学問の方法と倫理        

 


古田史学会報 2001年4月22日 No.43
学問の方法と倫理

変節の論理

京都市 古賀達也

 今回は学問の問題から少し離れて、 市民の古代研究会( 以下、「 市民の古代」 という) が反古田へと変節していった過程について述べてみたい。というのも、当時の状況を詳しく知る者が、本会役員では小生と水野代表だけとなった今、 そのことを書き残しておいて欲しいという要望も寄せられているからである。しかし、第一には小生自身の自戒と反省の念に基づき述べさせていただきたい。
 小生が市民の古代に入会したのは、一九八六年の夏頃であったと記憶している。三〇歳の時だ。その前年に『「邪馬台国」はなかった』を偶然本屋で知り、読んだことがきっかけだった。 そして、先生に初めてお会いしたのが、大阪での講演会と先生の還暦のお祝いの席上であった。以来、見よう見まねで下手な「論文」を投稿した。遺跡巡りに参加したりしているうちに、市民の古代の幹事になるよう藤田友治事務局長(当時) からお誘いを受けた。小生が勤務先の労組役員をしており、組織運営に携わっていたことなどが目に留まったようであった。自分にお手伝いができるのなら喜んで働く旨応え、幹事となった(一九八八)。この年、市民の古代は設立十周年の佳節を迎え、記念講演会など華々しい行事が取り組まれた印象深い年でもあった。
 翌年、藤田氏は会長となり、高山秀雄氏が事務局長に、丸山晋司氏と小生が事務局次長に選ばれた(一九八九)。 なお、新参で最年少だった小生の事務局次長への登用は、高山氏と不仲であった丸山氏の要望であったと後日聞いた。そして一年も経ぬうちに、高山氏と丸山氏の対立が表面化し、散々もめたあげく、高山氏が辞任された。その後任として小生が事務局長、丸山氏が事務局次長という体制となった(一九九〇)。この時既に古田史学や古田先生に対する会のスタンスが問題の根底にあったのだが、表面上は高山氏の強引な運営(ニュースに丸山氏非難掲載など)に古参の幹事から批判が高まったことが氏の辞任へとつながった。
 小生は両者の対立の詳しいいきさつを知らなかったが、一九八九年の総会で会の名称から「古田武彦とともに」 という文言を消したり、会則からも「古田支持」の直接的な表現が消えたことを根拠に、古田武彦と一定の距離を置くべきという丸山氏と会則変更は古田支持をやめるという意味ではないとする高山氏との対立が、両者の感情面での溝を深めていたようである。当時小生は高山氏を支持していたし、丸山氏とも研究面での親しい付き合いがあり、事情が判らないまま両者の対立に困惑していた。
 高山氏辞任に伴い、本来なら丸山氏の事務局長昇格が穏当なところと思われたが、高山氏の反対と丸山氏の辞退、藤田会長の要請もあり小生は引き受けることにした。ちなみに、この会名や会則から「古田武彦」を消したことが、後の偽作キャンペーンにおいて、「古田離れ」の根拠として反古田派から散々利用されることになるが、発議者である藤田会長からも「古田離れ」を意味するような説明は一切なかったし、小生には、古田支持・古田史学支持で集まった同志が反古田や古田離れに奔るなどとは思いもよらなかっないためであった。小生の人間への認識が甘かっ たのである。
 そういえば、高山氏が事務局長だった頃、理事会(会則変更に伴い幹事会も理事会へと名称変更された)で「研究者も古田ファンも会員として平等である」という見解が唐突に藤田会長より示されたことがあった。そのような当然のことを何故言い出されたのか、小生は不審に思ったものだが、九州年号研究で著名となった丸山氏と研究をされていなかった高山氏との対立に苦慮されていたのだと、これも後に理解したのであった。小生は事務局次長とは言え、京都にいたので大阪での人間関係に疎かったし、もっぱら遺跡巡りの世話役に専念していた。そのため結果として、両者の対立の「中間派」に位置していたことになるのだが、そのような人事抗争など問題が表面化するまで小生は知らなかった。

 ちなみに、「 研究者が上、 古田ファンは下」 という思い上がった論理に、市民の古代はその後も呪縛され続ける。そうした驕慢の精神状態でなければ、多くの古田ファンで構成されている会員の気持ちを無視して、一握りの理事(研究者) が古田離れなど画策できるはずはないのである。なお付言すれば、本会の名称を「古田史学研究会」とせず、「古田史学の会」としたの も、 「研究者が上、古田ファンは下」 という驕慢と「 変節の論理」を許さないためであった。更に、会則の第二条( 目的) 冒頭に「古田武彦氏の研究活動を支援」の一文を置いたのも、その決意の現れである。
 永く続く不況にもかかわらず、多くの会員からは、「一読者に過ぎないが、古田氏の応援になるなら」といって、決して安くはない会費を支払っていただいている。その浄財により本会の財政は支えられており、会報や会誌が発行でき、研究者の発表の場が維持できているのである。決してその逆ではない。このことを本会役員はもちろん、古田学派の研究者は忘れてはなるまい。
 もとより、一読者が自ら研究を始め、会報などに発表することは素晴らしいことである。古田先生もそのことを大変喜んでおられる。言うまでもない。だからこそ「研究者が上、古田ファンは下」 という論理は古田史学の精神とは相容れない。誰もが初めは初心者であり、ファンであったはずだからだ。日本歴史学界の多くのプロの学者達が古田史学を知つ ていながら無視するという堕落ぶりは、「研究者が上、古田ファンは下」という精神と通底しているのである。
 ともあれ、事務局長就任は思わぬ大任だったが、理事会の混乱を収束させるためにも引き受けざるを得なかった。 そこで小生は、労組委員長や上部単産副委員長・ナショナルセンター中央委員など全ての労組役職を辞し、市民の古代事務局長に専念することにした(1990年)。
 そして最初に取り組んだのが、恒例の古田武彦神戸講演会であった。 市民の古代神戸支部の支部長に内定していた高山前事務局長に協力の要請を電話で行ったところ、けんもほろろに断られた。氏は退任時、古賀新事務局長に協力すると言っておられたのだが、その言葉を信じていた小生は強いショックをうけた。丸山氏との対立の中、高山事務局長の諸提案を一貫して支持してきたその小生に対してまで、豹変されたのだ。この一件以来小生は氏を二度と信頼することはなかった。その後、高山氏は「多元的古代研究会」なるものを神戸で立ち上げられたが、現在では古田先生から離反されている。また、丸山氏も後に「 古田離れ」急先鋒にたたれる。市民の古代にも、小生にとっても、つらい時代が続いた。
(続く)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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