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よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞 角川選書 謎の歴史空間をときあかす

第二章 邪馬一国から九州王朝へ

IV倭の五王の史料批判

古田武彦

 昭和五十六年三月一日、午前一時すぎ、天啓がおとずれた。 ーー突如、音もなく。
 わたしは一月来の、倭の五王をめぐる再吟味の論稿に没頭していた。あの第二書『失われた九州王朝』以来、はじめて本格的にとりくみはじめ、次々と新しい局面にぶっつかっていた。そして二月二十八日を越えた深夜、論証の“新しい声”をついに聞いたのである。それは「衙頭」の一語だった。
 この問題に立ち入る前に、わたしにとっての“倭の五王への問い”、そのポイントを要約しておきたい。
 『宋書そうじょ』倭国伝、そこには倭国に讃さん・珍ちん・済せい・興こう・武の五王があり、彼等は建康(けんこう 今の南京)に都している南朝劉宋(りゅうそう)に朝貢していた。そして種々の称号(安東大将軍等)が中国(宋)の天子から与えられたことが記述されている。この『宋書』の著者の沈約(しんやく 〜五一三、梁りょう)は、宋代にはすでに尚書度支郎(しょうしょたくしろう)をつとめていた官僚だ。だから彼の書いた『宋書』は、西晋の陳寿が書いた『三国志』と同様に、同時代史料として絶大の史料価値をもつ。
 では、肝心の彼等、倭の五王とは何者か。津田左右吉の命題をうけ入れた戦後史学にとって、このテーマは切実だった。なぜなら“記・紀の神話・説話は、史実にあらぬ、架空の「造作」”という津田命題に従えば、記・紀の説話類は、そのままでは史実として使えない。そこで絶好の“支え”として登場させられたのが、この「倭の五王=近畿天皇家」の等式だった。江戸時代前期の松下見林の『異称日本伝いしょうにほんでん』以来の等式証明がそのために利用された。
 「讃、履中(りちゅう)天皇の諱(いみな)、去来穂別(いさほわけ)の訓を略す」
 「珍、反正天皇の諱、 瑞歯別(みずはわけ)、瑞・珍の字形似る。故に訛(なま)りて珍と曰ふ」
の類だ。そして「珍=反正」「済=允恭(いんぎょう)」「興=安康(あんこう)」「武=雄略(ゆうりゃく)」の四者はほぼ確実、と考えられたのである。その上で、“これらの「天皇」は、ワン・セットとして見れば、倭の五王と対応するから、実在であるぞれゆえ日本列島の五世紀の歴史は、これらの天皇を「権力中心」として記述することが可能である。”そのように説きはじめたのだ(たとえば井上光貞『日本国家の起源』岩波新書、昭和三十五年)。そしてこのような見地によってすべての戦後教科書は作られ、現在に至っているのである。
 しかしわたしは、わたしの方法でこれを再吟味してみた。すると、数々の不審が現われた。第一に、『宋書』の中の夷蛮伝では「(磐*達国)舎利不陵伽跋摩」(『宋書』九十七)といった風に、七音と美音漢字を使って表記されている。見林が唱え、戦後史学が従ったような、あの粗放な“一字あるいは一音だけの抜き取り書き”などは存在しない。

磐*の石の代わりに女。

 第二に、『宋書』の中の夷蛮の国(高句麗・百済)では、これらの国の王は「高漣*こうれん」「余映よえい」といった中国風の一字の姓と一字の名、つまり中国風一字名称で記されている。これらの国々は先の磐*達国などと異なり、中国文化との接触や国交の歴史も古い。従って中国風一字名称を名乗って朝貢した、そう見なすのが至当である。倭国も同じだ。志賀島の金印、卑弥呼の遣使等の歴史的経緯をへているので、あるから中国風一字名称を名乗って朝貢した、そう見なすのが至当である。

高漣*(こうれん)の漣*は、三水偏の代わりに王。JIS第3水準、ユニコード7489

 以上によって見林より現在の戦後史学に至る、“立証の主たる根拠”は否定された。『失われた九州王朝』以来、これに対する反論を見ない。見ないままで依然「倭の五王=近畿天皇家」の等式は“健在”であり、“学界の常識”であるかのように、学者たちは“振る舞っている”のだ。

