神代と人代の相似形II もうひとつの海幸・山幸 西村秀己(『古代に真実を求めて』第十八集)
神代と人代の相似形
向日市 西村秀己
記紀における神代の説話は伊奘諾・伊奘冉から彦火火出見までの五代に限られる。この間「天皇家」直系の説話の主人公といえば、次の七名である。
(1) 伊奘諾
(2) 伊奘冉
(3) 天照
(4) 素戔嗚
(5) 忍穂耳
(6) 瓊瓊杵
(7) 彦火火出見(山幸)
ところが、ご存知だったろうか。上記七名及びその周辺を彩る神々が形作る説話と同様のモチーフを持った説話が人代にも存在するのである。しかも、まったく同じ順序すなわち同じ構造を持って、である。
まずは、系図をご覧戴こう。A群は先の神代の五代。B群は垂仁から仁徳までの六代である。勿論、系図はそれぞれ省略してある。その省略の方法が恣意的である、とのご批判もあるかもしれない。だが、確たる説話を持った人物の省略は行っていないことをご確認戴きたい。
では、その比較を始めよう。まず、若い世代から行いたい。
A群の彦火火出見(山幸)とB群の仁徳である。彼らは共に長子でないにもかかわらず、結果として長子を打倒する。但し、権力の継承にはこれは常態というべきものなので、ここは偶然の一致という可能性もあることを認識しておこう。
その父親はA群の瓊瓊杵とB群の応神である。彼らは最初に説話に登場した時、共に「赤ん坊」であった。
その「赤ん坊」を抱いていた母親はA群の萬幡姫とB群の神功である。神功と応神の「母子像」は周知のことであろうが、萬幡姫は?というむきには日本書紀の次の文章をご確認戴こう。
則ち高皇産靈尊の女、號は萬幡姫を以て天忍穂耳尊に配せて妃として降しまつらしめたまふ。(紀第九段第二一書
萬幡姫が「天孫降臨」の予定者であったことはご確認戴けたと思う。詳しくは拙著「天孫降臨の詳察」(「古代に真実を求めて」第五集・会報四五号)をご笑覧戴きたい。萬幡姫が八幡の比売大神、或いは香椎の宮の女王であるかどうかは一旦置くとして、少なくとも彼女が幼い瓊瓊杵と共に天降ったこと、これは疑い得ない。
さて、こうした母子には協力者が必要だ。A群の思兼とB群の武内宿禰である。武内宿禰に関しては言うを待たないであろう。問題は思兼である。
思金神は、前の事を取り持ちて、政為よ。(記)
古事記によれば思兼は北部九州占領軍の司政官である。
では、この母子の征服者という状況を作り出した原因は何であろうか。それは彼ら母子の夫でもあり父親でもある人物の途中退場である。それがA群の忍穂耳とB群の仲哀だ。忍穂耳は生別、仲哀は死別、そして、忍穂耳は子供の誕生後、仲哀は子供の誕生前という差異はあるものの、彼らが歴史から姿を消したことで、今まで縷々述べてきたことが発生する。とすれば、ここまでの類似は偶然の一致であるかもしれない。白状させて戴くなら、私は「天孫降臨の詳察」の発表以降三年弱そう思い込んでいた。ところが、この途中退場者たちの父親に思いを馳せる時、この思い込みは一変する。
彼らの父親はA群の素戔嗚とB群の日本武尊である。この両名は共に記紀説話のスーパーヒーローだ。記紀に題材をとったアニメや冒険活劇映画が作られるなら(現に作られているが)その主人公は彼らの二人に措いてない。彼らの共通点はそれだけではない。素戔嗚は母を思って泣き叫び、乱暴を働いて天照から忌避される。そして草薙剣の発見者である。日本武尊は我が身の不運を呪って泣き、乱暴者ゆえ景行から忌避される。そして草薙剣の行使者である。
次は、彼らの近親者になる。素戔嗚の姉であり妻であるA群の天照と日本武尊の叔母であるB群の倭姫だ。彼女たちは何れも祭祀者であり草薙剣の授与者である。(ここでの一世代の違いは後述する)
彼女たちの父親A群の伊奘諾とB群の垂仁はどちらも別れた妻を連れ戻しに行って果たせず帰る役割を担っている。しかも彼らがその目的を果たせない理由は「腐っていた」からである。
伊奘諾尊、・・・見しかば、膿沸き蟲流る。(紀神代第五段第六一書)
宇士多加禮許呂呂岐弖(記) ・・・亦玉の緒を腐して、・・・且酒以ちて御衣を腐し、・・・(垂仁記)
では彼らの妻に注目しよう。A群は伊奘冉、B群は狭穂姫である。彼女たちの死因は「焼死」である。例えば古事記で死亡の状況を確認できるのは四十一名だが、内「焼死」は三名だけである。(その内の一名は狭穂姫の兄である狭穂彦だから、結果としては唯二の例がここで一致する)さらに彼女たちの長子を考えればその共通点は瞭然だ。伊奘冉の長子は蛭兒であり、狭穂姫の長子は誉津別である。彼らは共に障害を持って生まれ、それが故に各々父親の後継者になることができなかった。
