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古田武彦
全くちがった角度から、同じ感慨をわたしにいだかせたもの、ーーそれは文字だ。
従来多くの古代史の学者は言ってきた、“わが国で文字を認識したのは、五、六世紀以降のことだ”と。
しかし、この認識は全く史料事実にあっていない。なぜなら、三世紀の倭人伝に、有名な魏の明帝の詔書がのっている。卑弥呼に与えたものだ。
「親魏倭王卑弥呼に制詔す。・・・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以って汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむ可し。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。
これを倭国側は読めなかったのだろうか。それでは猫に小判を与えるように、中国側は“全く無意味な行為”をしたことになろう。
そんなことはない。当然読めたのだ。すなわち、倭国側には文字解読能力があり、中国側はそのことを知っていたのである。それだけではない。右に「録受」の語がある。つまり、中国側は倭国側が記録してうけとることを要求し、その実行を期待しているのだ。つまり“倭国に文字を書く能力あり”と認めているのである。
このことは、次の項によっても裏づけされる。
(正始元年)倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。
明らかに卑弥呼は上表文を呈していたのだ。もし、かりに中国側に“保存方法”があり、これら「夷蛮の王」の上表文にもその方法が適用されていたとしたら、どこか中国の天子の陵などにともなう地下埋蔵施設の中から、“卑弥呼の名が署名された倭国の上表文”が出土する可能性も絶無とはいえない。ちょうどあの馬王堆の墓の場合のように。
こんなありそうもない僥倖に頼る議論よりも、もっと確かな徴証がある。それは左の一句だ。
○古より以来、其の使中国に詣るや、皆自ら大夫と称す。(倭人伝)
倭国の使節はみずから「大夫」と名乗っていたというのだ。これは果して「口誦」にすぎぬものだろうか。この中国の周代に由来する官名を、口うつしよろしく「タイフ」と発声していたにすぎぬのだろうか。そんな想像はあまりにも奇矯、あまりにも不自然だ。当然、難升米らの倭人(倭国の朝廷の代々の官僚)は「タイフ」と名乗るとき、この字面(大夫)を知っていたのである。想像すら要しない、これは単純な事実だ。
従来の論者が行ってきた“巧妙な”説明法を検討してみよう。
彼らは言ってきた。“魏の天子の詔勅を読んだのは、渡来人(「帰化人」)だ。倭人自体は、やはり文盲だったのだ”と。「渡来人」という概念導入によって、「五、六世紀以降文字使用」説を守ろうとするのである。これは一見巧みな概念操作だ。しかし、この概念操作の実体は実は虚妄だ。そのことをわたしが明確に確認したのは、この本の中のマラー論文にふれた時だった。このマラー氏とエバンス氏との間の激烈な論争、これについてはあとがきに書く。マラー氏自身は、必ずしも新・旧大陸間の交流否定論者ではないのだが、エバンス夫妻らの提起した「縄文土器 ーー エクアドル出土土器」の交流については烈しく反論したのである。
この両論の可否については、今わたしの論及すべき筋合いではない。なぜなら、この論の基礎をなす実物についての知見がない上、何よりもこの本の訳著者であるわたしとして、礼儀上からいってもそれをなすべき立場にいないからである。そのためにこそエバンス氏の再反論をえ、この本の末尾に掲載させていただき、読者の判断にまつこととしたのである。
けれどもそれとは別個に、わたし自身、マラー氏の論文に流れる方法意識から触発をうけた。その点、同氏に感謝したいと思う。
氏は、レビ・ストロースの構造主義の論説をひき、一個の土器破片の模様を観察する場合にも、土器全体や“文化変化”全体などとの関係を重視すべきことを強調された。つまり、比較の基礎としての一断片を、“全体構造の一部”として認識せよ、というのである。たしかに今わたしたちの眼前にあるものが“断片”にすぎなくとも、その原形では当然“完全形”だ。だからその原時点にもどして、その断片のもつ意味を追求する。 ーーその限りにおいて、マラー氏の方法論はまことに正しい。
このような方法意識から、文字の問題を見つめてみよう。
“倭国は、文字が読めた” ーーこの命題は、具体的には何を意味するだろう。ほかでもない。その朝廷の中に“一群の文字を解する官僚群が存在した”事実を意味するのである。卑弥呼個人が文字を読めたかどうか。そんなことは問題ではない。逆に倭人一般(大人や下戸)に文字が普及していたかどうか。もちろんそんな問題でもない。そんなことは問うまでもない。さらに倭国の朝廷内の官僚全員が文字を読めたかどうかもまた、真の問題ではない。要は、その朝廷内部に一定の文字解読能力をもつ官僚群があれば、すなわち、“その朝廷には文字解読能力があった”と称しうるのである。
