共、同じであったのである。“日本国・倭国の併合・非併合関係が『旧・新唐書』で逆になっている”との定説、即ち、“日本国が倭国に併合された(倭国が日本国を併合した)”は虚説である


『旧・新唐書』の読み

 改めて、『旧・新唐書』の読みを確認する。
『旧唐書』は
“A:日本国(の王統)は倭国(の王統)の分かれ(別れた種)である。国が日辺に近いということで日本を名としている。
 B:或いは、倭国自身がその名が雅ではないと嫌って、日本と改名したとも言われるし、また、日本は元、小国であったが、倭国の地を併合したとも言われる。”

 Aは正しいと思われる情報、Bは正しいであろうと思われる情報である。むろん、これは、著者が、そう考えたであろうという推測である。必ずしも、表現が適切かということについては問題もあるであろう。が、A、Bに差があると思われる。Aが主、Bは関連情報というところである(次のC、Dも同じ)。当然、B(倭国自身の改名)を以て、A(倭国の別種)と同等、つまり、どちらとも言えないとは言えない。
『新唐書』は
“C:咸享元年(天智九年:六七〇)、使者を派遣し高句麗平定を賀した。後、中華の発音に習熟して倭名を嫌い日本と改めた。使者は国が日の出の所に近いので名としたと言っている。
 D:また、日本は小国であったが、倭国の地を併合し、その名を奪って名乗ったとも言われる。”

 Cは正しいと思われる情報、Dは正しいであろうと思われる情報である。A(国が日辺に近い)が使者の言として確認され、B(倭国自身の改名)の時期が確認され、B(日本国の倭国併合)も“倭国の称号・日本を奪った”という新事実を加えて確認されている。DはB(日本国の倭国併合)よりも“正しいと思われる”ということである。つまり、『新唐書』の記事は『旧唐書』の記事を確認したものと言えるであろう。
 では何故、『新唐書』はA(日本国は倭国の別種)を記さないのであろうか。明確である。A(日本国は倭国の別種)が、そのとおりであったからである。改正を必要としなかったからである。日本国が倭国と別国であることは、『旧・新唐書』共に、日本国の対唐初外交を長安二年(大宝三年:七〇三)と記していることからも明らかなのである。
 つまり、『旧・新唐書』の日本国認識は倭国の併合だけでなく、全く同じなのである。


おわりに

 それでも言うであろう。「倭国自身の改名」は時期が確認されただけである。「倭国自身の日本改名」と「日本の倭国併合とその称号・日本の名乗り」、即ち、相反することの併記(矛盾)は疑問として残ると。どちらが本当なのか分からなければ、結局、この疑問が、“日本国は倭国の別種”という前提そのものに対する疑問に帰ると。
 しかし、私達「九州王朝」論者は知っているはずである。この改名の時期、二つの王朝が存在したと。名存実亡の「九州王朝」と名未実存の「大和王朝」である。実権は喪失したが未だ年号を公布し得る権威を保持している「九州王朝」と実権を保持し対唐外交権を行使するが未だ年号を公布し得ない「大和王朝」である。
 つまり、「日本改名」は大義名分的には考察しなかった我々の成為であった。『旧・新唐書』の記述は正しかったのである。 なお、日本国と倭国は別国(王朝)なのであるから、『新唐書』の「日本古倭奴国」に続く「大和王朝」の王統記述を以て、“日本国が倭奴国以来継続する列島の王権王朝国で、「大和王朝」の王統がその正当な王統である”などとは言えないのである。これは、“日本国が倭奴国以来の列島の代表王権王朝の後継王朝(中国が認証した王朝)で、その王統がこうであるというもの”と理解すべきである。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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