 第三に、五王の中でもっとも確実とされた比定「武=雄略」説にも、致命的な欠陥が二つある。
 その一は、『宋書』には倭国伝以前に九個の倭国記事(帝紀)があり、その七・八・九番目は次のようである。

 (七)(大明たいめい六年、三月、四六二、孝武こうぶ帝)
  『壬寅、倭国王の世子、を以て安東将軍と為す』
 (八)(昇明しょうめい元年、四七七、順じゅん帝)
  『冬十一月己酉、倭国、使を遣わして方物を献ず』
 (九)(昇明二年、四七八、順帝)
  『五月戊午、倭国王、使を遣わして方物を献ず。武を以て安東大将軍と為す』

宋書 順帝紀 よみがえる九州王朝 古田武彦

 右を見た中国側(建康を中心とする)の読者は、(八)の「昇明元年」時における倭王を誰と思うだろう。直前の(七)の「大明六年」の記事の倭王は興である。とすれば、当然項目の列次として直後の「昇明元年」時の倭王も興と見なす他はない。まかりまちがっても、次の(九)の「昇明二年」に初見(帝紀、倭国伝とも)の武を、逆に“遡らせ”て、「昇明元年」時の倭王だなどと考える、中国の読者は一人もいないであろう。書物は前から後へ読むものだからだ。すなわち『宋書』は読者によってそのように理解されるように叙述されている。
 しかしそのように自然な、否、必然的な理解をするとき、「武=雄略」説は成立しえない。なぜなら雄略の在位年代は「四五六〜四七九」(『日本書紀』)であり、“四七八年時より後の即位”では、到底妥当しえないからである。
 その二は、有名な、『梁書りょうしょ』の武への授号記事である。
 「(天監てんかん元年、五〇二、武帝)鎮東(ちんとう)大将軍倭王武を征東(せいとう)将軍に進号せしむ」(武帝紀中)
 「高祖即位し、武を進めて征東将軍と号せしむ」(倭伝)
 これをもってしても、「武=雄略」説は成立しえない。なぜなら雄略は四七九年で没し、右の五〇二年までには「清寧 ーー 顕宗 ーー 仁賢 ーー 武烈」の四人の天皇が在位しているはずだからである。この明白な矛盾に対して、かつて“良心的な”学者たちはいったん問題を“保留”した(たとえば藤間正大とうませいた『倭の五王』岩波新書、昭和四十三年)。けれども、その“保留”からすでに十余年たった。しかるに依然、核心をなすべき矛盾を“保留”したままで、“「武=雄略」という結論だけは動かない”かのごとく“振る舞いつづける”とは。わたしには理解できない。ことが日本古代史の根幹をなす問題だけに、学問上遺憾の極みといわざるをえないであろう(この問題につき、精しくは古田「多元的古代の成立」 ーー「史学雑誌」九 ーー 一七所載、『多元的古代の成立 ーー邪馬壹国の方法』京都駸々堂刊所収、参照)。
 以上は「倭の五王=近畿天皇家」を否定する論証だ。これに対してわたしの提唱する「倭の五王=九州王朝」を肯定する論証は何か。それが次の第四・第五の二点だった。

 第四に、倭王武の上表文は「、下愚なりと雖(いえど)も、・・・が亡考済、・・・」とあるように、建康なる宋の天子を中心とし、自己(倭王)を「臣」とする、大義名分の立場で書かれている。すなわち、自己を「東」の立場においている。当然ながら倭国伝は「蛮伝(列伝第五十七)」に属しているのである。従って「東は毛人を征すること五十五国、西は衆を服すること六十六国」と書いている、その「衆夷」とは、自己の周辺の倭人をさしている。とすると、自己は九州、「毛人」は瀬戸内海周辺とするとき、大義名分に合した理解をえられる。これに反し、旧説のように“自己(近畿)を中心にして、西(九州)を「衆夷」、東(関東)を「毛人」”というのでは、自己を「天子」の位置においた夷蛮称呼を行っているということとなり、右の大義名分上の論理性と全く矛盾する。
 第五に、「渡りて海北を平ぐること九十五国」という表現も、九州(筑紫)を原点とするとき、ピッタリ適合する。これに対し、近畿天皇家は記・紀において朝鮮半島南半を指すとき、いつも「海西」の表現を使っている(『日本書紀』の神代〈第六段、一書、第三〉中の「海北道中」もまた、「筑紫」を原点とする表記である)。
 以上がわたしの「倭の五王=九州王朝」論のポイントだった。そしてこれに対しては、明確かつ有効な反論をいまだ見ないのである。そして見ないまま黙殺する。これが学界大多数のルールであるらしかった(数少ない反論については、右の論文参照)。

