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古田武彦
裸国と黒歯国、この二つは三国志ではじめて現われる国名ではない。中国の古典に“いわば歴史”をもっているのだ。
先ず、裸国。
(1) 禹、裸国に入る。裸人・衣出の国なり。(呂覧、貴因)
(2) 禹、袒(たん)して裸国に入る。(戦国策、趙策)
(3) A故に禹、裸国に之(ゆ)く。衣を解きて入り、衣帯して出づ。之に因るなり。
(注)裸国、南方に在り。(淮南子、原道訓)
B西南より東南方に至る。・・・裸国民・・・。(淮南子、墜形訓)
(4) A禹、裸国に袒(たん)す。(史記、趙世家)
B其の西、甌駱(おうらく)の裸国、亦王を称す。(史記、南越尉佗伝)〈「甌駱」は安南北部の東京州などの地〉
“禹が裸国へ行った”という逸話は周知のテーマだった。それが南方にある、と考えられていたことは、淮南子原道訓の注にある通りだ。また墜形訓の場合も、西南から東南にかけて九つあげた中の四番目だから、当然南だ(史記では「南越」の伝に「裸国」の名が現われている)。
(1) A黒歯国、其の北に有り。(「其」は「青北国」を指す)(山海経、海北東経)
B黒歯之国有り。(山海経、大荒東経)
(2) 黒歯之国。(呂覧、慎行)
(3) 彫題・黒歯。(楚辞、招魂)
(4) 黒歯・彫題、[魚是]冠・[禾求]縫は大呉の国なり。(戦国策、趙策)
(5) A東南より東北に至るに、大人国、君子国、黒歯民、毛民、労民有り。(淮南子、墜形訓)
B西は沃民を教へ、東は黒歯に至る。(淮南子、脩務訓)
(6) 黒歯・彫題(ちようだい)、郤冠(きゃくかん)・[禾求][糸出](じゆつちつ)、大呉の国なり。(史記、趙世家)
[魚是]は、JIS第4水準ユニコード9BF7
[糸出]は、JIS第4水準ユニコード7D40
先ず山海経の黒歯国。海外東経と大荒東経の二箇所に出ている。別国だ。このように、“同名”でも、必ずしも同一国ではないのである。
戦国策、史記の用法では、この習俗が呉の領域(及び周辺)に行われている、という。史記(趙世家)の劉逵(き)註によると、「草を以て歯を染め、白を用うるに黒と作(な)す」ものだという。
要するに、黒歯民・黒歯国といった呼称は、“歯を染める習俗をもった入々、国々”をさす名称だ。必ずしも特定の一国ではない。(なお、(3)(4)(6)に「黒歯・彫題」という一連の熟語形で用いられていることに注意。「彫題」は“額に入墨する”こと)
陳寿がこの二国名を倭人伝に書いたとき、以上のような先範を頭に描いていたことは確実だ。いずれも陳寿の時代の教養人にとって“必須の古典”だったのである。
しかし、陳寿は“あの、古典に書かれた国が実はこれだ”という意味で倭人伝内のこの一節を書いたのではない。まさか“禹”が船行一年の大航海をして帰って来たなどと、彼は主張しているのではないのだから。また同じく、船行一年のこの黒歯国が「大呉の国だ」だと思っているはずもない。要は
(1) 「裸」「黒歯(彫題)」の類の習俗が行われている、として倭人から(魏使に)報告された。
(2) そこで古典既出の適切な国名を“借用”して書いた。
以上である。この点、恰好の類似例がある。瀚海だ。
○瀚海に臨む。(史記、匈奴伝)
これには外蒙古の“沙漠”をさすとの説、“バイカル湖”をさすとの説などがある。いずれにせよ、北方の領域だ。この同一名を用いながら、倭人伝の瀚海は明らかに別物だ。
○対海国に至る。・・・又一海を渡る千余里、名づけて瀚海と日う。一大国に至る。(倭人伝)
対海国と一大国の間の海域にある(これは対馬海流 をさすものと考えられる。「飛鳥の海流」野性時代一九七五、九月特大号参照)。このように、古典の既出名と同一でも、実態は明白に異っているのである。
