2004年2月5日

古田史学会報

60号

1、神代と人代の相似形
 西村秀己

2、『旧・新唐書』の
日本国記事について
厚味洋五郎

3、「九州年号」真偽論の系譜
新井白石の理解をめぐって
古賀達也

4、如意宝珠
 大原和司

書評
中国から見た日本の古代

5、オホトノヂは
大戸日別国の祖神
会報62号と同一
西井健一郎

6、二倍年暦の世界7
アイヌの二倍年暦
古賀達也

7、連載小説「彩神」第十話
若草の賦(3)
深津栄美

8、「二倍年暦」
に関する一考察
 澤井良介
古代戸籍の二倍年暦
 肥沼孝治

9、古田史学・虎の巻
年頭のご挨拶
十周年記念行事にご協力を
事務局だより

 

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新・古典批判 続・二倍年暦の世界 古賀達也(『新・古代学』第八集) へ

「安徳台」余話 『平家物語』の九州年号 古賀達也(会報58号)

善光寺如来と聖徳太子の往復書簡 -- 九州年号の秘密 古賀達也(会報58号)

続・「九州年号」真偽論の系譜 -- 貝原益軒の理解をめぐって(会報62号) 古賀達也


「九州年号」真偽論の系譜--新井白石の理解をめぐって  新・古典批判「二倍年暦の世界」7 アイヌの二倍年暦

「九州年号」真偽論の系譜

新井白石の理解をめぐって

京都市 古賀達也

はじめに

 会報 No.五九に発表した拙稿「『宇佐八幡宮文書』の九州年号」において、宇佐八幡宮の神祇卜部兼従による『八幡宇佐宮繋三』(一六一七年成立)を紹介し、卜部兼従が九州年号の教到を「筑紫の年号」と認識していた記事を引用した。次の通りだ。

 「文武天皇元年壬辰(ママ)大菩薩震旦より帰り、宇佐の地主北辰と彦山権現、當時〔筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり、〕天竺摩訶陀國より、持来り給ふ如意珠を乞ひ、衆生を済度せんと計り給ふ、」
 ※〔 〕内は細注。

 江戸初期における「九州年号」真作説に立つ文章であるが、引き続き江戸期における「九州年号」真偽論を調査したところ、江戸時代屈指の歴史学者新井白石(一六五七〜一七二五)が九州年号について触れていることを知った。そこで、白石の学問の方法と九州年号に対する理解について紹介することにしたい。


水戸国学批判

新井白石が生まれた年、明暦三年(一六五七)水戸藩では藩主徳川光圀の命により『大日本史』の編纂が開始された。『大日本史』三九七巻は明治三九年(一九〇六)に完成するが、白石はこの編纂事業に当初期待を寄せていた。しかし、その期待は裏切られ、友人の佐久間洞巌宛書簡の中で厳しく批判している(注 1. )

 「水戸でできた『大日本史』などは、定めて国史の誤りを正されることとたのもしく思っていたところ、むかしのことは『日本書紀』『続日本紀』などにまかせきりです。それではとうてい日本の実事はすまぬことと思われます。日本にこそ本は少ないかもしれないが、『後漢書』をはじめ中国の本には日本のことを書いたものがいかにもたくさんあります。また四百年来、日本の外藩だったとも言える朝鮮にも本がある。それを捨てておいて、国史、国史などと言っているのは、おおかた夢のなかで夢を説くようなことです。」(『新井白石全集』第五巻五一八頁)

 日本古代史の真実を見極めるためには『日本書紀』などの国内史料だけではなく、中国や朝鮮などの国外史料も参考にしなければならないという姿勢は、古田武彦氏が中国史書の史料批判により九州王朝説を確立されたのと相通じる学問の方法である。
 さらに白石は『日本書紀』そのものに対しても実証的かつ科学的な批判の目を向けている。

 「神武をもって日本の天皇のはじめとし、国史に書かれていることをよりどころとしても、それはわずかに周の末にあたります。中国では、それ以前に三皇五帝などいろいろあって、泰山に封禅(土を盛って天を祭り地をはらって山川を祭る儀式)した君主が七十二代、うち管仲が聞き及んだのが十代で、孔子はそれより少したくさん引かれたと『史記』の「封禅書」にも書いてありますから、中国でも太古のことは、聖賢もご存じないことがいくらもあるように思われます。
 これをもって考えると、神武以前の日本の神代は、どこまでいっても神代で、聞いたこともないようなことがあるようであります。その証拠には、国史(『続日本紀』)にも書いてあるとおり、能登¥近江¥遠江、そのほかの国国からも、地中から銅鐸を掘り出し、その高さ三尺、さしわたし一尺もあるものがいくらもあります。これはともかく人間の作製したものですが、神代以来、そうしたものをこの国で作ったということは、歴史に書いてありません。してみれば、神代という時代に、それらの道具が入ってきた時代があったにちがいない。
 まして神代などという時代も、よく吟味してみれば、二、三百年も古い時代のように書かれているけれども、実際は中国の周の末、秦のはじめにあたるはずです。要するに、天皇家の血統を立てようとして、それ以前のことは消してしまい、神代、神代とまぎらかしたように思われます。
 してみれば、神社などのたぐいも、わからぬことがいくらもあるように思われますのに、あたかも見てきたことのように断定することは君子としてすべきことではなく、疑いは疑いとして伝えるとする聖人のことばにそむくことになると思います。ただ、少しでも根拠のはっきりしたことをもって追究したいものだと考えているまでのことでございます。」(『新井白石全集』第五巻五六二頁)

