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古田武彦
なお、わたしは今年(一九七七)一月四日、NHK一〇二においてアルティウノフの「アメロトララシア」(一五四ぺージ)の説にふれた。これを日本人に発音しやすくし、「アジメリア」(アジア、アメリカ、オーストラリアの縮約)という新造語(古田による)によって紹介したのである。またそのさい、わたしは中国と朝鮮半島と日本列島によって囲まれた海(渤海・黄海・東シナ海)を一括して仮に「中国海」と呼び、「中国海を内海とする文明」という概念を、古代東アジアヘの探究のさい、導入すべき必要を説いた。従って古代以来、日本列島は「太平洋を内海とする文明」「中国海を内海とする文明」「日本海を内海とする文明」この三内海文明の連環の中にあった。 ーーわたしはそのようにのべた。ここに記して論者の批判を待ちたい。
今年三月はじめ、わたしのもとに一通の奥床しい便りが訪れた。ペルーのリマからだ。当地で天野博物館(Museo Amano)を経営し、篤実な業績をあげ、識者間につとに著名な天野芳太郎氏からであった。氏はわたしの『「邪馬台国」はなかった』『邪馬壹国の論理』の二著を読んだ喜びをのべられたあと、中・南米の現地に「裸族・黒歯族」というべき習俗の現地民が現存していることにつき、明細な報告を寄せられたのであった。その風俗描写の部分を左に掲載させていただく(天野氏から掲載許可をいただいた)。
「裸国について ーー先つ裸国の位置は倭人伝によって船行で達するところ即ち海岸でなければなりません。と致しますとこれに該当する裸族は南米の太平洋岸にはおりません。然し百年か百五十年ほど以前には、いたらしい形跡はあります。パサードス附近では父が見たとか、祖父が見たとか云う人が今でもおります。スペインの征服時代まで遡ると可成の部族がいた事実があります。カベサ・デ・バルボアのミセラニヤアンタルティカのキート版によれば、その裸族はパサードスと呼ばれてパサード岬(CABO DE PASADO)の海岸に住んでいました。フランシスコ・ピサロは彼等を船に招待し、そのうちの二人を欺いて捕虜にし連れ去っています。〔パサード岬は裸人の岬として知られ、メガースの(COSTAL ECUADOR)の地図にも載っています。また別使でお送りしたエクアドルの地図にも出ています〕
他に裸族はアンデス高原には大部族をなしておったようであります。シエサ・デ・レオンの書いたラ・クロニカ・デル・ペルーにはインカ皇帝ワイナカパックは裸族との戦争で部将を討たれたあと、これを力攻めにすることの不利を覚って軍隊に退却を命じたと云っています。猶、アマゾンには現在も多くの裸族が住んでおります。
黒歯国についてーー 国とは云えない小部族ですが、黒歯の部族ならまだおります。カヤパス族と呼ばれる種族であります。男は袖の無い長いシャツを着、女は上半身裸で腰巻きをしめ植物の実で造った首飾りをつけます。彼等は砂金の所在を知っているらしいが金製品は絶対用いません。ウイト(HUITO)と云う木の豆をもって歯を黒く染める習慣があります。然しこれは化粧の為めでなく歯を丈夫にする為めだそうです。彼等は農業を致しません。家の軒先にバナナとユカ(YUCA)の一・二株があるだけです。生活を支えるものは漁業ですが網も釣針も持たず括りで漁をしています。弓も用いません。吹き矢を使っています。
彼等は如何なる道具を使うか独木舟造りの名人であります。現在エクアドル海岸にある凌波性に富んだ優秀な独木舟は皆カヤパス族の造ったものであります。増水期になると彼等は独木舟に売物の独木舟を積みあげてカヤパス河を下って来ます。この場合舟を漕いでいるのは常に女です。
彼等は舟をボルボンの村で安い値段で売り、高い値段で買物をし、それからラ・トーラ附近の海岸の島に行って仮小屋を建て幾週間か停って牡蛎を飽食して帰って行きます。彼等は自分が必要によって行動する時は文明と接触しますが、一、二度その住居あたりに人が現われると早速何処かへ移転して終うほど接触を嫌がります。彼等は宿を乞われても泊めない許りでなく食を乞われて与えず溺れても救いません。然し危害を加えることはありません。社交性はないが蛮人ではありません。人口は減少しています。カヤパス全体で一〇〇〇人を余り多くは出ないと云われています。
カヤパス族の移動する範囲を地図に印して置きました。地図に記載はないがボルボン(BORBON)とオンソレ(RIO ONSOLE)を結ぶ河をカヤパス河と云います。此の河からリオ・サンティアゴの流域が彼等の北限で南限はリオ・アグアスーシオ(RIO AGUA SUCIO)です。此のあたりでコロラド族と境を接しているようです。