 そこでわたしはさらに決定的な一歩をすすめようとした。そのような模索の末、ついに三月一目の払暁をむかえたのである。
 ことの発端は中国風称号問題だった。先にものべたように、この倭の五王たちは盛んに中国の天子から与えられる将軍号をほしがっている。また与えられぬままに自称している。そしてその追認を中国側に“せびって”いる。まさに東アジアの政治世界は中国の天子を中心に回転していたのである。
 〔授与〕「(世子興)宜(よろ)しく爵号を授くべく、安東将軍・倭国王とす可し」
 〔自称〕「(武)興死して弟武立ち、自ら使持節・都督、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称す」
 〔追認〕「(武)詔して武を使持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に除す」

宋書 倭国伝 よみがえる九州王朝 古田武彦

 以上の事実から記・紀をふりかえってみると、見やすい不審がある。倭の五王にあてられた“候補者”たる「応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略」の各天皇の記事を見ても、中国への朝貢外交はもとより、右のような称号は全く見出すことができないのである。
 これは戦後史学で採用されてきた古代史学の研究法から見ると、かなり奇妙なことである。なぜなら戦後史学の研究者は次のように考えてきた。
 (一)記.紀の神話・説話は、それ自身を史実として使うことはできない(先の津田命題による)。
 (二)しかしながら記・紀説話に出てくる人名・地名・術語(官職名等)などは、これに対して適切な処理を行うならば、古代史上の史実を論定する上で使用することができる。
 戦後史学界に蓄積された尨大な研究論文、それはまた(二)を基点としたものであった、といっていい。たとえば、研究史上著名な、
 井上光貞「国造制の成立」 ーー 「史学雑誌」六〇 ー 一一、昭和二十六年十一月
 上田正昭「国県制の実態とその本質」 ーー 「歴史学研究」二三〇、昭和三十四年六月
等の諸篇はもとより、そのあとを継いだ大学内の学者の学術誌や大学内紀要発表論文の大半は、この手法に立ったものだったのである(直木孝次郎氏は、この手法〈分布法〉について、「大化前代の研究法について ーー記紀批判をめぐる諸問題」〈「史学雑誌」六四 ーー 一〇、昭和三十年十月、『日本古代国家の構造』青木書店刊、収録〉で論述された)。
 これは一面からいえば、“もっとも”なことだ。なぜならもしこの手法が学問上拒否されたとしたならば、結局“記・紀は史料として使えない”。そういうことを意味するであろうから。となると、古代史学においては(国内の史料にもとづく)文献学はほぼ“成立できない”こととなってしまうほかないのである。
 逆に、右のような手法上の活路がいったん開かれたとき、大学の学者及びその後続者たちにとって論文作製の可能性は飛躍的に増大する。なぜならそこ(記・紀)にちりばめられた単語群(人名・地名・術語等)に対し、これらをいかに統計し、いかに処理し、いかなる年代と領域に配置するか、そこに論文大量作製の秘密、いいかえれば“腕のふるいよう”が、いわば“無限”に開かれるからである。
 けれども、今この手法を静視するとき、これはいかにも“不審”なことである。その理由は次のようだ。
 右の(一)と(二)の両命題を総括してみよう。すると、津田史学によって“六〜八世紀の史官たち”とされる、彼等「造作者」たちは“真実(リアル)な単語(人名・地名・術語等)を使って、架空(ファンタスティック)な文脈(神話・説話等)を創作した”こととなる。こんなことが本当にあるのだろうか。では、それらの単語はどのような形で、過去から彼等「造作者」へと“伝えられてきた”のであろうか。“いかなる文脈もなしに、ただ単語だけが「伝世」して六〜八世紀に至る”。そんなことが現実的に考えうるであろうか。いいかえれば、彼等六〜八世紀の史官は、前代までの官職名や固有名詞を「単語帳」のような形でやみくもに暗記してきていたのであろうか。
 わたしには率直にいって、右のような状況は“絵空事”としか思えない。机の上では“仮設”できても、現実の人間の歴史の上ではおこりえぬ“虚妄”にすぎぬのではあるまいか。しかし戦後史学は、まさにその“虚妄に賭(か)けてきた”のであった。