 神武以前を神の時代とする『日本書紀』の記述に対して、中国史書との対比や銅鐸の出土という考古学的知見をもって批判を展開する白石の学問の方法と堅実な姿勢は、今日においてなおその学問的意義を失っていないと言わねばならない。これは、自説に不利な考古学的事実を無視したり、論証抜きで夢の中で夢を説くような幻想とは全く異なる学問の方法と姿勢である。


「九州年号」への言及

  こうした白石の学問の方法と慧眼は、「九州年号」にも及んでいた。水戸藩の知人、安積澹泊(たんはく)宛書簡で次のように問い合わせている。

 「朝鮮の『海東諸国紀』という本に本朝の年号と古い時代の出来事などが書かれていますが、この年号はわが国の史書には見えません。しかしながら、寺社仏閣などの縁起や古い系図などに『海東諸国紀』に記された年号が多く残っています。干支などもおおかた合っているので、まったくの荒唐無稽、事実無根とも思われません。この年号について水戸藩の人々はどのように考えておられるのか、詳しく教えていただけないでしょうか。
 その時代は文字使いが未熟であったため、その年号のおおかたは浅はかなもので、それ故に『日本書紀』などに採用されずに削除されたものとも思われます。持統天皇の時代の永昌という年号も残されていますが(那須国造碑)、これなども一層の不審を増すところでございます。」(『新井白石全集』第五巻二八四頁)

 白石が書簡で触れている『海東諸国紀』(一四七一年成立)には次の九州年号と『日本書紀』に見えない記事が記されている(注2. )

 「善化」「発倒」「僧聴」「同要」「貴楽」「結清」「兄弟」「蔵和」「師安」「和僧」「金光」「賢接」「鏡當」「勝照」「端政」「従貴」「煩転」「光元」「定居」「倭京」「仁王」「聖徳」「僧要」「命長」「常色」「白雉」「白鳳」「朱雀」「朱鳥」「大和」「大長」(申叔舟著『海東諸国紀』岩波文庫)

 これらの九州年号を白石は「本朝の年号」と理解しており、『日本書紀』編纂時に採用から漏れたものとする。従って真作説ではあるが、九州王朝の年号、あるいは九州地方で公布された年号という理解までには至っていない。冒頭紹介した卜部兼従の認識とは明らかに異なっている。これは、九州の由緒ある神社宇佐八幡宮の神官と、江戸の学者という立場や地理的歴史的背景の違いからもたらされた認識差ではあるまいか。

 朝鮮の『海東諸国紀』に記されたこれらの年号が国内の寺社縁起や系図に記されており、干支などが一致していることから、白石は真作と見なし、水戸藩の安積澹泊(たんはく)に見解を質したが、残念ながらその返事は『新井白石全集』には収録されていない。

 

おわりに

 水戸藩の『大日本史』を「夢の中で夢を説くようなもの」と批判した佐久間洞巌宛書簡の最後に、白石は次のように記している。

 「とにかく、わたしが死んで百年二百年後の世の人々の公論に身を任せる他はありません。」(『新井白石全集』第五巻五二〇頁)

 新井白石のような時代を代表する歴史家でさえも、現実の世の学問に深く絶望し、自らの著作や学問を後世の人々に託すほか無かった。その白石が没した享保十年(一七二五)から二百年経た大正十五年(一九二六)、古田武彦氏が生まれる。「故村岡典嗣教授の文献学の最良の面の後継者」(注 3. )として古田氏は、白石が抱いた疑問の数々を解き明かすのであるが、日本古代史学界の状況は白石の時代と本質的には何ら変わっていないようである。(二〇〇三年十二月二八日記)

(注)

  1. 本稿での白石書簡現代語訳の多くは、中央公論社刊『日本の名著第十五巻 新井白石』所収桑原武夫訳に拠った。

  2. 『海東諸国紀』には九州年号と共に九州王朝関連記事が記されているが、このことについては別に詳述する予定である。

  3. 家永三郎「日本古代史研究に投じた一石──古田武彦『「邪馬台国」はなかった』」一九七三年『朝日ジャーナル』所収。『新・古代学』第七集(二〇〇四年一月、新泉社)に再録。

 