ところで、倭人伝に書かれたこの二国名の“名づけ親”は、決して陳寿ではない。
或いは裸人の国に掣掣洩洩(せいせいえいえい)し、
或いは黒歯の邦に汎汎悠悠(はんはんゆうゆう)す。
(木華「海賦かいふ」、文選所収)
「海賦」の著者木華は、陣寿と同時代、同じ西晋朝の人。第一代武帝(二六五〜二九〇年)の時、朝政を総括していた楊駿の府の主簿であった。主簿とは“各署にあって文書帳簿を管理する官”だったから、陳寿のような一史官よりずっと権力中枢に近かったのである。
この「海賦」の成立時点は魏末二四七〜二六五の間と思われる。従って二七四〜二九七の間の成立である三国志より約三十年前後早い(古田『邪馬壹国の論理』三二三頁参照)。従って陳寿は倭人伝にこの裸国・黒歯国の国名を書くとき、当然木華の先例に従っていたこととなる(「海賦」の「裸人の国・黒歯の邦」がやはり南米西北海岸に当たることについては、古田の右書参照)。
その木華の採用した国名記述の手法はどうだったろうか。
○将(は)た、世の収むる所の者は、常に聞き、未だ、名あらざる所の者は、無きが若(ごと)し。
且つ、世の聞くこと希(まれ)なるは、悪(いずく)んぞ、其の名を審(つまび)らかにせん。
故に、其の色を[イ方]像(ほうぞう)し、其の形を靉[雲気](あいき)すべし。
(右書の四四三頁に口語訳掲載、インターネット上にはありません。)
[イ方]像(ほうぞう)の[イ方]は、人編に方。第3水準ユニコード4EFF
要するに、“未知の世界を描写する場合、その未知の事物には、中国の文字による「名」がない。従って中国の既成の「名」を利用して読者にその実体のイメージを喚起させる。 ーーそういう方法しかない”そう言っているのだ。すなわち、このような手法によって、中国古典上に出現した既成の「名」たる「裸国」「黒歯国」を借用して“表現”したのだ。
この航行一年の彼方、倭国の東南に当る地域の人々には、あるいは「裸」の習俗をもち、「草をもって歯を染め、(額に入墨する)」習俗をもっているものがある、というのである。
この二国の中では、黒歯国が最終目標地であるようだ。なぜなら、後に書いてあるから。その上、「海賦」では「黒歯之邦」となっている。
○大を邦と曰(い)い、小を国と曰う。
(周礼、天官、大宰、注)
このように黒歯国は「大国」とされているのだ。
これに対し、その最終地の手前(アジアからの航行のさい)あたりに、「裸人之国」があることとなろう。とすると、ちょうど中央アメリカ近辺の赤道直下地帯だ。してみれば、“裸の風俗”は当然なのである。
この指摘は意外にも、重大な論証力をもつ。なぜなら、現代のわたしたちでこそ、中米から南米北部にかけてが赤道線直下周辺にあることは自明だ。そこが「裸」で生活するに好適な熱帯であることは、小学生すら周知の常識なのである。
では、三世紀の中国入にとってもそうだったろうか。否! ーー今日のような地球全体に関する真実(リアル)な認識は当然、樹立されてはいなかった。従って「船行一年」の彼方がどのような気候圏であるか、まさに未知に属していた。また、ただ「東南」の一語から、思いついて「裸」と記したと見なすのは、児戯に類する。たとえば倭国も
○倭人は帯方の東南大海の中に在り。(三国志魏志倭人伝)
とあるが、“裸の国”とは考えられていないのである。
してみれば、やはりこの「船行一年」の彼方の地に対する“中国人の既成認識はなかった”というほかない。
ところが、まさにその地帯(黒歯国の手前)は、赤道圏に属した。すなわち「裸の生活圏」だったのである。こうしてみると、一見簡単な、この「裸人之国」「裸国」の国名、ここにはあの「コンドルの論証」(古田の右書三九〇頁、三四七頁参照)と並ぶ、卓越した論証力が内蔵されていたのである。
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