 さて本題にもどろう。
 右の(二)がしめすように、“単語は真実(リアル)だ”という仮説、戦後史学が一応承認してきた命題からすると、ここに史実性の明白な「中国風称号」が一切現われていないことは不審だ。“中国(宋朝)への、たび重なる朝貢遣使の記事がない”。これは(一)のテーマから“当然”としても、一方の真実(リアル)なるべき単語群に、全くその気(け)もない、これはいかにも不審なのである 。
 “「中国から授号された」などということを、六〜八世紀の史官は快しとしなかったのだ”などといってみても、それは道理に合わないであろう。なぜなら“文脈(説話)はもともと「造作」のはず”なのだから、“近畿の天皇たち自身が(中国の天子に比肩すべき)将軍号をみずから部下に授与していた”。そういう形の文脈(説話)を創作すれば、それでよいはずなのである。もし何なら“近畿の天皇が中国の天子に対して将軍号を授与した”という形に、逆転させることすら、可能であろう。どうせ机の上の手加減による「造作」のはずなのだから、これは簡単な作業だ。事実、

 「(雄略六年)夏四月、呉国、使を遣わして貢献す」(雄略紀)

という風に、中国側が近畿の天皇に「朝貢」してきた、という記事が「造作」されている。このような状況から見ると、中国風称号が一切記・紀の「応神・・・雄略」間に姿を見せない、この事実は「倭の五王=近畿天皇家」という図式からは、不可解なのである。
 では、五世紀前後の日本列島には、中国風称号の痕跡(こんせき)が果してないのか。 ーーそういう問いを発してみよう。その答えは、意外にも「イエス」である。
 「筑後国風土記曰、上妻県(かみつやめのあがた)、県の南二里、筑紫君磐井(いわい)の墓墳(はか)有り。・・・東北角に当り、一別区有り。号して衙頭(がとう)と曰(い)う。衙頭は政所なり」
 有名な『筑後国風土記』の磐井の記事だ。ここに「衙頭」という用語が出ている。これは明らかに漢語である。“和風用語を漢字表記した”ものではない。どの風土記の本でも「がとう」という音読みであり、訓読みにしたものはない。つまりこの筑紫の国では、「政所」に当る中央官庁を漢語で呼んでいた。そのことが証明される。
 実はこのような徴証は、現在の地名にも遺存している。
 「太宰府 ーー 周船すせんじ 旧糸島郡。現在は福岡市)」
がこれだ。太宰府は『宋書』に出現する官職名である。
 「大明六年(四六二)司徒府を解く。太宰府は旧(もと)の辟召(へきしよう 任官)に依る」(『宋書』武三王伝。江夏文献王義恭)

宋書 武三王伝 よみがえる九州王朝 古田武彦

 しかもここでは「大」でなく「太」である。福岡県の現地でも、「太」を使っている(太宰府町)。そして教育委員会など、学者側の表示板等が「大」(『日本書紀』による)を“正統の表記”として使用しているのと、“対立”しているのである。すなわち現地ではまさに「『宋書』の表記法」を現在に“遺存”させているのだ。
 「周船寺」の「寺」も、「てら」ではなく、中国における小官庁の称呼としての「寺」である。たとえば、
 「東山之を窺(うかが)えば、則ち壊*宝(かいほう)、目に溢(あふ)れ、・・・・・列七里、陽路に侠棟(きょうとう)す」(西晋、左思さし〈太沖たいちゅう〉、「三都賦さんとのふ」呉都賦、『文選』巻第五)
とある、その「寺」なのである。

壊*宝(かいほう)は、土偏の代わりに王。

 従って筑紫の現地では、かっての、南朝劉宋(五世紀の宋)の中国風術語、宋朝風表記が今もなお使いつづけられているのである(『邪馬一国への道標』第四章「太宰府の素性」参照)。
 右のような状況から見ると、“日本列島においては、近畿では和風術語、九州では中国風術語が用いられていた”。この命題がえられる(もちろん、九州には和風術語もまた存したこと、『筑後国風土記』に「解部ときべ」をあげるごとくである)。
 では、中国風称号を愛好した「倭の五王」とは。この問いを右の命題と対応させると、ここにもまた「倭の五王=九州(筑紫)の王者」という、強い方向指示器がえられるであろう。そこから、わたしはさらにもう一歩、断崖(だんがい)を攀(よ)じ登った。