新・古典批判「二倍年暦の世界」 7

アイヌの二倍年暦

京都市 古賀達也

菅江真澄『えぞのてぶり』の二倍年暦

 今から十年ほど前、和田家文書偽作キャンペーンに反論するため、菅江真澄(注 1. )について調査研究したことがあった。そのおり、菅江真澄が北海道に渡った時の紀行文『えぞのてぶり』に、次のような超高齢のアイヌのことが記されていることを知った。

 「また奥山のトシベツというコタンに住むアヰノで名をコウシといい、歳は百歳を三十ばかり越えているものが、ことし十年ぶりでこの海辺に出てきて、青山氏をわがニシバ(主人、貴人)と頼んで会見したいと、きのうこの役所に来たというのがいた。このコウシの老人(チャチャ)を見ると、いっこうに老(ふ)け、おいぼれたようすはみえなかったが、ただ昔風にウムシヤ(おじぎ作法)をしたり、その人が身につけていた調度の彫刻(テント)も、現今のアヰノらのさまとはおおいに異なっていた。このような世にも稀な高齢の人もあったものかとひとりごとして、このコウシの姿を見まもっていると、ここにいる通訳が言った。
 『アヰノの高齢者は珍しくない。カヤベ(茅部)の浦のポンナヰのウマキというメノコ(女)の歳の数を聞くと、百四十歳になったという』
 シヤバポロは頭がたいそう大きく、腕は細長く、身のたけは四尺にたりないアヰノで、それと、百歳に余る鬚(レキ)も真白な老人とふたりがさしむかいになって、コウシが盃(ツーキ)をあけるとシヤバポロがひさげ(かたくち)をとってついでいる《盃をツーキ、蝦夷の発音は説明しがたく、とても記すことができない、通訳に問うべきである》。」
菅江真澄『えぞのてぶり』(平凡社東洋文庫『菅江真澄旅覧記2』内田武志・宮本常一編訳)

 菅江真澄が北海道で会った、「いっこうに老(ふ)け、おいぼれたようすはみえなかった」百三十歳のアイヌ老人、通訳が「アヰノの高齢者は珍しくない」と紹介した百四十歳の老女など、これら超高齢アイヌは二倍年暦による年齢表記と考えざるを得ない。しかし、菅江真澄も通訳も、それとは知らず、「世にも稀な高齢の人」と認識しているのである。現在のアイヌが二倍年暦を使用しているとは聞いたことはないが、菅江真澄日記によれば、江戸時代のアイヌには二倍年暦が残っていたことになり、日本列島における最も新しい二倍年暦の使用例ではあるまいか。


新井白石『蝦夷志』のアイヌ暦

 江戸時代屈指の歴史家、新井白石(注 2.)の著作に『蝦夷志』がある。その中で北海道のアイヌ(蝦夷)の風俗や文物を紹介し、暦法に関する記述が見える。

 「また文字無し。甲子(干支)を知らず、寒暑を以て年を紀す。虧盈を以て月とする。」(『新井白石全集』)

 この記事によれば、アイヌの暦法は暑期(夏)と寒期(冬)とに分けてそれぞれ一年としていたと理解できよう。同様に月の虧(か)ける期間と盈(み)ちる期間をそれぞれ一ヶ月としていたのであろう。従って、十五日を一ヶ月とし、それの十二ヶ月(一倍年暦の半年)を一年とする暦法のようである。この白石の著作は徳川幕府の公的調査に基づいたものと考えられるが、先の菅江真澄によるアイヌの超高齢表記を理解する上でも、貴重な記録である。
 また、長手漠氏「アイヌ古謡における『二倍年暦』とその考え方─知里真志保著『地名アイヌ語小辞典より』─」(注 3. )によれば、「今のアイヌの古老は我々と同様に一年を四季に分けて考えているが、古くはpaikaru(春)もchuk(秋)も無かったらしく、古い地名や謡もの、語り物の中には春や秋は全く出てこないという。そこではsak(夏)はもっぱらmata(冬)と対立するものとして考えられている」とあり、アイヌの二倍年暦の可能性について言及されている。この内容も白石の記録とよく対応している。
 以上のように、江戸時代までアイヌは二倍年暦を使用していたことは確実と思われるのだが、そうすると彼らの二倍年暦は南洋パラオ起源(古田説)のものが伝播したのか、それとも独自に発生したものか、あるいは大陸から伝播したのかという問題に直面するが、これは二倍年暦研究における今後の重要な課題である。

(注)
  1. 菅江真澄(一七五四〜一八二九)。江戸中期の国学者・紀行家。本名は白井英二。三河の人。東北各地や北海道を四十余年にわたり旅行し、多くの紀行文を残した。和田家文書にも登場する。

  2. 新井白石(一六五七〜一七二五)。江戸中期の朱子学者・政治家。名は君美。幕臣として将軍を補佐した。学者としても優れ、合理性と実証を重んじ、日本古代史に合理的解釈を試み、外国事情にも意を用いた。

  3. 『古田史学の会・北海道ニュース No.4』(一九九五年十二月) 所収。


 これは会報の公開です。史料批判はやがて発表される、『新・古代学』第八集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)八集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に送ります。)
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