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訳書『倭人も太平洋を渡った』(創世記) 1977年

補一 日本の古代史界に問う3

新しい方法を求めて

黒潮の彼方

古田武彦

 この原本がわたしをひきつけた、もっとも深い地点。それについて語ろう。
 わたしが古代史の第一作『「邪馬台国」はなかった』を世に問うたとき、臨んでいた真理のもっとも危険な断崖。それは第六章IIIの「アンデスの岸に至る大潮流」だった。そこでは倭人伝中、あまり古代史学者にも、「邪馬台国」論者にも、注意されずにきた短い一句、
 又、裸国・黒歯国有り。復(ま)た其の東南に在り。船行一年にして至る可し。

から、“倭人の南米大陸北西岸到着”という、おそるべき諭理的帰結へと至らざるをえない、その経緯が述べられていた。
 従来の日本古代史界は日本列島内に跼蹐(きょくせき)していた。すぐ隣の朝鮮半島の古代史との関係すら、クールな目で分析し、解明することができずにきたのである。ましてはるか太平洋をへだてた海の彼方との交流問題など、まるで絵空事としか思えなかったのも無理はない。
 わたしの本を批評した入々も、この問題には、なぜか、まともに手をふれようとはしなかった。
 “言わずもがなの虚妄だ。正面から批評するまでもない”そのように考えたのだろうか。
 なかには、その無視と侮蔑をあらわにした大家もいる。
「なお、古田さんの書物には地球上では日本の反対側に近いアンデスのことが、『倭人伝』の記事に関連してのべてある。これは君たちが読んで処置してほしい。・・・(「身勝手な虚心坦懐」が多いことをのべたあと)古田さんなどはその点、虚心坦懐の標本みたいなもので、むしろそれに殉じたものだ」(藤間生大『邪馬台国の探究』)
 この行間には、まともに“歯牙にかけるにも足りぬ”というような、一種の口吻が表現されている。そのように、わたしの目に見えるのはひが目だろうか。しかも、わたしの未知への冒険を、もっとも正面からうけとめてくれるはずの、“青年”に対して、という形で、その言葉を語っているのである。
 残念だった。この大家はかつて敗戦直後のわたしの青年時代、輝ける史家としてさっそうと学界に登場した。「英雄時代論争」は、当時、戦後の新しい歴史学に期待した学生、青年の目をまさに見はらせた。氏の『謎の金印』は、当時の学生たちにとって道標だった。
 そのような史家の、この姿勢は何だろう。これでは、いわゆる“守旧の大家”と何の変りもないではないか。
 誤解しないでほしい。わたしは、自分の立場に“反対”されたことを歎いているのではない。逆だ。堂々と学問上の論争として、学問の方法に依拠して「反対」してほしかったのだ。学生に「処置」をまかせる、といった、教授風、いな、大時代な“殿様風”の口吻を活字にしてほしくなかったのだ。なぜなら、“対等にして真剣な論争” それのみが真理探究者にとって、唯一の正当な方法だとわたしには思われるからである。
 でも、もうよい。人はイデオロギーのいかんとはかかわりなく、いつのまにか「大家」となって、対等の真理探究者という本質を忘れてしまいがちなのかもしれぬ。わたしは一介の野人なりに、それを自己の戒めとすれば、それでよい。
 わたしは思い出す。一九六五年の十月ころ、仙台の一角、駅前のバスの待ち場だった。日本思想史学会の帰り道、突如わたしの頭にひらめいたイメージがあった。 ーー“あの一句も、真面目にとらねばならないのではないか” それは先の「裸国・黒歯国」の一句だった。
 わたしの全身は戦慄(せんりつ)した。バスに乗っても、激動する夢魔の中にいた。やがて泊めていただいていた先輩の家にたどりつくと、玄関に飛びこむや否や、「地図を見せて下さい。世界地図を」と告げたのである。
 出された地図を見つめると、やはりそうだ。そこは南米大陸の西北岸なのである。いぶかりつつ、問いかけられるその家の方に対し、わたしの到達した“狂気のような”思念を一気に告げたのであった。
 このようにして先の第六章の一節が生れることとなったのであるが、なお曲折があった。
 この本(『「邪馬台国」はなかった』)を出す話のきまる直前、出版社の担当の方は、一般・学界に抵抗のあることを当然予想されたのであろう、この一節の削除を提案されたのであった。けれども、わたしはすでに期する所があったから、直ちに次のように答えた。
「これは決して“人目をひくために、変ったことを書いてやろう”などというていのものではありません。三国志全体の表現のルールに従って倭人伝を解いた。その結果、卑弥呼の都した邪馬壹国は、わたし自身の予想もしなかった博多湾岸に存在することとなった。同一の方法で裸国・黒歯国の項を見つめたとき、それは南米西北海岸に存在することとなったのです。わたしにとって一番重要なものは“方法”です。その同一の方法を“貫く”ことです。