さて、何故記紀にはこのような相似形が存在するのだろうか。記紀説話及び系譜の造作説論者が聞けば大喜びしそうな内容だ。だが、彼らがかつてこのような指摘を行ったことを、少なくとも筆者は知らない。また、筆者はこれら造作説に与するものではない。何故なら、少なくとも当時の日本人にとってその直接の先祖は「神」だったからである。彼らにとってその先祖神の系図を加工することは、余程の例を除いては、考えられない行為である。そもそも造作説のみならず、日本古代史学会には往々にしてこうした系図加工説が罷り通る。被征服王朝の王者たちを征服王朝の先祖にする(三王朝交代説)とか、対立していた王朝の王者を兄弟にする(安閑・宣化・欽明の二王朝並立説)などである。それらの立論者に是非うかがいたい。記紀の編纂者たちは何故そんなことをする必要があったのか、と。記紀の記述の矛盾から、そうした発想を得ることは重要なことかもしれないが、その際欠くべからざる論証は、「何故記紀はこう記述したのか?」なのである。
閑話休題。記紀にこのような相似形が存在する理由は次の四点である。
(1).偶然の一致
(2).A群がB群に影響を与えた
(3).B群がA群に影響を与えた
(4).喪われたX書がABに影響を与えた
以上である。
まずは(1).であるが、ここまでの相似は偶然の一致とは思えない。次に(4).だが、可能性はゼロではないにしても現段階では論証不能である。(3).は大和朝廷に先在する日本書紀の一書群を説明できない。従って、残るは(2).なのである。
では、A群の説話を基にB群の説話が造作されたのだろうか。B群の王者たちは実在するわけだから、その実在の王者たちに説話がなかったことは信じ難い。しかも、景行での一代格差がある。すべての説話が造作であるならば、景行とその妻に垂仁と狭穂姫の役割を与えればいい筈だが、そうはなっていない。とするならば、B群の説話は現実のものだがA群のイメージで装飾された、とすることが一番納得できる解釈ではあるまいか。
しかも、この説話の装飾者は「景行での一代格差」を忸怩たる思いでいたと思われる。それは両道入姫の存在に現れる。日本書紀では両道入姫はこう記される。
(垂仁紀)記載なし
(景行紀)初め、日本武尊、両道入姫皇女を娶して妃として
(仲哀紀)母の皇后をば両道入姫命と曰す。活目入彦五十狭茅天皇の女なり
仲哀はこうして両道入姫を介して垂仁の孫となるのである。ところが、その前の景行紀にも垂仁紀にも両道入姫と垂仁の関係は明示されない。両道入姫が垂仁の娘と認定されるのは仲哀紀が最初なのである。では、古事記ではどうか。
(垂仁記)伊久米伊理毘古伊佐知命、(中略)生みませる御子、石衝別王。石衝毘賣命、亦の名は布多遅能伊理毘賣命。
(景行記)倭建命、伊玖米天皇の女、布多遅能伊理毘賣命(布より下の八字は音を以ゐよ)を娶して、生みませる御子、帯中津日子命。
「亦の名」が疑わしいのは言うまでもないが。初出の垂仁記にではなく、景行記にその名の訓注があるのは何故だろうか。ここで両道入姫はそもそも垂仁の娘ではなかったのではなかろうか、という疑問が根ざしてくるのである。垂仁の娘ではなかった両道入姫を垂仁の娘にすることで、B群は景行をスルーしてА群と一致するのである。
では、何故B群はA群を以って装飾されなければならなかったのだろうか。この理由を筆者は未だに思い悩んでいる。現時点で唯ひとつ浮かんでいる考えは、 近畿天皇家は瓊瓊杵や彦火火出見の血を受け継いではないのではないか。或いは受け継いでいると公式に(九州王朝から)認定されていなかったのではないか。
というものである。先に述べた系譜造作の可能性がある例として、開祖の系譜を貴種に接続する、というものがある。例えば「家康の先祖が新田義貞」の類だ。一族の記憶と記録の途絶えた先を自家よりも勢力のある血統に接続することは十分にありうることである。つまり近畿天皇家とすれば開祖である神武の父親が不明であった。であるために、神武を天孫族の後裔とし、これをさらに主張するために神代の説話で己の系譜を飾ったのでああるまいか。
しかしながら、これ以外にも可能性のある答えがあるならば、筆者としては受け入れるに吝かではない。是非とも反論なりサゼスチョンをお待ちする。
(追記)従来より日本武尊の英雄説話は数人の英雄たちの寄せ集めであるとの説が有力である。筆者もそれに賛同する一人である。しかしながら、では何故その寄せ集められた英雄たちがここ(仲哀の父親)に会するのか。それを説明できた論者は実は一人もいない。ところが、この神代の相似形の論理を使えば明白なのだ。素戔嗚の位置に当てはめただけなのだから。
さらに、新撰姓氏禄において武内宿禰が何故か後裔氏族を輩出しているが、それは彼が思兼の位置に当たっているからではないだろうか。九州王朝の皇別一族が九州王朝滅亡後己がアイデンテティを何れに求めるのか。これは今後の研究課題でもある。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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