これはたとえば矛の鋳造能力、舟を作る能力、等で考えてみてもわかるだろう。朝廷の官僚全体がそのような能力をもっている必要など、全くない。それでも、倭国の朝延には矛の鋳造能力や造船能力があった、と称して、誰も不審としないのである。
このようにして、わたしたちは次の命題を確認することができる。
“倭国の朝廷は、文字の解読能力(及び一定の作文能力)をもっていた”と。
以上、自明の道理を縲々のべてきたのはなぜか。それは、いったん右の命題を確立するとき、卑弥呼の都域の存在した領域は一挙に判明するからである。
先ず、わたしたちが右の命題に立って、その視点から考古学的な領域を眺めるとき、次のようなテーマが直ちに浮び上ってくるではないか。“弥生時代の遺跡から文字出土物のあるのはどこか”と。
思うに、もっとも多量の文宇出土物が圧倒的に集中して出土している一定地域があるならば、それがすなわち卑弥呼の都域の地だ、そういってあやまらないのではあるまいか。
では、そのような文字出土物があるか、 ーーある。いわゆる漢鏡だ。
日本列島中、弥生遺跡から一六八個の漢鏡が出土している。その多くには文字が書かれている。つまり文字出土物だ。その分布を見よう。
その約九十パーセントは福岡県に集中し、そのまた約九十パーセントが筑前中域(糸島郡、博多湾岸)に集中している。すなわち、全出土数の約八十パーセントがこの猫のひたいのような一定領域に集中しているのである。ということは当然、この領域には「文字認識」が存在したことを物語っている。
考えてもみよう。須玖遺跡、三雲遺跡、井原遺跡、平原遺跡等には、それぞれ三〜四〇ものいわゆる「漢鏡」が埋蔵されていることはよく知られている。“ここ掘れワンワン”ではないが、一つの棺から三〜四〇もの「漢鏡」が出て来、その多くには文字が刻まれているのだ。
しかるに、その被葬者や埋葬者たちが、これを“四角な模様のつらなり”などと思っていて文字とはついぞ知らない、そんな馬鹿なことがあるだろうか。 ーー到底ありえない(その上、朝鮮海峡一つへだてた朝鮮半島の中では文字が使われているのだ)。
当然、この領域の王者たちは文字を知り、その朝廷は少くとも文字解読能力ある朝廷だったのである(ということは、必然的に一定の作文能力もあったこととなろう)。そして大切な点それは、弥生期の全日本列島中をくまなく探しても、そのような地帯は、ここ(筑前中域)以外に全くない、という、この一点なのである。
この考古学的事実と、先にあげた倭人伝にもとづく“文字認識ある卑弥呼の朝廷”という命題とを対比させれば、もはやその領域は明白ではないか。 ーーすなわち筑前中域(糸島、博多湾岸)である。
思うにわたしたちは、古事記・日本書紀のいわゆる「初伝」記事にわずらわされすぎてきた。「王仁の文字(論語・千字文)伝来」(応神記、応神紀にも)が応神天皇のときあったとされ、これが我が国への文字伝来の始まりだ、などと称されてきた。
又百済国に、「若し賢人有らば貢上せよ。」と称せ賜ひき。故(かれ)、命を受け以て貢上せし人、和爾吉師(わにきし)と名づく。即ち論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻、是の人に付けて即ち貢進す。(古事記)
そこで、五世紀文字初伝説が日本の古代史学者の胸をむしばみすぎたのではあるまいか。この説話は、内容を読めばはっきりするように、決して文字「初伝」説話ではない。たまたま記・紀の中ではこの種の記事として第一位に出現しているだけで、決して記・紀自身が「これが我が国への文字伝来のはじまりだ」、などとは主張していないのである。それを勝手に戦前の史学が、「文字初伝」説話としてクローズ・アップさせていたものにすぎぬ。
しかも、それは近畿地方への文化導入の話であって、九州への流入の話ではない。地域的に見てみても、近畿への流入よりずっと前から九州への流入があって当り前だ。しかるに、従来の「近畿中心」史学はその点を深く注視しなかった。そのため、文字遺物たる「漢鏡」が筑前中域に圧倒的に集中して出土する、その事実のもつ歴史的な意味を、正面から汲みあげることができなかったのである。
けれども、いったん旧来の目のうろこをとりはらってみれば、卑弥呼の都域のありかは、この文字問題のしめすところ、あまりにも明々白々、一点の疑う余地もない様相を呈していたのである。
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