 もしここを省いても、たいていの読者は気づかないでしょう。けれども一人でも、“ああ、この著者はこの問題を逃げたな”そう思われたら、わたしはその人に対して決定的に“負けた”のです。ですから、ここをはぶくことはできません」と。
 耳をすまして聞いて下さったその方は、次回訪れられたとき、わたしの意とする所を諒(りょう)とする旨を静かに告げられたのであった。このとき、この書は生れ出ることができた。わたしはこの一瞬の緊張を今も忘れることができない。
 この本の出た直後、わたしの経験したもう一つのエピソードを語ることを許していただきたい。年来の友人があった。旧制高校以来だ。彼は用務で西下の途次、京都駅にわたしをまねいた。そして言った。「あの一節は、再版のときでも何とかならないか。全休への誤解をまねくぞ」と。この一言を告げるために、忙がしい時間をさいてくれたのである。
 わたしは答えた。「駄目だ。君などの法律の世界では、あるいは大きな常識の中で、個々の問題への論理を正してゆくのが、常道なのかもしれない。けれども、学問の探究はちがう。一個の諭理を貴くこと、それだけが肝心なのだ。そのため、未知の新しい世界へと入る扉の鍵をつかむか、それとも大ポカの断崖から、まっさかさまに転落するか。 ーー未来は一切わからない。それは自分の手かげんなどでは、どうしようもないことなのだ」と。
 描写が私事にわたったことを許していただきたい。要は、この問題がわたしの方法上、必然不可欠の到達点だった。そのことをのべたかったのである。
 だが、わたしは今回この原本を翻訳していて、時おりつぶやいた。「はじめからこの本を知っていたら、あれほど悲壮になることもなかったかもしれないな」と。
 まことにこの本には、西から東から、古代人がアメリカ大陸へと往来した可能性が縦横に論じてある。しかも学間的な自己抑制を失わずに。
 ただ一倭人だけの問題ではないのだ。まさに倭人もまた、それらの中の一つ(One of them)にすぎないのである。
 もっとも、倭人がこれら“渡米古代人群”の中で占める位置は、必ずしも低いものではない。エバンス夫妻らによるエクアドル出土の縄文式土器の問題以外にも、(四)のジェット論文の指摘するように、“日本列島ーーアメリカ大陸”はもっとも可能性の高いルートの一つなのである。これは黒潮ーー北太平洋海流という代表的な大潮流が存在する以上、海洋渡来の問題を理性的に考えはじめたら、誰人にも無視できないルートなのだ。
 手づくりのヨットで世界一周した青木洋さんにお聞きすると、カリフォルニアの人々は北太平洋海流のことを「ジャパン・カレント」(Japan Current)と呼んでいるそうである。日本からさまざまの漂流物が到着するからである。それなのに“人間だけは行かない” ーー 一体そんなことがあるだろうか(この本の〈補篇二〉のエバンス論文にも、この語が用いられている)。
 先日、テレビ(日本テレビ)でエバンス夫妻の業績を扱っていた。その中で興味深いエピソードが伝えられていた。エバンス氏はエクアドルの海岸に見馴れぬ材木が流れ着いているのを見た。調べてみると、日本の和歌山県の熊野の材木だった、というのである。台風などのさい、流出したのであろう。これが氏のアイデアの一つのヒントとなった、という。
もっとも、このテレビの解説者は「土器だけでは、何とも言えませんねえ」と言っていたが、おそらくこの原本の存在を未だ知っておられなかったのであろう。
 わたしもこの本を読むまで知らなかった。これほど南米西北海岸に数多くの徴証が集中していることを。(一)のドーラン氏、(二)のベイルネ氏、(四)のジェット氏らの論文を見られるがよい。“すべての道はローマに通ず”のたとえではないが、“すべての伝播は南米西北海岸に通ず”といいたくなるほど、この領域に出土物が集中している。
 もしこれらが伝播の結果でないとすれば、この領域は「創造的な一中心」((二)のベイルネ論文)だ、と言われる通りである。
 このことがわたしにとってもつ意味は深い。なぜなら、わたしの倭人伝解読から、次のような道理が浮び上ってきていたからである。“直線方向が東南、所要航海日数が一年(二倍年暦のため、現在の暦法では半年)”というような大まかな指示で、対象領域が指示されている。これは、その領域が次の二つの基本性格をもっていることをしめしている。
 第一に、その領域はハワイ諸島といった一介の「島」ではない。なぜなら、三国志の行路記事はいつも実際にそこへ行ける、“実用性をもった指示”を目指している。ところが、広大な太平洋の中の一つの「島」だったら、必ずしもそこに至り着くことができないからである。この点は、すでに第一書にしるした。
 今の問題は第二の点だ。ズバリ言って、なぜ北米や中米でなく、ここ、「南米西北海岸」だけがクローズ・アップされているのか。これだ。単に“アメリカの大陸発見”という、現代人的な関心からいえば、“日本列島からもっとも容易に至れる地域”たる北米カリフォルニア領域をしるせばいい。たとえば、それを
○・・・国有り。東、半年(実質は三カ月)にして至る可し。