 ふたたび「衙頭」の語義を追跡していた。“ふたたび”といったのは、『失われた九州王朝』のときにも、すでに調べたことがあったからである。諸橋の『漢和大辞典』では、

 「衙。〈ガ・ゲ〉(1).つかさ。やくしょ。(2).唐代、天子の居処。(3).まゐる。あつまる。(4).兵営。(5).ならび。(6).へや。(7).地名(彭衙ほうが)。(8).姓。〈ギョ・ゴ〉(1).行くさま。(2).県名。(3).姓。・(1).とどめる」

とあった。「頭」はもちろん“ほとり”の意である。だから「衙」を「やくしょ」の意ととれば、「衙頭」は“役所のほとり”の意となって、何の他奇もない。わたしの前回の追究はここでストップしていたようである。
 もう一つ、わたしの中に「先入観」があった。「国衙こくが」「郡衙ぐんが」といった用語だ。高校の日本史の教科書にも出てくる術語である。いずれも“諸国や諸郡に設置された役所”をしめす。この頭があったから、右の「衙」の語解を見て、「あっ、やっぱり『やくしょ』の意味だな」で、ストップしたのである。
 けれども今度はちがっていた。ただ風土記の一文を“解釈”あるいは“通意”しようとしたのではない。“中国風称号を極度に愛好した「倭の五王」、彼等は日本列島の中のどこかにその痕跡を残していないのか”“近畿天皇家の記・紀にその痕跡がないとしたら、「筑紫の君」の方はどうか”。そういう問いを、前以上に鮮明な導火線として蔵していたから、先のような、一応の語解では満足しなかった。
 “なぜ、磐井のような「筑紫の君」は、このような奇妙な中国風名称を使ったのだろう。当然、それは「中国からの模倣」のはずだが、中国側の用法は、六世紀初頭以前において、どんなものだったのだろう”
 そういった問題意識に導かれつつ、「衙」をふくむ用語例を一つ一つ、吟味していったのだ。ところが、
 「衙門。本、牙門の訛」(『咳*余叢考がよそうこう』衙門)とあるところから、探索の手を「牙」にひろげた。そして、
 「牙門がもん牙旗を立てる門、即ち大将軍の軍門」

という語義を見出したのである。その用例として、
 「其の牙門を抜く」(『後漢書』衰紹えんしよう伝)があり、さらに、

 「公府を称して公牙と為し、府門牙門と為す」(『封氏聞見記ほうしぶんけんき』)

を見出した。それに右の「牙旗がき」には、見覚えがあった。

 「裹(つつ)むに帷幕(いばく)を以てし、上に牙旗を建つ」(『三国志』呉志周瑜伝)

 おなじみの『三国志』の中の赤壁の戦。その戦闘開始の直前の場面にこの術語が用いられていたのである。
 このとき火船の計を抱いて北岸(魏軍)に接近した黄蓋は将軍、その上にいる周瑜は大将軍である。彼等のシンボルをなす旗、それが右の「牙旗」だった。周瑜の部将たる黄蓋が降服するかに見せかけて接近をはかる、その詭計(きけい)に使われたのがこの「牙旗」だったのである。

