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古代史と国家権力ー津田史学を批判するー古田武彦
古田武彦
最後に“日本民族の起源”についてのべよう。これは永遠の課題だ。従ってここでのべるのも、結論ではなく方法だ。
わたしたちの従来の視点が大きく狂っていたのではないか。わたしは最近そう感じた。それについてのべたい。
わたしは古代史の第三作『盗まれた神話』を書き終えるとき、最初草稿に次のように書いた。「“日本人はどこから来たか” ーーこのような問いに対する回答、それは思うに本書の用いた手法とは異なる、別の方法にまたねばならぬであろう」
ところが、その後いくどか読み直すうち、ハッと気づいた。この“ ”内の問い自身は確かなのだろうか、と。
この問いの論理内容は次の二点だ。
(1) 日本人が日本列島以外のいずれかの原領域からこの列島にやって来た、という、そのこと自体は、論をまつまでもなく確実である。
(2) では、その原領域はどこだろうか。
しかし、この第一項目はまちがいないのだろうか。それより、なぜ、学者から一般の人々まで、“答はわからないにしても、その「間い」だけはまちがいない”そういった風に、自信をもって発言しているのだろうか。
このような発言姿勢はいつはじまったのか。こう考えると、すぐ気づいた。“それほど昔からではない”と。
もちろん、江戸時代以前にも、そのような前芽は存在した。新井白石の『古史通或問』に紹介された「高天原=馬韓」説などもその一つであろう(安本美典『高天原の謎』八八頁参照)。
けれども、この問いが“一般化”したのは、明らかに明治以降だ。そこには西欧の人類学系統の影響が見のがせないと思う。
「著者はむしろ西八木人(明石西郊西八木海岸で発見された人骨によって代表されるニッポナントロプス ーー古田注)はいつか絶滅し、新たに大陸からまだいかだや舟をもたない最新世末期の後古石器時代人ないし早い頃の新石器時代人が来住した。彼らは大海をこえて来たのでなく、当時なおのこっていた陸路をたどって、九州に到達したのであろうと想像する」(長谷部言人「日本民族の成立」)
このような人類学者たちの“物の考え方”の背景をなした“日本列島対、周辺地域”の、大勢としての基本イメージは何だったろうか。それは一言でいえば“旧石器文化の大陸によってとり囲まれた、新石器文化の日本列島”というイメージではなかっただろうか。
一九四六年十一月、相沢忠洋氏によって旧石器の一断片が発見されるまで、日本の学界は疑わなかった。日本列島が旧石器文化を経験せざる新石器文化列島であったことを。これに対し、中国を中心とするアジア大陸に旧石器文化の存在したことは、常識であった。従って、当然、先にのべたように“旧石器文化に囲まれた新石器列島”というイメージが生れる。これが明治から最近まで、一世紀近くを一貫した固定イメージだったのである。
とすれば、この大状勢論から出てくるべき当然の問い、 ーーそれが“日本人はどこから来たか”だった。つまり、矢印の主方向はあくまで“日本列島へ”であって、“日本列島から”や“日本列島で”ではなかったのである。
次に、日本人外来説をささえている、もう一つの、意外な心理的背景についてのべよう。それは「天孫降臨」神話が明治以降の日本人に与えてきた影響だ。
江戸時代の国学者、本居宣長は強烈に唱えた。「高天原=天上」説を。“たとえそれがいかに、われわれ後代人の頭から見て不可解に見えようとも、なまなかに疑ってはならない。尊むべき神の典範たる古事記、日本書紀にそう書いてあるのだから” ーーこの理念が彼の思想の根本だった。そしてそれは没後の弟子、平田篤胤へと伝えられ、明治以後の官学 ーーすなわち国定教科書を支配することとなった。
けれども、このような“公的”な立場にもかかわらず、高天原を“地上のいずれか”と考える立場はあとを断たなかった。そしてその底流に根強く存在したのは「高天原=海外」説だった。
これは次のような論理構造をもっていた。
(1) 現在、日本列島を中心的権威として支配しているのは天皇家だ。
(2) しかし「天孫降臨」神話の語るところは、天皇家がもと日本列島の外部から到来した、という事実を反映しているのではなかろうか。
これは明治以降、学者・一般人を問わず、広く根強く影響を与えてきた ーー“考え方”というより“感じ方”だった。
これに対し、わたしは『盗まれた神話』の帰結においてしめした。この高天原の存在した「天国領域」は、壱岐・対馬を中心とする対馬海流圏であったことを。すなわち、この「天孫降臨神話」は決して“日本列島外からの渡来”をしめす説話ではなかったのである。
以上のように考えてくると、わたしたちは今や先入見としての「日本人はどこから来たか」という固定命題自身を、いったんとりはらわねばならないであろう。そして
(1) 日本人(及び文化)はどこにいたか。
(2) 日本人(及び文化)はどこから来たか。
(3) 日本人(及び文化)はどこへ行ったか。
この三原点から、慎重に検証しはじめねばならないであろう。そしてこの(3)の中に、エバンス夫妻らの命題は属していたのである。
長崎県福井洞穴内の旧石器時代の土器(約一万二千年前)の発見以来、ずばぬけた世界最古の土器群が次々と日本列島内で発見されている。もちろん、中国大陸や朝鮮半島その他でも、同類の発見が今後行われる、その可能性は当然あろう。しかし、少くとも、日本列島が世界全域でも屈指の古さをもつ、原初的土器生産地であったこと、その事実は現在のところ動かない。
してみると、エバンス夫妻らの指摘したような「日本列島から」という方向性をもつ文化影響が、事実存在したとしても、そのこと自体、決して不思議ではない。しかるに、従来の日本の学界は、明治以来の「日本人はどこから来たか」式の命題に呪縛されつづけてきた。ことに敗戦後、「日本からの世界への影響」といった発恕は、一種の“タブー視”さえうけた。そこに、日本の学界がエバンス提言に対して誠実に対応せず、かたくなに無視しつづけてきた、その根本原因の一つ、いわば基本的なムードがあったのではないだろうか。
このような、いわれなき“偏見”に投ずる一石。わたしはこの本にそれを望んだのである。
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