 といった風にしるせばいいはずなのである。
 このことは何を意味するか。この描写は単に“未知の土地”そのものの描写を目標としているのではない。“文明の地”の存在の指摘を目指しているのである。
 これは倭国の場合も同じだ。魏使の行路で“通っていった途次”の土地をすべてしるしてはいない、という、この手法。それは次の例でも明らかだ。
 (1) 対海国は「方四百里」の記述でも判明する通り、対馬全体でなく、その南島(下県郡)である。このさい、北島(上県郡)の描写はないのだ。魏使自体は当然、それを知っていたはずだ。しかし書いてないのだ(ここから「島めぐり読法」「西まわり航路」の問題が生じる。別稿参照)。
 (2) 糸島郡は糸島水道で南北に分れていた。南半が恰土郡、北半が志摩郡だった(現在は合併して糸島郡)。伊都国は当然、この水道の南岸だ(前原町付近)。ところが、北岸の志摩郡には行路記事中、ふれていないのである。しかし当然、魏使はそこも知っていたはずだ。しかし書いていない。(国名だけ投げ出された二十一国中、冒頭に「斯馬国」がある)
  (3) さらに適切なのは次の例だ。首都邪馬壹国への行路(主要行路)を要したほかは、二つの「大国」として奴国と投馬国への傍線行路を記している。その間(ことに投馬国の場合の「水行二十日」)の小国については、全く意に介していないのである。
 以上のように、“土地があれば書く”のでなく、「大国」「文明中心」が問題なのである。いいかえれば、地理主義的描写でなく、政治・文化主義的描写だといえよう。
 この点、三世紀当時の中国をとりまく状況を考えれば、その事情は容易に判明しよう。中国の四辺には未知で広大な領域がひろがっていた。その中から文明の地たる大国や要地を撰んで、中国人はこれを記述対象としてきたのである。(史記・漢書)
 このような視点から見るとき、北米・中米の西海岸の描写がなく、南米西北海岸の描写があるということは、“ここが南北アメリカ大陸の西岸部(太平洋岸)中、最大の政治・文化中心であった”ことをさししめしているのである。わたしは、論証の道理のさししめすところを、右のように考えていた。しかし、それはただ「道理」であって、十分な「事実」を知らなかった。
 ところが、今、この本の中にわたしは見出したのである。まさにこの領域が縄文時代からインカ時代まで、層々と各種遺物の集中した、出土地の中心的宝庫であったことを。わたしはその事実を見て、深く歎息せざるをえなかったのである。

 

4裸国と黒歯国の歴史

5日本民族の起源への探求

6〈補1〉
 〈補2〉ーー“現地からの「裸族・黒歯族」の報告”


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