咳*は、口偏の代わりに阜偏。ユニコード9654

 その「牙旗」が平常立てられているのが、「牙門」であった。それは「大将軍の軍門」を意味し、「府門」とも称された、というのだ。大将軍は自己の軍営について、「府」を称することが多かった。「開府儀同三司ぎどうさんし」という「開府」とは、自己の本営を「府」と称した、ということである。倭王がこの「開府儀同三司」を“自称”していたことは、明白だ。
「竊(ひそ)かに自ら開府儀同三司を仮し、其の余は咸(み)な仮授して、以て忠節を勧む」(『宋書』倭国伝、倭王武の上表文)
とすると、倭王武の本営は「〜府」と称せられていた。そしてその「府門」(=牙門)には、「牙旗」がひるがえっていた、そういうこととなろう。
 そして肝心のこと、それは固題の『宋書』「倭の五王」の記事を掲載した、あの『宋書』の中に次の記事が見出されることだ。
 「牙門の将。銀章・青綬(せいじゅ)・朝服・武冠」(『宋書』礼志五)
 また『晋書』では、
 「衙門の将、李高(りこう)・・・臣、衙門将軍、馬潜。(『晋書』王濬おうしゅん伝)
として、「衙門」が用いられている。
 すなわち、周瑜が「大将軍」として、配下の黄蓋を「牙門の将」としてひきいていたのと同様、倭の五王(たとえば倭王武)も、「安東大将軍」として、「牙門(=衙門)の将」を配下に有していたことは確実である。そしてこの「牙」は「衙」とも書くのであるから、倭王武は、自己の本営を「衙」と称していたこととなろう。
 論じてここに至れば、それが日本列島内の誰であるかは明瞭(みいりょう)だ。みずからの墓所を「衙頭」と称せしめた「筑紫の君」以外にない。すなわち「倭の五王=九州王朝」 ーーこの命題は、今やまがうかたなき明瞭な証明をえたのである。

 ーーディアロゴス(対話)
「これはハッキリした証明ですね。わたしも『失われた九州王朝』を読んだとき、なるほど、倭の五王を近畿の天皇に結びつけてきた、従来の証明法が成り立たないのは、分るけど、逆に倭の五王が九州王朝だ、という、積極的な証明の方がもう一つ、と思っていたんですが、これでハッキリした、という感じがします。今まで通り、『倭の五王は近畿天皇家だ』という学者は、是非この問題に反論してほしいですね」
古田「その通りだね」
「実はわたしも、『衙』というと、『国衙』『郡衙』の『衙』だと思ってきたんですが、あの『国衙』『郡衙』というのは、どういう由来で、日本で使われるようになったのですか」
古田「あれは奈良・平安以降の用法のようだね。いいかえれば、七世紀以降の唐(とう)朝と、同時代もしくはそれ以降の用法だ。つまり唐代の用法の反映と考えるのが筋だろう。とすると、先にあげたように、唐代の用法として『天子の居処』の意味で、
『衙、唐制、宣政前殿也、之を衙と謂い、衙に仗(じょう)有り』(『正字通せいじつう』)
『天子の居、衙と曰う』(『唐書とうじょ』儀衛志)
といった用例が注目されるね。この用法を原点 として、“諸国・諸郡の役所”を『国衙』『郡衙』と呼んでいるものと思われるんだ。
 ところが、問題の『筑後国風土記』の『衙頭』(衙のほとり)の『衙』は、少なくとも“六世紀初頭以前”の用例だから、この唐朝の用法をもととして理解してはならない。この自明の道理をわたしたちは、先入観に災いされて、見失っていたようだね。
 この点、『宋書』の著者沈約は、六世紀の十年代(五一三)に没した人だから、同じく六世紀の初頭(五三一。『日本書紀』では、五二八とする。『失われた九州王朝』第四章I 参照)に没した磐井とは、ほぼ同時代の人物だ。従って『筑後国風土記』の『衙頭』を後代の『国衙』や『郡衙』の語義からではなく、同時代ないし前代の『宋書』や『晋書』(成立は唐代)、『三国志』等の用法に拠(よ)って理解する。それは当然のことであったわけだよね」
「倭王武のことは『南斉書なんせいしょ』にも出ていますね」
古田「そうだ。『大将軍』間題は、『南斉書』も『宋書』も同一だよ。『建元けんげん元年(四七九)、進めて新たに使持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・(慕韓)六国諸軍事、安東大将軍、倭王武に除せしむ。号して鎮東大将軍と為せしむ』(『南斉書』倭国伝)だね。この『南斉書』の著者、蕭子顕(しょうしけん)は、『〜五三七』の人だから、まさに磐井の直後といっていい時期に死んでいる。いいかえれば、磐井は“『宋書』の著者と『南斉書』の著者との間”に生きていた、そういうことになるわけだ。
 その両者に出てくる『大将軍』の称をもつ倭王武。その本拠を、この時代の『牙(=衙)』の用法によって理解する。それが当然の史料理解の筋道ではないだろうか。先入観に固執し、明らかな道理に目をふさがない限り、ね」
「そうですね」


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