もう一つある黒歯国 ーーカヤパス族の南隣、アンデスの山麓にコロラド族がおります。彼等は体格もよく容貌も優れています。家にいる時は男女とも上半身は裸で男は短かいパンツを穿き女は腰巻をつけます。祭礼の時などには、男はスカーフを首に巻き、女はスカーフを肩にかけ前で結びます。有名なのは男の頭髪をアチョテ(ACHIOTE)と云う植物の染料で赤く染めることです。アチョテには糊分があるので髪が固ります。それを眉のあたりで切るので赤いヘルメット帽を蒙ったように見えます。そのアチョテで顔から胴体、手脚にまで模様を描きます。この為にコロラドス(赤色人)と呼ばれるようになりました。彼等もまたウイトを用いて歯を黒く染める習慣があります。
ボルフ・ブロンバーグのECUADOR ANDEAN NOSAIC にはこのコロラドスが笑って黒歯を覗かしている写真が出ています。スペイン征服当時は大部族であったと見え、彼等の中心地サント・ドミンゴにSANTO DOMINGO DE LOS COLORADOS と云う教会が建ちました。其の後そこは発展して都会となり同時に彼等は周辺の山地に退却して終いました。現在彼等の総入口もカヤパス族と同じく一〇〇〇人前後と云われるほど減少しております。
コロラド族は定住して農業を営んでおります。豚も鶏も飼っています。漁業は致しませんが「吹き矢」を使って狩猟を致します。意外なことは彼等が皆薬草療法の医者なのであります。キート(QUITO)に招かれて大臣の病気を治した医者もいました。サント・ドミンゴの町にサラカイ(SARACAY)と云う病院がありますが、それはコロラド族の名医の名をとってつけたものであります。カヤパス族には医者も呪術師もいません。彼等は病気になるとコロラド族のところへ家族ぐるみ引越して来て治療を受けます。治療費食費は払われないようです。此の風習は彼等二つの種族が嘗(かつ)て一つの黒歯国を形成していた事を想像させるものがあります」
天野氏はこのように記述されたあと、中・南米における「侏儒族」の存在にもふれておられる。
「侏儒の国があった ーーと云う記録があります。シエサ・デ・レオンのラ・クロニカ・デル・ペルーに『チンチャの谷にチンチャ族がやって来た時、多勢の矮(わい)人を見た。彼等の丈はDOS CODOS 八十四センチほどで非常に臆病であった。土地を取りあげたら次から次と死んで行き、やがて死に絶えて終った。今も残っているチンチャ族の話では自分達の祖父や父はその矮人の墓から出た人骨を見た。それは成るほどと思われる短小なものであった』と書いてあります。この矮人ではありませんが、博物館にもチンチャ文化圏内で発掘した三体分の尺骨撓骨があります。専門家の測定では一・五二米、一・五三米、一・五〇米の身長となり、明らかに矮人です。但しこの矮人が現われたのはAD八〇〇〜一〇〇〇でせう(ママ)から年代的に倭人伝と合わないようであります。
現存する侏儒国 ーーパナマ地峡のサンブラス群島と本土に住むサンブラス、クナー族は矮人即ち侏儒であります。男は丈け一・五二五米、女は一・四七米を超えないようです。彼等は人口が減少した今日、大西洋岸に跼蹐(きょくせき)していますが、往昔は太平洋岸にも住んでいたことでしょう。
彼等の女は鼻飾り、耳飾り、首飾りをし、刺繍のある美しい衣服をまといますが、男は一切装飾を身につけません。サンブラス族は小さな島に家を建てて住み、毎朝独木舟を漕いで対岸の畑に通勤します。彼等は牛・馬・豚・羊其の他の動物を飼いません。その代り漁業は盛であります。クナー族は弓矢を使って狩猟も致します。
両族とも言語は単純で僅か四百単語しか持たないと云われます。此の四百の単語のうちに独木舟を現わす言葉はカユコ(CAYUKO)であります。これはエスキモーの皮ボート、カヤク(KAYAK)から来たものであります。遠い過去にエスキモーと彼等の間に何等かの関係が結ばれていたと考えられます。
猶このカユコなる言葉はサンブラス、クナー族の一人もいないパナマの太平洋岸で今も広く使われております。嘗て住んでいた彼等の残して行った形見とも取られます」
わたしが四国西南部と見なした「侏儒国」(『「邪馬台国」はなかった」第六章末、参照)のような矮人族。それは太平洋沿岸各地にその分布領域を散在させていたのであろうか。未来の探究のために興味はつきない。(なお、今回は氏のお便り〈一九七七年二月二八日付け〉の中から、一部分のみ引用させていただいた。全体は他日に期したい)。
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